DARK TALE OASIS

主に映像作品にふれて、思った事を書いていきます

マスターズ・オブ・ホラー2「黒猫」を思う

 エドガー・アラン・ポーの名前はかなり有名である。日本ではその名前をもじってペン・ネームとした江戸川乱歩という巨人が存在する事によって、セット販売されているような所がある。
 今回ご紹介させて頂くのは、江戸川乱歩全集です。あの偉大なる作家の著作が全てこの一枚のDVDに収められています。へぇー、凄〜い。操作も簡単、パソコンにセットすると自動的にソフトが開いて、後は説明通りにクリックしていくだけ。わぁ〜、文字も大きくて読みやすいし簡略ですね。これなら私のお祖父ちゃんでも使えます。そうなんです。小さなお子様からお年寄りまで、誰でも簡単に楽しんで頂く事が出来ます。さらにモバイル携帯などに、一作品づつファイルをダウン・ロードすれば、時と場所も選びません。(拍手と歓声)でも、それだけ便利だとお値段の方も・・・。心配ございません。なんと今回は驚きますよ〜。19800円。どうですか、皆さん。19800円で乱歩の全てがあなたの物に。(割れんばかりの拍手、ほとんど狂気に駆られたような賛嘆の声)これだけでは御座いません。なんと、なんと、今なら(一呼吸)このエドガー・アラン・ポー全集もつけちゃいます。ええぇ〜嘘ぉ〜(場内拍手喝采、阿鼻叫喚)・・・と、まぁこんな感じでしょうか?
 私が最初にポーの作品に出会ったのが、「黒猫」でした。小学生の頃に夢中で図書館通いに奔走していた私については、以前「江戸川乱歩の美女シリーズ 五重塔の美女」の巻で語りましたが、その流れでたどり着いた一冊でした。正直、その時どう思ったのかは覚えていませんが、そんなにお気に入りではなかったようです。その後再びポーと相見えるのは、およそ5,6年後の古本屋奔走期になる事からも、その事は容易に判断出来ます。ポーを読み楽しむには、まだまだ経験も知恵も足りなかったという所でしょうか?当時の私には、オーギュスト・ドュパンよりも明智小五郎よりも、小林少年率いる少年探偵団の方が、遥かに身の丈にあっていたし魅力的だったわけだ。怪人二十面相なる胡散臭い悪役の存在も、まだまだ威力を持っていたのだから、それは至極当然の様にも思える。ポーは大人の為の娯楽作家である。
 ポーはその先見性及び文学の嗜好から、ご多分に漏れず貧乏な一生を送り、その才能が真に認められるのは死後であるのはご承知の通り。これはH.P.ラブクラフトも同様だ。この二人が現在を生きる作家であったら、一体どれだけの巨万の富を得たのだろうか?しかし貧乏が人にもたらすモノと云うのも当然あるわけで、二人が共にその恩恵を享受したとすれば、それはそれで幸運であったという事も出来るだろう。{金は人の幸せにはなりえない}黴がこびり付いて腐臭さえ醸し出している言葉であり、到底素手で掴むには気が退ける言葉ではあるのだが、そこにも一抹の真実があるという事なのだろう。真の天才の煌めきは、その生死には直結しない。これは世の全ての芸術の世界に共通するもののようだ。これは人間の性格をものの見事に捉えている現実でもあるわけだ。妬み、嫉妬、無知、謀略、裏切り、これらの実際を、天才達は自らの人生を賭して私達に告白しているのかもしれない。
 マスターズ・オブ・ホラーが第二弾に突入して見ると、様々な理由で脱落して行った者達が数多くいるのが窺える。七人が生き残って再び戦場に舞い戻ってきた。葬り去られた五人も、墓場の中で虎視眈々と復活の時を待っているに違いない。そうして新たな血の導入によって、今回のマスターズは新参組VS居残り組による壮絶なバトルともなろう。居残り組に圧し掛かる重圧は、それ相応の物があると見てよいのではないか?その居残り組の中でも、前回のマスターズで著しく充実感を見せていたのがスチュアート・ゴードンであったという意見に異論がある人はどれだけいるのだろうか?ゴードンについては「ペンデュラム」「魔女の棲む館」に続いて、今回三度目の当ブログ登場である。私はスチュアート・ゴードンが大して好きでもない監督であるにも関わらずだ。おぉぉであり、なぬぬぬなのだ。恐るべしゴードン。そして、今回の作品「黒猫」に対しても、おぉぉであり、なぬぬぬなのだから本当に頭が下がる。これは見応えのある作品だし、この作品についての基礎的な知識を持っていればいるほど楽しめる、ゴードン初の一級品の作品と呼んでもいいのではないか?並々ならぬ究極の単一指向性で自身のフィルモグラフィーを積み上げてきたゴードンが、遂にその極みに達した記念すべき金字塔と言うのはさすがに照れくさいが、少なくとも私にはゴードンって力量を持った監督だったんだなぁと、しみじみと感慨に浸らせてくれた良作であった。
 「黒猫」というからには、ポーの「黒猫」が原作になっているのは当たり前だが、ここにポー自身の人生を組み合わせるという発想が、この作品を格段に面白くさせている要因だ。なるほど「恋におちたシェークスピア」や「アマデウス」を例に挙げるまでもなく、実在の人物のあるエピソードを勝手に自己解釈して物語をでっちあげるのは、別段珍しい話ではない。けれど発想自体を評価するのは、映画それ自体を評価するのとは全く違うわけだ。これもよく映画の評論のような物で提議される話題なのだが、単純にこれはあの映画のここをパクっているとか何とかというのを挙げ連ねる事に自身の存在意義を見出している方がおられるようだが、それって私にしてみればどうでもいい事なのであります。パクってこそ人生。うまくパクれば拍手喝采、へたをこけば監獄行き。何度も書いた気がするが、世の中ゼロから生れる物などないのですよ。子供が、男と女の{めっかっちゃった}的な事の繰り返しによって生じた副産物であるように、映画もまた幾多の作品のアレンジに継ぐアレンジの歴史というのが妥当である。どこかの映画みたいに、パクっておいてセリフで「あっ、これって何々じゃん」という愚劣な行為は確かに頂けないが、例えばルネ・クレールの「自由を我らに」をチャップリンが「モダン・タイムス」でパクッた件にしてみたって、個々の作品を楽しむ分には何の問題もないわけです。クレールも当初こそチャップリンを告訴して怒りを顕わにしたのだが、やがて二人は和解する。その時のクレールの言葉は{私もチャップリンから多くのものを学んでいるから}だった。まさに人生とは、大きな円環のほんの一部に過ぎないという事か。人は互いの長所を盗み盗まれて成長していくものなのだ。ただし忘れてはいけない事は、ただパクるのではダメだという実に当たり前の事なのです。音楽を演る者でいえば、楽譜に書かれた通りに或いは完璧に名人のコピーをする事に命を賭けるような演奏者は、どんなにうまく演奏をしようとも永遠に評価される事などないという事実がある。子供の発表会を卒業して、自らの信じるままに音を紡ぎだした者だけが、真の演奏者たる資格があるというわけだ。実際、技術なんてへたくそでもいいんですよ。そこに個人の心意気が存在すれば、誰かがきっと肯いてくれるのではないか?ジーサス・クライストの教えを信者達が信じ続けたように、歴史に残る芸術家達の優れた作品を必死になって後世に残そうと考える人がいるように。天才は得てして孤独なものだが、たくさんの人の思いが天才を支えているのは間違いのない所だ。無償の愛を惜しげもなく捧げる人が存在し続ける限り、天才はその才能で全ての人類に大きな愉悦を与えてる為に自分の命を削り続けるのではないのだろうか?もしあなたが、誰からも思われていない寂しい人だというのなら、きっとあなたはもう死人なんだよ。逆に言えば、あなたが生きているというならば、どこかで誰かがあなたを愛してくれている証なのではないのだろうか?それは数の問題ではないはずだ。顔と名前しか知らない友達が何百人いようと、そんなものはゼロに等しいと本当はみんな知っているのだから。そのようにしか人と接する事が出来ない人は、とても虚ろで寂しい可哀相な人に違いない。寂しい人達が多い国に、人間の幸せなど根付くわけもないではないか。
 ゴードンは居残り組の一員として、まずワンポイントを稼いだ。新参組の鶴田法男がポイントを落としまくったので、随分と点差が開いたバトルになってしまったのかもしれない。しかし、まだバトルの狼煙は上げられたばかりである。他の新参者がポイントを大幅に稼いでくれるかもしれないし、居残り組から大馬鹿者が出る可能性だって往々にしてある。チームとして作品を鑑賞するのも、このようなプロジェクトの楽しみ方の一つと言えるのではないか?駅伝の楽しさは、人生の楽しさと同義だ。人は助け合うから人なんだね。


  「黒猫」          2006 アメリカ
 監督  スチュアート・ゴードン
 主演  ジェフリー・コムズ     エリス・レヴェスク

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://kaigaramax.blog57.fc2.com/tb.php/93-4602ecc8
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

ホームページ アフィリエイト レンタルサーバー 1GB!FC2ブログ(blog)FC2管理用