DARK TALE OASIS

主に映像作品にふれて、思った事を書いていきます

なんだかなぁ「コンサート for ジョージ」を思う

 ジョージ・ハリスンは世界一幸運なギターリストであり、と同時に世界一不幸なミュージシャンでもあるわけだ。
彼が生涯ミュージック・ビジネス界の第一線で作品を大した苦もなく発表し続けられたのは、間違いなくTHE BEATLESという看板あってのものだろう。その人柄でミュージシャン仲間に愛されたのも、結局は元ビートルズの一員という肩書きが威力を持っていたのは否定出来ない。生涯の大親友であるエリック・クラプトンにしても、ジョージの最初の妻であるパティを巡る愛憎劇などが結果的に深い絆を生んだと言っても過言ではないのではなかろうか?エリック・クラプトンが、ミュージシャンとしてジョージに一目置いていたとは考えにくい。客観的に言えば、ジョージ・ハリスンぐらいの才能は当時のイギリスには腐る程いたのだから。
 ジョージのギターテクニックについて、日本において三大ギターリスト(何を根拠にしているのかは定かではないが)と呼ばれている方々が当時コメントを残している。ジミー・ペイジ曰く「ジョージのギターは冗談みたいなもんだ」、ジェフ・ベック曰く「ビートルズのギターは僕が弾くべきだった」、エリック・クラプトン曰く「ノー・コメント」と、にべもない。実際、後期のビートルズにおけるナイスなギター・プレイを取り上げてみても、弾いているのはクラプトンであったり、ポールやジョンであったりするわけだ。では、ジョージはビートルズに不必要なメンバーだったのかと問われれば、こと音楽的な面に限って言えば、私は全くその通りであると思っている。ジョージ・ハリスンがビートルズに提供した曲を全て取り除いても、ビートルズの評価は変わらないに違いない。人間関係としてはどうだったのか?と言われても、それは何とも言えないわけだ。ジョージとリンゴだからこそグループは成立したとも言えるし、もっと技術的に優れたミュージシャンがジョンとポールを支えていれば違った作品が残されていたのだろうが、それが現在ある成功を収めていたとは限らないだろう。人間関係の亀裂がグループの解散を早めるのは、歴史上証明されつくしているし、集まった個々の才能が高ければ高いほどエゴは飛躍的に高まるのも事実だ。そしてもう一つ人間の心理を考えると、ジョージの存在は微妙にビートルズの人気を影で支えたとも言えるに違いない。ずば抜けた才能を持ったポールとリーダーとしてカリスマ的存在であるジョン、コメディアンとしてのリンゴが人気を集めるのは必然だが、最も普通で目立たない男ジョージというのも、人間には必ずある{支えてあげたい気質}を大いに刺激するのに役立ったのはやぶさかではない。ビートルズを語る時に、実はジョージほど親近感をファンに持たせる人物はいないわけだ。誰からも愛されるジョージ。それは必ずしも音楽家としての才能には直結していないというのが、私の偽らざる意見なのだがどうだろう?
 ビートルズが解散して、最初に頂点を極めたのはジョージ・ハリスンだった。面白い事に、これもまた事実である。アルバム「All things must pass」は、ジョージの仕事の中でも間違いなくてっぺんに位置しているに違いない。その後も堅実に作品を世に送り出し、自身のレーベルを立ち上げ、映画のプロデュース業にも手を出した働き者のジョージ。けれど、作品の質自体は、一向に上がる気配もなく、ただだらだらと流出していた印象が私にはある。個人的には「Blow Away」という曲がお気に入りで、一時期やたらめったら聴いていた記憶があるが、それもアルバム「慈愛の輝き」自体が好きだったわけではなく、あくまで曲単体で気に入っていただけのことだ。ちなみにもう一曲カヴァーソングの「Set on you」も好きだったなぁ。この二曲が、ジョージのソロ・ワークスの中で私の心を捉えた全てではなかろうか?普通ならば二曲あれば十分だろうとも思うのだが、新作が出る度に作品に耳を通してきた私としては実にもの足りない。つまる所、私もジョージ・ハリスンが好きなのだろうと思うわけだ。だからついついどこかで期待していたのに違いない。今度の新作は評判がいいとか思いつつ、聴く度に小さな失望感を覚えたりして、{まぁジョージだからこんなもんか}と自分を慰めたりしていたわけだ。そして、それはやっぱり才能に対する愛ではないのだろう。
 「コンサート for ジョージ」には、いつものメンバーが賑やかに顔を揃えている。発起人のエリック・クラプトンを筆頭に、ジェフ・リンやトム・ペティといったウィルベリーズの面々、リンゴとポール、60年代からの音楽仲間達の元気な姿も見られる。ジョージと言えばインドというわけで、ショウの目玉としてインド音楽の演奏なんかも披露されたりしている。ジョン・レノンも生きていれば喜んで参加(もちろんヨーコ込みで)したのだろうなぁ。{なかなかジョージもいい曲書いてるよね}なんて思ったり思わなかったりしつつ、淡々と時は過ぎラストには全員揃っての「While my guitar gently weeps」という何かお約束的な展開で幕を閉じる。私の頭に去来した思いは、{う〜ん、何かもの足りないんだよなぁ}でした。
 かつて1971年8月1日に、ニューヨークはマジソン・スクエア・ガーデンで行われた難民救済コンサートを憶えているでしょうか?ラヴィ・シャンカールの要請に応えて、ジョージ・ハリスンが行った伝説の「バングラデシュ・コンサート」ですが、あれを思い出した人はたくさんいるのではないでしょうか?あれからもう随分と月日が流れているというのに、世界は何一つ変わってはいないような気もします。というか、事態はますます複雑かつ深刻になっていると言った方が的を得ているのかもしれません。それはそれとして、現在このコンサートもDVD化されて、もはや伝説と呼ぶにはお手軽になってしまいました。その後のジョージのアルバム同様、結構豪華なメンバーが揃いも揃ったりのコンサートで一見の価値はあるのかと思います。エリック・クラプトン、ビリー・プレストン、リンゴ・スターなんていう面々は、もはやジョージとは切っても切れない関係なんでしょう。ラヴィ・シャンカールにせよ、「コンサート for ジョージ」と見事に被ります。リンゴの最初のヒット曲「It don’t come eazy」とか聴けるのもお得感満載です。これは間違いなくリンゴの一世一代の曲であり、ビートルズ・ファンにはたまらないですね。レオン・ラッセルやジェシ・エド・デイヴィスも忘れられません。バッド・フィンガーなんて、ファンには涙ものでしょう。みんなステージ上でバクバクと煙草をふかしているのも時代を感じさせてくれましたよね。出演予定だったジョン・レノンが発作で辞退してしまったり、ポールも条件つけて結局参加しなかったりというケチもつきましたが、半隠遁生活状態のボブ・ディランの夜の部での参加で帳消しという所でしょうか?最近再見して、妙にしみじみしてしまったのですが、これを最初に観た時の私の感想が{何かもの足りないなぁ}というものだったのを思い出しました。
 結局、私にとってのジョージ・ハリスンは、いつだってもの足りない存在のようです。何故なんでしょう?繰り返しになりますが、要するに私もまたジョージ・ハリスンが好きな人間の一人なんでしょう。永遠の物足りなさ。それは永遠の愛でもあるわけです。


  「コンサート for ジョージ」
 出演   エリック・クラプトン
       他 ジョージゆかりの音楽家達

また来るのね「リヴァーダンス ライブ フロム ニューヨークシティ」を思う

  これまで観てきた映像作品の中で、もっとも心に残っているものは何か?と訊ねられれば、それは多分「Riverdance」の1996年ニューヨーク・ラジオ・シティ・ホール公演を収めた作品ではないだろうかと思うのだ。私は元来舞台というものが大嫌いであり、やはり映画の世界にこそ喜びを見出す人間であるわけだが、このVIDEOだけは別格である。1998年に購入して以来このVIDEO(残念ながらDVDではないんだな。DVDでも発売されているでしょうから、これから買う人はDVDで買いましょう)を何回観なおした事だろう。その度に馬鹿みたいに鳥肌たてて感動してしまうのだから、いやはや私も相当に進歩のない人間であるようだ。
 1994年の誕生から随分と変化を遂げたこのリヴァーダンス・プロジェクトだが、その年月の間にはいくつもの映像作品を産み落としている。10周年を記念したベスト物から、その軌跡を追ったドキュメンタリー作品もあるわけだが、やはり一つの公演をまるまる収めた作品こそが一番のお薦めになるのは間違いないだろう。94年のオリジナル版を皮切りに、95年のダブリン・ポイント・シアター版(プリンシパル・ダンサーは当然マイケル・フラットレーとジーン・バトラー)、前述の96年ニューヨーク版(プリンシパルはコリン・ダンとジーン・バトラー)そして2002年の新装リヴァーダンスのスイス・ジュネーブ版(プリンシパルはブランダン・デ・ガリとジョアン・ドイル)といろいろあるわけですが、誰が何と言おうとニューヨーク版がベストではないかと、個人的には思います。ちなみに私は2000年の来日公演(ブランダン・デ・ガリ&ジョアン・ドイル&マリア・パヘスの面々)を生で観劇しているのですが、生の感動よりもニューヨーク公演のVIDEOの方が素晴らしいと本気で思っています。正直に言うと、映像のみで接していた時の方が、実際の舞台を観た後よりもカブレテいた気がしないでもないです。出来がどうとかアングルがとかいろいろ小理屈は付けられるのでしょうが、それだけ96年のニューヨーク公演が際立っていた結果なのではないでしょうか?新たな曲が付けられたり、構成が変わったり、衣装や舞台に金がかけられたり、当然プリンシパル・ダンサーも次々と変化するわけで、それぞれに一長一短はあるのでしょうが、もはや一つの巨大なショウとして定着してしまったものに、初期の躍動感や緊張感を取り戻すのは不可能なのでしょう。だったらオリジナル・プリンシパルの公演の方がよいのではないか?と言われるかもしれませんが、それはそれ、個人的には95年のダブリン公演版はショウとしての完成度がニューヨーク版よりも劣ると思うわけなのであります。
 それにしても、このショウで主役を務めた男女の数はどれだけいるのでしょうか?公演の数が膨大なものであり、現在では世界のあちこちで同時にショウを披露しているわけですから、主役の人数も相当なものであるのは確実です。どうせベストを出すのなら、一回でも主役をはった人物全員にスポットを当てたものなんかを作っては頂けないものでしょうか?アイリーン・マーティン嬢のファンである私なんかは、一度でいいから一曲通して彼女の晴れ姿を見たかったわけです。ジーンやジョアンはもういいから、って気分にみなさんならないですか?まぁそれだけ繰り返し観てしまって飽きがきたともいえるのではありますが、それにしてもあっちでもこっちでもチラチラしか映らないアイリーン様、癖になりますね。素敵です。
 リヴァーダンスというからにはダンスが主役なのではありますが、この舞台にはもう一つの魅力があります。それがリヴァーダンス・オーケストラであり、リヴァーダンス・シンガーズの存在であります。特にオーケストラの一員には、当初アイルランドでの名うての演奏家達が多数参加していたわけで、それだけでもアイリッシュ・ミュージックに傾倒している者にとっては夢のような時間に耳をそばだてる機会を得る絶好の瞬間だったわけです。実際ダンスよりも演奏に心惹かれた人もいるでしょう。実を言うと私もその一人です。ダンスだけだったら、多分一回観て終わりだったと思います。ニューヨーク公演でのフィドル奏者アイリーン・アイヴァースの存在なんかはその最たるものでしょう。私もついついアイリーン・アイヴァースのアルバムとか買っちゃいましたからね。それと映像では出てきませんが、オリジナルのCDではマーティン・オコナーがアコーディオンを弾いていたりするわけで、デ ダナン命の私なんかはわけもわからず興奮したりするわけです。
 リヴァーダンスの音楽を手がけたのはビル・ウィーランなわけで、ビルの経歴として一つだけピックアップするとすれば、やはりプランク・シティへの参加になると私なんかは思うわけです。リヴァーダンスの音楽というのは、単純にアイリッシュ・ミュージックであるとは言えない多様性があるわけですが、少なくともプランクシティ参加時にビル・ウィーランがアイルランドの伝統音楽にどっぷり浸かったのは間違いないでしょう。リヴァーダンスの音楽の素晴らしさの根底に伝統的なアイリッシュ魂が潜んでいるからこそ、世界中に広まり根付いたアイリッシュの末裔達の心を鷲摑みし、しいては世界を市場にした巨大なビジネスの礎になったとは言い過ぎでしょうか?
 日本ではエンヤやU2がそれなりに人気を博してはいるが、それらはアイリッシュ・ミュージックとはいささかかけ離れてしまっているものだし、少し前にはアイルランド・ブームの兆しもあったのですが、本格的に市民権を得るまでには至っていないようです。リヴァーダンスもまた然り。好きな人だけだ盛り上がっている感は否めません。ギネスを片手に、デ ダナンやパトリック・ストリートやドーナル・ラニーについてどうでもいい事を口走って「アイルランド賛歌」を皆で歌うという私の夢は、まだまだ実現するには遠い話なのですね。非常に残念です。リヴァーダンスがその入り口になるというのも、もう何度も来日公演を慣行している事実からして既に期待してはいけないのでしょう。
 2008年の春に、リヴァーダンスの来日公演が決まっているようなのですが、今回は大した話題にもなりそうにありませんね。チケットは売れるのでしょう。熱烈な固定ファンというのは、実際どこにでもいるものです。特にリヴァーダンスの魅力にとり憑かれたら最後、死ぬまで忘れられない中毒症状にかかったようなものです。この作品はそれだけの力があるし、魅力に溢れていると断言出来ます。
 どんな優れた名画も到達しえない次元の作品として「Riverdance live from New York City」は特筆に価する作品です。「ベスト・オブ〜」とかジュネーブ公演とかはマニアの方以外は観る必要がありません。来日公演はお金に余裕のある人が楽しみましょう。どうせチケットは一万円以上すると思われます。とても高いです。そんだけ高いと、素晴らしい作品を観られたとしてもどうしても遺恨が残ります。たかだか1800円でも酷い映画を観てしまった後の落ち込みは想像を絶します。私はどうしても躊躇してしまいますね。だって、ニューヨーク公演という最高峰の作品が既に手元に(VIDEOだけで)あるわけですから。それでも観にいってしまうのかなぁ、人間とは懲りない生き物だしなぁ。私も真性のリヴァーダンス中毒患者なのかもしれません。そこには間違いなく十本の傑作映画に匹敵する感動が待っていると、知っているからなぁ・・・


  「リヴァーダンス live from New York City」         1997  アメリカ
 出演   コリン・ダン      ジーン・バトラー
       マリア・パヘス

  

総括 「13〜マスターズ・オブ・ホラー2〜」を思う

  マスターズ・オブ・ホラーの第二シーズンは残念ながら低調な出来映えの作品が目白押しで、早くもホラー映画にありがちな胡散臭い感じが顕わになってしまった。前回から居残った監督の作品にその傾向は顕著で、前シリーズに提供した作品を越える事が誰一人出来なかったのがどうにも面映い気分にさせた主原因にもなっている。ジョン・ランディスとスチュアート・ゴードンに限っていえば、どちらを上と見るかは好みの問題になるのかとも思う。この二人に関していえば、期待値も(理由は異なるが)もともと低いわけだからそれなりのレベルで安定しているという言い方も出来ると思われる。問題は、コアなファンが多い二人である。ジョン・カーペンターとダリオ・アルジェント。この熱烈な固定ファンを持つ二人の作品がよい出来か悪い出来かによって、このシリーズの今後を占う一つの指針になってしまうのは個人的には疑問もあるが、世の中とは往々にしてそういうモノなのだから仕方がない。ホラー映画界という狭い世界だけの中では押しも押されもしないビッグ・ネームのこの二人は、間違いなく本シリーズの目玉或いは広告塔の役目を負わされる運命でもあるわけだ。
 カーペンターとアルジェントには、幾つかの共通点があると思われる。まず二人共、早い時期に自身のエポック・メイキング的運命の作品をモノにし、その呪縛から一生逃れられないという袋小路人生を生きているサバイバーである点が大きいだろう。その作品とは言わずと知れた「ハロウィーン」であり、「サスペリア」だ。ホラー映画と呼ばれるジャンル映画に限っていえば、この二作品に比肩しえる人気映画はそうはない。ロメロの「ゾンビ」、そしてトビー・フーパーの「悪魔のいけにえ」というホラー映画を飛び越えて映画百年の歴史に残るべき奇跡の傑作を除けば、この二本の作品が背負っている物の大きさは計り知れない。今上げた四本の作品がいみじくも後のホラー映画と呼ばれる卑しい映画群に与えた影響を考えると、それはある意味負の遺産と言えなくもないのが悲しいところだ。この四本に共通する圧倒的なパワーと面白さの内、どうでもいい部分ばかりが誇張されてしまったのが現在低迷を続けているこのジャンルの全てだ。どんなに艶かしく陰惨に内臓をぶちまけようが、リアルに鮮烈に殺人が行われようが、それは直接作品の優劣には関係しないと私は思っている。視覚という限定された恐怖には、誰も心から震え上がる事など決してないのだから。「悪魔のいけにえ」にどれだけ直接的に視覚に訴える陰惨なシーンがあると言うのだ?「ゾンビ」にしても、内蔵ぶちまかしのシーン等なくても、あの映画の本質は全く変わらないだろう。「ハロウィーン」で使われた血糊の量はいかほどだろうか?「サスペリア」の絵画的な殺人シーンから、一体どれだけのリアルさが感じられるというのか?全ての映画はファンタジーである。全てを見せてしまうのは、実は人の想像力を阻害する行為に過ぎない。トマス・ハリスの傑作を映画化した「ハンニバル」は、これら四作品よりも比較にならない大金が投じられているし、ラストの脳味噌食いは遥かに陰惨な描写を見せつけてくれるが、一本の作品としては実に大した駄作だ。小説から得られる愉悦も恐怖もあったもんじゃない。映画が小説の面白さを越える事など本来あり得ないというのは、間違いなく事実だ。映画の方が小説より絶対に面白いという人は、残念ながら想像力にいささか問題があるに違いない。映画の武器は映像であるというのはもちろんその通りだが、映像があるというのは両刃の剣にもなりえるわけだ。カメラを回して、フィルムを繋ぎ合わせれば映画は誰にでも作れる。{マンガばかり読んでるとバカになるよ}と昔の母親はよく口にしたものだが、マンガが氾濫した現在の日本の現状を見せつけられると、それもあながち間違った言い分ではないのではないか?ここ数年のホラー映画を、私は自分の子供には見せたいとは思わない。そしてマスターズ・オブ・ホラー2には、残念ながらそういう部分に特化した作品が実に多かったのが口惜しい。ホラー映画など何の役にも立たない薄汚くすえた臭いを撒き散らす夢の島だと言われても、もはや何の反論も用意し得ない現実がそこにはある。
 二人の(或いはロメロを入れて三人の)共通点として、まともな映画を作りあげるのには技量の点でいささか問題があるというのも間違いのない所だ。はっきり言えば、へたくそだという事だ。例えば「チャップリンのサーカス」やデヴィット・リーンの「アラビアのロレンス」、スピルバーグの「激突」やコッポラの「ゴッドファーザー」といった優れた作品について、私は奇跡的な傑作だと言うつもりはない。彼らは高いレベルで常に作品を作り上げる腕前を確実に持っているからだ。それに比べて、カーペンターズなにがしやアルジェント・プレゼンツといった作品群のレベルの低さは、笑うに笑えないモノがバナナの叩き売り状態だ。ロメロに至っては、「ゾンビ」以外は心の臓まで腐り果てていると言っても過言ではあるまい。「URAMI」や「死霊のえじき」(以前も言った事があるかもしれないが、ゾンビは死霊ではないのではないか?)は、およそ商業映画としては最低のレベルの作品に違いない。学生の卒業製作でも、もっとましな映画は存在する。カーペンターの幾つかの作品は、低予算であるという現実以上に怖ろしい程チープで情けない映像の目白押しだったりする。アルジェントの場合は、チープさに加えておよそ考えられうる全ての破綻をこれ見よがしに提示されたりするではないか。誓って言うが、私は別に彼らを馬鹿にしているわけではない。事実をありのままに言っているに過ぎない。とにかく、彼らは揃いも揃って{へたこいた}を連発してくれる、やたら笑える映画監督達なのである。そういう意味では、今回二人がマスターズ・オブ・ホラー2に提供した二作品「グッバイ、ベイビー」と「愛と欲望の毛皮」は、見事なまでに二人にとっての定位置をキープした内容であるとも言える。つまらないのでもくだらないのでもなく、ただただ低レベルの作品なのだ。
 マスターズ・オブ・ホラー3の製作は、ちょっと暗礁に乗り上げた感がある。前シリーズの各監督の意気込みは一体どこへ行ってしまったのだろう。モチベーションの低下が明らかに感じられた結果が、如実に作品に表れているとは言い過ぎだろうか?前作より上がったのは、露骨なスプラッター度だけなのではないだろうか?繰り返しになるが、それは作品の出来とは本来無関係な部分であり、私には逃げの姿勢と感じられてしまった。恐怖とは何なのか?人は何に恐怖を感じるのか?それを体現して見せてくれてこそ、マスターズ・オブ・ホラーの称号に相応しいというのは勝手な高望みに過ぎないのか?奇跡はそうそう起きないからこそ奇跡なのだと、そう言われてしまえば見も蓋もないわけだが、私はそれを成しえる力は生きて映画を作り続けている以上彼らには備わっていると思うからこそ言わずにはいられないのだ。前回感じたトビー・フーパーの復活の兆しも、ただの兆しに過ぎなかったと納得しろというのか?継続は力なりとも言うではないか?出来の悪い子ほど可愛いともいう。不器用で垢抜けない彼らの未来を、私はやはり愛さずにはいられない。
 新参組と居残り組みの勝敗だが、痛み分けの引き分けに限りなく近いが一応新参組の勝ちとしたい。理由として、ロブ・シュミットの「妻の死の価値」には観るべき部分があると思われたからだ。ブラッド・アンダーソンの「ノイズ」も中盤までは十分面白かった。作品自体は大した出来ではなかったものの、久々に再会したピーター・メダックという名前にも敬意を表したい。随分とその名前を耳にしていなかったが、元気に監督業を続けているのだなぁ。メダックには忘れてはいけない「チェンジリング」という良作がある。ホラーとは本当に奥深い意義ある映画のジャンルである。そしてそこに生きる人間達も、また奇妙な魅力に溢れた奥深い人達なのだ。次回は誰が新参組に名を連ねてくれるのだろうか?居残り組みの奮起はあるのか?ホラー映画の巨大なファミリー・ツリーは、まだまだ枯れてしまっては困るのだよ。
 最後に一言。今回の邦題はどれもこれも本当に酷いね。こういうのを本来、才能の欠片もないと言うのではないか?


  「13 thirteen 〜マスターズ・オブ・ホラー2〜」
 監督  鶴田 法男
      ミック ギャリス
      ジョー・ダンテ
      トム・ホランド
      トビー・フーパー
      スチュアート・ゴードン
      ロブ・シュミット
      ブラッド・アンダーソン
      ダリオ・アルジェント
      アーネスト・R・ディッカーソン
      ジョン・カーペンター
      ジョン・ランディス
      ピーター・メダック

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