DARK TALE OASIS

主に映像作品にふれて、思った事を書いていきます

今だからBLACKMORE’S NIGHT「PARIS MOON」を思う

  リッチー・ブラックモアの才能が最もいかされるだろう場所として、私はBlackmore’Nightが相応しいのではないか?と、以前書いたような気がする。DEEP PURPLEはクラシックとしてのROCKミュージックの代表的バンドの一つであり、いまだにTVのブラウン管からその響きが絶える事がない。例えそれがDEEP PURPLEの曲だと知らなくとも、日本人はすべからくBurnやSpeed KingやBlack Nightの響きをどこかしらで必ず耳にしているはずだ。知名度が低いとも言われるアメリカにおいても、DEEP PURPLEというバンド名は知らなくても、Smoke on the waterは知られていたりする。それでいいではないか?というのは、本人には承諾しきれない部分なのに違いない。リッチーもかつては(というか、実は今でも)、アメリカで名を馳せたいという欲望を抱えて邁進していた時期もあったのだろう。それはポピュラー・ミュージック・シーンで生きる人間の性でもあるわけだ。腐ってもアメリカこそがショー・ビズの聖地である事に変わりはない。イングランドという古都から新天地アメリカで一旗上げたエリック・クラプトンやジミー・ペイジはおろか、本来格下であるはずのBlack Sabbathにまで追い抜かれてしまったリッチーの心境は筆舌に尽くしがたいものがあるのかもしれない。その思いがROCK史上最強最高のバンドRAINBOWの寿命まで縮めてしまったのだから、人の欲望というのは計り知れない。ルネッサンス音楽にアイデアをもらったある意味スピリチュアルなサウンドを指向したBlackmore’s Nightというプロジェクトは、リッチーの一種の逃げの一手だったとも考えられる。こんなものがアメリカで売れるわけがない。売れるわけがないモノを演っているのだから、売れなくても問題はない。そういう姿勢が、私にはどうしても感じられる。それは何故か?Blackmore’s Nightのアルバムの端々に、まかり間違ってアメリカで売れないかなという欲望の影が見え隠れしているからに他ならない。神も夢を見る。まさにリッチーは、いまだにThe Beatlesやマイケル・ジャクソンに並び立つ存在になるのをどこかで夢見ている少年なのかもしれない。
 リッチーの人気は、ここ日本では(ある年代に限って言えば)いまだ衰えを感じさせない。しかしながら、Blackmore’s Nightというバンドの人気という点だけで見れば、衰えどころか無いものと考えられつつあるような気がする。よくは知らないが、きっと新作を出す度に売り上げは確実に下がっているのではないだろうか?現時点での最新作[Village Lanterne」(クリスマス・アルバム「Winter Carols」は当然新作には数えない)において、元RAINBOWのジョー・リン・ターナーを担ぎ出したのもその為だろう。人間とは愚かな生き物である。アルバムを客観的に聴けば、あれがどれほど邪魔な存在であるかに気づくと思うのだがどうだろう?日本という国はやたら特典をつけたがるきらいがあるが、作品としてのバランスを崩してまでボーナス・トラックを無理矢理入れ込むのは果たしてよい事なのだろうか?どうしても入れたい(或いは入れないと売れないのではないかと不安)なのであれば、ディスクを別にするなりしてくれないものだろうか?映画にも同じ事が言える。DVDになってディレクターズ・カット版だの特別版だのとご託を並べて本編を水増ししている作品をよく見るが、長くなりゃいいのか?と誰も思わないのだろうか?カットされたシーンを復活させたりして長くなった事によって作品の質が上がるのであれば、劇場公開の時に入れておかなければダメでしょ。断言するが、特別版だのなんだのと長くなったバージョンが、本来の形よりもよくなった作品なんてほとんどないはずだ。これは単なる金儲け主義の極みでしかない。確かに大好きな作品であれば、長くなった方がより長い時間その作品に接しられるのだからありがたいという気持ちも分からぬわけではないが、それはあくまでもマニア的な楽しみ方でしかない。初めてその作品に接する人だってたくさんいるわけだから、その作品が最良の状態で見られるのが当たり前なのではないだろうか?特別編だなんだというのは、その作品を極端に好きで好きでたまらないマニアの為だけに存在すればよいのだ。監督によっては、やたら自分の作品をつぎはぎするのに余念のない人がいたりするが、あれは潔くないなぁ。過去は取り合えずいいから未来を見ろよと言いたくもなるではないか。そういうのはThe BeatlesとかLed ZeppelinとかDeep Purpleみたいに、もう終わっちゃって後は消えていくだけの人達に任せておけばいいのではないか?「ニュー・シネマ・パラダイス」みたいに、本来の作品の方が水増しした出来損ないよりも見られる機会が少ないのは、やっぱりどうかしていると言わざるを得ない。おまけが付いたら何でも飛びつくなんて、ただのガキだと言われても仕方がない。ただ、それだけ世の中が細分化してきている表れでもあるのかもしれない。もうDVDとかCDなんてものは、マニアしか買わないのかもしれないなぁとも思うわけだ。楽曲にしろ物語にしろ、基本的な骨組みの部分においては、アイデアはもう出尽くしちゃっているというのが見解としては正しい。そこから何を足してどう表現していくのかが問われているわけだ。ぶっちゃけ映画を語るのなら、チャップリンとヒッチコックを全作観れば、それで映画の全てを観た事になると思っても間違いではないだろう。物事の価値を、どれだけお得であるとか、おまけがいっぱいあるかとかいう点に求めてしまうのは、単純に貧乏人の考え方だ。ボーナスというのは全く予期していない時に突然頂くからよいのであって、日本の会社のように元から年収割の勘定に入っているボーナスというのは、言い換えれば詐欺にあっているようなものではないか?それは何故金持ちは金持ちのままでいられるのかという社会構造の不思議を解き明かす思考であり、ようするに世の中というものは常に金持ちの方が一枚も二枚も上手なのだという事だ。
 リッチーは自分の好きな事をしているのだから、今が一番幸せに違いない。という考え方も恐らく間違っていると、私は思う。ライブ・バンドとして超一流の存在であったDEEP PURPLEやRAINBOWに比べるまでもなく、Blackmore’s Nightのライブというのは貧弱だし学芸会的なアット・ホームさばかりが際立っている。曲によっては、こっちが恥ずかしくなるような出来栄えの時が多々ある。リッチーの真価が発揮されるのは常にステージ上だった事を考えると、これは聞き手側から見ても大問題だ。さよう、Blackmore’s Nightは本来ライブ・バンドではない。それは多くの楽曲がCDで聴く方が素晴らしいという一点で言い表せるほど単純明解な事実だ。それでも数は少なくなったとはいえ、ライブに執念を燃やすリッチーの姿を見ていると、これでいいのかリッチー?とどうしても思ってしまうのは否めない。リッチーはライブが好きで好きで仕方がないのだろう。それを思うと、リッチーが心の底から幸せだとは到底思えないというのが、私の推測だ。それでも、私がBlackmore’s Nightが一番相応しいと思っているのには理由がある。ルネッサンスだなんだと気取ってはいるが、Blackmore’s Nightの音楽というのは、基本的にPOPSだという点もその一つだ。それはリッチーの一番好きな音楽の世界でもあるわけだ。そして世にPOPSほど多種多様な音楽が玉石混交している世界はないという事だ。リッチーの柔軟で幅広い音楽性を、十二分に発揮して尚余りある舞台なのだ。賛美歌だろうが、ヨーロッパ各地の民謡だろうが、19世紀の音楽だろうが、今世紀の流行歌だろうが、なんでもござれというわけだ。リッチーにその気があれば、とてつもなく素晴らしいCDが世に出る可能性がここには確かに存在する。
 Deep PurpleにもRAINBOWにも名盤と言われる作品が存在する。中でもDeep Purpleの「LIVE IN JAPAN」という二枚組みのライブ・アルバムは、歴史に残る真の名盤に違いない。その価値は、自身の数あるスタジオ・アルバムを圧倒的に凌駕してしまう輝きに満ちている。最高のアルバムがライブ盤であるバンドが、世の中に一体どれほどあるのだろうか?それはそれとして、Blackmore’s Nightには名盤はない。少なくとも今の所は。所詮リッチーの才能はその程度だったという見方も出来るに違いない。ヴォーカルが能力を示す事が出来る許容範囲に問題があると責任転嫁するのも、あながち間違ってはいないのかもしれない。個人的には「Ghost of a Rose」が現時点での最高水準のアルバムだと思っているが、圧倒的な賛美を贈るほどのインパクトがあるとも思えない。それでも曲単体でみると、実は素晴らしい楽曲が各アルバムに散りばめられているとも思うのだ。まぁこの点に関しては、私個人の嗜好に合致しているだけなのかもしれないので、挙げ連ねても意味がないに違いないが・・・。
 「PARIS MOON」は、Blackmore’s Nightにとっては二枚目のDVD作品であり、2006年のライブがチェック出来る。このバンドも気づけば十年選手の仲間入りをしたわけで、その点には素直に拍手をしてあげたい気持ちで一杯だ。1997年と2004年のわずか二回の来日公演以外にも、実にたくさんのライブを画面を通じて見続けたバンドの一つでもある。このバンドの真価はヨーロッパでこそ発揮されるわけで、ツアー自体もほとんどが欧州圏でのものだ。それはこのバンドの音楽の根っこに、常にヨーロッパの音楽の歴史が綴られているからに他ならない。音楽というものが慣れであると以前に書いたが、そういう意味ではアメリカや日本には取っ付きにくい部分がバンドの核であるのが、現在のBlackmore’s Nightの日本での受け入れ具合に微妙な影を落としているのも納得が出来る。ルネッサンス音楽に触発された一作目から、ヨーロッパにおけるフォーク・ソングの世界へとシフトを続けたバンドの動向は、欧州の一中堅バンドの姿としてはまことに申し分ないものであった。このバンドが世界のあちこちで一種異端児的に扱われてしまうのは、単にリッチー・ブラックモアがそれだけ一つの世界で名を上げた歴史を持っているという幻想に過ぎない。これはバンドにとっては当然一長一短ではあるが、音楽がどれほど素晴らしくても埋もれて消えてしまうバンドが実に多い現実を鑑みると、とても幸運な事には違いない。一人のギターリストとして、また一人の音楽家として、リッチーがこのバンドで見せてくれた才能は、決して以前のハード・ロック・バンドで見せてくれた才能に勝るとも劣らないものだ。リッチーは退化も減衰もしてはいない。少なくとも私がかつて大好きだったリッチーは、全く変わらずBlackmore’s Nightでも健在だ。音楽の成熟と人気というのは、いつもどこかちぐはぐなものだが、何度も言うが音楽とは慣れなのだ。リッチー・ブラックモアが素晴らしいと思うのであれば、DEEP PURPLEやRAINBOWよりもむしろBlackmore’s Nightの方が、よりはっきりとリッチーの素晴らしさを示す舞台足りえるという私の意見も、あながち的外れではないのではないだろうか?
 十年一昔というわけで、2006年のライブのセット・リストは、どこか1997年の初ライブ(もちろん、あの日本公演だ。リッチーには今一度日本という国の貢献に、思いを馳せて頂きたいものだ)のセット・リストがオーバー・ラップしているような気がしてならない。それは7曲というリストの半数が同一曲であるというだけでもないだろう。バンドが着実にDown to earthした結果であると考える方が利に適っている。問題は払拭されてはいないが、バンドは一先ず一つの完成形を見たというわけだ。そこで思うのだが、もうこのような形のバンド公演は、リッチーには必要ないのではないか?と、私は考えるわけだ。このリッチーの音楽の素晴らしさが最も人に伝わるのは、例えば小さなバーの片隅で、ギターとヴォーカルだけでつつましく演奏された時に開花するのではないかと思うのだ。そしてその瞬間をCDに収めた時に、Blackmore’s Nightの名盤が誕生する気がしてならない。それはリッチーの夢を叶える、一つの道になるのかもしれない。可能性はゼロではないのだ。どんなに可能性が低くても、人は諦めては決していけない生き物なのだから。夢が叶う瞬間ほど、人生で喜ばしいものはないのかもしれない。ただし、それは必ずしも幸せの全てではない。本来、人の幸せは、夢を持ってその為に奮闘している道すがらに零れ落ちているものだからだ。人にとって最高の幸せな時とは、夢を手に入れる一歩前の瞬間にこそ存在するのかもしれないと、私は思うからだ。



  「PARIS MOON」      2007   ドイツ
 Blackmore’s Night
   Candice Night        (vo)
   Ritchie  blackmore   (g)
   Sir Robert of Normandie  (b)
   Bard David of Larchmont  (key)
   Squire Malcolm of Lumley (ds)
   Lady Madeline and Lady Nancy (vo)


   

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