1969年7月16日。人類は月に降り立った。
アポロ計画は人類の壮大な夢をのせて、1969年から1972年までの3年半の間に6回の月面着陸を成功させている。私もかつてフロリダのケネディ宇宙センターを見学して、たくさんの建造物をこの目に焼き付けてきた。その時購入した宇宙食が封を開けずにまだ残っているのだが、これはまだ食べられるのだろうか?見たところ賞味期限は記されていないような気がするが・・・、まぁ天変地異か何かで究極に食糧難になったら開けてみようか。こんなわけの分からない食料を口にしなければならない程、私はまだ飢えていないという現実がある。
人類が月に行くという夢物語が、冷戦という緊張状態の賜物であったのは皮肉以外の何物でもないだろう。このプロジェクトで実際に小躍りして喜んだのは、アメリカの軍需産業であるのは事実だし、ソヴィエト連邦に対しての遅れを一気に取り戻し、アメリカは宇宙戦略に対して一歩も二歩も抜きん出る結果となった。これはアメリカ国民の意識を大いに引き上げたわけで、その後のアメリカの超大国化とソヴィエトの崩壊に至る歴史を築き上げた重要な礎にもなっていくのだ。ここで培われた技術もその後大きく活用の場を広げて、私達の身近な部分にも影響を及ぼしているわけで、アポロ計画は無駄では決してなかったと断言しても文句を言う人はそれほどいないのではないだろうか?
死ぬまでに一度位は宇宙遊泳などしてみたいものだ。そんな一庶民の思いは、民間企業による宇宙旅行計画の立ち上げにより、実際すぐ目の前の現実となりつつあるようだ。本当だろうか?どうも信じ難い話に思えてならない。少なくとも私が生きている間には実現しないような気がするのだ。アポロ11号の月面着陸から既に40年。一体人類は何をしてきたのだろうか?この40年間の世界の変革を見れば、アポロが6回も月に行けたのだから、そこで費やされた膨大な費用とは比べ物にならない額で人類は月に行けるはずである。普通に考えれば、毎日誰かが月に手ぶらで旅行に出かけていてもおかしくはないのではないか?無論これは素人の無知な考えなのかもしれないが、6回も実現させているのは事実なんだし、ちゃんと計画的にプロジェクトを進めていれば別段突飛な妄想ではないはずだ。現実問題として、何度か月に行っているのを見せられているうちにみんな結局飽きてしまって、そこに費やされる膨大な金をケチり始めたのがアポロ計画の終焉を決定付けたのは全くもって残念だ。人間っていうのは小っちゃいよねぇ。そして飽きっぽい。確かに月に行ってどうするのって聞かれれば、別に何するわけでもないんだろうけど、たくさんの人が月に立って経験を積む中でしか生まれ得ない発想というのも絶対あるわけで、それによって世界そのものが現在とは全く違う形になっていたとも考えられるのではないだろうか?大雑把に飛躍して言ってしまえば、国境なんてなくなっていたかもしれないわけだ。現実を見ろよと怒られるかもしれないが、現実だけが真実だとどうして言い切れるのか?少なくとも歴史というのは推測で成り立っているものだ。実際に人類が辿ってきた過去の現実さえ、残された数少ない物的証拠から何となくそうなんじゃねぇの的な推測で成り立っているわけだ。私が眠い目をこすり開いていた教科書と、今の小学生が開いている教科書では、歴史は随分と異なっているではないか。消えた年金で大騒動になる時間のほんの少しでも、この失われた40年に憤慨してみても罰は当たらないのではないか?
アポロ計画はアメリカ政府の捏造である。いわゆる陰謀説が世間を賑わせた事がかつてあったのは、みなさんなんとなく記憶にあるのではないだろうか?私はこういう考えは大好きで、ついつい面白がってしまうのだが、こういうものは冷静に考えれば考えるほど矛盾に突き当たってしまうものだ。最近では「ダ・ヴィンチ・コード」が随分と話題になった。キリストの子孫が実際に生きていようといまいと私には何の関係もないが、人の好奇心をくすぐるのには十分なアイデアであるのは間違いない。地球の地下には空洞があって、そこには地底人が住んでいるとか。霧に包まれた古城の地下に、人の血を吸う不老不死の怪人が身を潜めているとか。人の想像は無限大だ。よく映画の批評みたいなもので、これこれこういう事は現実にはあり得ないとかって批難する事に終始する文章を読む時があるが、映画の批評としてはこれほど的外れな意見はないのではないだろうか?少なくとも、そういう点に目がいってしまう作品というものは、もっと根本的な所に問題があるのであって、現実離れしている現象なり事象に問題があるのではない。どうしてもそういう見方しか出来ないという人がいるのであれば、残念ながらその人は映画なんて観ない方がよいのだろう。世の中には映画なんかより面白い事が山ほどあるのだし、何も面白くもない物に時間をかけるのはいかがなものか?それこそ失われた時間は、あなたの人生に取り返しがつかない空白を生んでしまう要因にもなる。それでなくても、私達は日々膨大な時間を浪費して生きているものだ。私も毎日、あぁまた今日も一日何もせずに終わってしまったと後悔の連続だ。後悔などないように精一杯生きなさいなんて言われると、実際へこみますね。私の人生全否定じゃん。人生とは後悔によって成り立っている。こっちの方がよっぽど的を得ていると思うのは、虫が良すぎるのでしょうか?こうしてみると世界も個人も実は何も変わらないのですな。人類とはどうでもいい事に時間を割かれる悲しい運命を常に背負わされているものだ。それも突きつめれば誰かの思惑に右往左往させられているわけだからね。自分探しだとか、自分らしくだとか、実はとっても的外れな行為でしかないのかもしれませんね。
微笑ましいという表現がぴったりの映画に、「月世界探検」は見事に当てはまります。こういう映画は、もはやよほどのマニアしか観ないのではないでしょうか?アメリカとソヴィエトの宇宙進出競争も相まって、1960年代には科学を無視しまくったトンデモSF映画が隆盛を極めます。人類は映画の中では火星旅行だろうと金星旅行だろうと自由自在です。実にお手軽に他の惑星に旅立ち、何をするかといえば大抵は宇宙人と戦って帰ってきます。実に戦闘意欲満々の生命体であります。他にする事はないのでしょうか?未知の物への潜在的な恐怖というものに、人は抗う術を持たないのかもしれません。何かと戦って勝つ。これは映画の究極のパターンの一つです。とにかく何がなんでも敵を探します。最近ではテロリスト集団がその槍玉に上がっているわけですが、とにかく敵味方入り乱れて殺人合戦です。他にする事はないのでしょうか?現実の世界を見てみると、ないのかもしれないなと思ってしまいます。誰かの悪口を言って盛り上がる。誰かに罪をなすりつける。誰かを見下して、誰かを蹴倒して、誰かの乳首をつまみあげて、私達は日々生きているのですから。私には当てはまらないという人がいたら、その人は大した嘘つきですよ。何しろ世界というものは、そういう仕組みになっているわけですから。好むと好まざるとに関わらず、私達は他人を傷つけずにはいられないのです。それは人間というものがどれだけ弱い生き物かという証拠でもあります。だからこそ人は、時に助け合い励ましあうわけです。それがバランスというものです。
かつて夢だった事も、今では夢ではなくなっているという現実が、時に人を怠惰にします。これは行き過ぎた情報社会にも似ています。全ての道に足跡が作られ、全ての道の行き着く先も見えてしまっている世界。それは人にとってとても残酷なものです。いつ死ぬか分からないからこそ、人は今日も明日を信じて生きていく事が出来ます。この仕事に就いたら生涯賃金は幾らで、こういう生活が待ってますとか。そんな情報は必要なのかね?実際、私達の周りにはくだらない情報が満ち満ちています。重力をなくす薬をヘリウムで作り上げて、ヘルメット一つで月を闊歩する映画は、今では自虐的なコメディでしか扱われません。私たちが再びワクワクするような、新しいアポロ計画を打ち立てる日は今後くるのでしょうか?子供達がネオンに照らされたアスファルトを眺めるのではなく、宇宙の星を見上げて歩く日が。
「H.G.ウェルズのSF月世界探検」 1964 イギリス・アメリカ
監督 ネイサン・ジュラン
主演 エドワード・ジャッド マーサ・ハイヤー

