DARK TALE OASIS

主に映像作品にふれて、思った事を書いていきます

邦題には目をつぶり「題名のない子守唄」を思う

  ジュゼッペ・トルナトーレの新作が細々と劇場公開されてから、まだそれほど時が経ったわけではない。世の中の流れが急速になればなるほど、映画の賞味期限もどんどんと短くなっていくのも当然といえば当然の話だ。良質の映画を映画館で観る機会は、大都会のど真ん中にでも住んでいなければなかなか難しい状況になってしまった。小さな映画館はどんどん消え去り、遊園地もどきの大小のスクリーンを寄せ集めたシネコンは金太郎飴状態。正に八方塞の状態の中、私達はいつしかTVというモニターを通して映画を鑑賞する事に馴らされてしまった。確かにTVで鑑賞しようと、面白い映画は面白いものだ。手軽に何度も見返す事も出来る。コレクターにしてみれば、お気に入りの映画がパッケージとして書棚に並んでいる光景に、言い知れぬ恍惚感を味わえるのも事実だろう。以前、私はミニ・シアターが嫌いであるとブログに書いた覚えがある。シネコンでは決してかからない類の映画を見繕って、独自の視点で作品を選び世の中に公開するというミニ・シアターの存在意義については分からなくもない。例え小ぶりでも映画を上映する為に建設された施設には違いないし、家庭のリビングの照明を落として観る状態に比べれば、遥かに映画に集中出来るのも確かだろう。しかし、映画の魅力を伝えるという点では、ミニ・シアターは何の役にもたっていないのではなかろうか?私には劇場の小型版と言うよりは、ホーム・シアターの拡大版と言う方が遥かに的を得ていると感じられるのだがどうだろう?単純に、人は巨大な物に畏怖の念を抱き、時に憧れを抱くものだ。映画の衰退はスクリーンの大きさに比例する。その一番の理由は、記憶なのだと私は思う。映画館で観た映画というものは、いつまでも記憶に残るものだが、スクリーンが小さくなればなるほど、果てはモニターになってしまうほど、その作品の記憶は驚くほど薄まってしまうものだ。記憶に留まらないというのは、それだけ感動が薄弱かつ一過性のものでしかないという事に他ならない。人間は記憶によって生きている生き物である。記憶こそが個性であり、記憶こそがとどのつまり人間そのものだ。映画の歴史は、物語の再生産の歴史に過ぎない。最近はリメイクばかりという声もよく聞かれるが、実際の所それは別段おかしな事では決してないのだ。要するに製作者側が、最も安易な再生産の形を採用しているに過ぎないわけだから。それはつまり、製作者側にとっても映画というものが持つ魅力が薄れてきている証拠なのだろう。映画の存在が当たり前になればなるほど、人にとっては関心の対象から離れていく。これは歴史の持つ宿命なのかもしれない。VIDEOの登場が映画をどう変えてしまったのか。より鮮明で安価なDVDの登場が、遂には映画に引導を渡す日はやってくるのか?私達は今、一つの時代の終焉をこの目で目撃出来る貴重な時間を生きているのかもしれない。
 「題名のない子守唄」。トルナトーレの新作に付けられたこの邦題には、またしてもがっかりさせられるではないか。ポスターとか予告編もそうだけど、作品であるからには題名ってもの凄く大事なんじゃないかと私は思うのだが、世の中そうではないらしい。観ようという意欲さえ削ぎかねないこのセンスの欠片もない邦題がいかに安易に付けられたのかは知る由も無いが、自分の息子に{便器}君だとか{糞太郎}君なんて名前を付ける親が一体どれだけいるというのか?社会のモラルが大いに疑問視される昨今ではあるが、どんなに酷い名前であっても、作品にはそれを変名する力はあり得ないわけで、もう少し責任感を持って名付け親になって欲しいと切に願うわけであります。せっかくのトルナトーレの新作がこれじゃあ、実際腰が砕けませんか?
 で、トルナトーレなんですが、以前このブログのどこかで私感を書いた気がするのですが、トルナトーレの作品を取り上げた事はないと記憶しているので、どこにその記述があるのかはもはや定かではありません。何を書いたかも当然あやふやなので繰り返しになってしまうかもしりませんが、一言でいうなら、その作品の奥底に常に異常な変態性を隠しもった私好みの監督の一人であるのは間違いありません。とにかくどの映画にも、思わずにやりとしてしまいそうな変態の匂いが隠し味として作品の質を高めています。最も有名であろう「ニュー・シネマ・パラダイス」にしても「海の上のピアニスト」にしてもその変態性は健在で、だからこそ人々に愛される作品になっているというのは言い過ぎでしょうか?トルナトーレは自身の変態性を全面に押し出そうとは決してせず、むしろ{いい子ちゃん}ぶる所もあるようですが、その辺の微妙な感じが実にバランスよく作品に表れるという意味である種の天才だと言ってもいいでしょう。こういうタイプは、例えばロマン・ポランスキーなんかにも通じる部分かと思うのですがどうでしょう?断言しますが、映画というのは変態が作った方が絶対面白いです。ごく普通の腕のいい監督が「ニュー・シネマ・パラダイス」や「海の上のピアニスト」を監督したとしたら、もちろんそれなりの作品は出来上がるのでしょうが、今ほど熱烈なファンを持つ作品にはなってはいないはずです。そうではないか?
 そして今回の「題名のない子守唄」も例外ではありません。フラッシュバックを巧みに使った普通のサスペンス映画が、トルナトーレが監督をするとなんと変態的になるのでしょう。しかもどことなく美しい。そうか、変態って美と同義なんだねと、ついつい思わされてしまったりして。もはや名コンビともいえるモリコーネのスコアも、例えばダリオ・アルジェントの作品に提供する時のようなどことなく安っぽい感じが今回の作品には見事にマッチしています。単に音楽だけを聴くのであれば前記の有名二作品のテーマのインパクトには遠く及ばないのは確かですが、今回の映画でそれをやってしまっては作品自体が台無しになってしまう事をモリコーネは分かっているんだね。前作の「マレーナ」がトルナトーレの頂点ともいうべき円熟味を見せていたので、さすがに今回はコケルのかなと正直思っていたのですが、どうしてどうして面白い作品になっているのがとにかく嬉しいですね。それどころか、変態性を奥底に潜めつつ{いい子ちゃん}ぶりぶりも全開の今作品は、まさしく最もトルナトーレらしいトルナトーレ印の作品と言えるのかもしれません。ファンならずとも映画に興味がある人は、ぜひ観て欲しい作品の一つであります。邦題なんか気にしちゃいかんよ。邦題は単なる記号と思うべきでしょう、この作品の場合は。

  「題名のない子守唄」       2006    イタリア
 監督 ジュゼッペ・トルナトーレ
 主演 クセニア・ラパポルト       ミケーレ・プラチド

色んな意味で久々「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」を思う

  みんなが待ち望んだ?というのは、かなり横柄な言い分であります。あのインディ・ジョーンズが帰ってきたと、小躍りして胸を高鳴らせた人は当然世界中に確かに存在しているのだろうし、その公開を指折り数えましたと声高に雄叫びを上げる人は間違いなくいるのでしょう。なるほど、「レイダース/失われた聖櫃」という作品が映画産業に巻き起こした影響は、尋常ではないのでしょう。映画という枠でエンターテインメントを語る上で、この作品に匹敵する映画が果たして何本存在するのかというのを考えて見ても、なかなかどうして力作であるのは誰しもが認めて然るべきではないのでしょうか?
 「レイダース/失われた聖櫃」が公開された1982年には、ここ日本では同じスピルバーグ印の「E.T.」が猛威を奮っていたわけです。当然、興行収入も「E.T.」がダントツであり、「レイダース/失われた聖櫃」はトップ10の真ん中位だったのを覚えています。まだまだお子ちゃまだった私ではありますが、この結果に大変不満だったのを憶えています。当時、オーパーツだのモケーレ・ムベンベだのに夢中だった私には、ふやけたクソ虫みたいな宇宙人よりも、このわけのわからない異常な考古学者の方が遥かに魅力的だったわけで、その傾向は今でも変わっていません。ちなみにこの年に「レイダース/失われた聖櫃」をものともせずにヒットを飛ばしたのは、「E.T.」に加えて「ミラクルワールド・ブッシュマン」(笑)であり、「少林寺」というマニアにはたまらないラインアップ。他にも「キャノンボール」だの「ロッキー3」だの「マッドマックス2」だの、個人的には一押しの「Uボート」なんてのも公開されました。公開当初はパッとしなかったのに後にビデオになって人気を博した「ブレードランナー」も忘れてはいけない一本と言えるのかもしれません。いやぁ映画って本当にいいもんですね(合掌)的な、まだまだ映画が娯楽として力を持っていた時代であり、その作品も個性的であると感じてしまうのは致し方ないのかもしれません。この後、映画産業は確実に衰退していくわけですが、その根源となる何かを紐解くヒントが、この華々しくスタートを切った80年代に隠されているのは疑いようがありません。もしかしたらその片棒をインディ・ジョーンズ・シリーズも担いでいたという意見を述べたとしたらどうでしょう?個人的には、それは事実であると確信しているわけですが、まぁそれはまた別の話という事で。
 一作目の順調な滑り出しを受けて、シリーズ化されるこのインディ・ジョーンズの物語は、右肩上がりにここ日本でも受け入れられます。「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」は一作目で後塵を拝した「キャノンボール2」をぶっこ抜き、当時現在の韓流ブーム以上の盛り上がりを見せていたジャッキー・チェン一派の一大プロジェクト「プロジェクトA」をも看破して1984年の頂点に立ち、シリーズ完結編にして80年代の末尾を飾る89年にダントツの成績を残した「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」で巨大な花火を打ち上げました。そして映画界にまた一つ伝説が築き上げられたわけですが、このシリーズに関する個人的な興味は実は真逆であります。「レイダース/失われた聖櫃」に心を奪われた私は、続く「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」で大いに失望し、「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」は遂に劇場に足を運びませんでした。三作品全て水準以上の出来であるわけで、面白い映画であるのは当然認めなければいけないのでしょうが、回を重ねる度に私の好みではなくなったというのがその理由でしょう。簡単に言うと、アドベンチャー的要素を加味したオカルト・ホラーだった一作目から、オカルト的要素を加味したアドベンチャー映画へとシフトしたとでも言えばいいのでしょうか。シリーズが進む毎に大衆化され、結果として映画として幼稚になったと言ってもいいかもしれません。スピルバーグとルーカスの作品への力関係の変化及び、スピルバーグ自身の変化も微妙に影を落としているのは否めません。「E.T.」以後、自分の趣味を極力制限して作品を作るようになったスピルバーグの姿勢が(もっとも根がゲテモノ好きの子供である事には変わりなく、その後の作品にも変わらずそれを裏付けるシーンは確実に存在するが)、この類稀なる冒険活劇映画からどんどん毒を抜いていってしまったのは如何なものか。そもそもこのインディ・ジョーンズの世界を形作っているものの根底にあるものはなんなのかといえば、それはオカルトでありホラーを感じさせるミステリーだったのではないだろうか?心霊、怪奇現象、未知の動物達、古代の超文明、魔術といった言葉がかつて放っていた妖しい魅力は、そこに恐怖を禁じえないからこそ子供達は心を奪われていたのではないのか?なるほどかつての007であり名優ショーン・コネリーを担ぎ出し、親子の絆みたいなものを全面に推しだした「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」に人間ドラマの現れを指摘する人は多い。それはもの凄い分かりやすさで人間の姿を描いてみせる事には一見成功しているが、実は人間の内面を映画として抉り出す事からは程遠いのではないかと私は思わずにはいられない。映画という一つの作品が内包する人間の真実みたいなものが、表面的な薄っぺらいものでしか表現出来ない昨今の映画をして、私は常々幼稚であると感じているに過ぎません。子供が好きな物は幼稚であるとか、分かり易いイコール幼稚だとか、クダラナイもの馬鹿げたものが幼稚だとか、そういう事では全くないわけです。
 さて、完結したはずなのに最新作が出るのは、二十一世紀に入ってからの新たなトレンドであるわけで、当然我らがインディアナ・ジョーンズも再びスクリーンに舞い戻ってくるのはある意味必然なのでしょう。人によってはせっかく築き上げてきた伝説に泥を塗られるのを嫌がる向きもあるのかとは思いますが、先述した通り個人的にはうなぎ下がりなシリーズなわけで、どんどん泥を塗りたくって頂きましょう状態なわけで、その公開を楽しみにしていた私がいます。その裏にあるのが、{最近本当に観たい映画がなくなったよな}的な気分に彩られているという事実があるのも否定しません。ルーカスとスピルバーグがインディを撮るわけで、ある程度の保証は掛けられているという安心感も何故かありました。スピルバーグが100年を越える映画の歴史上に於いて、並々ならぬ手腕を持った数少ない監督の一人であるのは(好みの問題はさておいて)もはや疑いようがありません。どんなに誹謗中傷を受ける立場であろうと、それは作品を客観的に観れば誰も否定出来ない事実でしょう?違いますか?例えば「レイダース/失われた聖櫃」の公開後、正に「E.T.」の製作途上で衝撃的な死を迎えていたとしたら、この人はある意味神格的な映画監督として(ロックの世界でいうジョン・レノンのような)後世に名を残していた可能性があります。そんな映画監督他にいますかねぇ。それとは別に、インディ・ジョーンズの作品が持っている世界観が映画というメディアに非常にマッチしているという事実もあるでしょうし、それ以上にもはやキャラクターが確立して一人立ちしているのが大きいでしょう。言ってみれば、ルパン三世みたいなもんです。つまんなくても何となく観れちゃうみたいな。
 個人的に最も引っかかったのが、クリスタル・スカルという部分でしょうか?実際、今更{水晶髑髏}ですかぁ?的な感想を抱いた人は少なからずいたのではないでしょうか?そういう方々、あんたも好きねぇです。まぁ某遊園地の乗り物との関連もあるのでしょうが、あまりにもベタベタな選択ですなぁ。若かりし頃に本場で何度も並びなおして乗りまくった経験がある私としては、それは触れてはならない部分かもしれませんが・・・。いや、ある意味今回の映画よりも、あの乗り物の方が遥かに面白いとも言えなくもないのではないか?日本にも新しく増設された埋立地の方にあるんですよね?いゃあ久し振りに乗りたいなぁって気分になってきました。それはさておいて、クリスタル・スカルじゃなきゃいけなかったのでしょうか?それが観終わった後も、私の中では大いなる疑問でしたね。別に{失われた聖櫃}の真の秘密でもよかったんじゃないのかな?その方が出演者達ともマッチしてたのでは?
 結論から言えば、良くも悪くも見事に前作からの(作品の内容とは関係なく)延長線上にあったわけで、「レイダース/失われた聖櫃」のような喜びは得られなかった私ですが、それでも二時間があっという間で、楽しい映画であったと記憶しています。一ヶ月近く前に観たもので、ラストとかもう記憶が曖昧になってしまっているのですが、まぁそんなもんでしょう。ラストが賛否両論なんですか?別にラストなんてどうでもいいんじゃないですか?そういう映画だし。それにこの手の映画の魅力は、常に謎を追って密林に足を踏み入れる部分にあるのではないでしょうか?そこさえ押さえとけばラストなんておまけでしょ。そうではないか?


   「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」     2008   アメリカ
 監督   スティーブン・スピルバーグ
 主演   ハリソン・フォード       シャイア・ラブーフ



そこに希望がある限り「ミスト」を思う

  フランク・ダラボンとスティーブン・キングのコンビは実に相性がよい。「ショーシャンクの空に」はキング原作の映画化としてはどういうわけかすこぶる評価が高いようだし、「グリーン・マイル」も大きな話題を集めた一本だ。新作となる「ミスト」も見事に面白い作品に仕上がっていたのは、もはや言うまでもないだろう。ひさびさに時間を忘れさせてくれたこの映画に、心から拍手を贈りたい。確かに二度三度と観かえす類の作品ではないかもしれないが、人生とはそもそも一期一会。再見する機会が一生なかったとしても、何かのきっかけに{あぁ、あれは面白い映画だったね}と回想出来る作品がまた一つ増えたという事実が、一映画ファンとしては単純に喜ばしいではないか。まだまだ面白い映画というものは作れるんだという発見は、映画という廃れつつあるメディアにとっての、小さな小さな{希望}でもあるわけだ。
 このコンビの三部作は、全て同じ話だと言ってもいいのではないだろうか?同じ主題を扱っているのに、それぞれの結末はあまりにも違うわけだ。前二作では、キングの原作を丁寧にまとめあげる事で作品を紡ぎ上げてきたダラボンが、今回の「ミスト」では結末を大いに書き換えている。というか、完全オリジナルとして結末を付け足している。それは何故だろう?単に「ショーシャンクの空に」と同様の結末を避けたかっただけなのだろうか?映画というものが時代を映す鏡である事を考えると、そこには明確なメッセージが託されているのではないだろうか?
 「ミスト」はもともとアンソロジーの中の短篇の一遍として執筆を依頼された作品だ。一万五千語程度の作品としてスタートした作品は、結局四万語にまで成長した。それでも「ミスト」の世界は幕を閉じていたわけではない。キングの「ミスト」という作品を読んだ覚えがないというのであれば、一言で言うとキングの「ミスト」はジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」にとても似ている作品だと言えばなんとなく雰囲気が伝わるかもしれない。かたやショッピング・モールに立て篭もった人々が、理由もわからず世界を呑み込んだ怪物達の攻撃にさらされ、最後には同胞であるはずの人間の狂気に追い込まれ、儚い希望を抱いてヘリコプターで明日無き世界へと旅立っていく物語だ。そして「ミスト」もまた、理由もわからず怪物達の世界に放り込まれた人々が、ショッピング・センターに立て篭もり、そこで人間達の狂気に遭遇し、どこまでも続く霧の中へと旅立っていく物語だ。その通り、キングの「ミスト」は実は何一つ解決せずに終わってしまうのだ。そしてその小説の最後を飾る言葉が{希望}である。くしくもこの「ゾンビ」と「ミスト」は同時期に創作された作品であるという事実が面白い。どちらが先でも後でもないわけだ。後に親友となるキングとロメロの関係を考えると、等しく運命的な二作品であるとも言えるのではないだろうか?類は友を・・・か。
 さて「ミスト」よりも一足早く書き上げられた中篇(キング的には長めの短篇という方がしっくりくる)が、同じく{希望}に導かれた作品「刑務所のリタ・ヘイワース」であり、これが映画化されて「ショーシャンクの空に」となる。舞台は刑務所。無実の罪を主張する主人公が、幾多の苦難にも負けず刑務所内で特別な存在へと成り上がり、かねてからの計画通りまんまと脱獄に成功し、かねてから用意されていた大金を持ってメキシコへと逃亡し、刑務所内で知り合った友人の帰還を待つというこの物語は、主人公が完全なる善人としての視点で描かれているというその一点で、いわゆる感動作としての地位を確立している。この物語には語り部が存在していて、それが刑務所で知り合った友人という点が、実はこの作品のミソなのだと私は考える。この囚人レッドの語る一種の英雄物語であり、これは実はレッドという人物の{希望}の物語なのだ。レッドが自分の帰りを待っていてくれるだろうこの素晴らしき友人の元へと旅立っていく場面でこの物語は終わっていくのだが、レッドの未来に待っているのは一体なんなのだろう?視点を少しずらして見ると、何ともきな臭い未来が見えなくもないのではないか?そもそも{希望}を抱くのが常に善人であると一体誰が断言出来るというのだろう?どんなに大悪人であっても、やはり{希望}を見つめているのではないか?真実とは常に藪の中であると、黒澤の「羅生門」で私達は教わっているのではなかったか?「刑務所のリタ・ヘイワース」には副題がつけられていて、それは{春は希望の泉}というものだ。これは「Different Seasons」という四つの個別の作品を四季をモチーフに雑多に並べた中編集の春の章というわけだ。いわゆるホラーの要素が全くないこの出来のいい作品が春を象徴するのは、必然であったとも言えるだろう。これに続いて夏の章では、狂気の世界に転落していく少年の姿を、やはりホラーの要素を排した作品として見事に描ききった「ゴールデン・ボーイ」という恐るべき物語へと繋がっていく。秋の章は言わずと知れた少年達が死体探しの旅に出る「スタンド・バイ・ミー」であり、冬の章には事故で首を切断された妊婦が無事に赤ん坊を産み落とすという悲しくも美しい話で四季の幕が降りる。別個の作品として各々時期も違って創作されたこの作品群が、どうしたわけか大きな円環を描いているような気がしてくるから不思議なものだ。{希望}は人に生きがいを与えると共に、人に狂気をも与える代物である。また{希望}は少年の日の幻想であり、死してなお成就される奇跡をも演出する力を秘めている。それは言って見れば、人間に与えられた恐怖のルーレットのマスでもある。あなたの{希望}は果たして叶えられるのだろうか?その答えはルーレットの目に託されているのではないか?
 続く「グリーン・マイル」は、分冊形式で出版されるという事で話題を読んだキングの同名の長編(今度は短めの長編という方がしっくりくる)を原作とする作品である。物語の舞台はまたしても刑務所であり、そこには無実の男を処刑しなければならない男の{絶望}が描かれている。その代償として男は、永遠とも言える時間を生きる事を運命づけられてしまった。不老不死を願ってやまない人間にしてみれば、死に{希望}を抱く主人公の姿は何とも奇異に映ってしまうのか、この作品は出来がいい割には評価もまちまちだ。何しろ完全無垢な善人の男が電気椅子という恐怖の殺人道具で殺されてしまうわけだから、何とも後味が悪いのは否めない。しかし、それこそが人類の辿ってきた歴史なのではないか?誰にでもそれぞれの{希望}があって、その全てが善悪などという次元の問題では片付けられないもどかしさを、この処刑シーンは実に明確に描いているのではないか?
 「ショーシャンクの空に」で描かれた単純な{希望}に見た映画的なカタルシスは、「グリーン・マイル」で歪んだ形へと変貌し、「ミスト」で遂に真逆な形へと昇華された。それは今私達の住むこの世界の混沌の度合いに影響を受けているとは言えないだろうか?私達が思い描く未来に求める{希望}は、果たして本当に人類の未来を明るく照らしてくれるのだろうか?
 ホラー映画こそ実は人間の真実を垣間見せる最良のテキストであるというのは、あながち間違ってはいないに違いない。徹底的に寓話であるという事が、表層には決して出てこない心の不思議を見事に浮き彫りにする場面を、一体私達はどれだけ見せつけられてきたのだろう。もちろんそれらを根こそぎぶっこぬく低俗な作品が目白押しなのも、また確かではあるのだが。とにかく諦めずに観続けようではないか。ここにもまた、小さな小さな{希望}が存在するわけだ。


   「 ミスト 」                2007   アメリカ
 監督  フランク・ダラボン
 主演  トーマス・ジューン     マーシャ・ゲイ・ハーデン

大丈夫か?しっかりしろ「 4 」を思う

  よく分からないけど、何となく最後まで飽きもせずに観てしまう映画というのがあるが、「4」は久し振りに出会ったそんな感じの映画であります。監督はイリヤ・フルザノフスキーという人らしい。知りません。全く知りませんねぇ。って、長編デビュー作らしいです。世界の映画界から注目を浴びるロシアの新星かぁ。それはまた凄いなぁ。ロシア本国では上映禁止になったが、世界中の国際映画祭で新人監督賞を受賞したと書いてあります。大変仰々しい感じがします。それにしてもロシアというのは変わった国ですよねぇ。本国では禁止でも他国では良い(のかどうかは分からないが、少なくとも上映はされる)という作品がやけに多くありませんか?一体ロシアではどんな映画が連日上映されているのでしょうか?大変興味があります。アジアの国々では、結構アメリカ産のドンパチバリバリ映画が実は人気があったりするように、ロシアでも主に上映されているのはハリウッド印ばかりだったりしたらそれはそれで面白いですねぇ。というか、ロシアにおける映画のポジションというものは果たしてどうなっているのでしょうか?謎ですねぇ。映画なんかよりバレエやサーカスの興行を観る方がポピュラーだったりしたとしても、私なんかはさもありなんと納得してしまいそうであります。う〜ん、考えれば考えるほど不思議でなりません。やっぱりロシアは、まだまだ近くて遠い国なんですねぇ。そんな事をしみじみ感じさせてくれます。
 ロシア(かつてのソヴィエト連邦も含めて)映画といえば、誰でも思いつくのがアンドレイ・タルコフスキーなわけです。何だかんだ言っても、映画好きであればこの人はある種通過点(人によっては終着点)であるわけでしょう。ここ日本でもタルコフスキーという名前は、水戸の御老公の印籠に近いものがあります。私も若かりし頃ちょっとはまってしまった覚えがあります。とにかく片っ端から観ていましたねぇ。何よりも押し付けがましくない所が素晴らしいですね。タルコフスキーの映画を観る喜びというのは、たまの休みに散歩に出かけて近所の土手に腰を据えて川の流れをぼんやりと見ている時の充足感に似ています。「鏡」以降の作品群は特に、単純明解な寓話としての側面が陰を潜め、月並みでありきたりな(映画としてそれは必ずしもマイナスとは限らないが)感情操作を促される事を期待して観てしまうと肩透かしをくらう場合もあるのだろうと思われます。言い換えれば、より{自然}に近づいた映画とも言えます。深い森に足を運んで、森の木々達に{お前ら、何考えてんだかわかんねぇよ}と怒る人がいたとしたら、それはやっぱり変ではないですか?強風に傘を折られて、{お前、何しとんじゃボケぇ}と口走った時に、風が{えろうすんませんなぁ}と答えてくれる事はありえないのです。{自然}は、いつだって何も言ってはくれません。私たちがそこから何を感じるかは、一人一人の心の囁きでしかないのでしょう。無論、タルコフスキーにも自身の確固たる思考はあるのでしょうし、それがあるからこそ力強い映像が生まれているのは間違いありません。が、タルコフスキーは決してそれを押し付けないのです。タルコフスキーをして難解だという意見には、従って私は賛成しかねます。例えば、タルコフスキーの作品に頻繁に登場する{水}の描写についても、人々はそこに意味や象徴をはめ込もうとしてしまいがちですが、タルコフスキー自体はそれについて何の意味ももたせてはいないと答えています。自分が育った地域は雨が多かったので、場面に雨が降っているとしても私の中ではそれが自然なんだというわけです。考える前にまず行動。頭で考える事は無限の蟻地獄に陥る事もしばしばです。自分なりに何となくこう思った。それでいいのではないでしょうか?百人の人間がいたら百人の捉え方があってしかるべきだと私は考えます。それが人間であり、それが自然の姿です。芸術とはある特定の人だけに与えられた特権ではないはずです。まだタルコフスキーを観た事がないという人がいたら、ぜひとも観て頂きたい。特にどれがお勧めというのも、私にはありません。タルコフスキーに関しては、どれを選んだとしても間違いはないでしょう。それがタルコフスキーの巨匠たる由縁に違いありません。作為的に難解さを圧しだした様な下衆な作品も最近はありますが、そんなものとはレベルが違う心地よい優しさが、タルコフスキーの作品には溢れています。
 そして、期待の新人フルザノフスキーは、タルコフスキーと同じ学校の後輩として映画の基礎を学んだようです。もちろん時代も違えば(もう国名からして違うし)育ちも違うわけで、別にタルコフスキーの後継という感じは、その作品からは微塵も感じられません。何というか確実に映画映画しています。他国の映画も、以前とは比べ物にならない位鑑賞が出来るようになったのでしょうか?何となくかつてのソヴィエト映画にありがちな独特な雰囲気もあまり感じられません。こんな所にも世界のグローバル化の兆しは表れているのかもしれません。それが良いのか悪いのかは、微妙な所ではありますが。
 「4」という映画を包んでいる空気は、とても重たいものがあります。登場人物全ての目が、とにかく深く澱んでいるようにさえ見えてきます。私はここにフルザノフスキーという人の若さを感じずにはいられませんでした。まぁ実際何歳なのかは知りませんが、きっと30前後なのではあるまいか?フルザノフスキーという人は(勝手な推測ですが)きっとロシアという国から、一刻も早く抜け出したいのではないのでしょうか?ドイツから抜け出してハリウッドで{これがハリウッドだ}的作品を嬉々として連発する、ローランド・エメリッヒとは当然違う意味でですが。もしこの映画で描かれているモスクワの街が、実際のモスクワの空気を忠実に再現してしまっているとしたら、私だったらやっぱり逃げ出したい気分になりますね。だから上映禁止なのでしょうか?ロシアって、そんなにやばいのか?三人の登場人物は、それぞれ絶望と悲しみを見事に体現しています。この生活、どうにかならないのと、心の叫びが痛いほど伝わってきます。この監督は、もう間違いなく実力がありますね。深夜のバーに見知らぬ三人が偶然顔を揃えて、お互いの素性を隠してホラを吹きまくる導入部から、それぞれのその後の結末まで、特に大きな起伏があるわけでもないのに飽きさせる事もありません。その各々の結末もまた、この映画に一貫して流れる雰囲気を見事に表現しています。お先真っ暗だけど、映画は逆に能天気に俺が俺が的な感じに溢れている日本とは全く違うのりですな。これがお国柄というやつでしょうか?とにかくこの映画を観てしまうと、ロシアの他の映画がもっと観たくなってしょうがないです。もしかしたらフルザノフスキーだけが究極のネガティブ君なのか、それともロシアの映画監督全員がもうどうしようもなくネガティブ君にならざるを得ない状況なのか?事と次第によっては、これは由々しき事態なのかもしれません。まぁ個人的には、遥かに我が国の方が心配ですけど。そうではないか?


   「 4 」          ロシア   2005
 監督  イリヤ・フルザノフスキー
 主演  マリーナ・ヴォフチェンコ      セルゲイ・シュヌロフ
      ユーリ・ラグータ

小さな幸せ「エバーラスティング 時をさまようタック」を思う

  「ハリー・ポッターと賢者の石」や「ロード・オブ・ザ・リング」の大ヒットがもたらしたファンタジー・ブームも、最近では急激に冷え込んでお寒い状態になりつつあるようです。熱しやすく冷めやすいというのは、人間のごくごく普通の感情の機微を表す言葉と言えます。私はこの手の映画も昔からせっせと見続けてきた一人ですが、実はこの二大ファンタジー・シリーズにはどうも熱くなれなかった口なのです。「ロード・オブ・ザ・リング」を最初に観たのは、飛行機の中だったのを憶えています。ちっこい画面にイヤホンで観る壮大なファンタジーは、単なる時間潰しにもならないと思わせる程、私を退屈させました。無論、劇場の大画面で鑑賞したとなれば、映画の印象も天と地ほど変わっていた可能性は十分にあるのですが、結果として私が「ロード・オブ・ザ・リング」三部作を劇場で観る機会は一度も訪れませんでした。もともとトールキンの「指輪物語」を読んだのは、私が中学生の時だったと記憶しています。字がちっちゃくて、おまけに翻訳がどうも好きになれなくて、この長大な冒険小説は私を何度も何度も挫折に追い込んだわけで、苦労して読み終えた後に本を投げつけたんじゃなかったろうか?{読んでやったぞ、この馬鹿野郎}状態であります。内容がどうのこうのという問題では既になかったわけで、私はそれ以来「指輪物語」は避け続けてきました。世界中でチャールズ・ディケンズなんかとタメを張る程のこの人気小説が、ここ日本ではあまりフューチャーされていないのは、私は翻訳に問題があると思っています。小説に限らず海外の物を日本に紹介するには、この翻訳という問題は切っても切れない間柄であるわけで、それによってどんだけ優れた物が屑に変化したのかを思うと、なんまんだぁなんまんだぁであります。このように{出会い}というのはその後の人に及ぼす影響はもの凄く大きい。人間同士の間でも、初対面での印象が全てを左右してしまう場合が当然少なくない。一目惚れでポーッとなってHしちゃったらすぐ捨てられて泣いたとか、生理的に嫌とか言ってたのに長い事知り合っている内になんか離れられなくなったとか、ドラマ同様ありえない事が平気で起こるのが実人生の面白い所で、ここで重要なのは初対面が良かろうが悪かろうが結果は決まらないという一点に尽きる。世の中決して諦めてはいけないのではないか?ただし一つ言えるのは、中途半端はダメだという事。悪ければ悪い程、良ければ良い程、その結末も劇的になるというものです。ごく普通というものは、最初から最後まで空気のように誰からも忘れられる薄〜い存在でしかない悲しい印象しかもたらさないものなのです。みなさん、もっとはじけて人生生きてみてはいかがですか?まぁそれはそれとして、「ロード・オブ・ザ・リング」三部作は、やたらめったら長くて飽きるという点を除けば出来自体はそんなに悪く言う程のものでもなく、暇なら観たらええんちゃう的な映画として私の中では地位を確立しています。
 一方、「ハリー・ポッター」シリーズは、二本目で確か観るのを止めてしまいました。もうとにかく{つまらない}というより{くだらない}映画としか、私には思えなかった。これは映画の出来がうんぬんというよりも、多分に個人的な嗜好性が問題なのかもしれません。実を言うと私は「オズの魔法使い」も「E.T.」も、{観ちゃいられない}と途中で思ってしまった人種なのです。「E.T.」なんかは、スピルバーグの最高傑作の一本と誰かが持ち上げても私は納得します。万人に好かれる映画の最良の部分を集めた、とてもよく出来た映画だと思う所もあるからです。「オズの魔法使い」も音楽は素晴らしいし、とにかく場面場面が愛らしく、心に残る映画100本のリストの常連であったとしても当然でしょう。この映画を好きという人に悪い人はいないのではないか?とすら思ってしまいます。けれど、いざ観るとなると退屈なんですよねぇ。これはもう理屈じゃないです。「ハリー・ポッター」シリーズはまだ続いているのでしょうか?小説はもう完結したんですよね?というか、いまだに熱狂的なファンというのが日本に存在しているのでしょうか?まぁ当然いるのでしょうね。私がいまだにRAINBOWというロック・バンドを支持しているように、「ハリー・ポッター」に血眼になれる人もいて然るべきです。お互い頑張りましょう。宮崎駿の最高傑作は「となりのトトロ」だと知っているのに、「もののけ姫」が最高だと自分を押し殺して人には言ってしまう人みたいにはなりたくないものです。そうではないか?好きなものは好き。それは全然恥ずかしい事ではありません。世の中何事もお互い様ではありませんか。
 で、「エバーラスティング 時をさまようタック」は、個人的には割りと好きな映画です。相変わらずの邦題のアホさ加減には吐き気さえしますが、その恥ずかしさを抑えても観て欲しい映画の一本でもあります。映画が始まると同時にディズニー・ピクチャーズとでっかく出てきますので、そこでかなり落胆される方もいると思われますが、そこもぐっと我慢しましょう。というか、ディズニー映画にも名作はごまんとあるわけで、これもこちらの勝手な先入観でしたね。どうもすいません。幾多のディズニー映画同様、そこにディズニーと表示されているからには、この映画にも当然かなりの制約が含まれているわけで、物語自体も映像表現的にもかなり{ベタ}な作品ではあります。まぁしかし、笑いのネタでもそうなんですが、{ベタ}というのは私は必ずしも悪い言われ方ではないのではないかと思います。だって、みんなが基本的に大好きだからこそ{ベタ}なわけでしょう?専門家チックな人達が、お前のギャグは{ベタ}なんだよと知ったかぶりして若手を批評したりしますが、あれはどうなんでしょうねぇ?{ベタ}だから新鮮味がないとか驚きがないとかいうのは、個人的には的外れだと思うのですが。映画にしてもそれは同じ事なのではないでしょうか?それを言ったら、映画なんてもう何十年も同じ事の繰り返しでしかないわけです。こんな映画今までなかったとか、そう思った人がいたとしても、それはただ自分が知らなかっただけで、実際には探せばあるわけです。映画の面白さとか善し悪しというのは、本来そういうものとは別の位置にあるものです。
 かつてあの藤子・F・不二夫氏が自身のSF短編マンガに対して、このSFとは{少し不思議な}の略ですと申しておりました。いやぁ目から鱗ですね。私がファンタジーという言葉に抱いていたイメージとは、まさにそれで別に{夢と魔法の世界}だけがファンタジーではないわけです。「ロード・オブ・ザ・リング」のような異世界の戦争映画も、「ハリー・ポッター」のようなマジカルな青春映画もいいですけど、よりファンタジーを感じるのは本来「エバーラスティング」のような映画なのではないでしょうか?テイスト的にはリチャード・マシスンの原作を映画化した知る人ぞ知る(少なくともかつてはそうでした)「ある日どこかで」的な雰囲気を持ったこの映画は、映像に優しさが溢れているようです。どこにでもある世界に不老不死の家族がいました。ただそれだけの舞台設定に、淡々とした物語が紡ぎだされているだけの映画ではあります。それこそ凡百と存在する超能力者の悲哀であるとかと、全くもって逸脱する部分のないありふれた映画として片付けられても仕方がない映画なのかもしれません。{死を恐れるのではなく、無意味な生を恐れなさい}という言葉は、それこそロメロが「ゾンビ」で描いていた主題ともリンクします。これは、今私達が現実に突きつけられている人類の問題にも直結する提示でもあります。
 ファンタジーという言葉の本当の意味は、誰もが心の中に隠し持っている小さな思いなのではないでしょうか?誰かによって癒されたとか、誰かによって優しくなれたと感じた瞬間、私達はその人に魔法をかけられたのに違いありません。そしてこの「エバーラスティング」という映画も、あなたの心に小さな小さな温かさを運んでくれるはずです。


   「エバーラスティング  時をさまようタック」    2002    アメリカ
 監督   ジェイ・ラッセル
 主演   アレクシス・ブレデル     ジョナサン・ジャクソン

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