シド・ヴィシャスの名前は、今では伝説的なパンク・ロッカーの代名詞にもなっている。映画「シド・アンド・ナンシー」で描かれている男の姿は、破壊的でありナイーブであり、悲劇的な人生を歩む以外に道がなかった不安定な男のイメージを与えてくれる。彼はもともとは、ただの熱狂的な(というか、この時点で伝説的な)バンドの追っかけであったのは有名だ。そのバンドとは言わずもがな{セックス・ピストルズ}であるわけだ。1970年代の後半、ニューヨークでこじんまりと産声を上げつつあったロックの一つの形が、イギリスに飛び火をした。ピストルズのような音楽性を持ったバンドはシーンに既に存在していたわけだが、パンク・ムーブメントを世に知らしめ世間を敵に回して悪名を全世界に轟かせたのは間違いなくセックス・ピストルズであり、その意味でパンク・ロックと言えばピストルズというのは、何ら問題はないのだろう。パンク・ロックの兆しは、グラマラス・ロックと呼ばれたバンド達の中にその芽があるというのも今では通説だ。もっと遡ってザ・キンクスというイギリスを代表するロック・バンドという言葉にぴったりの大物バンドにまで触手を伸ばす人もいるようだ。またルー・リードが在籍するヴェルベット・アンダーグラウンドを中心としたニューヨークの混沌からも当然目が離せない。とにかくピストルズの登場によって浮上したパンク・ムーブメントは、ピストルズの消滅によって一つのジャンルと化した。この時点でのパンク・ロックのイメージとして思い浮かぶのは、まずロー・テクであり、次にアナーキズムであるわけだ。ロックという音楽が汎用性を帯びてポピュラー・ミュージックの一つの巨大な母体となりえた時、若者達がこぞって楽器を振り回して大音量で演奏を始めた。しかし演奏技術というのはそう易々と身につくわけではもちろんなく、彼らに出来たのはスリー・コードで適当に突っ走るしかなかった。煽動する歌詞に、暴力的振る舞いによって、技術云々という次元を飛び越えたエネルギーは、誇れるものが何もない若者達を熱狂させた。その世代が持つ鬱屈した心のもやもやを代弁する居場所を見つけたと言ってもいい。そこで一番重要だったのは、音楽というよりはファッションだったと言い切っても過言ではなかろう。{セックス・ピストルズ}はメンバー随一の音楽的才能を持っていた(そのレベルもたかが知れてはいるが)であろうグレン・マトロックを追い出して、二代目ベーシストにシド・ヴィシャスを迎える。そのルックスとファッションが決めてになったのは言うまでもない。何しろシド・ヴィシャスはベースが弾けなかったわけだし、実際ピストルズの演奏時にシドのベースから垂れているシールドがアンプに繋がれる事はただの一度もなかったとさえ言われている。シドはベースを観客に対する武器として振り回し、ひたすら興奮を煽る役目を負わせられる。正にバンドのVICIOUSを一人で請け負う大任を無理矢理押し付けられた格好だ。このステージ名を付けたのはジョニー・ロットンであり、後に彼は{彼の性格から最も対極にある名前を付けた}とインタビューに答えている。その言葉通り、実際の生身のシド・ヴィシャス(ジョン・サイモン・リッチー)は、ひたすら臆病で気の小さいだけの男だったと言われているし、ステージ上ではジョニーと共に人気を二分するヴァイオレンス・ヒーローであったのとは裏腹に、舞台裏ではひたすらジョニーのいじめに晒される毎日を過ごす、単なるいじめられっ子だったようだ。そんな弱弱しい人間を、凶暴なヴィシャスに変える力を与えたのがドラッグだ。重度の麻薬中毒患者であったシド・ヴィシャスは、21歳という若さでこの世を去っている。一人の人間が伝説になるには、それだけの代償が必要だったわけだ。
若者達が熱狂する世界で伝説として語られるのには、若くして死ぬという事実が切っても切り離せないのはご存知の通り。死というものが人々に突きつける衝撃の大きさは、その人気が絶頂であればあるほど、その死が惨たらしく突然に訪れるほど、そこに様々な謎を残し幾つもの憶測が流れる余地があるほど、実に壮大で強固な伝説を産み落としていく。人間というのは、どこか人の死というものにエンターテインメント性を感じているのではないだろうか?死が人の心に永遠を焼き付けて回っているようだ。口から口へと伝えられる真実というのは、いつしか大きな妄想へと変貌していく。死んでしまう事によって、人は神に一歩近づくのだろう。死んだ人の事を悪く言うのは気がひけるという気持ちは誰にでもある。それは一種後ろめたさの裏返しでもある。人によっては心のどこかで、霊的なものからの仕返しを恐れている場合もあるだろう。天罰が下るというやつだ。そして、死んだ人間を幾ら祭り上げた所で、それは何の妬みも嫉妬も生まないというのが大きいのではないだろうか?生きていると、無制限の名声というのは与えにくいものなのだ。例えば、ザ・ビートルズにおけるジョンとポールの評価の違いというのは、そういうものと決して無縁ではあるまい。音楽界にカムバックした矢先にジョン・レノンはファンに射殺されてしまった。そして人間ジョンは、人々の中で虚像として生き続ける。いいや、ジョンの行動が云々と反論する方もおありでしょうが、その言葉を真実とするならば、ジョンが主夫として隠遁生活をしていた時期に既にそういったリスペクトが少しでも巻き起こっていたのかと言いたい。そんな事はなかったでしょ、実際。ジョン・レノンの功績はもちろん大きいし、素晴らしい楽曲をいくつか残してくれたけれども、あの衝撃の死がなければ、今現在のジョン・レノンという伝説はもっともっと小さなものだったろう事は、ポールのそれを見ても明らかだ。シド・ヴィシャスのそれも全く同じである。伝説とは人間のエゴでもあるわけだ。
「ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド」は、私の近年でのお気に入りの小説の一つである。長年翻訳もされていなかったこの小説を、一本の映画が製作される事によって陽の目を見たのだから、それはそれで喜ばしい事である。ブライアン・オールディスという名前は、最近ではスピルバーグの(キューブリックのと言ってもいい)「A.I.」の原作者として少しは知られるようになった。英国を代表する作家の一人でもあるわけだが、ここ日本ではまだまだその名前が浸透しているとは言い難い。「地球の長い午後」や「グレイベアド」「十億年の宴」と何でもいいが、とにかくぜひ手にとって読んでみて欲しいものだ。がっちりと嗜好が一致した人ならば、きっと素晴らしい至福を味わえるに違いない。少なくともここに、それを体現した人間が一人いるのだから間違いない。
映画の方はというと、原作とはニュアンスがだいぶ違うように感じられた。構成は似たようなものだし、ストーリーもある程度まんまなのだろうが、私が感じた違和感はずばり音楽にあると思うのだ。だらだらと書き連ねたように、この映画はパンク・ロックの世界を描いているのだが、私が小説を読んだ時に思い描いていたのはもっとPOPな世界であり、例を挙げれば{ハーマンズ・ハーミッツ}とか{ホリーズ}とか{アソシエーション}とか、ようするにソフト・ロックと呼ばれるような音楽がイメージとして常に頭の中で鳴っていたわけだ。少なくとももっとサイケでカラフルな作品世界を想像していたのだが、映画は完全にドキュメンタリー・タッチでモノクロを感じさせる世界感を提示していた。これは好みの問題で済ましてしまっても構わないとは、実は私は思わない。この小説の面白さが、実は映画に反映されていない気がするのだ。オールディス自身も出演していて別に気にしていないようだし別にいいんじゃないと言われてしまえば、確かに返す言葉もない。作品としてはアーティスティックな側面も出ていて、そういうのが好きな人にはこれはこれでいいと言えるのかもしれない。けれど、小説はもっとエンターテインメント性を感じるものだし、だからこそ面白い作品だっと私は思っているという話である。まぁ何度も言っている通り、面白さという点で映画が小説を超えるのは所詮厳しいものなのかもしれない。ただし、この小説が書かれたのは1969年であり、映画では1975年に舞台が設定されているのはどうだろう?{セックス・ピストルズ}のシーンへの登場はまさに1975年なわけで、監督の意図が丸分かりだ。その辺に作品としての歪みを感じるのは、私だけではないのではないか?
結合体双生児(実は三つ子???)がロック・バンドとして大成功を収めて、その結末や如何に?というファンタジーの面白さを追求して欲しかったと、誠に残念でならない。
「ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド」 2005 イギリス
監督 キース・フルトン ルイス・ペペ
主演 ハリー・トレッダウェイ ルーク・トレッダウェイ
プラハに生れたパペット・アニメーションの巨匠・ヤン・シュバンクマイエルの名前が、今以上にこの国でメジャーになる事は果たしてあるのだろうか?
なるほど日本人好み?の変態性と悪趣味を存分に撒き散らし、何か妙に思考を混乱させるわけのわからなさは、世に天才と揶揄され差別化されている奇人達と肩を並べる存在感を示してもいる。理解不能な作品をクソと呼ぶか、わからないまでも圧倒されて受け入れるかの違いは、紙一重では決してない。クソはどこからどう見たってクソでしかない。そしてシュバンクマイエルの作品を{クソ}と呼ぶ勇気は私にはない。それは作品から溢れ出さんばかりのエネルギーを感じるからかもしれない。その根底にあるのは、監督自身の経験に裏づけされた自信の表れであり、完璧に構築された基礎の安定感が画面から伝わってくるからかもしれない。
もう随分過去の出来事のように思ってしまいがちだが、手抜きマンションの問題がまるで世界崩壊の序曲であるかのように連日TVの向こうで大騒ぎされている日々があった。最近でも薬害肝炎だの、年金使い込みだの、食品偽装だの、全世界同時株安だのと、日本国というのは本当に火だるま国家の様相であるが、次から次へと怒りの矛先がめまぐるしく変わっていくおかげで、ほっと胸を撫で下ろしている人達は相当な数存在するのではないでしょうか。とにかくその手抜き問題を例にとってみると、何事にも表からでは見えない裏側にこそ本当に重要な部分があるのだという事実は、誰でも知っていて当たり前の俗に言う常識というものなんでしょう。{人間は見た目じゃないよ、心だよ}なんて泣かせるセリフもあったりしますが、ともすれば私達はそういう常識すら一瞬にして忘れ去る能力を持っています。口では中身が大事といいつつも、みんな惚れる相手はいつだって美男美女だったりします。TVでは誰も発言しないけど、ようするに世の中全員美男美女だったら少子化問題(こうなると、必ずしもお腹の子が自分の遺伝子を持っていない疑惑が大問題になりそうだが)なんかなかったんじゃなかろうか?って、結構みんな思っていたりするんじゃないでしょうか?我が国が誇る天才の一人でもある・松本零士の作品には、美男美女だけがいい思いをして不細工な主人公が唇噛みしめて{今に見てろよ}みたいな怨念猛々しいシーンが目白押しなわけですが、それが妙にリアルに共感を呼ぶという事実が、結局世の中みんな腹の中はそう思ってんじゃんと私なんかは安心(って言うと、物凄く心象悪くする気がしないでもないが)したりするわけです。弁解ととられても仕方がない文章になってしまいそうで怖いですが、ここで私が言いたいのは、人間は見た目だけに誤魔化され易すぎる生き物だという事です。昨今の日本映画にしろなんにしろ、上っ面ばかりごてごてに派手にしまくった厚化粧お化けが実に多いのかな・・・なんて。中にはそういう難解さみたいなものがトレンドであるかのように、表面だけ偽装しまくったどっちらけ作品も濫発されてみたりしちゃうわけです。お気楽極楽ですなぁ。日本人の文化は{恥の文化}ではなかったかしら?クソがクソをしてクソったところで、クソがクソなようにクソでしかないのだからして、ばってんクソはクソ・・・って、この恥知らずが。
よく若い人が個性個性と選挙演説並みに同じ事を連呼する場面に最近出くわしたりするし、世の中の風潮として個性重視みたいなものが旗頭にされている気がなくもないが、個人的には人間そんなに変わらないんじゃないと思ってみたりするわけです。同じ生き物なのだから、例えば蟻にだって実際は個性があるのでしょうが、それは私達には窺い知れぬ違いなわけです。たった四つの血液型パターンですら、当たってるだの当たってないだのとキャーキャー一方では騒ぐのに、人とは違う私でいたいとかって何か矛盾していませんか?たった四つの分類で納得している自分と、一億数千万分の一でないと嫌だという自分が、一つの身体を共有しているわけです。そもそも人は個性的でなければいけない存在なのでしょうか?そもそも人間が一人一人世界で一つだけの花なのだとしたら、個性的でありたいと願うのは辻褄が合わないのではないでしょうか?ようするに個性個性と連呼する人というのは、自分がどれだけ個性的でないかという事実に直面してテンパっている人なのではないかと素朴に思うわけです。結論から言うと、個性というものはそもそも実に微妙な違いを指す言葉であって、表面的にぱっと見て分かる違いなんてものは個性でもなんでもないのでしょうか?個性というものは目に見えない部分にこそ存在する。そして人間は、今日も見た目に誤魔化されながら生きていく生き物なのでしょう。
天才は努力する人の事を言うというのは、もう何度も繰り返してきた私の信念みたいなものですが、天才が努力を続けた上で身につけるものは一体なんなのでしょう。知識。技術。と、まぁ挙げればきりがありませんが、つまる所自信ではないかと私は考えています。根拠があろうがなかろうが、人が成功を掴む為に最も必要な要素が、このちょっとやそっとではびくともしない自信なんだと思うわけです。{自信を持て}と、これまた頻繁に聞かされる言葉ですが、ようするに自信というものが身についていないと知っているから飛び出る言葉なのでしょう。これは一芸に秀でるものは云々という言葉でも証明されています。これだけは世界で誰にも負けないという能力を一つでも身につけている人は、何に対しても自信を持って挑む事が出来るのではないでしょうか?この自信の度合いと強度が、人間に更なる突飛な思考や振る舞いを与えるのですね。天才には奇行がつきものです。そしてその微妙に枠からはみ出した部分に、人は驚嘆してリスペクトするのでしょう。そして、上辺だけを装った奇抜さは、いつだってすぐに化けの皮が剥がされるものです。何故なら、それは実に微妙なほんの少しの違いに過ぎないからに違いありません。
この手の映画ではもはや通例になってしまったかのようですが、「ルナシー」にもまともな登場人物は一人もいません。精神病院が舞台だからなのではなく、監督の心の反映がそうさせるのでしょう。デヴィット・リンチにも似たあの感じです。天才というのは選ばれし一握りの存在なわけですから、天才の視点から見ると世の中の大多数の人々というのは一種の狂人に見えているのかもしれません。世界は狂っている。そして人間は、もっともっと狂っている。そこに監督は底知れぬ恐怖を感じているのかもしれません。そういう意味でこの映画の冒頭にわざわざ付けられた前振りは、率直に正直に映画自体を紹介しているようにも見えます。シュバンクマイエルという人は、割とどこにでもいるような{いい人}に見えてきます。個人的には作品としての面白さは???ですが、一度くらいは観て損のない映画ではないでしょうか?悪趣味で耽美で荒廃してて変態なんて、きっと好きな人いっぱいいるでしょ?一つ間違えば、シュバンクマイエルが日本でブレイクする可能性はあってもおかしくないですね。だって何か{いい人}ぽいもの。
「ルナシー」 2005 チェコ
監督 ヤン・シュバンクマイエル
主演 パヴェル・リシュカ ヤン・トジースカ
何か妙に血湧き肉踊る予告編によって、これは観なければと思わせる映画は近年少なくない。「300」もその一つだ。実際、予告編の作り方というのは、ある意味完成形を迎えている感がある。予告編の方が面白いというのは作品としては本末転倒ともとられかねないわけだが、一人でも多くの集客を考える製作・配給側からすれば、たとえ本編の面白さが多少なりともそがれようとも目玉となる部分を出し惜しみしない事が即収入につながるというのであれば、それも至極当然の結果なのだと言わざるをえない。
毎日の暮らしの中に愉しみが増え続けた結果、誰もが時間が足りないと感じているのは間違いない。あれもこれもという人々の思いが、映画に対しても確実に影響を与えている。よほどの映画ファンでもなければ、二時間という時間を絶対に無駄にしたくないという気持ちからどうしても安全牌を探してしまうのだろう。様々なメディアから垂れ流される情報のインパクトが、大航海時代の夜空の星のごとく、人々に指針を与えてくれる。あとはただ流れるままに、{人は流れに乗ればいい}というわけだ。何か大きなものの意思によって、人の行動がコントロールされているかのようだ。シネコンと呼ばれる現在映画館の本流とされている場所では、結果的にそうした情報戦争での勝ち組にしかチャンスは回ってこない。どこへ行っても同じ映画しか観る事が出来なくなっているのは如何なものか?その一方で独自の選択を志す小さな映画館は、ばたばたと潰れていってしまった。東京という都会に住んでいる人々であれば、まだ選択の余地は残されているのかもしれない。けれど、負け組みの映画ばかりを上映してくれる小屋の多くはお世辞にも映画を最大限楽しめる空間を観客に提供しているとは言い難い。以前「インランド・エンパイア」の回に書いた事の繰り返しになってしまうが、私はこのミニ・シアターが大嫌いだ。何度でも言うが、ミニ・シアターに1800円という値段を取る資格はないと私は考える。昨今ではレイト・ショー割引やらレディース・デーやらと実質的な映画鑑賞料金の値崩れが起きている。大きな都市に行けば、割安な前売りチケットがさらに安い値段で容易に手に入る。平均してみれば、もはや日本の映画料金は千円そこそこが相場なのではないだろうか?それでも世界の国々に比べれば、日本の料金は法外に高いのだから恐れ入る。映画に限らず美術館でも音楽会にしても、とにかくべらぼうに高い。「リヴァーダンス」はS席10000円とかするし、美術館の入場料だけでも高いのに隣接するカフェのエスプレッソは800円だったりする。アホか、と言いたくもなるよ。この国には文化や芸術を敷居の高いモノにしてしまう悪循環が見事に形成されてしまっている。本来最も様々な文化や芸術に触れる機会を持たせてあげるべき子供達は、オーケストラの演奏会も歌舞伎や文楽といった日本古来の大衆文化も一切合切雲の上のものとして成人していく場合が多々ある。それもそのはずで、その子供に機会を与えるべき大人達が、既にそういうモノとは隔絶して成長してしまっている経緯がある。格差社会を危惧する声を最近頻繁に耳にするようになったが、芸術や文化の視点からみれば格差社会はもうすでに完全に出来上がってしまっているのではないだろうか?バッハやシューベルトは金持ちの為に音楽を創ったのだろうか?ピカソやモネもまたそうなのか?金持ちの子女しかバレエを踊ってはいけないのだろうか?それが民主主義のあるべき姿だと言うのなら、そんなものはくそくらえだ。世界にとって本当に恐怖すべき事は、金という目に見える単位で格差が出来る事ではないのではないだろうか?心に格差が開いてしまう事。金持ちが傲慢で鼻持ちならない態度で人間に格差をつける事、貧乏人が妬みと卑屈な態度で自分自身に垣根を設ける事。そういった歪んで醜い心を子供に植え付けてしまう事こそが、世界を終末に導く巨大な力になるのだろう。つまる所世界を破壊するのは、環境汚染でも資源の枯渇でも食料不足でもなく、どこにでも存在するたった一人の子供の心なのかもしれない。
「300」は看板に偽りありの作品だ。幾度となく戦闘が描かれているが、どう贔屓目に見ても30人対300人の戦闘にしか見えない。嘘で塗り固められた作品であるのだから、せめて本当に300人対1000000人が一瞬でもいいから戦っているように見える(正確な数の問題ではなく、そう思わせる画の)場面があってもよかったのではないだろうか?CG技術の向上は、いいも悪いもなく映画をつまらなくしている要因の一つになってきている気がしてならない。これからのこの手の映画は、ようするにアニメーションとなんら変わらない物になってしまうのかもしれない。もともと特撮技術というのは、撮影不可能な部分を視覚的に補う目的で始まったものだったはずだ。特撮を特撮と感じさせずに自然にロールに溶け込ます事に重きが置かれている日陰の作業だったわけだ。それがSFXという言葉と共に、見世物小屋的な効果を独自に持ち始めた。特撮の出来不出来が、そのまま直接映画の出来不出来(面白い面白くないと言ってもいい)を左右する程の存在にもなっていった。人間は慣れていく生き物だ。「ジュラシック・パーク」の衝撃も、ピーター・ジャクソン版「キング・コング」に至っては、ごく当たり前のように感じてしまったものだ。今回の「300」では、やれ映像革命だとか新しいビジュアル体験だとかいう宣伝文句が踊るが、私には毛色の変わったアニメにしか見えなかった。この映画がアメリカを筆頭にした白人達の国で大いにうけたのは、映像うんぬんの問題ではないのは明らかだ。自分達の勝手な基準のみで、見た目がきれいなものは善であり、見た目が醜いものは全て悪であるという図式は、大昔から全く変わらず根付いている思想の顕れなわけで、観る人によっては実に不愉快な気分にさせられる映画でもあるに違いない。ジョージ・ブッシュが自信満々に言い放つ悪の枢軸発言の裏には、そうした人間の本質が垣間見られる。歴史とは、勝ち組によって書き記されていく栄光の道程だが、そこには王道から全く外れた負け組達の足跡も少なからず残されているものだ。そういった物には必ず{謎}とか{不思議}とかいった言葉が冠される事になる。人が自分の理解の範疇を超えてしまったものに、好意的に接するのは実に稀である。ありのままをありのまま受け止める事が出来ないからこそ、そこに歪みが生じて必ずどこかに隙間が生れてしまう。人間の歴史とは、その隙間に無理矢理に理想という名のパテを塗りこんでいく作業に過ぎないのかもしれない。
「300」が当初期待していたほどのワクワク感もドキドキ感も与えてくれなかったのは、技術革新は人間に感動を与えてくれるものではない事を示している。日本人にはこの映画の面白さはピンとこないものに違いない。ワールド・カップの試合でブラジル対イタリアの試合を観戦する日本人のようだ。確かに素晴らしい試合を目撃していて、それなりの興奮も驚嘆も味わえるのかもしれない。しかし日本対第三国の試合にみられるような、烈しい一喜一憂など望むべくもない。映画も同じである。アメリカや他国で大ヒットしたという事実が日本でそのまま通用するには、国や文化や歴史を越えた根源的な裸の心が必要となる。わけのわからないスパルタの掟に、諸手を挙げて歓迎するほど日本人の歴史はまだまだ短くも薄くもないに違いない。
「 300 」 2007 アメリカ
監督 ザック・スナイダー
主演 ジェラルド・バトラー ロドリゴ・サントロ
近年の日本映画に足らない物が、確実に「大日本人」には存在するのではないだろうか。とにかく自分のやりたいと思う事を、必死に考えあぐねて形にしようとした監督本人の真摯な姿が、作品として見事に昇華されている。監督本人の言葉として、「何からも影響を受けていません」という件をどこかの記事で読んだ気がするが、その言葉とは裏腹にあからさまに色々な映画の影響が窺えるのも面白い。そう言っといた方が面白いだろ、観れば全く逆であるという事が丸分かりなわけだし、という判断からの言葉であるわけだ。公開まで映画の内容を伏せておくというのも、そういう事が出来る立場の人間である利点を活かしている。それは映画を楽しむ一つの正しいやり方なわけだ。1800円を出して劇場に足を運んでくれる人の為を思うのなら、事前の予備知識なんてない方がいいに決まっている。何もかも丸出しの明るいお化け屋敷なんてありえないでしょ。少なくとも、噂で怪獣映画らしいよと小耳に挟んでから観るよりも、突然何とか獣とかって画面に出て主人公が巨大化した方が{ええぇぇぇぇぇぇ}感は楽しめるわけである。予告編だけがやたらと面白い映画ばかりが増えてしまった昨今、そういう手を使える自信の表れでもあったのだろう。公開後に何かの番組で、「何とか元は取れたみたいよ」と笑う姿も印象的だった。映画を製作した以上、一人でも多くの人に観てもらえなければ何の意味もない。どんなに評価が高くても誰も観ない映画というのは、やはり不幸だ。そして、そう言っといた方が面白いだろ、という判断からの言葉でもあるわけだ。
かつてジョージ・ルーカスが「スター・ウォーズ」の公開を前にして、いてもたっても居られずハワイに逃げ出したエピソードは有名である。自分の最もやりたい事をやりたいように形にして、それが果たしてどういう結果を生むのかという不安は、映画という莫大な他人の金が使われるビジネスでは一体どれほどのプレッシャーを人は感じなければいけないのだろうか?日本の役人のように、税金という他人の金をどんだけ勝手気ままに使いまくろうと誰も心を痛めない状況とは雲泥の差である。「スター・ウォーズ」の結果は言わずもがなだが、ルーカスの挑戦は大成功に終わった。ルーカスは巨万の富を得て、以後「スター・ウォーズ エピソード1」までメガホンを握る(製作は多々あるが)事がなかったわけだ。「アメリカン・グラフィティ」という作品が大好きだった私にとっては、この事実はちょっとした落胆でもある。「スター・ウォーズ」があそこまで巨大なマーケットを形成しなければ、ルーカスはもっともっと様々な映画を監督していたはず(根拠は当然ないですが)だからだ。スピルバーグのような演出力は望むべくもないが、「レイダース/失われた聖櫃」並み(この映画の凄さは実際並みではないが)の魅力溢れる作品をあと一つか二つは生み出していたのではなかろうか?日本国という小さなマーケットだけに限っても、「大日本人」の成功はルーカスのそれと比べ物にならないささやかな物である。それでも何かまた映画を撮ってもいいかなと思わせる程度の成功ではあったのではないだろうか?その事実は私にとっては少なからず歓迎すべき点ではある。
映画監督に金持ちのボンボンは結構いる。貧乏人が苦労を重ねて大団円みたいな図式を好む嗜好というのは分からなくもないが、芸術家とかなんとか言われる分野ではこの金持ちのボンボンというのが実に多い。そしてとても良質な作品を世に残してくれているわけだ。その恩恵はほとんどの場合、金持ちであろうと貧乏人であろうと分け隔てなく享受される。ビル・ゲイツが{残りの人生を映画製作にのみ邁進します}と宣言してくれないものだろうか?もちろん貧乏人に金を配ってという事ではなく、自らが監督をしてやりたい事をやりたいだけやるという意味である。どうせ老い先長くはないのだから、一銭も残さず一本の作品に注ぎ込むわけだ。さぞかし映画史に残る贅沢な一品が出来上がるのではないだろうか?面白いか面白くないかはさておいて、私はその映画が観て見たいと思う。けれど日本の長者番付の上位にランクされるような人が{全財産を投げ打って映画製作に邁進します}と宣言されても、何となくいい迷惑と思う気がする。この違いはなんなんでしょう?日本人というのは、そもそも日本人を馬鹿にしている民族だという部分に着目が及ぶのではなかろうか?では、そんな日本という国を客観的に見た時に、果たしてどんな世界が想像出来うるのか?その答えに最も近いリアルな映画が、「大日本人」なのではないだろうか?外国人の方々に日本という国を紹介するのにうってつけの映画足りえるのは、今現在この「大日本人」の右に出る映画などまずないだろう。
その昔、松本監督は一本の短編映画を撮っている。TVの番組の企画だったと記憶しているが、「SASUKE」というその映画はとにかく抜群に笑えたものだ。私はVIDEOに録画して、実際何度も見た。何度も笑った。あれは言ってみれば{映画の体裁を持ったコント}だったわけだ。そして今回、松本監督は{コントの体裁を持った映画}を実現した。「大日本人」という映画は簡単に言えば、くだらなくてダラダラウジウジムニャムニャしているだけの映画であるという言い方も出来るに違いない。とにかく徹頭徹尾幼稚に過ぎるきらいがある。けれどもそれはあからさまに意図的であるという証明でもあるのだろう。この映画に描かれている全ては、現在の日本という国に蔓延するムードとイメージの集合体である。そして肝心なのは、その日本という国に対しての批判でもなければメッセージでもないという点なのだと思う。ただ鏡のようにそこにあるものを映しているだけ。幼稚でキモくてだらしなく弱く優柔不断で自分勝手で曖昧なものいいに終始するが、技術は凄くて頭も悪いわけではなくなんだかんだと伝統に囚われつつどこか憎めないあいくるしい部分をも持ち、ひたすら孤独な人達が住む世界。昨今の血が一滴も流れていない人形が愛だの涙だのとわめき散らすだけの作品とは、桁外れに違うリアルがこの映画には存在する。結末が何だかわからない感じでグダグダと終わる部分も、まさに現在の時間を象徴しているかのようではないか。映画は終わったのではなく、リアルな時間へと解放され融解していくのだ。
「大日本人」には訴えかけてくるものが何もない。そういう意味で、非常に観客を突き放している映画である気がする。あなたは日本人であるという事実に対して、くだらないとそっぽを向いて目をそらしますか?日本という国にどうしようもない怒りを感じますか?冷ややかに別にどうでもいいんじゃないと平然と受け流しますか?こんな世界を待ってたんだよ、実に素晴らしいと手を叩き高田純次しちゃいますか?全ての意見が正解であり間違ってもいるのかもしれない。私達はそういう世界に生きているんです、きっと。
来年消えるお笑い芸人ランキングなんて醜いものまで、この世界には存在しています。海パン一つで日本中を笑いの渦に巻き込んだ素晴らしい方もランキングされていました。あまりにも強烈なインパクトを持った完璧な笑いというのは、芸人さん達にとってはのどから手が出るほど欲しいものでもあり、反対に自分自身の芸人としての寿命をあまりにも儚くする両刃の剣であるというのは、もはや誰でも知っている事実なわけです。松本監督が「大日本人」で挑んだ笑いとは何だったのでしょう?もしかしたらこの映画は、数十年後にはカルトと化して伝説になる可能性もあるのではないでしょうか?少なくとも私にとっては、ここ十年の日本映画で初めてそう思わせた映画でありました。
「大日本人」 2007 日本
監督 松本 人志
主演 松本 人志
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