プラハに生れたパペット・アニメーションの巨匠・ヤン・シュバンクマイエルの名前が、今以上にこの国でメジャーになる事は果たしてあるのだろうか?
なるほど日本人好み?の変態性と悪趣味を存分に撒き散らし、何か妙に思考を混乱させるわけのわからなさは、世に天才と揶揄され差別化されている奇人達と肩を並べる存在感を示してもいる。理解不能な作品をクソと呼ぶか、わからないまでも圧倒されて受け入れるかの違いは、紙一重では決してない。クソはどこからどう見たってクソでしかない。そしてシュバンクマイエルの作品を{クソ}と呼ぶ勇気は私にはない。それは作品から溢れ出さんばかりのエネルギーを感じるからかもしれない。その根底にあるのは、監督自身の経験に裏づけされた自信の表れであり、完璧に構築された基礎の安定感が画面から伝わってくるからかもしれない。
もう随分過去の出来事のように思ってしまいがちだが、手抜きマンションの問題がまるで世界崩壊の序曲であるかのように連日TVの向こうで大騒ぎされている日々があった。最近でも薬害肝炎だの、年金使い込みだの、食品偽装だの、全世界同時株安だのと、日本国というのは本当に火だるま国家の様相であるが、次から次へと怒りの矛先がめまぐるしく変わっていくおかげで、ほっと胸を撫で下ろしている人達は相当な数存在するのではないでしょうか。とにかくその手抜き問題を例にとってみると、何事にも表からでは見えない裏側にこそ本当に重要な部分があるのだという事実は、誰でも知っていて当たり前の俗に言う常識というものなんでしょう。{人間は見た目じゃないよ、心だよ}なんて泣かせるセリフもあったりしますが、ともすれば私達はそういう常識すら一瞬にして忘れ去る能力を持っています。口では中身が大事といいつつも、みんな惚れる相手はいつだって美男美女だったりします。TVでは誰も発言しないけど、ようするに世の中全員美男美女だったら少子化問題(こうなると、必ずしもお腹の子が自分の遺伝子を持っていない疑惑が大問題になりそうだが)なんかなかったんじゃなかろうか?って、結構みんな思っていたりするんじゃないでしょうか?我が国が誇る天才の一人でもある・松本零士の作品には、美男美女だけがいい思いをして不細工な主人公が唇噛みしめて{今に見てろよ}みたいな怨念猛々しいシーンが目白押しなわけですが、それが妙にリアルに共感を呼ぶという事実が、結局世の中みんな腹の中はそう思ってんじゃんと私なんかは安心(って言うと、物凄く心象悪くする気がしないでもないが)したりするわけです。弁解ととられても仕方がない文章になってしまいそうで怖いですが、ここで私が言いたいのは、人間は見た目だけに誤魔化され易すぎる生き物だという事です。昨今の日本映画にしろなんにしろ、上っ面ばかりごてごてに派手にしまくった厚化粧お化けが実に多いのかな・・・なんて。中にはそういう難解さみたいなものがトレンドであるかのように、表面だけ偽装しまくったどっちらけ作品も濫発されてみたりしちゃうわけです。お気楽極楽ですなぁ。日本人の文化は{恥の文化}ではなかったかしら?クソがクソをしてクソったところで、クソがクソなようにクソでしかないのだからして、ばってんクソはクソ・・・って、この恥知らずが。
よく若い人が個性個性と選挙演説並みに同じ事を連呼する場面に最近出くわしたりするし、世の中の風潮として個性重視みたいなものが旗頭にされている気がなくもないが、個人的には人間そんなに変わらないんじゃないと思ってみたりするわけです。同じ生き物なのだから、例えば蟻にだって実際は個性があるのでしょうが、それは私達には窺い知れぬ違いなわけです。たった四つの血液型パターンですら、当たってるだの当たってないだのとキャーキャー一方では騒ぐのに、人とは違う私でいたいとかって何か矛盾していませんか?たった四つの分類で納得している自分と、一億数千万分の一でないと嫌だという自分が、一つの身体を共有しているわけです。そもそも人は個性的でなければいけない存在なのでしょうか?そもそも人間が一人一人世界で一つだけの花なのだとしたら、個性的でありたいと願うのは辻褄が合わないのではないでしょうか?ようするに個性個性と連呼する人というのは、自分がどれだけ個性的でないかという事実に直面してテンパっている人なのではないかと素朴に思うわけです。結論から言うと、個性というものはそもそも実に微妙な違いを指す言葉であって、表面的にぱっと見て分かる違いなんてものは個性でもなんでもないのでしょうか?個性というものは目に見えない部分にこそ存在する。そして人間は、今日も見た目に誤魔化されながら生きていく生き物なのでしょう。
天才は努力する人の事を言うというのは、もう何度も繰り返してきた私の信念みたいなものですが、天才が努力を続けた上で身につけるものは一体なんなのでしょう。知識。技術。と、まぁ挙げればきりがありませんが、つまる所自信ではないかと私は考えています。根拠があろうがなかろうが、人が成功を掴む為に最も必要な要素が、このちょっとやそっとではびくともしない自信なんだと思うわけです。{自信を持て}と、これまた頻繁に聞かされる言葉ですが、ようするに自信というものが身についていないと知っているから飛び出る言葉なのでしょう。これは一芸に秀でるものは云々という言葉でも証明されています。これだけは世界で誰にも負けないという能力を一つでも身につけている人は、何に対しても自信を持って挑む事が出来るのではないでしょうか?この自信の度合いと強度が、人間に更なる突飛な思考や振る舞いを与えるのですね。天才には奇行がつきものです。そしてその微妙に枠からはみ出した部分に、人は驚嘆してリスペクトするのでしょう。そして、上辺だけを装った奇抜さは、いつだってすぐに化けの皮が剥がされるものです。何故なら、それは実に微妙なほんの少しの違いに過ぎないからに違いありません。
この手の映画ではもはや通例になってしまったかのようですが、「ルナシー」にもまともな登場人物は一人もいません。精神病院が舞台だからなのではなく、監督の心の反映がそうさせるのでしょう。デヴィット・リンチにも似たあの感じです。天才というのは選ばれし一握りの存在なわけですから、天才の視点から見ると世の中の大多数の人々というのは一種の狂人に見えているのかもしれません。世界は狂っている。そして人間は、もっともっと狂っている。そこに監督は底知れぬ恐怖を感じているのかもしれません。そういう意味でこの映画の冒頭にわざわざ付けられた前振りは、率直に正直に映画自体を紹介しているようにも見えます。シュバンクマイエルという人は、割とどこにでもいるような{いい人}に見えてきます。個人的には作品としての面白さは???ですが、一度くらいは観て損のない映画ではないでしょうか?悪趣味で耽美で荒廃してて変態なんて、きっと好きな人いっぱいいるでしょ?一つ間違えば、シュバンクマイエルが日本でブレイクする可能性はあってもおかしくないですね。だって何か{いい人}ぽいもの。
「ルナシー」 2005 チェコ
監督 ヤン・シュバンクマイエル
主演 パヴェル・リシュカ ヤン・トジースカ

