シド・ヴィシャスの名前は、今では伝説的なパンク・ロッカーの代名詞にもなっている。映画「シド・アンド・ナンシー」で描かれている男の姿は、破壊的でありナイーブであり、悲劇的な人生を歩む以外に道がなかった不安定な男のイメージを与えてくれる。彼はもともとは、ただの熱狂的な(というか、この時点で伝説的な)バンドの追っかけであったのは有名だ。そのバンドとは言わずもがな{セックス・ピストルズ}であるわけだ。1970年代の後半、ニューヨークでこじんまりと産声を上げつつあったロックの一つの形が、イギリスに飛び火をした。ピストルズのような音楽性を持ったバンドはシーンに既に存在していたわけだが、パンク・ムーブメントを世に知らしめ世間を敵に回して悪名を全世界に轟かせたのは間違いなくセックス・ピストルズであり、その意味でパンク・ロックと言えばピストルズというのは、何ら問題はないのだろう。パンク・ロックの兆しは、グラマラス・ロックと呼ばれたバンド達の中にその芽があるというのも今では通説だ。もっと遡ってザ・キンクスというイギリスを代表するロック・バンドという言葉にぴったりの大物バンドにまで触手を伸ばす人もいるようだ。またルー・リードが在籍するヴェルベット・アンダーグラウンドを中心としたニューヨークの混沌からも当然目が離せない。とにかくピストルズの登場によって浮上したパンク・ムーブメントは、ピストルズの消滅によって一つのジャンルと化した。この時点でのパンク・ロックのイメージとして思い浮かぶのは、まずロー・テクであり、次にアナーキズムであるわけだ。ロックという音楽が汎用性を帯びてポピュラー・ミュージックの一つの巨大な母体となりえた時、若者達がこぞって楽器を振り回して大音量で演奏を始めた。しかし演奏技術というのはそう易々と身につくわけではもちろんなく、彼らに出来たのはスリー・コードで適当に突っ走るしかなかった。煽動する歌詞に、暴力的振る舞いによって、技術云々という次元を飛び越えたエネルギーは、誇れるものが何もない若者達を熱狂させた。その世代が持つ鬱屈した心のもやもやを代弁する居場所を見つけたと言ってもいい。そこで一番重要だったのは、音楽というよりはファッションだったと言い切っても過言ではなかろう。{セックス・ピストルズ}はメンバー随一の音楽的才能を持っていた(そのレベルもたかが知れてはいるが)であろうグレン・マトロックを追い出して、二代目ベーシストにシド・ヴィシャスを迎える。そのルックスとファッションが決めてになったのは言うまでもない。何しろシド・ヴィシャスはベースが弾けなかったわけだし、実際ピストルズの演奏時にシドのベースから垂れているシールドがアンプに繋がれる事はただの一度もなかったとさえ言われている。シドはベースを観客に対する武器として振り回し、ひたすら興奮を煽る役目を負わせられる。正にバンドのVICIOUSを一人で請け負う大任を無理矢理押し付けられた格好だ。このステージ名を付けたのはジョニー・ロットンであり、後に彼は{彼の性格から最も対極にある名前を付けた}とインタビューに答えている。その言葉通り、実際の生身のシド・ヴィシャス(ジョン・サイモン・リッチー)は、ひたすら臆病で気の小さいだけの男だったと言われているし、ステージ上ではジョニーと共に人気を二分するヴァイオレンス・ヒーローであったのとは裏腹に、舞台裏ではひたすらジョニーのいじめに晒される毎日を過ごす、単なるいじめられっ子だったようだ。そんな弱弱しい人間を、凶暴なヴィシャスに変える力を与えたのがドラッグだ。重度の麻薬中毒患者であったシド・ヴィシャスは、21歳という若さでこの世を去っている。一人の人間が伝説になるには、それだけの代償が必要だったわけだ。
若者達が熱狂する世界で伝説として語られるのには、若くして死ぬという事実が切っても切り離せないのはご存知の通り。死というものが人々に突きつける衝撃の大きさは、その人気が絶頂であればあるほど、その死が惨たらしく突然に訪れるほど、そこに様々な謎を残し幾つもの憶測が流れる余地があるほど、実に壮大で強固な伝説を産み落としていく。人間というのは、どこか人の死というものにエンターテインメント性を感じているのではないだろうか?死が人の心に永遠を焼き付けて回っているようだ。口から口へと伝えられる真実というのは、いつしか大きな妄想へと変貌していく。死んでしまう事によって、人は神に一歩近づくのだろう。死んだ人の事を悪く言うのは気がひけるという気持ちは誰にでもある。それは一種後ろめたさの裏返しでもある。人によっては心のどこかで、霊的なものからの仕返しを恐れている場合もあるだろう。天罰が下るというやつだ。そして、死んだ人間を幾ら祭り上げた所で、それは何の妬みも嫉妬も生まないというのが大きいのではないだろうか?生きていると、無制限の名声というのは与えにくいものなのだ。例えば、ザ・ビートルズにおけるジョンとポールの評価の違いというのは、そういうものと決して無縁ではあるまい。音楽界にカムバックした矢先にジョン・レノンはファンに射殺されてしまった。そして人間ジョンは、人々の中で虚像として生き続ける。いいや、ジョンの行動が云々と反論する方もおありでしょうが、その言葉を真実とするならば、ジョンが主夫として隠遁生活をしていた時期に既にそういったリスペクトが少しでも巻き起こっていたのかと言いたい。そんな事はなかったでしょ、実際。ジョン・レノンの功績はもちろん大きいし、素晴らしい楽曲をいくつか残してくれたけれども、あの衝撃の死がなければ、今現在のジョン・レノンという伝説はもっともっと小さなものだったろう事は、ポールのそれを見ても明らかだ。シド・ヴィシャスのそれも全く同じである。伝説とは人間のエゴでもあるわけだ。
「ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド」は、私の近年でのお気に入りの小説の一つである。長年翻訳もされていなかったこの小説を、一本の映画が製作される事によって陽の目を見たのだから、それはそれで喜ばしい事である。ブライアン・オールディスという名前は、最近ではスピルバーグの(キューブリックのと言ってもいい)「A.I.」の原作者として少しは知られるようになった。英国を代表する作家の一人でもあるわけだが、ここ日本ではまだまだその名前が浸透しているとは言い難い。「地球の長い午後」や「グレイベアド」「十億年の宴」と何でもいいが、とにかくぜひ手にとって読んでみて欲しいものだ。がっちりと嗜好が一致した人ならば、きっと素晴らしい至福を味わえるに違いない。少なくともここに、それを体現した人間が一人いるのだから間違いない。
映画の方はというと、原作とはニュアンスがだいぶ違うように感じられた。構成は似たようなものだし、ストーリーもある程度まんまなのだろうが、私が感じた違和感はずばり音楽にあると思うのだ。だらだらと書き連ねたように、この映画はパンク・ロックの世界を描いているのだが、私が小説を読んだ時に思い描いていたのはもっとPOPな世界であり、例を挙げれば{ハーマンズ・ハーミッツ}とか{ホリーズ}とか{アソシエーション}とか、ようするにソフト・ロックと呼ばれるような音楽がイメージとして常に頭の中で鳴っていたわけだ。少なくとももっとサイケでカラフルな作品世界を想像していたのだが、映画は完全にドキュメンタリー・タッチでモノクロを感じさせる世界感を提示していた。これは好みの問題で済ましてしまっても構わないとは、実は私は思わない。この小説の面白さが、実は映画に反映されていない気がするのだ。オールディス自身も出演していて別に気にしていないようだし別にいいんじゃないと言われてしまえば、確かに返す言葉もない。作品としてはアーティスティックな側面も出ていて、そういうのが好きな人にはこれはこれでいいと言えるのかもしれない。けれど、小説はもっとエンターテインメント性を感じるものだし、だからこそ面白い作品だっと私は思っているという話である。まぁ何度も言っている通り、面白さという点で映画が小説を超えるのは所詮厳しいものなのかもしれない。ただし、この小説が書かれたのは1969年であり、映画では1975年に舞台が設定されているのはどうだろう?{セックス・ピストルズ}のシーンへの登場はまさに1975年なわけで、監督の意図が丸分かりだ。その辺に作品としての歪みを感じるのは、私だけではないのではないか?
結合体双生児(実は三つ子???)がロック・バンドとして大成功を収めて、その結末や如何に?というファンタジーの面白さを追求して欲しかったと、誠に残念でならない。
「ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド」 2005 イギリス
監督 キース・フルトン ルイス・ペペ
主演 ハリー・トレッダウェイ ルーク・トレッダウェイ

