DARK TALE OASIS

主に映像作品にふれて、思った事を書いていきます

気合だ気合だ「300」だ を思う

  何か妙に血湧き肉踊る予告編によって、これは観なければと思わせる映画は近年少なくない。「300」もその一つだ。実際、予告編の作り方というのは、ある意味完成形を迎えている感がある。予告編の方が面白いというのは作品としては本末転倒ともとられかねないわけだが、一人でも多くの集客を考える製作・配給側からすれば、たとえ本編の面白さが多少なりともそがれようとも目玉となる部分を出し惜しみしない事が即収入につながるというのであれば、それも至極当然の結果なのだと言わざるをえない。
 毎日の暮らしの中に愉しみが増え続けた結果、誰もが時間が足りないと感じているのは間違いない。あれもこれもという人々の思いが、映画に対しても確実に影響を与えている。よほどの映画ファンでもなければ、二時間という時間を絶対に無駄にしたくないという気持ちからどうしても安全牌を探してしまうのだろう。様々なメディアから垂れ流される情報のインパクトが、大航海時代の夜空の星のごとく、人々に指針を与えてくれる。あとはただ流れるままに、{人は流れに乗ればいい}というわけだ。何か大きなものの意思によって、人の行動がコントロールされているかのようだ。シネコンと呼ばれる現在映画館の本流とされている場所では、結果的にそうした情報戦争での勝ち組にしかチャンスは回ってこない。どこへ行っても同じ映画しか観る事が出来なくなっているのは如何なものか?その一方で独自の選択を志す小さな映画館は、ばたばたと潰れていってしまった。東京という都会に住んでいる人々であれば、まだ選択の余地は残されているのかもしれない。けれど、負け組みの映画ばかりを上映してくれる小屋の多くはお世辞にも映画を最大限楽しめる空間を観客に提供しているとは言い難い。以前「インランド・エンパイア」の回に書いた事の繰り返しになってしまうが、私はこのミニ・シアターが大嫌いだ。何度でも言うが、ミニ・シアターに1800円という値段を取る資格はないと私は考える。昨今ではレイト・ショー割引やらレディース・デーやらと実質的な映画鑑賞料金の値崩れが起きている。大きな都市に行けば、割安な前売りチケットがさらに安い値段で容易に手に入る。平均してみれば、もはや日本の映画料金は千円そこそこが相場なのではないだろうか?それでも世界の国々に比べれば、日本の料金は法外に高いのだから恐れ入る。映画に限らず美術館でも音楽会にしても、とにかくべらぼうに高い。「リヴァーダンス」はS席10000円とかするし、美術館の入場料だけでも高いのに隣接するカフェのエスプレッソは800円だったりする。アホか、と言いたくもなるよ。この国には文化や芸術を敷居の高いモノにしてしまう悪循環が見事に形成されてしまっている。本来最も様々な文化や芸術に触れる機会を持たせてあげるべき子供達は、オーケストラの演奏会も歌舞伎や文楽といった日本古来の大衆文化も一切合切雲の上のものとして成人していく場合が多々ある。それもそのはずで、その子供に機会を与えるべき大人達が、既にそういうモノとは隔絶して成長してしまっている経緯がある。格差社会を危惧する声を最近頻繁に耳にするようになったが、芸術や文化の視点からみれば格差社会はもうすでに完全に出来上がってしまっているのではないだろうか?バッハやシューベルトは金持ちの為に音楽を創ったのだろうか?ピカソやモネもまたそうなのか?金持ちの子女しかバレエを踊ってはいけないのだろうか?それが民主主義のあるべき姿だと言うのなら、そんなものはくそくらえだ。世界にとって本当に恐怖すべき事は、金という目に見える単位で格差が出来る事ではないのではないだろうか?心に格差が開いてしまう事。金持ちが傲慢で鼻持ちならない態度で人間に格差をつける事、貧乏人が妬みと卑屈な態度で自分自身に垣根を設ける事。そういった歪んで醜い心を子供に植え付けてしまう事こそが、世界を終末に導く巨大な力になるのだろう。つまる所世界を破壊するのは、環境汚染でも資源の枯渇でも食料不足でもなく、どこにでも存在するたった一人の子供の心なのかもしれない。
 「300」は看板に偽りありの作品だ。幾度となく戦闘が描かれているが、どう贔屓目に見ても30人対300人の戦闘にしか見えない。嘘で塗り固められた作品であるのだから、せめて本当に300人対1000000人が一瞬でもいいから戦っているように見える(正確な数の問題ではなく、そう思わせる画の)場面があってもよかったのではないだろうか?CG技術の向上は、いいも悪いもなく映画をつまらなくしている要因の一つになってきている気がしてならない。これからのこの手の映画は、ようするにアニメーションとなんら変わらない物になってしまうのかもしれない。もともと特撮技術というのは、撮影不可能な部分を視覚的に補う目的で始まったものだったはずだ。特撮を特撮と感じさせずに自然にロールに溶け込ます事に重きが置かれている日陰の作業だったわけだ。それがSFXという言葉と共に、見世物小屋的な効果を独自に持ち始めた。特撮の出来不出来が、そのまま直接映画の出来不出来(面白い面白くないと言ってもいい)を左右する程の存在にもなっていった。人間は慣れていく生き物だ。「ジュラシック・パーク」の衝撃も、ピーター・ジャクソン版「キング・コング」に至っては、ごく当たり前のように感じてしまったものだ。今回の「300」では、やれ映像革命だとか新しいビジュアル体験だとかいう宣伝文句が踊るが、私には毛色の変わったアニメにしか見えなかった。この映画がアメリカを筆頭にした白人達の国で大いにうけたのは、映像うんぬんの問題ではないのは明らかだ。自分達の勝手な基準のみで、見た目がきれいなものは善であり、見た目が醜いものは全て悪であるという図式は、大昔から全く変わらず根付いている思想の顕れなわけで、観る人によっては実に不愉快な気分にさせられる映画でもあるに違いない。ジョージ・ブッシュが自信満々に言い放つ悪の枢軸発言の裏には、そうした人間の本質が垣間見られる。歴史とは、勝ち組によって書き記されていく栄光の道程だが、そこには王道から全く外れた負け組達の足跡も少なからず残されているものだ。そういった物には必ず{謎}とか{不思議}とかいった言葉が冠される事になる。人が自分の理解の範疇を超えてしまったものに、好意的に接するのは実に稀である。ありのままをありのまま受け止める事が出来ないからこそ、そこに歪みが生じて必ずどこかに隙間が生れてしまう。人間の歴史とは、その隙間に無理矢理に理想という名のパテを塗りこんでいく作業に過ぎないのかもしれない。
 「300」が当初期待していたほどのワクワク感もドキドキ感も与えてくれなかったのは、技術革新は人間に感動を与えてくれるものではない事を示している。日本人にはこの映画の面白さはピンとこないものに違いない。ワールド・カップの試合でブラジル対イタリアの試合を観戦する日本人のようだ。確かに素晴らしい試合を目撃していて、それなりの興奮も驚嘆も味わえるのかもしれない。しかし日本対第三国の試合にみられるような、烈しい一喜一憂など望むべくもない。映画も同じである。アメリカや他国で大ヒットしたという事実が日本でそのまま通用するには、国や文化や歴史を越えた根源的な裸の心が必要となる。わけのわからないスパルタの掟に、諸手を挙げて歓迎するほど日本人の歴史はまだまだ短くも薄くもないに違いない。


   「 300 」                   2007     アメリカ
 監督   ザック・スナイダー
 主演   ジェラルド・バトラー       ロドリゴ・サントロ

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://kaigaramax.blog57.fc2.com/tb.php/100-24304ffd
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

ホームページ アフィリエイト レンタルサーバー 1GB!FC2ブログ(blog)FC2管理用