フランク・ダラボンとスティーブン・キングのコンビは実に相性がよい。「ショーシャンクの空に」はキング原作の映画化としてはどういうわけかすこぶる評価が高いようだし、「グリーン・マイル」も大きな話題を集めた一本だ。新作となる「ミスト」も見事に面白い作品に仕上がっていたのは、もはや言うまでもないだろう。ひさびさに時間を忘れさせてくれたこの映画に、心から拍手を贈りたい。確かに二度三度と観かえす類の作品ではないかもしれないが、人生とはそもそも一期一会。再見する機会が一生なかったとしても、何かのきっかけに{あぁ、あれは面白い映画だったね}と回想出来る作品がまた一つ増えたという事実が、一映画ファンとしては単純に喜ばしいではないか。まだまだ面白い映画というものは作れるんだという発見は、映画という廃れつつあるメディアにとっての、小さな小さな{希望}でもあるわけだ。
このコンビの三部作は、全て同じ話だと言ってもいいのではないだろうか?同じ主題を扱っているのに、それぞれの結末はあまりにも違うわけだ。前二作では、キングの原作を丁寧にまとめあげる事で作品を紡ぎ上げてきたダラボンが、今回の「ミスト」では結末を大いに書き換えている。というか、完全オリジナルとして結末を付け足している。それは何故だろう?単に「ショーシャンクの空に」と同様の結末を避けたかっただけなのだろうか?映画というものが時代を映す鏡である事を考えると、そこには明確なメッセージが託されているのではないだろうか?
「ミスト」はもともとアンソロジーの中の短篇の一遍として執筆を依頼された作品だ。一万五千語程度の作品としてスタートした作品は、結局四万語にまで成長した。それでも「ミスト」の世界は幕を閉じていたわけではない。キングの「ミスト」という作品を読んだ覚えがないというのであれば、一言で言うとキングの「ミスト」はジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」にとても似ている作品だと言えばなんとなく雰囲気が伝わるかもしれない。かたやショッピング・モールに立て篭もった人々が、理由もわからず世界を呑み込んだ怪物達の攻撃にさらされ、最後には同胞であるはずの人間の狂気に追い込まれ、儚い希望を抱いてヘリコプターで明日無き世界へと旅立っていく物語だ。そして「ミスト」もまた、理由もわからず怪物達の世界に放り込まれた人々が、ショッピング・センターに立て篭もり、そこで人間達の狂気に遭遇し、どこまでも続く霧の中へと旅立っていく物語だ。その通り、キングの「ミスト」は実は何一つ解決せずに終わってしまうのだ。そしてその小説の最後を飾る言葉が{希望}である。くしくもこの「ゾンビ」と「ミスト」は同時期に創作された作品であるという事実が面白い。どちらが先でも後でもないわけだ。後に親友となるキングとロメロの関係を考えると、等しく運命的な二作品であるとも言えるのではないだろうか?類は友を・・・か。
さて「ミスト」よりも一足早く書き上げられた中篇(キング的には長めの短篇という方がしっくりくる)が、同じく{希望}に導かれた作品「刑務所のリタ・ヘイワース」であり、これが映画化されて「ショーシャンクの空に」となる。舞台は刑務所。無実の罪を主張する主人公が、幾多の苦難にも負けず刑務所内で特別な存在へと成り上がり、かねてからの計画通りまんまと脱獄に成功し、かねてから用意されていた大金を持ってメキシコへと逃亡し、刑務所内で知り合った友人の帰還を待つというこの物語は、主人公が完全なる善人としての視点で描かれているというその一点で、いわゆる感動作としての地位を確立している。この物語には語り部が存在していて、それが刑務所で知り合った友人という点が、実はこの作品のミソなのだと私は考える。この囚人レッドの語る一種の英雄物語であり、これは実はレッドという人物の{希望}の物語なのだ。レッドが自分の帰りを待っていてくれるだろうこの素晴らしき友人の元へと旅立っていく場面でこの物語は終わっていくのだが、レッドの未来に待っているのは一体なんなのだろう?視点を少しずらして見ると、何ともきな臭い未来が見えなくもないのではないか?そもそも{希望}を抱くのが常に善人であると一体誰が断言出来るというのだろう?どんなに大悪人であっても、やはり{希望}を見つめているのではないか?真実とは常に藪の中であると、黒澤の「羅生門」で私達は教わっているのではなかったか?「刑務所のリタ・ヘイワース」には副題がつけられていて、それは{春は希望の泉}というものだ。これは「Different Seasons」という四つの個別の作品を四季をモチーフに雑多に並べた中編集の春の章というわけだ。いわゆるホラーの要素が全くないこの出来のいい作品が春を象徴するのは、必然であったとも言えるだろう。これに続いて夏の章では、狂気の世界に転落していく少年の姿を、やはりホラーの要素を排した作品として見事に描ききった「ゴールデン・ボーイ」という恐るべき物語へと繋がっていく。秋の章は言わずと知れた少年達が死体探しの旅に出る「スタンド・バイ・ミー」であり、冬の章には事故で首を切断された妊婦が無事に赤ん坊を産み落とすという悲しくも美しい話で四季の幕が降りる。別個の作品として各々時期も違って創作されたこの作品群が、どうしたわけか大きな円環を描いているような気がしてくるから不思議なものだ。{希望}は人に生きがいを与えると共に、人に狂気をも与える代物である。また{希望}は少年の日の幻想であり、死してなお成就される奇跡をも演出する力を秘めている。それは言って見れば、人間に与えられた恐怖のルーレットのマスでもある。あなたの{希望}は果たして叶えられるのだろうか?その答えはルーレットの目に託されているのではないか?
続く「グリーン・マイル」は、分冊形式で出版されるという事で話題を読んだキングの同名の長編(今度は短めの長編という方がしっくりくる)を原作とする作品である。物語の舞台はまたしても刑務所であり、そこには無実の男を処刑しなければならない男の{絶望}が描かれている。その代償として男は、永遠とも言える時間を生きる事を運命づけられてしまった。不老不死を願ってやまない人間にしてみれば、死に{希望}を抱く主人公の姿は何とも奇異に映ってしまうのか、この作品は出来がいい割には評価もまちまちだ。何しろ完全無垢な善人の男が電気椅子という恐怖の殺人道具で殺されてしまうわけだから、何とも後味が悪いのは否めない。しかし、それこそが人類の辿ってきた歴史なのではないか?誰にでもそれぞれの{希望}があって、その全てが善悪などという次元の問題では片付けられないもどかしさを、この処刑シーンは実に明確に描いているのではないか?
「ショーシャンクの空に」で描かれた単純な{希望}に見た映画的なカタルシスは、「グリーン・マイル」で歪んだ形へと変貌し、「ミスト」で遂に真逆な形へと昇華された。それは今私達の住むこの世界の混沌の度合いに影響を受けているとは言えないだろうか?私達が思い描く未来に求める{希望}は、果たして本当に人類の未来を明るく照らしてくれるのだろうか?
ホラー映画こそ実は人間の真実を垣間見せる最良のテキストであるというのは、あながち間違ってはいないに違いない。徹底的に寓話であるという事が、表層には決して出てこない心の不思議を見事に浮き彫りにする場面を、一体私達はどれだけ見せつけられてきたのだろう。もちろんそれらを根こそぎぶっこぬく低俗な作品が目白押しなのも、また確かではあるのだが。とにかく諦めずに観続けようではないか。ここにもまた、小さな小さな{希望}が存在するわけだ。
「 ミスト 」 2007 アメリカ
監督 フランク・ダラボン
主演 トーマス・ジューン マーシャ・ゲイ・ハーデン

