DARK TALE OASIS

主に映像作品にふれて、思った事を書いていきます

君といると退屈しないね「FREEDOM」を思う

  宇宙、それは最後のフロンティア・・・。
 あまりにも有名な「宇宙大作戦」のオープニングの文句である。ロサンゼルス市警として勤務するかたわら脚本家としての道を模索した男、ジーン・ロッデンベリーの企画・制作の下、1966年に放映開始されたこのTV番組は、新世紀を迎えてもなお新シリーズが制作されるという未曾有の成功を収めた作品群のオリジナルである。スポンサーが降板した為にわずか3シーズンで幕を閉じたこのスペース・オペラは、熱狂的な信奉者(もちろん世界中のトレッキーズに決まっている)に支えられ、アニメになり映画になり、ラス・ベガスのホテルの目玉となるアトラクションになったりと、いまだにその人気は衰えを知らない。かつてSF小説を何故か大量に買い漁っていた時代のある私にとっては、ハーラン・エリスンやセオドア・スタージョン、ロバート・ブロックにリチャード・マシスンといった大御所作家がこぞって脚本を書いていた事で心躍らせていた番組(無論再放送ではあるが)の一つであった。
 人類初の試みとして5年間の宇宙調査に旅立った宇宙船エンタープライズ号の冒険を描いたこのドラマは、宿敵クリンゴン星人との対決や未知なる物との遭遇などいわゆる凡百のSF活劇作品と大差ない物語の連続であったにも関わらず、それらとは一線を隔した部分があった。それが人間ドラマとしての側面であり、カーク船長やミスター・スポックに代表される名キャラクターを生み出し、その絶妙な会話の楽しさや血の通った人間臭さが人々の心を捉えたのは想像に難くない。ようするに、外見はSFだろうがホラーだろうが、人間を描いていない作品は不特定多数の人々から支持される事は難しいというわけだ。ただSFは取っ付きにくいとかホラーはどうもとか言って端から鑑賞リストから除外をする人が世の中には腐るほど存在するが、これはとっても勿体無い事ですよ。
 例えば、デ・シーカの「自転車泥棒」やチャップリンの諸作品に黒澤の「生きる」なんかは実に素晴らしい映画であるわけです。私も本当に好きな作品だし、心もぐわんぐわん揺す振られたもんです。一方、ロメロの「ゾンビ」やホークスの「リオ・ブラボー」なんかも私は大好きなわけです。「生きる」と「ゾンビ」、「ゾンビ」と「生きる」、こっちが「ゾンビ」でこっちが「生きる」どっちが名作?なんて問われると、ややこしやぁ〜ややこしや〜と私なんかはなってしまうわけです。どちらも映画としての面白さはテッペンまで行ってしまっている作品であるのは間違いありません。この二つの映画作品としての価値は、同等であると強く言いたい。どっちが上なんていうのは、もうつまる所その人が他人からどう見られたいかによるのではないかと思われます。これは面白いですよ。映画大好きだけどホラーだけは絶対に見ないと豪語する人は、私の周りにも結構います。そんな時私は{はは〜ん}と思うわけです。また、ホラーとか大好きでついつい見ちゃうと言う人も、私の周りには何人かいます。そんな時も私は{はは〜ん}と思うわけです。先の{はは〜ん}と後の{はは〜ん}は同じ{はは〜ん}なのか、はたまた違う{はは〜ん}なのか、そして{はは〜ん}の意味はとかそんな事はどうでもいい事で、私だけが知っている{はは〜ん}でいいわけですが、言葉が違っても人それぞれ自分の{はは〜ん}は必ずあるのでしょう?違いますか?これはコミニュケーションの第一歩であります。そうやって人は糸口を見つけて、その人と自分の立ち位置を決めていくわけです。よく別れの理由に{言葉が足りなかった}という文句がありますが、あれは当たらずも遠からずだと私は思います。人は言葉のみで意思を通じ合うわけではありませんから。人は自分すら欺いて生きていく生き物なのです。毎日毎日朝から晩までベッドでくんずほぐれつしていたからと言って、その人達が自分の本音をさらけ出しあっているわけではありませんよね。さらけ出し合っているのは、お互いどんだけエロいか(笑)という事だけです。どんだけ言葉を吐き出した所で、別れる二人が発するのはお互いを罵倒する文句だけでしょう?本当に必要なのは言葉ではない。今、社会から消え去っていこうとしているものは、一体なんなのでしょう?何故{KY}なんて言葉が流行ってしまうのか?これは非常に興味深い、そしてとてつもなく重要な、現代を読み解くヒントのような気がしてなりません。
 映画によって人生を知る。これは、実は繰り返しによる人の心を読む練習なんだと私は思います。映画には様々なキャラクターがいて、それぞれの役割を与えられて銀幕の中に生きています。はっきり言って反復練習なわけですから、現実の人間よりも遥かに単純な作業です。映画によってはあまりにも分かり易〜い登場人物もいるわけです。そんな時私達は、キャラがどうのこうのと文句を言ったりします。要するに、簡単過ぎては練習にもならないと怒っているわけです。映画をあまりにも観すぎると、妙に凝り固まった屁理屈ばっかりの小難しい映画ばかり評価するようになったりします。そういう人には、映画なんか忘れて現実の不特定多数の人間ともっとコミニュケーションをとって気分転換する事をお勧めします。それっていい大学に入る為にやたらめったら勉強するのに似ていませんか?それが楽しくてしょうがないから勉強するという人は、社会に入ってからも大いに役に立ち、また人生の助けになってくれますが、目的が大学合格の為でしかないのなら、それは無駄でしかありません。入学と同時に次々と忘れていく知識とは、何て切ないものでしょう。もちろん無駄が個性を作り上げるというのはごもっともな話ですが、みんながみんな同じ記号やら数式やらを覚えてもねぇ。だから無個性なんて言われちゃうんじゃないの?小学校中学校辺りまでの勉強は絶対必要ですよ。それぐらいは並ぐらいにはやるべきだと私も思います。きちんと一からやっていれば大して難しい事でもないわけですし、それすらおろそかにするのは単なる怠慢でしょう。ただそれと同時に、もっと興味のある事柄にも積極的に触れさせてあげるのが親の務めなのではないのでしょうか?子供は親の宝です。と同時に、社会の宝でもあるわけです。子供がおかしいと言うのであれば、それは大人がおかしいからに決まっているのではないのでしょうか?
 「FREEDOM」はカップ・ヌードルのCMでもコラボされている、オリジナル・ビデオのアニメーションです。このカップ麺というのが、個人的には一度も美味しいと思った事がない最悪の食料品だと思うのですが、まぁそれはいいでしょう。最近は値段も上がっているみたいだし、この際失くしてしまえばいいのに・・って、しつこいですね。アニメーションについては個人的にいろいろ思う所もありまして、日本の一部の作品?については発禁にしたっていいんじゃないのとも考えますが、アニメーション自体は別に嫌いではありません。むしろ子供の頃は大好きでした。私は特にアニメの主題歌が好きで、古〜いアニメソングに限って言えばほとんど歌えると豪語しても(う〜ん。かつてはかな?)いいでしょう。話の中身は知らなくても、主題歌は歌えるというのがたくさん(ほとんどという説も)あります。っていうか、ありましたかな?もう随分とアニメを見なくなって久しいですが、たまに息抜きに見るのにアニメというのは実に都合がいいです。アニメは所詮絵なので、鑑賞しているのがとても楽という効能があります。ぐだぐだと述べた反復練習にはほとんどなりませんが、この楽さ加減が何とも言えない心地よさを与えてもくれます。「FREEDOM」の美術はとてもカッコイイですね。一枚の絵としてみれば、外国のSF映画の美術なんて屁みたいなもんかもしれません。物語的には特に新鮮味もない感じですが、絵が好みというだけでこれだけボーッと見てしまえるわけですから、物語なんていうのはやっぱり映画の核ではないのではないかと私は再認識させられました。もともと{映画は脚本だ}という意見には懐疑的(もちろん良いにこした事はないが、更に言えば{映画は主題だ}という意見よりよっぽどまし)になってしまう方なのですが、何しろ絵が好みというだけで「FREEDOM」に関してつまらないという意見が自分の中で出てこないのが論より証拠というか、かくかくしかじかというか。とにかく何も考えずリラックスして観れるこの手のアニメはいいよねと、思う次第であります。
 で、自由!自由!ってみんな言うけど、自由って何なんでしょうねっていうのが誰しも思う事なんだと思うのですが、この「FREEDOM」をボーッと観ていて私が思った自由なんですが。自分が生きていく上で、誰の為に命を懸けられるのかっていう選択の自由が、人間にとっての自由って事なのかなぁと漠然と思ったりしていました。それが自分の為でしかないとしたら、それはもの凄く不自由で悲しい事なのかもしれません。


  「FREEDOM」         2006    日本
 監督  森田  修平
 出演  タケル         アオ

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