DARK TALE OASIS

主に映像作品にふれて、思った事を書いていきます

スーパーニヒリズムな男 グラハム・ボネット「MONSTERS OF ROCK」他を思う

  ロック・ヴォーカリストとして一番好きなのは一体誰なのかと聞かれて、グラハム・ボネットの名前を挙げる人というのは、世の中にどれだけいるのでしょうか?
 そもそもグラハム・ボネットって誰なんだ?そういう人もたくさんいるでしょう。リッチー・ブラックモア、マイケル・シェンカー、イングヴェイ・マルムスティーン、スティーブ・ヴァイというかつてギター・ヒーローと祭り上げられた名うてのギターリストと苦楽を共にした経験を持つこのヴォーカリストは、あまりにも過小評価されているヴォーカリストの一人ではないのだろうか?少なくともレコードの溝に刻まれた記憶だけで辿れば、グラハム・ボネットの歌唱力は頭抜けている事に嫌でも気づかされるに違いない。RAINBOWの「DOWN TO EARTH」で受けた衝撃は、グラハム・ボネットによってもたらされたのではないか?何故マイケル・シェンカーは、発表当時既に脱退していたグラハムの歌声を、自身の歴史の中に永遠に残さざるをえなかったのか?若きイングヴェイ・マルムスティーンが自身の輝かしい出発点の相棒として、ロニー・ディオではなくグラハム・ボネットを何故選んだのか?その答えは本人達の数あるインタビューの中にあるに決まっているじゃんと言う方がいるとしたら、それはあま〜いのだ。大体彼らが正直に率直に真実を語っていると本当に思っているのですか?そんな事は絶対にありえないと、私は断言しますね。真実はいつもすぐ目の前にあるのです。さぁ今すぐ中古CDショップに駆け込んで、Rainbowの「ダウン・トゥ・アース」を、MSGの「黙示録」を、Alcatrazzの「ディスタービング・ザ・ピース」を購入して、店の前で封を切りCDプレイヤーで聴いてみましょう。凄いです。とにかく凄いです。何がって、グラハム・ボネットがです。聞いているこっちの方が、ついつい青筋をこめかみいっぱいに立ててしまいます。思いっきりメーター振り切れちゃってます。よく死なないですね、こんな歌い方して。これらのアルバムをグレートな作品にしているのは間違いなくグラハム・ボネットであり、一度でも聞いてしまうと、もうグラハム・ボネット以外のヴォーカルは考えられないほどのインパクトがあります。確かにどれもこれも同じ様には聞こえてしまいます。しかしそれは、それだけグラハム色に染まってしまっているからとも言えるでしょう。ギターのフレーズだとかアレンジとかも、全然記憶に残らないかもしれません。しかしそれは、それだけグラハム色に染まってしまっているからなのです。恐るべしグラハム。レコードだけに限ってしまえば、もしかしたら最強最高のロック・ヴォーカリストなのかもしれません。ところが世の中うまく出来ているもので、グラハムの神通力が威力を発揮するのは、誠に残念ながらレコードの中だけに留まってしまいました。グラハム・ボネットは歌詞を覚えるだけの記憶力を持っていないのではないか?そういう疑問を抱いた方がいるとしましょう。遺憾ながら、大筋でそれは的を得ています。グラハム・ボネットは実は肝心な所で音痴なのではないか?そういう疑問を抱いた方もいるかもしれません。誠に誠に遺憾ながら、大筋でそれは間違ってはいないのかもしれません。グラハム・ボネットはやたらに暑がりなのではないか?その通り、グラハムはいつだって Too Hot な男なのです。実は露出癖があるのではないか?何かあるとすぐ笑って誤魔化すのではないか?観客の(時にバンドの)空気が読めないのではないか?バンドのフロントマンとしてはにやけすぎではないのか?観客に無理難題を押し付けすぎなのではないか?ジェームス・ディーンに似ていると人に言われるのが、三度の飯より好きなのではないか?ついついぷらっと仕事をほっぽり出して家に帰り過ぎなのではないか?女の趣味が悪いのではないか?あんだけ油ぎった歌い方のくせに、実は野菜しか食ってないのではないか?などなどなど・・・。誠にもって遺憾ながら、きっとその疑問は全て当たってしまっているのかもしれません。ふふっ、何か笑っちゃうね。いいぞ、グラハム。
 ビーチ・ボーイズやビートルズが大好きで、もともとビージーズの曲なんかを取り上げていたマーブルズなる中堅デュオで音楽界に彗星のごとく現れたグラハム・ボネットは、オーストラリアでまずそこそこ売れました。その後ソロに転身、この頃からグラハム・ボネットの出戻り体質は完全に出来上がっています。疾風のように現れて、疾風のように去っていくとは、グラハム・ボネットの為にある言葉に違いありません。以後、ソロ活動、RAINBOW参加、ソロ活動、MSG参加、ソロ活動、Alcatrazz結成、ソロ活動、インペリテリ参加、ブラックソーン参加、フォースフィールド・プロジェクト参加、誰も知らないソロ活動、日本でのいくつかのお仕事、と多伎に亘る音楽活動の合間合間には、必ずと言っていいほど短期(時には思いがけない長期)の隠居生活が欠かせないようです。あれだけ素晴らしい歌唱力を持っているのですから、次から次へと仕事が入るのはこれは当然な事なわけで、その多様な音楽活動は間違いなくグラハム・ボネットのヴォーカリストとしての才能が優秀である証拠にもなっていると思われます。問題は、どれもこれも長続きしないという点で、想像するにきっと人間性に重大な欠陥があると予想されます。きっととてつもない変人なのでしょう。さもなければ、とてつもない変人達の世界にあって、あまりにも普通過ぎたのかどちらかだと思われます。どちらにしろ、グラハム・ボネットはその圧倒的な実力を持て余してばかりで、大成功の人生を歩めなかった稀代のヴォーカリストという不名誉な烙印を押される哀愁たっぷりの男であると言えそうです。しかしながら、このままロック史からつまはじきにさせておくのは、勿体無いなぁと私は思うわけです。何故って、それはやっぱり好きだからでしょう。
 グラハムが歌う名曲の数々は、ハード・ロックとしてはもの凄くポップなものが多いと思われがちですが、実はそうでもありません。RAINBOWを例に挙げてみても、「All night long」や「Since you’ve been gone」なんかがグラハム期の代表曲としてピックアップされるわけですが、あのアルバムのハイライトは「Eyes of the world」以外には考えられません。グラハムの歌唱も、前記の二曲では多少力入り過ぎによるどっちらけムードが随所に顔を出していますが、「Eyes 〜」でははまりにはまった歌声が楽しめます。本人曰く、自分はハード・ロックは好きではないみたいな発言もかつてはしていました。ビーチ・ボーイズ等のポップなロック・ミュージックを好むからこそ、自分もポップな曲を歌いたいみたいな希望も分からなくもありません。そりゃ好きな曲を好きなように歌って金が儲けられれば、それにこした事はないわけです。が、ようするにグラハム・ボネットという人は、自分の資質を見抜けなかった悲しい夢追い人であったというのは、その人生が如実に示しているようです。ヴォーカリストでありながら、ヴォーカリストとしての自身の特性に最後まで背を向けた生き方しか出来なかった所に、グラハムの失敗の全てがあるのではないでしょうか?グラハムのソロ作品の幾つかは、とても愛聴出来る代物ではありません。曲自体の魅力に乏しいのも致命的ですが、自身の特性に逆らった楽曲ばかりがラインアップされているのがつまる所最大の要因ではないのでしょうか?晩年のソロ作品には、実は自身の特性に遂に気づいたとおぼしき節が見受けられますが、時既に遅しというわけで、歌唱力の衰えと楽曲の魅力のなさの相乗効果によって、もはや誰も聴かない(聴けない)作品になってしまっているのがとても残念です。
 昨年、グラハムがAllcatrazz名義で来日公演を敢行した事を知っているのは、もう頭髪に白髪が目立つかつてのロック少年少女だけなのかもしれません。私は迷いに迷って、遂に会場には足を運ばなかったわけですが、行ったら行ったでそれなりに楽しめたのだろうなとも思います。けれど、グラハム・ボネットの真の実力は、遠い過去の幾つかの作品にのみ永遠に刻まれていると知っている以上、敢えて行かない道を選んだのもありなのだろうなと信じてやみません。グラハム・ボネットはCDの中に封じ込まれた永遠の魔人であります。その破壊力を、一人でも多くの方に楽しんでもらえたら、一ファンとしてこんなに嬉しい事はありません。
 久し振りにグラハムの雄姿を、ブラウン管で立て続けに観てしまいました。Rainbowの「モンスターズ・オブ・ロック」も、Alcatrazzの「メタリック・ライブ」も「パワー・ライブ」も、そこそこ楽しんで観る事が出来ました。リッチーもコージーもやたらカッコいいじゃないですか。イングヴェイもとにかく生意気そうないい顔をしているし、スティーブ・ヴァイは無茶苦茶気味悪いなぁ。後年、横浜アリーナでホワイトスネイクの一員としてステージに立っていたヴァイを観た時のあの生々しい気持ち悪さを思い出しました。光陰矢の如し。私の好きなバンドは、もうみんなお爺ちゃんになってしまいました。ま、それもいいじゃないですか。老いてなお現在を生き抜く力を見よ。人は誰でも年をとる。ノスタルジーに浸るのも悪くはないさ。何故なら、それは私の生きた証でもあるわけだから。
 ありがとう、グラハム・ボネット。今はまた、隠居中なのかい?


   「モンスターズ・オブ・ロック」            1980        イギリス
      RAINBOW   
   「アルカトラス メタリック・ライブ」         1984         日本
      Alcatrazz
   「アルカトラス パワー・ライブ」           1985        日本
      Alcatrazz


「それでもボクはやってない」・・・を思う

  そもそも人間は平等ではないし、社会的地位のあるなしや単純に金のあるなしで、人の評価なんてのは簡単に変わってしまうものなのだ。世界というものも本来は虚構に近いもので、人は自分に身近な行動範囲内だけのごくごく狭い領域でのみ存在しているに過ぎない。日本には一億数千万人もの人口がいるが、個人にとってほんの一握りの人間を除いた残りの一億数千万人は実体のない数字でしかない。ようするに、日本中で起こっている様々な出来事というのは、99%近く他人事に過ぎないわけだ。例えばTVのニュース等で世の中の出来事を垣間見て、私達は勝手に物事の善し悪しを便宜的に次々と処理していくが、TVというものは多分に作為的であり一方的な物の見方を押し付ける場合が多々あるのだという事実を、ついつい疎かにしてしまいがちだ。隠蔽や虚偽はこの国ではもはや当たり前になってしまっている感は充分あるし、絶対的な正義だの愛だのといった妄想が広く人々にまとわりついているのも必ずしも良い傾向だとは私には思えない。自分の身になって考えろとよく言われるが、実際はこれがなかなか難しいのではないか?他人の事は所詮他人の事でしかない。今日も世界中の至る所で、何の非も持たないと思われる人が、泣き、喚き、死んでいったりしている実情について、私達は知っているのにも関わらず無視して生きていくわけである。それは別に悪い事でもなんでもないのだろうし、ごくごく自然な状態であるのは間違いない。ようするに、世界が違うのだから。
 痴漢冤罪を描いた「それでもボクはやってない」という作品は、数ある日本映画の中でも屈指のホラー映画に違いない。主人公の受ける処遇に大きな違いはあるが、主人公の身に起こる一連の行為は、ナチスに無理から連行されて強制的に収容所に詰め込まれてしまった人々と何ら変わりがない。しかも戦時中の特殊な時代背景に引き起こされた悲劇とは違って、まさしく今そこにある危機を描いているわけだから、その臨場感たるや半端ではない。男である以上、こういった事件にいつ何時巻き込まれても全くもって不思議ではないわけだから。そしてこの事態を更に陰湿化させる原因が、痴漢が性犯罪だという事実だ。この性犯罪という言葉には、状況も何もあったもんじゃなく、とにかく一方的に男が悪いという図式が成り立ってしまう恐怖がある。なるほど男たるもの一部の例外はあったとしても、みんなエッチな事が大好きである。けれど、本当はこれは男に限った事ではなく、女だってエッチが大好きなわけだ。いや、むしろ男よりもエッチな事ばかり考えてるんじゃねぇの?と思わずにはいられない現実がある。食欲と性欲は人間の人間たる二大関心事であるのだから、これに男女で差があるなんて、やっぱりあり得ないのではないでしょうか?食わなきゃ人間死んでしまうわけで、エッチしなきゃ種として滅亡してしまうわけです。これはもう生物としての本能の何物でもありません。世の中グルメに現を抜かしているのはどちらかと言うと女性なのではないですか?春になれば女性の服装は如実に大胆になっていくわけですし、本来生物としての人間の結婚適齢期であるはずの女子高校生に至っては、年がら年中発情した格好を好んでいるわけです。ファッションというもののそもそもの目的を考えれば、結局行き着く所は只一つに他なりません。人にどう見られるかが、これほど重要な事と認識されている国が世界にどれほどあるのでしょうか?そしてティーン・エイジがそれを如実に臆面もなく表現する事を、社会全体が容認している国が?
 そろそろ性に対するイメージの向上を、真剣に考えなければいけない時期なのでしょう。痴漢という事態をそもそも許しているのは、社会の目に他なりません。みんながみんな見て見ぬ振りをする現実があるからこそ、そもそも成立する犯罪なわけです。男も女も、そろそろどうでもいい嘘八百は全て曝け出して、生物として率直に性を開けっぴろげにしてみたらどうなのでしょう?世界に冠たる日本の成人ビデオにおける、あのモザイクとかって、そもそも必要なんでしょうか?むしろ必要以上の興奮を引き起こす為にしか作用していないのではないでしょうか?それって実は精神的に逆効果なんじゃないのかね。何故誰もが持っている当たり前の部位を、頑なに隠す必要があるのか?その根本的な思想が、そもそもエロいんじゃないのかい?日本人は世界でも以上なほど変態的にエロい人種なのかも知れない。ではその国民性を生み出したのは何なのか?そこにこそ、痴漢撲滅のヒントがあるのではないですか?それが達成不可能な事態なのだと言うのなら、例えば電車は全部男専用と女専用の車両に完全に分けて頂きたいと、個人的には切に望みます。大体混雑する都心部の電車なんていう物は、ひっきりなしに十分間隔辺りでバンバン来るのだから、男女交互にしか乗れないようにするとか。やるなら、それぐらいきっちりやらないとダメでしょう。やってくれ、頼むから。中途半端にモラルにかこつけるなんてのは、本当に止めて頂きたい。大体、この国にどれだけ高尚なモラルが存在するのか?そんなの街歩いてりゃ分かるでしょうに。ある意味では、もうとっくにモラルなんて崩壊してるんでしょ、この国は。
 ところで、この「それでもボクはやってない」という作品が訴えかけているテーマは、当然痴漢撲滅ではないでしょう。痴漢犯罪は最も身近でありふれていて、尚且つ分かり易いというのが取り上げられた要因の一つなのでしょうが、同時にここ日本では性的なものを絡めた方が幅広い層に訴えかけやすいという単純な発想もあるのだと思われます。もっと硬派な犯罪に材を取るよりも、痴漢冤罪のような軟派な犯罪の方が遥かに人を呼べると推量出来るわけで、それはそれでなんだかなぁ感を覚えずにはいられません。それでも、この映画はそうする必要があったと見るのが妥当です。製作者側からすれば、一人でも多くの人に観てもらいたい理由があるわけで、なりふり構ってはいられないのでしょう。何故なら、日本の裁判というものが、もうすぐ未来に大きく変貌するからに他なりません。
 私達は、ある日突然、わけのわからない隣人に裁かれなければいけない事態に陥る可能性があるわけです。
 冤罪なんて、日常茶飯事になる可能性があります。刑罰にしても、不当に重くなったり軽くなったりする可能性があります。重くなれば被告にとって不利益だし、軽くなれば原告にとって不利益なわけで、どちらも見逃すわけにはいかないでしょう。この映画が示している通り、現在でさえもうわけがわからん判決がまかり通っているこの国に、更なる混乱が舞い込んできます。何故突然そうせざるを得なかったのかという理由も重要でしょうが、それ以上にこの国のモラルが心配にはなりませんか?私はそこが一番怖い。出来るなら、とっとと南の国へでも移住したいです。それでなくてもこの国の現実を連日連夜TVで見せつけられているのに、これに対してほとんど興味を持っていないかのように見えるこの国の大人達が怖くて仕方ありません。
 あなたは、どういう理由で人を殺せるのですか?
 あなたは、どういう理由で人の自由を奪えるのですか?
 あなたは、どういう理由でその判決を素直に受け入れられるのですか?
 日本国政府と法曹界がこの変革を安直に楽観的に考えているように見えてしまうこの時点で、この変革が抱える問題の大きさと私達自身に押し付けられた危険性の大きさは、もはやチョモランマを遥かに越える頂へと積み重ねられているように思えてなりません。
 「それでもボクはやってない」
 そう思いながら生きていく事に、一体どれだけの人が耐えられるのでしょうか?決して他人事ではないはずですよ。そうではないか?


   「それでもボクはやってない」         2007      日本
  監督   周防  正行
  主演   加瀬  亮          役所  広司   

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