Perfumeの音楽は、中毒を引き起こす効果を秘めている。私は購入していないので全曲について知っているわけではないが、多分ほぼ完璧に近いクォリティーを持った作品に仕上がっているのではないだろうか?日本のポピュラー・ミュージック史上に、また一つ歴史的名盤が登場しました。と、邦楽のCDを2、3枚しか持っていない私が言うのもどうかと自分でもちょっと思いますが(笑)よく知られる数曲だけを聴いても、とにかくとてつもなくPOPであるのは間違いがない。MTV他で連日のように流されるPVについつい目が・・・。特に「チョコレイト・ディスコ」と「シークレット・シークレット」の二曲は凄まじい。誰かCDプレゼントしてくれないものだろうか?欲しいなぁ、聴きたいなぁ、と切実に思う今日この頃である。だったら買えばいいじゃんと当然人からは言われてしまうわけだが、それはそれどうしても自分で金を払って買う気はしない。
そもそも私はここ数年間、ほとんどCDを購入しない生活が続いている。物に対する興味というのが、何故か突然私から失われてしまったからだ。それまではとにかくCDコレクターだった私は、CDショップだけでは飽きたらず、中古盤屋から怪しい海賊盤ショップまで足繁く通っては、大枚はたいてCDを買い集めていたものだ。今では不思議で仕方ないが、とにかく買い集める事が無上の喜びであったわけだ。これはやたらめったらブランド品を買い集める人にも通じるものなのかもしれない。とにかく一回聴いて、これはつまらんと以後全く蓋を開けないCDすらたくさんあった。勿体無い話である。我ながら、馬鹿だったとしか言いようがない。正直、今その処分に頭を悩ませていたりもする。全部パァーと捨ててしまえばいいのは分かっているが、中には愛着のあるアルバムも少なくない。もともと好きな音楽だったのだから当たり前である。今でも当然好きな音楽でもある。最近ではコンポがいかれてしまったので、埃まみれのPS2がほそぼそと音楽再生機として機能している始末。本に関しても同様だ。名残りとして某中古本屋で100円の本を買っては溜まったら売るという行為が私にはある。しかしこれらの本は、別にどうしても欲しくて買い集めているわけではない。たまに本好きだねぇとか言われる事があるのだが、私は答えに困る。正直、本が好きなわけでは全くないからだ。本は私の時間潰しの道具として機能している。電車での移動中とか、ちょっとした空き時間を埋める方法として、私はたまたま本を選んでいるだけだともいえる。実際、本当に読みたい本というのは、某中古本屋ではまず手に入らないし、そういう本にしても買うのを控えたり、図書館にあるのであればそれが一番だとさえ思うのだ。大体何度も何度も読み返す本など、世の中にどれだけあるというのだ?本もまた一時の時間潰しの手段でしかない。なんかもう死んじゃうみたいだな、怖い怖い。
私達は一人の例外もなく、限られた時間しかもたされていないわけだ。生まれた瞬間から死を迎えるまでの時間の長さは人それぞれだが、限られているという点では誰もが一緒なのだ。最近また同じような手段で自ら時間を止めてしまう人が後を絶たないようだが、これは実に勿体無いなぁと私は考える。この先どんだけ生に執着したって、たいしていい事はないよ。それは全くその通りだとは思う。けれどついつい笑わずにはいられない出来事も、これは必ずあるわけだ。しかし、それにはどうしても必要なものもある。それは人ではないだろうか?自分以外の誰か。ごく近くにそういう人がいないのであれば、世界中逃げ回ってみるのはどうだろう。この世界には何十臆という人間がいるわけで、一人ぐらいは絶望しているあなたを笑わせてくれる人がいるのではないか?もちろん、これは現実的な話ではないのかもしれない。金がなければ生きて行けない(何も出来ない)社会というものが肥大化すればするほど、人間の生は窮屈になっていってしまう。食料自給率が非常に低い日本という国は、その一点だけ見ても、はっきり言って人が生きていく社会としては失敗作以外の何物でもない。私達は外見だけみれば世界でも例がないほど裕福なのかもしれない。ではその内面はどうなのか?何でもあるというのは、何もないのと同義であるわけだ。私達は道を間違えた。今更姑息なその場しのぎを繰り返す政府に、どれだけの人が明日を夢みる事が出来るのかは定かではないが、その亀裂はいつだって末端から少しづつ表れてくるものだ。痛風は苦しいよ。もう歩けないくらいに痛いわけだから。自ら手を下すのが怖いから、他人をあやめて然るべき機関で処置してもらうなんていうのは言語道断である。しかし、一億分の一の例外とは、絶対に思ってはいけないのだろう。大きな病とは時に気づいた時には手遅れという場合が多々ある。それは常に深く静かに進攻していくものだからだ。腐ったみかんの方程式は、長髪のがにまた教師が闊歩する世界にだけ通用する定義では毛頭ない。エコロジーにしてもそう。エコだエコだって世間はやかましいが、本当に皆がエコロジーの大切さに気づいた時は、遺憾ながら人類が滅びる事が明らかになった時でしかないと私は思わずにはいられない。京都議定書にしたって、第三国で技術を提供してCO2を削減した分もポイントとして加算しましょうみたいな、ああいうインチキはいい加減やめたらどうなのかね。ガソリンの値段が上がるの下がるのって右往左往しているのも、目に見えるものにしか興味がないとしか思えない。政治家で一人ぐらい、業務用以外の乗用車は全面禁止にしますぐらい言ってもいいんじゃないの?自動車産業が崩壊するって?何万何千人が路頭に迷う?上等じゃないですか。国民全員の税金を収入の半分にでもして救済してあげましょうじゃないか。それぐらいの覚悟は当然必要じゃないの?という話である。常識の範囲内だけで話をしろというのは、時に人の可能性を大幅に削減してしまう場合だってあるのだ。
最近の日本の流行歌を耳にすると、一昔前のポピュラー音楽の存在を意識せずにはいられない。この世は大いなる円環によって成り立っている事の証明でもあろうか?単純にプロデューサー連中の好み(自らの音楽体験も含め)が露出しているだけかもしれないが、とにかくどこか懐かしい響きを感じずにはいられない。Perfumeの楽曲にも、明らかにそれはある。どの世代がこのグループを支持しているのかは定かではないが、もしかしたら30代以上の人こそが秘かに盛り上がっているのではないかと、ついつい感じてしまうのである。温故知新的なアイドル臭がどうしても離れない。日本にもかつてテクノ歌謡が流行った時期があった。沢田研二の「TOKIO」やジューシーフルーツ、イモ欽トリオの「ハイスクール・ララバイ」なんてのもあった。アメリカのハウス・ミュージックから派生したテクノの波は、日本では歌謡曲と密接に結びついた。日本のテクノは世界とは隔絶した部分でのみ進化したと言っても過言ではないのかもしれない。Perfumeはそのテッペンに突如として浮上したわけで、可愛らしい若さ溢れる女の子三人組というのも、いかにも日本らしい。この音楽の心地よさは、実はこの女の子達にプラスになるのかどうかは微妙である。誰もが薄々気付いているに違いないが、この音楽はこの三人でなければならなかったという部分が希薄だ。これだけの完成度を示してしまうと、次のハードルはあまりにも高いという現実もある。過去を振り返っても、こういう売れ方をした場合は短命に終わってしまう事例が多いので、Perfumeというグループ自体のファンである人はこれから大変かもしれませんね。頑張って支えて上げてもらいたいものです。もっとも、この間某歌番組で拝見した時には、随分とまぁキャラが立っていたので、実は得体の知れないポテンシャルを帯びた三人なのかもしれません。エコロジー関連のCMがきっかけとなって売れたわけですし、どうせならエコロジーとは何かを世界に知らしめるミューズにでもなって頂きたいものです。エコロジーは短命なブームでは決して終わらせてはいけない、人類の命運を賭けた問題であるわけです。エコが単なる金儲けの道具にしかならないのだとしたら、悲しいよねぇ。人間ってそんなもんですか?
「 GAME 」 2008 日本
歌と出演 Perfume
よく分からないけど、何となく最後まで飽きもせずに観てしまう映画というのがあるが、「4」は久し振りに出会ったそんな感じの映画であります。監督はイリヤ・フルザノフスキーという人らしい。知りません。全く知りませんねぇ。って、長編デビュー作らしいです。世界の映画界から注目を浴びるロシアの新星かぁ。それはまた凄いなぁ。ロシア本国では上映禁止になったが、世界中の国際映画祭で新人監督賞を受賞したと書いてあります。大変仰々しい感じがします。それにしてもロシアというのは変わった国ですよねぇ。本国では禁止でも他国では良い(のかどうかは分からないが、少なくとも上映はされる)という作品がやけに多くありませんか?一体ロシアではどんな映画が連日上映されているのでしょうか?大変興味があります。アジアの国々では、結構アメリカ産のドンパチバリバリ映画が実は人気があったりするように、ロシアでも主に上映されているのはハリウッド印ばかりだったりしたらそれはそれで面白いですねぇ。というか、ロシアにおける映画のポジションというものは果たしてどうなっているのでしょうか?謎ですねぇ。映画なんかよりバレエやサーカスの興行を観る方がポピュラーだったりしたとしても、私なんかはさもありなんと納得してしまいそうであります。う〜ん、考えれば考えるほど不思議でなりません。やっぱりロシアは、まだまだ近くて遠い国なんですねぇ。そんな事をしみじみ感じさせてくれます。
ロシア(かつてのソヴィエト連邦も含めて)映画といえば、誰でも思いつくのがアンドレイ・タルコフスキーなわけです。何だかんだ言っても、映画好きであればこの人はある種通過点(人によっては終着点)であるわけでしょう。ここ日本でもタルコフスキーという名前は、水戸の御老公の印籠に近いものがあります。私も若かりし頃ちょっとはまってしまった覚えがあります。とにかく片っ端から観ていましたねぇ。何よりも押し付けがましくない所が素晴らしいですね。タルコフスキーの映画を観る喜びというのは、たまの休みに散歩に出かけて近所の土手に腰を据えて川の流れをぼんやりと見ている時の充足感に似ています。「鏡」以降の作品群は特に、単純明解な寓話としての側面が陰を潜め、月並みでありきたりな(映画としてそれは必ずしもマイナスとは限らないが)感情操作を促される事を期待して観てしまうと肩透かしをくらう場合もあるのだろうと思われます。言い換えれば、より{自然}に近づいた映画とも言えます。深い森に足を運んで、森の木々達に{お前ら、何考えてんだかわかんねぇよ}と怒る人がいたとしたら、それはやっぱり変ではないですか?強風に傘を折られて、{お前、何しとんじゃボケぇ}と口走った時に、風が{えろうすんませんなぁ}と答えてくれる事はありえないのです。{自然}は、いつだって何も言ってはくれません。私たちがそこから何を感じるかは、一人一人の心の囁きでしかないのでしょう。無論、タルコフスキーにも自身の確固たる思考はあるのでしょうし、それがあるからこそ力強い映像が生まれているのは間違いありません。が、タルコフスキーは決してそれを押し付けないのです。タルコフスキーをして難解だという意見には、従って私は賛成しかねます。例えば、タルコフスキーの作品に頻繁に登場する{水}の描写についても、人々はそこに意味や象徴をはめ込もうとしてしまいがちですが、タルコフスキー自体はそれについて何の意味ももたせてはいないと答えています。自分が育った地域は雨が多かったので、場面に雨が降っているとしても私の中ではそれが自然なんだというわけです。考える前にまず行動。頭で考える事は無限の蟻地獄に陥る事もしばしばです。自分なりに何となくこう思った。それでいいのではないでしょうか?百人の人間がいたら百人の捉え方があってしかるべきだと私は考えます。それが人間であり、それが自然の姿です。芸術とはある特定の人だけに与えられた特権ではないはずです。まだタルコフスキーを観た事がないという人がいたら、ぜひとも観て頂きたい。特にどれがお勧めというのも、私にはありません。タルコフスキーに関しては、どれを選んだとしても間違いはないでしょう。それがタルコフスキーの巨匠たる由縁に違いありません。作為的に難解さを圧しだした様な下衆な作品も最近はありますが、そんなものとはレベルが違う心地よい優しさが、タルコフスキーの作品には溢れています。
そして、期待の新人フルザノフスキーは、タルコフスキーと同じ学校の後輩として映画の基礎を学んだようです。もちろん時代も違えば(もう国名からして違うし)育ちも違うわけで、別にタルコフスキーの後継という感じは、その作品からは微塵も感じられません。何というか確実に映画映画しています。他国の映画も、以前とは比べ物にならない位鑑賞が出来るようになったのでしょうか?何となくかつてのソヴィエト映画にありがちな独特な雰囲気もあまり感じられません。こんな所にも世界のグローバル化の兆しは表れているのかもしれません。それが良いのか悪いのかは、微妙な所ではありますが。
「4」という映画を包んでいる空気は、とても重たいものがあります。登場人物全ての目が、とにかく深く澱んでいるようにさえ見えてきます。私はここにフルザノフスキーという人の若さを感じずにはいられませんでした。まぁ実際何歳なのかは知りませんが、きっと30前後なのではあるまいか?フルザノフスキーという人は(勝手な推測ですが)きっとロシアという国から、一刻も早く抜け出したいのではないのでしょうか?ドイツから抜け出してハリウッドで{これがハリウッドだ}的作品を嬉々として連発する、ローランド・エメリッヒとは当然違う意味でですが。もしこの映画で描かれているモスクワの街が、実際のモスクワの空気を忠実に再現してしまっているとしたら、私だったらやっぱり逃げ出したい気分になりますね。だから上映禁止なのでしょうか?ロシアって、そんなにやばいのか?三人の登場人物は、それぞれ絶望と悲しみを見事に体現しています。この生活、どうにかならないのと、心の叫びが痛いほど伝わってきます。この監督は、もう間違いなく実力がありますね。深夜のバーに見知らぬ三人が偶然顔を揃えて、お互いの素性を隠してホラを吹きまくる導入部から、それぞれのその後の結末まで、特に大きな起伏があるわけでもないのに飽きさせる事もありません。その各々の結末もまた、この映画に一貫して流れる雰囲気を見事に表現しています。お先真っ暗だけど、映画は逆に能天気に俺が俺が的な感じに溢れている日本とは全く違うのりですな。これがお国柄というやつでしょうか?とにかくこの映画を観てしまうと、ロシアの他の映画がもっと観たくなってしょうがないです。もしかしたらフルザノフスキーだけが究極のネガティブ君なのか、それともロシアの映画監督全員がもうどうしようもなくネガティブ君にならざるを得ない状況なのか?事と次第によっては、これは由々しき事態なのかもしれません。まぁ個人的には、遥かに我が国の方が心配ですけど。そうではないか?
「 4 」 ロシア 2005
監督 イリヤ・フルザノフスキー
主演 マリーナ・ヴォフチェンコ セルゲイ・シュヌロフ
ユーリ・ラグータ
「ハリー・ポッターと賢者の石」や「ロード・オブ・ザ・リング」の大ヒットがもたらしたファンタジー・ブームも、最近では急激に冷え込んでお寒い状態になりつつあるようです。熱しやすく冷めやすいというのは、人間のごくごく普通の感情の機微を表す言葉と言えます。私はこの手の映画も昔からせっせと見続けてきた一人ですが、実はこの二大ファンタジー・シリーズにはどうも熱くなれなかった口なのです。「ロード・オブ・ザ・リング」を最初に観たのは、飛行機の中だったのを憶えています。ちっこい画面にイヤホンで観る壮大なファンタジーは、単なる時間潰しにもならないと思わせる程、私を退屈させました。無論、劇場の大画面で鑑賞したとなれば、映画の印象も天と地ほど変わっていた可能性は十分にあるのですが、結果として私が「ロード・オブ・ザ・リング」三部作を劇場で観る機会は一度も訪れませんでした。もともとトールキンの「指輪物語」を読んだのは、私が中学生の時だったと記憶しています。字がちっちゃくて、おまけに翻訳がどうも好きになれなくて、この長大な冒険小説は私を何度も何度も挫折に追い込んだわけで、苦労して読み終えた後に本を投げつけたんじゃなかったろうか?{読んでやったぞ、この馬鹿野郎}状態であります。内容がどうのこうのという問題では既になかったわけで、私はそれ以来「指輪物語」は避け続けてきました。世界中でチャールズ・ディケンズなんかとタメを張る程のこの人気小説が、ここ日本ではあまりフューチャーされていないのは、私は翻訳に問題があると思っています。小説に限らず海外の物を日本に紹介するには、この翻訳という問題は切っても切れない間柄であるわけで、それによってどんだけ優れた物が屑に変化したのかを思うと、なんまんだぁなんまんだぁであります。このように{出会い}というのはその後の人に及ぼす影響はもの凄く大きい。人間同士の間でも、初対面での印象が全てを左右してしまう場合が当然少なくない。一目惚れでポーッとなってHしちゃったらすぐ捨てられて泣いたとか、生理的に嫌とか言ってたのに長い事知り合っている内になんか離れられなくなったとか、ドラマ同様ありえない事が平気で起こるのが実人生の面白い所で、ここで重要なのは初対面が良かろうが悪かろうが結果は決まらないという一点に尽きる。世の中決して諦めてはいけないのではないか?ただし一つ言えるのは、中途半端はダメだという事。悪ければ悪い程、良ければ良い程、その結末も劇的になるというものです。ごく普通というものは、最初から最後まで空気のように誰からも忘れられる薄〜い存在でしかない悲しい印象しかもたらさないものなのです。みなさん、もっとはじけて人生生きてみてはいかがですか?まぁそれはそれとして、「ロード・オブ・ザ・リング」三部作は、やたらめったら長くて飽きるという点を除けば出来自体はそんなに悪く言う程のものでもなく、暇なら観たらええんちゃう的な映画として私の中では地位を確立しています。
一方、「ハリー・ポッター」シリーズは、二本目で確か観るのを止めてしまいました。もうとにかく{つまらない}というより{くだらない}映画としか、私には思えなかった。これは映画の出来がうんぬんというよりも、多分に個人的な嗜好性が問題なのかもしれません。実を言うと私は「オズの魔法使い」も「E.T.」も、{観ちゃいられない}と途中で思ってしまった人種なのです。「E.T.」なんかは、スピルバーグの最高傑作の一本と誰かが持ち上げても私は納得します。万人に好かれる映画の最良の部分を集めた、とてもよく出来た映画だと思う所もあるからです。「オズの魔法使い」も音楽は素晴らしいし、とにかく場面場面が愛らしく、心に残る映画100本のリストの常連であったとしても当然でしょう。この映画を好きという人に悪い人はいないのではないか?とすら思ってしまいます。けれど、いざ観るとなると退屈なんですよねぇ。これはもう理屈じゃないです。「ハリー・ポッター」シリーズはまだ続いているのでしょうか?小説はもう完結したんですよね?というか、いまだに熱狂的なファンというのが日本に存在しているのでしょうか?まぁ当然いるのでしょうね。私がいまだにRAINBOWというロック・バンドを支持しているように、「ハリー・ポッター」に血眼になれる人もいて然るべきです。お互い頑張りましょう。宮崎駿の最高傑作は「となりのトトロ」だと知っているのに、「もののけ姫」が最高だと自分を押し殺して人には言ってしまう人みたいにはなりたくないものです。そうではないか?好きなものは好き。それは全然恥ずかしい事ではありません。世の中何事もお互い様ではありませんか。
で、「エバーラスティング 時をさまようタック」は、個人的には割りと好きな映画です。相変わらずの邦題のアホさ加減には吐き気さえしますが、その恥ずかしさを抑えても観て欲しい映画の一本でもあります。映画が始まると同時にディズニー・ピクチャーズとでっかく出てきますので、そこでかなり落胆される方もいると思われますが、そこもぐっと我慢しましょう。というか、ディズニー映画にも名作はごまんとあるわけで、これもこちらの勝手な先入観でしたね。どうもすいません。幾多のディズニー映画同様、そこにディズニーと表示されているからには、この映画にも当然かなりの制約が含まれているわけで、物語自体も映像表現的にもかなり{ベタ}な作品ではあります。まぁしかし、笑いのネタでもそうなんですが、{ベタ}というのは私は必ずしも悪い言われ方ではないのではないかと思います。だって、みんなが基本的に大好きだからこそ{ベタ}なわけでしょう?専門家チックな人達が、お前のギャグは{ベタ}なんだよと知ったかぶりして若手を批評したりしますが、あれはどうなんでしょうねぇ?{ベタ}だから新鮮味がないとか驚きがないとかいうのは、個人的には的外れだと思うのですが。映画にしてもそれは同じ事なのではないでしょうか?それを言ったら、映画なんてもう何十年も同じ事の繰り返しでしかないわけです。こんな映画今までなかったとか、そう思った人がいたとしても、それはただ自分が知らなかっただけで、実際には探せばあるわけです。映画の面白さとか善し悪しというのは、本来そういうものとは別の位置にあるものです。
かつてあの藤子・F・不二夫氏が自身のSF短編マンガに対して、このSFとは{少し不思議な}の略ですと申しておりました。いやぁ目から鱗ですね。私がファンタジーという言葉に抱いていたイメージとは、まさにそれで別に{夢と魔法の世界}だけがファンタジーではないわけです。「ロード・オブ・ザ・リング」のような異世界の戦争映画も、「ハリー・ポッター」のようなマジカルな青春映画もいいですけど、よりファンタジーを感じるのは本来「エバーラスティング」のような映画なのではないでしょうか?テイスト的にはリチャード・マシスンの原作を映画化した知る人ぞ知る(少なくともかつてはそうでした)「ある日どこかで」的な雰囲気を持ったこの映画は、映像に優しさが溢れているようです。どこにでもある世界に不老不死の家族がいました。ただそれだけの舞台設定に、淡々とした物語が紡ぎだされているだけの映画ではあります。それこそ凡百と存在する超能力者の悲哀であるとかと、全くもって逸脱する部分のないありふれた映画として片付けられても仕方がない映画なのかもしれません。{死を恐れるのではなく、無意味な生を恐れなさい}という言葉は、それこそロメロが「ゾンビ」で描いていた主題ともリンクします。これは、今私達が現実に突きつけられている人類の問題にも直結する提示でもあります。
ファンタジーという言葉の本当の意味は、誰もが心の中に隠し持っている小さな思いなのではないでしょうか?誰かによって癒されたとか、誰かによって優しくなれたと感じた瞬間、私達はその人に魔法をかけられたのに違いありません。そしてこの「エバーラスティング」という映画も、あなたの心に小さな小さな温かさを運んでくれるはずです。
「エバーラスティング 時をさまようタック」 2002 アメリカ
監督 ジェイ・ラッセル
主演 アレクシス・ブレデル ジョナサン・ジャクソン
宇宙、それは最後のフロンティア・・・。
あまりにも有名な「宇宙大作戦」のオープニングの文句である。ロサンゼルス市警として勤務するかたわら脚本家としての道を模索した男、ジーン・ロッデンベリーの企画・制作の下、1966年に放映開始されたこのTV番組は、新世紀を迎えてもなお新シリーズが制作されるという未曾有の成功を収めた作品群のオリジナルである。スポンサーが降板した為にわずか3シーズンで幕を閉じたこのスペース・オペラは、熱狂的な信奉者(もちろん世界中のトレッキーズに決まっている)に支えられ、アニメになり映画になり、ラス・ベガスのホテルの目玉となるアトラクションになったりと、いまだにその人気は衰えを知らない。かつてSF小説を何故か大量に買い漁っていた時代のある私にとっては、ハーラン・エリスンやセオドア・スタージョン、ロバート・ブロックにリチャード・マシスンといった大御所作家がこぞって脚本を書いていた事で心躍らせていた番組(無論再放送ではあるが)の一つであった。
人類初の試みとして5年間の宇宙調査に旅立った宇宙船エンタープライズ号の冒険を描いたこのドラマは、宿敵クリンゴン星人との対決や未知なる物との遭遇などいわゆる凡百のSF活劇作品と大差ない物語の連続であったにも関わらず、それらとは一線を隔した部分があった。それが人間ドラマとしての側面であり、カーク船長やミスター・スポックに代表される名キャラクターを生み出し、その絶妙な会話の楽しさや血の通った人間臭さが人々の心を捉えたのは想像に難くない。ようするに、外見はSFだろうがホラーだろうが、人間を描いていない作品は不特定多数の人々から支持される事は難しいというわけだ。ただSFは取っ付きにくいとかホラーはどうもとか言って端から鑑賞リストから除外をする人が世の中には腐るほど存在するが、これはとっても勿体無い事ですよ。
例えば、デ・シーカの「自転車泥棒」やチャップリンの諸作品に黒澤の「生きる」なんかは実に素晴らしい映画であるわけです。私も本当に好きな作品だし、心もぐわんぐわん揺す振られたもんです。一方、ロメロの「ゾンビ」やホークスの「リオ・ブラボー」なんかも私は大好きなわけです。「生きる」と「ゾンビ」、「ゾンビ」と「生きる」、こっちが「ゾンビ」でこっちが「生きる」どっちが名作?なんて問われると、ややこしやぁ〜ややこしや〜と私なんかはなってしまうわけです。どちらも映画としての面白さはテッペンまで行ってしまっている作品であるのは間違いありません。この二つの映画作品としての価値は、同等であると強く言いたい。どっちが上なんていうのは、もうつまる所その人が他人からどう見られたいかによるのではないかと思われます。これは面白いですよ。映画大好きだけどホラーだけは絶対に見ないと豪語する人は、私の周りにも結構います。そんな時私は{はは〜ん}と思うわけです。また、ホラーとか大好きでついつい見ちゃうと言う人も、私の周りには何人かいます。そんな時も私は{はは〜ん}と思うわけです。先の{はは〜ん}と後の{はは〜ん}は同じ{はは〜ん}なのか、はたまた違う{はは〜ん}なのか、そして{はは〜ん}の意味はとかそんな事はどうでもいい事で、私だけが知っている{はは〜ん}でいいわけですが、言葉が違っても人それぞれ自分の{はは〜ん}は必ずあるのでしょう?違いますか?これはコミニュケーションの第一歩であります。そうやって人は糸口を見つけて、その人と自分の立ち位置を決めていくわけです。よく別れの理由に{言葉が足りなかった}という文句がありますが、あれは当たらずも遠からずだと私は思います。人は言葉のみで意思を通じ合うわけではありませんから。人は自分すら欺いて生きていく生き物なのです。毎日毎日朝から晩までベッドでくんずほぐれつしていたからと言って、その人達が自分の本音をさらけ出しあっているわけではありませんよね。さらけ出し合っているのは、お互いどんだけエロいか(笑)という事だけです。どんだけ言葉を吐き出した所で、別れる二人が発するのはお互いを罵倒する文句だけでしょう?本当に必要なのは言葉ではない。今、社会から消え去っていこうとしているものは、一体なんなのでしょう?何故{KY}なんて言葉が流行ってしまうのか?これは非常に興味深い、そしてとてつもなく重要な、現代を読み解くヒントのような気がしてなりません。
映画によって人生を知る。これは、実は繰り返しによる人の心を読む練習なんだと私は思います。映画には様々なキャラクターがいて、それぞれの役割を与えられて銀幕の中に生きています。はっきり言って反復練習なわけですから、現実の人間よりも遥かに単純な作業です。映画によってはあまりにも分かり易〜い登場人物もいるわけです。そんな時私達は、キャラがどうのこうのと文句を言ったりします。要するに、簡単過ぎては練習にもならないと怒っているわけです。映画をあまりにも観すぎると、妙に凝り固まった屁理屈ばっかりの小難しい映画ばかり評価するようになったりします。そういう人には、映画なんか忘れて現実の不特定多数の人間ともっとコミニュケーションをとって気分転換する事をお勧めします。それっていい大学に入る為にやたらめったら勉強するのに似ていませんか?それが楽しくてしょうがないから勉強するという人は、社会に入ってからも大いに役に立ち、また人生の助けになってくれますが、目的が大学合格の為でしかないのなら、それは無駄でしかありません。入学と同時に次々と忘れていく知識とは、何て切ないものでしょう。もちろん無駄が個性を作り上げるというのはごもっともな話ですが、みんながみんな同じ記号やら数式やらを覚えてもねぇ。だから無個性なんて言われちゃうんじゃないの?小学校中学校辺りまでの勉強は絶対必要ですよ。それぐらいは並ぐらいにはやるべきだと私も思います。きちんと一からやっていれば大して難しい事でもないわけですし、それすらおろそかにするのは単なる怠慢でしょう。ただそれと同時に、もっと興味のある事柄にも積極的に触れさせてあげるのが親の務めなのではないのでしょうか?子供は親の宝です。と同時に、社会の宝でもあるわけです。子供がおかしいと言うのであれば、それは大人がおかしいからに決まっているのではないのでしょうか?
「FREEDOM」はカップ・ヌードルのCMでもコラボされている、オリジナル・ビデオのアニメーションです。このカップ麺というのが、個人的には一度も美味しいと思った事がない最悪の食料品だと思うのですが、まぁそれはいいでしょう。最近は値段も上がっているみたいだし、この際失くしてしまえばいいのに・・って、しつこいですね。アニメーションについては個人的にいろいろ思う所もありまして、日本の一部の作品?については発禁にしたっていいんじゃないのとも考えますが、アニメーション自体は別に嫌いではありません。むしろ子供の頃は大好きでした。私は特にアニメの主題歌が好きで、古〜いアニメソングに限って言えばほとんど歌えると豪語しても(う〜ん。かつてはかな?)いいでしょう。話の中身は知らなくても、主題歌は歌えるというのがたくさん(ほとんどという説も)あります。っていうか、ありましたかな?もう随分とアニメを見なくなって久しいですが、たまに息抜きに見るのにアニメというのは実に都合がいいです。アニメは所詮絵なので、鑑賞しているのがとても楽という効能があります。ぐだぐだと述べた反復練習にはほとんどなりませんが、この楽さ加減が何とも言えない心地よさを与えてもくれます。「FREEDOM」の美術はとてもカッコイイですね。一枚の絵としてみれば、外国のSF映画の美術なんて屁みたいなもんかもしれません。物語的には特に新鮮味もない感じですが、絵が好みというだけでこれだけボーッと見てしまえるわけですから、物語なんていうのはやっぱり映画の核ではないのではないかと私は再認識させられました。もともと{映画は脚本だ}という意見には懐疑的(もちろん良いにこした事はないが、更に言えば{映画は主題だ}という意見よりよっぽどまし)になってしまう方なのですが、何しろ絵が好みというだけで「FREEDOM」に関してつまらないという意見が自分の中で出てこないのが論より証拠というか、かくかくしかじかというか。とにかく何も考えずリラックスして観れるこの手のアニメはいいよねと、思う次第であります。
で、自由!自由!ってみんな言うけど、自由って何なんでしょうねっていうのが誰しも思う事なんだと思うのですが、この「FREEDOM」をボーッと観ていて私が思った自由なんですが。自分が生きていく上で、誰の為に命を懸けられるのかっていう選択の自由が、人間にとっての自由って事なのかなぁと漠然と思ったりしていました。それが自分の為でしかないとしたら、それはもの凄く不自由で悲しい事なのかもしれません。
「FREEDOM」 2006 日本
監督 森田 修平
出演 タケル アオ
謎というのは、人を引きつける重要な要素である。時に魅力的であり、時に畏怖さえ覚えるこのキーワードは、映画の題材に於いても常に巧みに利用されてきた。映画が何故これほどまでに愛されているのかの答えも、つまるところここに集約されるのかもしれない。では、映画が最も語り続けてきた謎はなんなのだろう?それは人間の心に違いない。他人の心はおろか自分の心さえ正確に読み取る事が出来ないもどかしさを、私達は日々の生活の中で幾度となく体験させられている。知らないからこそ知りたい。分かったような気もするし、ますます分からなくなっていくような気もする。人間の心とは、人類にとっての永遠の、そして最大の謎である。映画百年の歴史は、その事を雄弁に伝え教えてくれる最良のテキストに他ならない。
毎日のニュースを見ていると、この国はよく潰れないものだなと妙な感心を抱いてしまう。これだけ明白に「貧乏人はさっさと死んでくれ」と繰り返し繰り返し叫んでいる政府というのは、世界にも、否、世界の歴史を振り返っても珍しいのではないだろうか?その政府を支えているのは、日本人と呼ばれる私達国民なわけだ。この数年で国民の意識は変化したのだろうか?私の知り合いの中には、自分の給料明細を確認しないという人が何人かいるが、ここ数年でどれだけ控除される金額が増えているかというのもどうでもいい事なのだろうか?まぁそれが本当に私達自身の為に役立っていると確信がもてるのならば、更に税金が倍増したからといって文句を言う筋合いではないのかもしれない。どう考えたって、今の何倍も税金を払わなければ、私達の未来の安心はもう得られようがないのは事実なのだから。けれど極論で言えば、私達は「払うもん払ってさっさと死んでくれ」と言われているのに(一部の裕福な国民の方々には当てはまらないだろうが)等しいのではないか?何故こんなにも日本という国は冷静かつ平穏に毎日が過ぎていけるのだろう?どこかの国で公然と人権侵害を受けている民族がいたとしても、別にそんなの関係ねぇというのは分からなくもない。何故ならもう何十年も日本人はそうやって生きてきたのだから。今更子供の頃から植えつけられてきた思想?が、そう簡単に覆ると思うほうが不思議だ。来る十年後、この国がどうなっているのかは考えたくもない事ではあるが、食料もない資源もない生きがいもない何にもない何にもない全く何にもないという事態に直面して初めて、これってやばくねぇと気づくほど馬鹿にはなりたくないものだ。と言いつつ、それが人間なんだよなぁと教えてくれるのもまた幾多の映画が示す人間の姿であるのも忘れてはならないのだろう。なるほど人類の歴史を顧みてみれば、それは遺憾ながらとほほな現実の連続でもあるわけだ。人類は生れてからこのかた、アホでなかった試しがないのかもしれない。これほどまでの進化を遂げた人類が、いまだにお馬鹿で居続けているのは究極な謎と言えるのかもしれない。もちろん、お馬鹿だからこそ人生は楽しいというのも紛れもない事実・・・、なんだよね?
さて、「サークル」はクロップサークル(日本ではミステリーサークルという呼び名が定着している)についてのドキュメンタリー映画である。70年代から90年代にかけて大変な話題をさらったこの世界の謎は、現在では人為的に作成された物であるというのが通説になっている。自分達が作った物に対して、英国政府が税金を投じて調査を開始すると知ったダグとデイヴの二人が、そんな事に大量の税金が使われるのは忍びない(さすがイギリス)と正体を明かしたという顛末をご存知の方も多いのではないでしょうか?実際この二人組の老人が、正体を明らかにした後に秘密裏に作成したクロップサークルを、サークル研究家達がこぞって本物と判定したという後日談もある。現在では無数のサークル作成グループの存在も確認されており、クロップサークルは表向き世界の謎から省かれてしまうという憂き目を負っているようだ。これは最も世間の注目を浴びていた90年代と比べて、最近ではめっきりその出現数が激減している事実からも信憑性が高い。ようするに誰も騒いでくれないものを作っても、面白くもなんともないという人間の心裏の表れでもあるわけだ。日本でも一時期はニュースにまでなっていたのを覚えている人も少なくないだろう。今ではCGによるインチキ映像と判明している{サークル出現の瞬間を捉えた映像}は、特別番組まで組まれたものである。その手の番組にやたら顔を出す某大学教授は、サークルはプラズマ現象による自然現象であると実証してみたりした事もあった。これはこれで見事にプラズマによるサークル形成の可能性を示したものであり、プラズマ説と悪戯説で、現在までに確認されているほとんどのサークルは解明されるとするのも分からなくもない。ただし、何事にも例外は存在する。サークル研究者にもまだ一縷の望みは残されているようだ。自然現象なのか、人工的な産物なのか、E.T.によるメッセージなのか、はたまた大国の兵器実験によるものなのか?いやぁ、人間って本当にいろんな事を考えるものではありませんか。このどうでもいいような事に一生を捧げる狂気ともいえる熱意が、人類の歴史を楽しくもし、お馬鹿にもしている要因である。しかし忘れてはいけないのは、こういう一見常識外れな想像力が、人類の未来に多大なる貢献をもたらしてきたのは、枚挙に暇がない事実であるという一点だろう。今の日本人はどうだろう?どんなに人から後ろ指を指されようと、突拍子もない自説を懸命に信じて努力を惜しまない人物は、一体どれだけいるのだろうか?それがたくさんの人を騙し、巻き込み、金儲けの道具にして、悲しい事件を引き起こす負の要素と化す側面を持っているのも確かではあるが、今そこにある常識の範囲内だけに留まって生きる事は果たして人類の未来に何をもたらすのだろうか?
日本の悲惨な現状は、常識の停滞による弊害なのかもしれない。あまりにも自己の現状に固執するあまり、人々は人としての成長を拒絶しているのではないだろうか?今が一番幸せであると、誰が言えるというのだ?常識とはいつの時代も多数決であるという事実は、同時に人には常識を覆す力がある事を示している。人間とは本来お馬鹿な生き物である。だからこそ人間は愛すべき生物足りえるのではないか?人間は常に不完全な生き物である。だからこそ人間は、明日を夢見て生きていけるのである。
「サークル」に出演する人々は、かなり一方的な理想に目を向ける人々の集合体であるのかもしれない。彼らは大いなる存在の知性を感じ、人間の未熟さを語り、人類存続に向けてのメッセージをそこから感じとっているようにも見える。それは困った時の神頼みにも似てはいないだろうか?人類の未来を変えられるのは人類だけである。そうではないか?勝手に繁栄して勝手に滅びていくような愚者達に、宇宙の高度な知性を持った者達が関心を示すとは私にはどうしても思えない。人間にとって、蟻は蟻でしかないではないか。サークルが教えてくれるサインとは何なのか?自分のケツは自分で拭きなさい。まぁいいとこ、そんなもんなのではあるまいか?
「サークル」 2002 アメリカ
監督 ウィリアム・ガゼッキ
出演 ミステリーサークルにとり憑かれた愛すべき人達
まず驚かせられるのは、入場者数の少なさではないだろうか?映画館ってこんなに閑散としてたかなぁと、目がぱちくりしてしまった。映画という媒体の衰退はもはや留まる所がないように思われる。ここ数年、日本産の映画が大変人気があるという情報を目にする機会が増えているのだが、これが映画館というものの価値を著しく低下させているのは想像に難くない。一方、家電量販店に足を向ければ、大画面大画面と実に景気がいい。ちっちゃい家に住んでいる事の反動なのだろうか?家庭で自分なりの創意工夫によってミニシアターを完成させて楽しんでいる人も少なくないようだ。映画を鑑賞する場として、映画館よりも自宅を選択する人が増えてきたという事か?あまりにも人間が増えすぎてしまった結果、誰もが不特定多数の人間に拒否反応を示すようになって久しいが、また一つ大きなコミニュケーションの場が世界から姿を消すのかもしれない。もはや入場料金を単純に下げるといった程度では、この状態を打破するカンフル剤にすらならないのだろう。人はいつだって失ってからでないと、本当の価値に気付かない生き物なんだね。
そんな感じなので、上映開始からまだ間もない「クローバーフィールド」という話題作を、実に優雅にゆったりと鑑賞する機会を得た。巨大なスクリーンを、両手両足の指で数え上げられる程の人数で貸切状態である。この手の映画の鑑賞に際して、それなりの人数による熱気と猥雑間がもたらす効果というものもあるわけで、少々寂しい気分すら覚えるのだから我ながら勝手なもんである。ミニシアターとかで満員の中の鑑賞は、怒りすら覚えるのにねぇ。何だかなぁ。やはり人間には適度な空間というものがあるのでしょうねぇ。
「クローバーフィールド」は怪獣映画である。この紹介の仕方は、正しいとも言えるし間違っているとも言えるでしょう。何故なら、この映画は怪獣が出現しなくても成立する映画だからです。巨大都市がパニックになるという状態さえ再現出来れば、それこそ自然現象でもテロリストによる破壊活動でも宇宙人襲来でも何でもいいわけです。「ゴジラ」という怪獣映画の金字塔を生み出している我が国では、むしろ飽きられて久しい題材とも言えるでしょう。実際、アニメやらマンガやらで、同じようなシチュエーションを私達は繰り返し繰り返し見せられています。思い返してみれば、日本という国は怪獣やら何やらにとにかく襲撃されまくっている国なのです。平和ボケなんて言葉が一昔前に流行りましたけれども、子供の頃からそんなものばっかり見せられてきた日本人という民族は、心のどこかで襲撃というものに慣れさせられてしまっているのかもしれません。その発端が大東亜戦争での敗北がもたらした結果だとはいいませんが、日本人はどこか突然の圧倒的な襲撃により壊滅しかかった状態から、不屈の精神(そのほとんどが愛と勇気に支えられています。言い換えれば目くそ鼻くそに支えられているわけです)で勝利を勝ち取るという話が大好きなようです。負けじ魂親譲り、でしょうか?そのせいもあってか、「クローバーフィールド」はここ日本では大した宣伝もありませんでした。要するに「またか」的な映画なわけです。
この映画の売りは、主人公グループが手に持っているビデオカメラの映像のみで全編を押し切るというスタイルで映画が成り立っているという、いわゆるモキュメンタリーというか偽ドキュメンタリーのスタイルで構成されている点にあります。それによる制約も随分とあるわけですが、とにかく徹頭徹尾それを貫き通した点は立派です。まぁ企画段階で、始めにそのお約束ありきだったのでしょうから、当たり前と言えば当たり前ではありますが、人間はついついちょっとだけ例外を作ってしまうものですし。従って、場面を盛り上げる音楽なども当然ありません。これは実は凄い事なのかもしれませんが、正直眠くなった場面も多々ありますし、とにかく単調と言えば単調な映画でもあるわけで、やはり極端な制約というのは一長一短があるのは否めません。ほとんど意味もなく小型の怪物がわらわらと出てくる場面もあるのですが、あれもあまりにも起伏がない映画の為に苦肉の策として出してしまったのでしょうが、私的には???です。あんなもの物語上全く必要がないものですし、安易に逃げずに不必要な物を出さないという決意のもと物語を進めて頂きたかったと思うのですがどうでしょう?最後に暴れている怪物をきっちりと映してあげるのも「ファンサービス」という点では当然なのでしょうが、一映画ファンとしては無くてもよかったカットだと思います。何しろ怪獣映画でなくてもいい映画なのですから。わけのわからないまま、わけもわからずに終わるというのも一興なのではと、ついつい考えてしまいます。それが通用する唯一のスタイルでもあるとは思いませんか?観ている方の中には、怪獣そのものの姿とかをきっちりと見せてくれないと納得出来ないと主張する人ももちろんいるでしょう。製作者サイドとしても、作ったものは人に見せびらかしたいという欲求はあって然るべきですが、そこをぐっと抑えて見せないものは見せないとした方がいい場面もあるはずです。今回の怪獣お披露目にも私は、ベッドインしたら分厚いパットに誤魔化されていたと気付いた瞬間のあの切ない気持ちを感じました。まぁどっちでもいい事ではありますが。どっちにしろやる事はやるわけだし。結果的には、それが満足度を決定的に左右するというものでも当然ありません。が、人間知らなくていい事というのは多々あるわけですよね。たまには、そうやって観客の見たい部分を徹底して見せない映画というのもありなのではないかと思うわけです。
新感覚・新発想のアトラクション型の映画という振れこみもあるようですが、もちろんそれは嘘八百です。この映画に新しい発想など皆無です。偽ドキュメンタリーの手法という点で「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」なんかを思い出した人もいるでしょうが、私はあの未曾有の大ヒットを記録した「食人族」を思い出しました。映画中映画という手法により、公開当初この映画はまるでノンフィクションのように錯覚していた(そう仕組んだのはもちろん配給会社の作戦である)人も多かったのではないでしょうか。未開のジャングルの奥地に行方不明になったジャーナリストをTVレポーターが捜索に行くというこの馬鹿げた話は、カニバリズムというある種のタブー(それ自体は人類の歴史上、何の目新しさも実はないが)を扱った点でここ日本では大いに観客を集めた。残酷・残虐・臓物ぐちゃぐちゃ映画が大好きな日本人の映画鑑賞の歴史においても、このイタリア製の悪趣味なエンターテインメント映画の存在は燦然と輝いているではないか。それに比べて、「クローバーフィールド」に客が集まらないのは何故か?時代も変わって人の意識も洗練され、誰もが品行方正に文明人としての自我を確立しているからか?もちろんそうではない。ようするに、「クローバーフィールド」は日本人にとってはもう飽き飽きした甘っちょろい映画だという事だ。この手のジャンルであれば、日本のアニメやマンガの方が遥かにグロテスクであり、ショッキングであり、えげつなく破廉恥極まりない所まで既に入っちゃってしまっているわけだ。恐るべし日本人。これは果たしていい事なのか悪い事なのか?その答えは既にちらほらと見え隠れし始めているのかもしれない。
願わくば「クローバーフィールド」が斬新で新しい発見に満ち溢れた映画だと感じる人が、ここ日本でたくさんいる事を祈ります。
「クローバーフィールド HAKAISHA 」 2008 アメリカ
監督 マット・リーブス
主演 マイケル・スタール=デヴィッド
オデット・ユーストマン
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