1969年7月16日。人類は月に降り立った。
アポロ計画は人類の壮大な夢をのせて、1969年から1972年までの3年半の間に6回の月面着陸を成功させている。私もかつてフロリダのケネディ宇宙センターを見学して、たくさんの建造物をこの目に焼き付けてきた。その時購入した宇宙食が封を開けずにまだ残っているのだが、これはまだ食べられるのだろうか?見たところ賞味期限は記されていないような気がするが・・・、まぁ天変地異か何かで究極に食糧難になったら開けてみようか。こんなわけの分からない食料を口にしなければならない程、私はまだ飢えていないという現実がある。
人類が月に行くという夢物語が、冷戦という緊張状態の賜物であったのは皮肉以外の何物でもないだろう。このプロジェクトで実際に小躍りして喜んだのは、アメリカの軍需産業であるのは事実だし、ソヴィエト連邦に対しての遅れを一気に取り戻し、アメリカは宇宙戦略に対して一歩も二歩も抜きん出る結果となった。これはアメリカ国民の意識を大いに引き上げたわけで、その後のアメリカの超大国化とソヴィエトの崩壊に至る歴史を築き上げた重要な礎にもなっていくのだ。ここで培われた技術もその後大きく活用の場を広げて、私達の身近な部分にも影響を及ぼしているわけで、アポロ計画は無駄では決してなかったと断言しても文句を言う人はそれほどいないのではないだろうか?
死ぬまでに一度位は宇宙遊泳などしてみたいものだ。そんな一庶民の思いは、民間企業による宇宙旅行計画の立ち上げにより、実際すぐ目の前の現実となりつつあるようだ。本当だろうか?どうも信じ難い話に思えてならない。少なくとも私が生きている間には実現しないような気がするのだ。アポロ11号の月面着陸から既に40年。一体人類は何をしてきたのだろうか?この40年間の世界の変革を見れば、アポロが6回も月に行けたのだから、そこで費やされた膨大な費用とは比べ物にならない額で人類は月に行けるはずである。普通に考えれば、毎日誰かが月に手ぶらで旅行に出かけていてもおかしくはないのではないか?無論これは素人の無知な考えなのかもしれないが、6回も実現させているのは事実なんだし、ちゃんと計画的にプロジェクトを進めていれば別段突飛な妄想ではないはずだ。現実問題として、何度か月に行っているのを見せられているうちにみんな結局飽きてしまって、そこに費やされる膨大な金をケチり始めたのがアポロ計画の終焉を決定付けたのは全くもって残念だ。人間っていうのは小っちゃいよねぇ。そして飽きっぽい。確かに月に行ってどうするのって聞かれれば、別に何するわけでもないんだろうけど、たくさんの人が月に立って経験を積む中でしか生まれ得ない発想というのも絶対あるわけで、それによって世界そのものが現在とは全く違う形になっていたとも考えられるのではないだろうか?大雑把に飛躍して言ってしまえば、国境なんてなくなっていたかもしれないわけだ。現実を見ろよと怒られるかもしれないが、現実だけが真実だとどうして言い切れるのか?少なくとも歴史というのは推測で成り立っているものだ。実際に人類が辿ってきた過去の現実さえ、残された数少ない物的証拠から何となくそうなんじゃねぇの的な推測で成り立っているわけだ。私が眠い目をこすり開いていた教科書と、今の小学生が開いている教科書では、歴史は随分と異なっているではないか。消えた年金で大騒動になる時間のほんの少しでも、この失われた40年に憤慨してみても罰は当たらないのではないか?
アポロ計画はアメリカ政府の捏造である。いわゆる陰謀説が世間を賑わせた事がかつてあったのは、みなさんなんとなく記憶にあるのではないだろうか?私はこういう考えは大好きで、ついつい面白がってしまうのだが、こういうものは冷静に考えれば考えるほど矛盾に突き当たってしまうものだ。最近では「ダ・ヴィンチ・コード」が随分と話題になった。キリストの子孫が実際に生きていようといまいと私には何の関係もないが、人の好奇心をくすぐるのには十分なアイデアであるのは間違いない。地球の地下には空洞があって、そこには地底人が住んでいるとか。霧に包まれた古城の地下に、人の血を吸う不老不死の怪人が身を潜めているとか。人の想像は無限大だ。よく映画の批評みたいなもので、これこれこういう事は現実にはあり得ないとかって批難する事に終始する文章を読む時があるが、映画の批評としてはこれほど的外れな意見はないのではないだろうか?少なくとも、そういう点に目がいってしまう作品というものは、もっと根本的な所に問題があるのであって、現実離れしている現象なり事象に問題があるのではない。どうしてもそういう見方しか出来ないという人がいるのであれば、残念ながらその人は映画なんて観ない方がよいのだろう。世の中には映画なんかより面白い事が山ほどあるのだし、何も面白くもない物に時間をかけるのはいかがなものか?それこそ失われた時間は、あなたの人生に取り返しがつかない空白を生んでしまう要因にもなる。それでなくても、私達は日々膨大な時間を浪費して生きているものだ。私も毎日、あぁまた今日も一日何もせずに終わってしまったと後悔の連続だ。後悔などないように精一杯生きなさいなんて言われると、実際へこみますね。私の人生全否定じゃん。人生とは後悔によって成り立っている。こっちの方がよっぽど的を得ていると思うのは、虫が良すぎるのでしょうか?こうしてみると世界も個人も実は何も変わらないのですな。人類とはどうでもいい事に時間を割かれる悲しい運命を常に背負わされているものだ。それも突きつめれば誰かの思惑に右往左往させられているわけだからね。自分探しだとか、自分らしくだとか、実はとっても的外れな行為でしかないのかもしれませんね。
微笑ましいという表現がぴったりの映画に、「月世界探検」は見事に当てはまります。こういう映画は、もはやよほどのマニアしか観ないのではないでしょうか?アメリカとソヴィエトの宇宙進出競争も相まって、1960年代には科学を無視しまくったトンデモSF映画が隆盛を極めます。人類は映画の中では火星旅行だろうと金星旅行だろうと自由自在です。実にお手軽に他の惑星に旅立ち、何をするかといえば大抵は宇宙人と戦って帰ってきます。実に戦闘意欲満々の生命体であります。他にする事はないのでしょうか?未知の物への潜在的な恐怖というものに、人は抗う術を持たないのかもしれません。何かと戦って勝つ。これは映画の究極のパターンの一つです。とにかく何がなんでも敵を探します。最近ではテロリスト集団がその槍玉に上がっているわけですが、とにかく敵味方入り乱れて殺人合戦です。他にする事はないのでしょうか?現実の世界を見てみると、ないのかもしれないなと思ってしまいます。誰かの悪口を言って盛り上がる。誰かに罪をなすりつける。誰かを見下して、誰かを蹴倒して、誰かの乳首をつまみあげて、私達は日々生きているのですから。私には当てはまらないという人がいたら、その人は大した嘘つきですよ。何しろ世界というものは、そういう仕組みになっているわけですから。好むと好まざるとに関わらず、私達は他人を傷つけずにはいられないのです。それは人間というものがどれだけ弱い生き物かという証拠でもあります。だからこそ人は、時に助け合い励ましあうわけです。それがバランスというものです。
かつて夢だった事も、今では夢ではなくなっているという現実が、時に人を怠惰にします。これは行き過ぎた情報社会にも似ています。全ての道に足跡が作られ、全ての道の行き着く先も見えてしまっている世界。それは人にとってとても残酷なものです。いつ死ぬか分からないからこそ、人は今日も明日を信じて生きていく事が出来ます。この仕事に就いたら生涯賃金は幾らで、こういう生活が待ってますとか。そんな情報は必要なのかね?実際、私達の周りにはくだらない情報が満ち満ちています。重力をなくす薬をヘリウムで作り上げて、ヘルメット一つで月を闊歩する映画は、今では自虐的なコメディでしか扱われません。私たちが再びワクワクするような、新しいアポロ計画を打ち立てる日は今後くるのでしょうか?子供達がネオンに照らされたアスファルトを眺めるのではなく、宇宙の星を見上げて歩く日が。
「H.G.ウェルズのSF月世界探検」 1964 イギリス・アメリカ
監督 ネイサン・ジュラン
主演 エドワード・ジャッド マーサ・ハイヤー
連日のように特定の個人を吊るし上げて、日本国全体を巻き込んでのいじめが横行している。日本人というのは、本当にこんな感じの魔女狩りめいた話題が大好きな民族だ。出る杭は打つだの、鉄は熱いうちに打てだの、言葉はいろいろあるが、和をもって尊しとする農耕民族特有の没個性的側面が、わがまま言ったもん勝ちの気風が大勢を占める昨今にあっても、まだまだ奥底に秘められているのを痛感させられる現象の一つだ。強いもの勢いのあるものには、何はさておき取り合えず付いていく。不都合があっても見てみぬ振りを押し通す。全てをうやむやに穏便にひたすら感情を抑制して事を進め、そして強いものが何かのきっかけで弱みを見せようものなら、今までの鬱憤を全て吐き出して攻撃する。日本において大事なのは、個人ではなく世間であるという事か。個人が個々に注意するのは危ないからやめましょう的考え方が、逃げ場として社会全体に用意されているが、本来芽というものは小さいうちに摘んでおかなければいけないはずで、大きく育ってからでは何を言っても遅いわけだ。大体、TVのニュースで道徳的な教えを説かれたって、誰がそれをまともに自分の事と受け止めて聞くのだろうか?他人から注意されてムカつくというのは、要するに子供の時に親身になって親から注意された経験がないのだろう。心に準備が出来ていないから、どう対処していいか分からずに自己防衛の本能が働いてキレてしまう。一度そういう事が起こると、周囲が一斉に臭いものに蓋的行動に出て、キレた本人は孤立していく。一度レールから足を踏み外した者に、日本という国はとことん冷たいときている。今回の騒動についても、個人のみが集中砲火を浴びせられていて、本来問題視されるべき部分には誰も踏み込もうとはしない。少なくとも、彼らが所属していた協会の罪は相当重いのではないか?マスコミと一緒になって協会が個人のみに罪を着せているように見えてしまうが、これは実はとても異常な事ではないだろうか?とかげのしっぽ切りは、今日本が抱えている大きな問題の一つであるが、リストラという言葉が個人に与えた影響というのは計り知れないものがあるだろう。会社という一つの大きな曖昧模糊とした怪物の為に、個人に犠牲を押し付けるのだから。貧乏人なんていうものは所詮金儲けの道具でしかないし、本来使い捨てなんだよと、社会が宣言してしまっているのも同然だ。ちゃんと毎日努力して会社の役にたっていればリストラされないんだから、それは自己責任の範疇でしょうという意見もあるかもしれない。本当にそうか?本当にそうだったら、日本の社会全体がこんなに歪んで醜い姿に見えている現状はなんなのでしょう?毎日のニュースがボディブローのように、日本人一人一人の心をへこませている気がしてならない。知らなくていい事まで知りすぎたのかもしれない。それは事実として確かにあるだろう。しかし、知らない方が幸せだったなんて国民に強いるとしたら、この国はどこまで悲しい国なんでしょう。教育の一貫として子供達に愛国心の種を芽生えさせる?冗談言ってんじゃないよ、馬鹿丸出しだと思わないのだろうか?式典には国歌の斉唱と国旗の掲揚を義務づける?笑うに笑えない事実が、この国にはあまりにも多すぎるんだなぁ。もうさっさと、議会民主主義なんてこの国に合わない政治形態は止めたほうがいいんじぁないでしょうか?この国の国民に一番ぴったりくるのは、やっぱり独裁でしょ。そろそろ新しい形の独裁制国家への道を模索しなければいけない時期なんじゃないのかな?いや実際、イメージ的に悪みたいなものをとある大国に押し付けられている印象がありますが、独裁という考え方にもいろいろあると思うのですよ。少なくとも、現内閣のようなシステムは、もうどうしようもないくらい終わってますね。もううんざりです。
うんざりと言えば、「ドリームクルーズ」なわけです。どうですか、みなさん。このつまらなさは、一体どこから来てどこへ向かおうとしているのでしょうか?
マスターズ・オブ・ホラーというシリーズが好評をもって第2シーズンに突入した事は、まことに喜ばしい事態であります。とにかく各監督達の力のこもった力作を見せられて、映画の持つ魅力や愉悦を個人的には再確認させて頂きました。日本人監督の作品がちょっとルール違反を犯していた事実に一抹の不満がありますが、それでも概ねプロジェクトは成功したと言っていいでしょう。映画百年の歴史に、ホラーというジャンルが恥知らずで悪趣味な一面を染めあげたという意見を口にする方もいらっしゃるでしょうが、だからこそ大きな意義があると思う私のような人間もいるわけです。どちらが正しいかは、神のみぞ知るではないでしょうか?映画好きだと広言する人は多いですけど、そういう人の中にあって「でもホラーだけは観ない」と付け足しをする人に私も何度か会っているのですが、あれは何を意味しているのでしょう。別に何を観ようと構わないし、何を評価しようと私には関係ありません。しかし言わなくてもいい言葉を敢えて口にしているわけですから、きっと「でもホラーだけは観ない」という言葉にはその人にとってとても大きな意味があるのでしょう。人は嘘をつく時に、言わなくてもいい類の言葉をべらべらと口にしてしまったりします。自分の中でパニくってしまうのでしょう。嘘をつかれる相手にすれば、それがもの凄く不自然に感じるわけで、それと同じものを私は「でもホラーだけは観ない」という言葉に感じてしまうのです。その言葉の裏に何が隠されているのか、興味はつきないですね。
それはそれとして、先日「ハイ・テンション」というフランスのホラー映画を観ていて、私はもの凄く不快な気分を味わいました。もちろん観客に不快な気分を味合わせるのがあの映画の一つの目的であるのは理解できますが、あそこまで筋書きをないがしろにして良しとするのはいかがなものでしょうか?反則技の連続で、いかにも人体損壊や血みどろ残酷描写の羅列にしか興味がないのは明白であり、こういうものこそ「これは映画ではないな」と断言するに値する代物でしょう。この映画に興奮して好奇心をくすぐられる人はいても、恐怖を感じる人はいるんでしょうか?確かにこの映画を嬉々として撮影する監督の姿には、一抹の恐怖を感じないではいられませんが・・・。想像力の枯渇したホラー映画は、最近随分と増えてしまい、それをもって「ホラー映画だけは観ない」と言いたくなる気持ちも分からなくはありません。けれど、目を背けるだけでは観て見ない振りをしているのと同じ事です。少なくとも存在しているものから逃げるだけでは、何の解決にもなりません。劣悪でゲテモノ趣味のホラー映画も害になるのかもしれませんが、上っ面だけの愛だとか正義だとかばかりを見せられるヒューマン映画も同じように害になるものです。面白い映画とは何か?良い映画とは何か?もちろん人それぞれですが、食わず嫌いは勿体無いですな。ホラー映画しか観ないという人達だけが「ハイ・テンション」を観るのであれば、ああいう映画が淘汰される事はまずありますまい。淘汰されるのが正しいのか間違っているのかは分かりませんが(いわゆる良い映画ばかりを観ていて何の意味があるのか?)、ホラー映画にも人間の真実や社会のなんたるかが浮き彫りになっている場面は多々あります。あなたが無駄だと思うものにこそ、大事なものが隠されているとは思いませんか?大きなお世話ですか?ごもっとも、私も書いててそう思いました。
「ドリーム・クルーズ」を思うという今回のお題は、どうなんでしょう(笑)?「ハイ・テンション」を思うの方が良かったのかな?どうでもいいか。いつもの事です。
ただ、もう一度言わせて頂きたい。「ドリーム・クルーズ」のつまらなさは、一体どこから来てどこへ向かおうとしているのか?マスターズ・オブ・ホラー・第2シーズンの日本での開幕を宣言した船出ではありましたが、見事に難破してしまいましたね。マスターズの名が・・・。Vシネマにしか見えないのはある意味凄いけどね。
「ドリーム・クルーズ」 2006 アメリカ
監督 鶴田 法男
主演 ダニエル・ギリス キムラ・ヨシノ
シェークスピアを語る時に、まず挙げられる作品は「リア王」だったり「ハムレット」だったり、そしてあの「オセロー」だったりするわけだが、それはいわゆる悲劇という括りでまとめられる作品達だ。裏切り、復讐、妬み、野心などに彩られたそれらの作品は、見た目的にも確かに派手だし、はらはらどきどきと人の好奇心を刺激するに十分なお膳立てに事欠かない。これらが内包する物語としての根幹は、人の悪意だったり弱さだったりするわけで、なるほどそれらは十分に議論する余地のある面白い議題にもなろう。
しかし、シェークスピアの優れた才能は、喜劇において最大限に活用され開花していると思うのは間違いだろうか?シェークスピアについては以前、すでに存在した物語の筋書きやアイデアを彼風にアレンジをして劇本に仕立て上げた名アレンジャーであるうんぬんと書いた覚えがある。それは今日では誰もが知っている基本中の基本である。それは現在におけるスティーブン・キングの立ち位置でもあるわけで、実際この二人には共通点が幾つもあるのではないだろうか?それはそれとして、シェークスピアが何故手垢のついた物語ばかりを取り上げていたにも関わらず、今日にまで一向に衰えない恐るべき影響力を誇示しているのかという点に考えを及ぼすと、彼の顕著な特徴に気づかされるはずだ。別に何も難しい話ではなく、シェークスピアが創造した人物達がどれも実に魅力的だというだけの話だ。シェークスピアはそれらの魅力的な人物を自身の作風に生かす為に、独特な世界観を持って作品の舞台をしつらえた。それは作品個々の単独した世界観ではなく、悲劇であろうと喜劇であろうと一貫してシェークスピアという惑星の中での出来事として消化吸収されている。言葉にするのは難しいが、シェークスピアっぽいとかシェークスピアらしいとか、そういった感覚的なものが全ての作品に一貫して貫かれているという事だ。シェークスピア劇という言葉で呼ばれる世界の中では、シェークスピアが絶対神として君臨している理由でもあろう。では何故、喜劇か?「お気に召すまま」や「夏の夜の夢」を引き合いに出すまでもなく、喜劇においては恋愛が重要な鍵となる場合が多い。恋愛話というのは実にありふれているわけで、私達も毎日その只中で生きている。電車に乗っていて、たまたま目の前に座った人に心を奪われた経験のある人はいないだろうか?街ですれ違った見知らぬ人を、無意識に目で追っていた経験をした事がないと言い切れる人は一体どれだけいるのだろうか?それは一瞬であったとしても、恋なのだ。その偶然が同一人物の間で何度か繰り広げられた状態を、私達は運命と呼ぶではないか。もちろんそれは単なる勝手な思い込みに過ぎないのだろうが、恋愛において思い込みほど大切な要素は他にないのではないか?運命によって人は幸せを享受されるのだが、幸せとは思い込みであると言ってしまっては言い過ぎですか?またしても脱線してしまったが、それだけありふれた恋愛話には、四大悲劇に代表されるような劇的でダイナミックな要素は、当然発揮する場面がない。つまりそれだけ、より人物の魅力に依存する率が高くなるというわけだ。私達は「オセロー」や「マクベス」に面白さを見出すと同じ位の感動を、シェークスピアの喜劇にも発見する事が出来る。シェークスピアの創造した人物の代表として、「空騒ぎ」のベアトリスや「お気に召すまま」のロザリンドを挙げるのは別に奇をてらっているとは言えまい。ならばシェークスピアの代表作は喜劇にこそあるという意見も、実に全うな意見だと私は思うわけだ。
新宿のシアター・サンモールで、私は「空騒ぎ」を鑑賞した事がある。某有名大学のシェークスピア劇団か何かだったと思う。正直言って、その舞台には何の思い入れもないし、何の記憶もない。大体が私は、芝居というものが大嫌いだ、というか苦手なのだ。私はある女性からその公演のチケットを貰い受け、鼻の下を伸ばしてその女性に会う為だけに足を運んだのだ。彼女は舞台の上にいたのではなく、観客席後方にあった場所にいた。照明さんである。然るに、私は舞台には全く関心などあるはずもなく、後に「空騒ぎ」を読んだ時にはもの凄く新鮮だったのは言うまでもない。当時、私はぴったし二十歳だった。その照明さんに初めて会ったその日、私は自分にとっての理想的な顔というものを初めて知ったのだ。私は当然、恋に落ちた。もうメロメロのベロンベロンだったと思う。もう随分とそれから生きてしまったわけだが、私にとっては彼女以上の美人というのはいまだに会った事がない。ある意味私はソン・イェジンやイ・ヨンエにベロベロ(笑)だが、私にとっては彼女の方が遥かに上の存在だ。それにはもちろん経験というものが大きく働いているのは間違いない。長電話で話した事、お酒を飲みながらふざけた事、それらを忘れろというのはどうしたって無理だ。よく{結婚するなら二番目に好きな人とすれば幸せになれる}なんて事を言う人がいるが、あれは絶対に嘘だ。大体、恋愛においては一番好きな人が全てで、その他の人は二番も三番もあるはずもなくただその他大勢の好きな人でしかないのではないか?結婚という制度に対しても私はそれなりの了見を持っているが、長〜くなるのでそれ自体は別の機会に譲るとして、その時その時で一番好きな人と結婚するのは当然なのではないか?その後幸せに生涯を真っ当しようとぐじゃぐじゃになって離婚しようと、それは全く別の話である。一言、出来ちゃった婚について私の意見を言えば、本当に好きで好きで仕方がない相手でもない限り、子供が出来たぐらいで結婚するなと言いたい。別に結婚なんかはしなくても子供は育てられるし、子供の為の苦労を苦に思うのであれば、あなたはまだ大人になっていないのだよ。子供が子供を育てる難しさは、毎日のニュースを見れば痛いぐらい分かるでしょうに。日本が少子化で国が無くなったとしても、生まれてくる子供達の事を思えば、それはそれで致し方ない道であると、日本人はそろそろ気づいてもいいんじゃないか?子供というのは自分より遥かに価値があるのだと、親ならば自覚して当然でしょう。そう思えないのであれば、あなたには結婚する資格がないんだよ。というか、親になる資格がないんだな。里親にでも預けた方が、子供がしっかりと育つ場合もあるのではないか?悲しいけど、それが現実なのではないかと思うのです。
私の思いは添い遂げられ、今は二人で幸せに・・・って結末であれば、私の人生も立派だったんだろうけど、現実にはそうではありませんでした。若さ故か。確かに、とにかくSEXしたいって、あの頃はそればっかりだった気もするしねぇ。結婚だなんだって、頭にあったかというと、それは嘘になるよなぁ。恋というものは、実際実る方が遥かに少ないわけです。そうではないか?人は何度も何度も恋に落ちては失望し、奈落の底に突き落とされては這い上がる、傷だらけの存在なのですね。だからこそ、成就した時には1000カラットのダイアにも劣らない価値があるのではないでしょうか?そういう結婚なら生まれた子供も幸せに育つのでしょうね。くれぐれも、お幸せに・・・。
人は恋愛によって幸せを感じるのか?それはYESでありNOでもあるわけだ。恋愛は人を不安にし、臆病にし、狂気を引き起こす可能性すらある。ここにはハイリスク・ハイリターンの原則が垣間見える。怖気づくのは止めにしようよ。そこに愛がある限り、人は盲目の戦士でしかない。{心と心の結婚にあたり 障害を認めさせるな}か・・・。シェークスピアの劇は現代劇に置き換えたとして、何ら違和感がないしそこには一抹の感動が控えている。それはシェークスピアの戯曲が普遍の力を持ったものである証明でもある。公の場で、「空騒ぎ」がシェークスピアの最高傑作と言われる事はないのかもしれない。けれど、それは最高傑作ではないという証拠にはならない。
恋愛というものは、とかく人の勇気を試す代物であるが、何もせずに諦める事が人にとってどれだけ苦しくもつまらない事なのかを教えてくれる。そしてまた、私は恋に敗れるのだろうな。それでも前を向いていられるのは、何かちっぽけなモノを変わらず信じている証なのだろう。{笑わないで、聞いてくれよ}。大丈夫、表面的には笑っていたとしても、心の中では誰も恋愛を笑えるはずがないではないか。何故なら私達は、所詮同じ穴の狢なのだから。
「シェークスピア21−から騒ぎ」 2005 イギリス
監督 ブライアン・パーシバル
主演 ダミアン・ルイス サラ・パリッシュ
ザ・ビートルズの膨大なプロモーション・フイルムを眺めつつ、うたたねするのはとても気持ちがいい。昨今は癒しを目的としたヒーリング・ミュージックなるものがそこそこのセールスを上げる時代のようだが、ある年代の人々にとっては、ビートルズ以上の癒し音楽など存在しないのではないか?
「A DAY IN THE LIFE」は、サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドのアンコール曲であるのはご存知の通り。この架空のバンドを基軸にして一枚のアルバムが製作されたのは、1966年の暮れから1967年初頭にかけて。ありあまる膨大な金と700時間を越えるともいわれるスタジオ・ワークの末に形作られたこのアルバムは、ある時期までビートルズの最高傑作と言われ続けてきた。アルバム・ジャケットを絵画の如く部屋に飾っても様になったLPレコードの時代では、この派手でサイケなカヴァー・デザインも作品の評価を著しくアップさせる事に貢献したのは間違いない。CDの時代になってその画期的なデザインも小さく小さく押しつぶされてしまったが、それと共に「リボルバー」最高傑作論が台頭するなど、今では一概に最高傑作とは言えなくなってしまった感がある。が、そもそも作品の力が人の評価によって変わる事などありえない。ひとたびレコードに針を落とせば、60年代において時代の最先端を突っ走っていった驚きと興奮を味わう事が出来るだろう。断言するが、ザ・ビートルズというバンドはこの作品によって、一区切りがついてしまっている。「サージェント〜」以前と「サージェント〜」以後では、バンドの中身がはっきりと変化しているのが分かるだろうか?ザ・ビートルズという超人気アイドル・バンドは、その変化によってもろくも自滅の道を辿っていくのであるが、それはまた別の話である。
「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」は今更言うまでもなく、ビートルズが生み出した傑作のひとつである。ジョン・レノンの厭世的で何かを皮肉ったような詩は、その後のジョンのトレード・マークとなる。そして中間部にはポールのポールらしいあっけらかんとした楽曲が組み込まれている。この二つの曲には何の接点もないのだろうし、もともとの生まれも全く別なのに違いない。それでもこの二曲は、今となっては切っても切り離せない。どちらが抜けていてもこの曲は傑作には成りえなかったのではないだろうか?そういう意味では、「LET IT BE」アルバムの「アイヴ・ガッタ・フィーリング」に通じるものがある。とにかく何かしんないけど気持ちがいいぜと絶叫するポールの後から、静かに密やかに黄色い太陽について歌うジョンは最高以外の何ものでもない。どうしてこんなにもこの二人の曲は相性がいいのだろうか?それを考えると、何だかとっても悲しくなってくるのは何故だろう?けれど、それもまた別の話だ。
この「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のプロモーション・フィルムは、混沌とした映像の羅列によって出来上がっている。この曲の鍵となるオーケストラの姿と、大勢の客を招いてパーティーに興じるビートルズのメンバーの姿をランダムに編集して一本のロールが出来上がっている。その客人の中に、60年代のポピュラー・ミュージック・シーンのトップに躍り出た男が映っているのを見逃してはいけないだろう。それはビートルズのプロモにやたら顔を覗かせる、あのイヤラシイを絵に描いたようなミック・ジャガーの事ではない(もちろん映ってはいるけど、いつもの事でしょ)。ジョン・レノンと何やら神妙に語りあう姿がばっちりと抜かれているその男こそ、アメリカが生んだ偉大な才能ロバート・マイケル・ネスミスに他ならない。
一部の人にはマイケルというよりも、マイクと愛称で呼んだ方が馴染みがあるかもしれない。マイク・ネスミスは伝説のバンド・THE MONKEESの一員として、その冠TVショウで世界中のティーンを虜にした人物としても知られる。といっても、マイクはどちらかといえばTVの中では主役ではなかった。マイクの、いやマイケルの舞台はあくまでもレコードの溝の中にある。モンキーズというこのふざけた名前のロック・バンドの人気は、とにかく尋常ではなかった。そしてあまりにも儚かったが為に、とかく馬鹿にされやすい対象になりやすい側面が強い。やれ演奏が出来ないとか、金の為に作られた操り人形だとか、とにかくおよそ正当な評価の対象にはなりえないらしい。確かにそれはその通りだ。ビートルズ人気にあやかって、二人の俳優と二人の無名音楽家を無理くりでっち上げ、アメリカのエンターテインメント業界が持てる力の全てを注いだといっても過言ではない事実がある。けれど、またしても断言させてもらうと、ザ・モンキーズの名で大ヒットを飛ばした幾つかのアルバムは、決定的に60年代の音楽シーンを代表する名アルバム足りえている。モンキーズのアルバムの完成度は、ある側面から見ればビートルズのアルバムのそれを遥かに凌いでいるに違いない。圧倒的なバラエティの豊かさ、粒揃いの名曲が目白押しであり、簡単に言えば50年代から60年代にかけてのポピュラー・ミュージックの歴史を包括した総決算である。底抜けに明るく甘〜いアイドルの王道ともいえるデイビー。ヤンキーの権化ミッキー。お間抜けでいて最もロックを感じさせるピーター。そして無骨なカントリーの魅力に溢れたマイクの四人組は、明らかに計算以上の力を発揮している。これはもはや運命以外の何者でもない、完璧なチームワークであったとも言えはしまいか?彼らの人気は一瞬ではあるが、ビートルズをも確実に凌いだのは某音楽雑誌の人気投票を確認するまでもなく明らかだ。モンキーズは(一瞬に過ぎないが)世界一のロック・バンドになったという歴史は、どんなに泥を塗りかけようが消える事のない事実であるのは認めるべきだ。バンドと言うからそもそもおかしくなるのだ。グループ。そう、グループがいいじゃないか?ジャクソン5みたいなものだよ、要するに。
その中で唯一、本物の音楽的才能を秘めた男がマイケル・ネスミスである。彼の手腕は驚くべき事にモンキーズのファースト・アルバムから既に全開である。アメリカの叡智を結集した楽曲の中にあって、マイケルの手になる「Papa genes blues」の出来は一歩もひけをとらないし、あのキャロル・キングとマイケルの合作「Sweet young thing」はアルバムの顔ともいえる傑作だ。マイケルは1966年の時点でカントリー・ロックを完璧に実現したパイオニアである。カントリー・ロックの祖といえばグラム・パーソンズやボブ・ディランなんかを頭に浮かべる人がいるかもしれないが、例えばグラムがバーズを乗っ取って1968年に「ロデオの恋人」を作り上げたのをカントリー・ロックの走りのように言われる事があるが、あれはどう聴いてもロックバンドが作ったただのカントリー・アルバムに過ぎないし、ロックしているのはクラレンス・ホワイトだけだ。バーズはその後クラレンスを擁して、本当にカントリー・ロックを実現した。二枚組みの「(Untitled)」は私にとっても宝物のようなカントリー・ロックの名盤中の名盤である。一方、グラムもフライング・ブリトー・ブラザースで意地を見せた。「黄金の城」はアルバムとしてのカントリー・ロックの礎と言っても差し支えあるまい。ボブ・ディランに至っては、根っからのカントリー血統からフォーク、そして純粋なカントリーを経てロックに移行した人物でカントリー・ロックとはあまり関係がないような気がする。無論、ディランの凄さはそんなどうでもいい事は言うのも野暮か。ディランはディランというジャンルを持っているのだから。その後もマイケルの才能は衰えを知らず、モンキーズの土台の部分をきっちりと固める仕事をした。そして1969年には自らカントリーの聖地ナッシュビルに赴き、地元のミュージシャンをかき集め録音した「Listen to the band」をシングルとして発表する。カントリー・ロックの初シングル・チャート曲といっても過言ではあるまい。最もマイケルがストーン・ポニーズに提供した「Different drum」をそれとしても構わないが。あれは1968年発表だったよね。ストーン・ポニーズのボーカルであるリンダ・マリア・ロンシュタットはその後ソロに転向して、後にイーグルスとなるメンバーをバックに、やはりカントリーとロックの融合を模索した。この後イーグルスにしろ、リンダ・ロンシュタットにしろ、ポピュラー・ミュージック・シーンにおいて共に頂点に立つのはもはや言う必要もないだろう。一方マイケルは、ペダル・スティールの名手レッド・ローズを相棒に据え、モンキーズに見切りをつけ自身のバンド、そしてソロへと歩み始める。ちなみにモンキーズ在籍のラスト・アルバムには、[Good clean fun」なるブルーグラス・ロック!!の良作が華を添えている。いやはや、本当に凄い才能だ。
モンキーズ脱退後、ファースト及びセカンド・ナショナル・バンドを率いて「シルバー・ムーン」や「ジョアンナ」といったスマッシュ・ヒットを世に出したマイケルだったが、その才能に見合う活躍だったかといえば疑問が残る。そこにはモンキーズというあまりにも大きな存在の負の遺産が、重たくのしかかっていたのも事実だろう。少なくとも、その先はよほどのマニアでなければ、ここ日本では{あの人は今}状態で消え去った元有名人の一人になってしまったようだ。傑作の名に恥じないナショナル・バンド三部作も、「And the hits just keep on comin’」も「Pretty much your standard ranch stash」も「Infinite rider on the big dogma」も「Prison」も、そして最高の本当に最高の「シルバー・ムーン」が聴けるライブ盤「Live at palais」も、どうやらなかなか手に入りにくい状態のようだ。某サイトのユーズド商品で高値で取引されていたりするが、これらの良作は正規の値段で気軽に楽しんで頂きたいし、試して頂きたいというのがファンとしての正直な心境だ。ネットでの不当な高値は、本来野放しにしてはいけない問題ではないのか?コンサートのチケットを観る気もないのに購入してオークションで売りさばく人が少なからず存在するようだが、ファンからすればこういう人々はぶっ殺しても飽き足らない程怒り心頭だという事を興行主にはもっと理解して頂きたいものだ。コンサートのチケットは身元確認を徹底して、転売は原則禁止にする必要があるのではないか?多少の面倒はファンは我慢するでしょ。だって私達は、純粋にただ観たいだけなんだから。他国でレッド・ツェッペリンのライブが10万とか値段がついているようだが、鼻くそに10万払うか?と笑ってばかりはいられないのだよ、私達は。
本当は誰が先とか後とか、そんな事はどうでもいい事なんだけど。少しでも人に興味を持ってもらいたくて、今回は少し頑張ってみました。マイケル・ネスミスが、もっとたくさんの人に知って楽しんで頂ければ、一ファンとしての切なる思いです。世界にはまだまだあなたの知らない名曲がある。もちろん私も知らない名曲がたくさんあるはずで、そういうものの情報交換がインターネットの一つの大きな力なんでしょう。あなたの{好き}を教えてください。私の{好き}は今日の所はロバート・マイケル・ネスミスでした。ここまで読んでくれたあなた。本当にありがとうございました。
で、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のジョンとマイケルは、一体どんな話を交わしていたんでしょうか?共に身動きもとれない人気者同士、世間の悪態でもついて気晴らしをしていたのかな?今度一緒にアルバム作ろうぜなんて、社交辞令を交わしていたとか?ジョージのやつ、パティをクラプトンに寝取られやがったなんて、少し笑っちゃってたとか?いやぁ、想像が膨らむなぁ。映像の力は素晴らしい。記録として残るだけではなく、こうしていつまでも人を楽しませる力を持っているんだもの。そうではないか?
「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」 1967 イギリス
音楽・主演 ザ・ビートルズ
出演 ロバート・マイケル・ネスミス
子供の頃に熱中して忘れようにも忘れられない物が、誰にでもあるんだろうと思う。私にとって、どうしても忘れられない映画があるとしたら、それは劇場映画ではなくTV映画{土曜ワイド劇場の1シリーズ}である。江戸川乱歩の原作を自由気ままに脚色し、タイトルに必ず美女の文字が入る事から、このシリーズは美女シリーズと呼ばれている。江戸川乱歩の代名詞でもある私立探偵・明智小五郎に扮するのは、もちろん天知茂をおいて他にいない(実際は他にも存在するが、そんなのうぇぇぇぇぇである)。天知茂(あくまでも茂の明智)の美女シリーズは全部で23作品にも上り、どれが出来がいいだの悪いだのというのは野暮というものだ。個人的には、23作全てをもって一つの作品であると言いたい。ファンならDVDのBOXセットが、AVコレクションの棚にいちだんと目立つように鎮座しているはずだ。といいながら、私は市販のDVDは音楽関係以外は一枚も持っていないので、残念ながらTVから録画したVIDEOテープのみだ。ここ何年もVIDEOデッキには触っていない(正常に動くかどうかも怪しい)し、ばらんばらんに録画されている上に私の辞書には整理整頓という文字はない。その膨大なテープの山から全23作をピックアップするのは、もはや神の領域に踏み込むようなものではないか。人の一生など短いものだ。後ろを振り向いている時間など、誰にもありはしないのだ。観たいと思うものを観るのではなく、今そこにある物を観るべし。これは常々私が自分に言い聞かせている文句である。言い聞かせているだけで、別に守ってはいない。それでいいのだ。起つべき時に起つのが男である、と。いかな場所、いかなシチュエーションであろうとも、起つ時は起つものなのだよ御婦人方。残念ながら固さは25歳位がピークなんだろうけど、そこからは小技を磨いていくのですよ。中学校の林間学校?か何かで、同級生達のほとんどで風呂の縁に男の男たる部分をずらりと並べて、みんなで見比べた(大きさを競いあった・・・アホやねぇ)記憶があるが、私のそれは決してえばれるサイズではなかったなぁ。あの悔しさは生涯忘れる事はあるまい。そして、天知茂の勇姿も、たとえ見返したりしなくても生涯忘れる事はあるまいなのだ。そういう事である。世界は万事そのように形づくられているものではないだろうか?んっ?
観なおす機会があろうとなかろうと、私はこのシリーズで使用されていたBGMをほとんど全て今でも口ずさむ事が出来る。実際に、気づくと口ずさんでいる時があるから怖ろしい。都内の電車内で、それらを口ずさんでいる人を見かけた事があるという、あなた。それは{お前は誰だ?}{まだお気づきになりませんか?}ぺりぺりぺり(と、マスクを剥がす){あ、明智・・・死んだはずじゃ}ならぬ、私に間違いない。もしくは、私のクローンに違いない。正体現し時にかかる曲、あったねぇ。他にもオープニングに多用されたメイン・テーマらしき曲や、車での追跡シーンにいつも使われていたあの曲。そして意味もなく必ず挿入されていた入浴シーンで毎回流れるあの曲。あれは名曲だよね。街であんな曲流されたあかつきには、至る所で男達が股間をもぞもぞとさせるに違いない。変な液ぐらい出ちゃうんじゃなかろうか?・・・すいません下品で。しかし、男の子にとっては、このシリーズはそういうものもコミだったという事を私は言いたいのですな。別にナニがナニしてナニなんだと松本零士みたく言いたいわけではないのです。ばってんナニがナニをアレでナニの・・・みたいな。とにかく音楽はすこぶる良質だったんですよ、美女シリーズは。まだ毛も生えたか生えてないかの私は、ギンギラギンにさりげなく状態でTVに釘付けでした。もちろん、音楽にね。聞き惚れてたんですよ。アンテナがピキーンって。放心状態ですよ、音楽にね。えへ。
気持ち悪くなってきたので話題変えますね。かつて小学生だった頃に、わざわざバスで30分かけて図書館に毎週通っていた事があります。家の近くには図書館なかったんだねぇ、きっと。小学生の私を本の虜にしたきっかけが、実は江戸川乱歩なのです。なんで江戸川乱歩を読み始めたのかは、憶えてません。なんででしょ?美女シリーズが先だったのかなぁ?それすら分かりません。もちろん江戸川乱歩にハマル前にも本を読んだ事ぐらいあったんでしょうけれど、むさぼるように読み出したのは乱歩だよね、絶対。ポプラ社から出ていた少年探偵団シリーズでした。「青銅の魔人」とか「妖怪博士」とか「夜光人間」とか、題名もしっかり記憶にあるほどです。全何巻かは忘れましたが、とにかく毎週一冊か二冊か借りて読破しました。何があんなに面白かったんでしょうか?子供の考える事は分かりませんねぇ。自分自身の事すらすっかり忘れています。大人って・・・。読み終わってしまってからは、それに代わる本を探すのに懸命でしたね。同じ物を何度もっていうパターンは、この頃から既に私にはなかったですね。で、やっぱり似たような物を見つけ出すんです。それがモーリス・ルブラン。言わずと知れた怪盗紳士ルパンの生みの親です。「ルパン対ホームズ」という本があって、それをきっかけにコナン・ドイルに触手を伸ばしたりして。で、このホームズで私の推理小説の歩みは、実は止まっています。アガサ・クリスティとかエラリー・クィーンとか、有名どころは一冊ぐらいは読んでいますが、それ以上は絶対手を伸ばさなかったですね。私はトリックとか謎解きだとかには、あんまり(いまだに)興味が持てなかったんですね、明智先生。コナン・ドイルにたどり着いた私は、ホームズではなくチャレンジャー教授に魅かれていきました。恐竜物の古典であり唯一無二ともいえる傑作「ロスト・ワールド」を読んでしまったからなのです。以後、成長した私は図書館から古書店へと舞台を変えて、端からみたらくだらない本をしこたま買い漁るわけです。ハヤカワSF文庫なんてナンバー1から900ぐらい(ローダン・シリーズは省いて)の辺りは、ほとんど持っているんじゃないだろうか?ダブリもあるのが情けないですが。サンリオSF文庫やらソノラマ海外シリーズやら、ごまんとありますねぇ。ただし十数年ぐらい前に、少なくともSF小説には全く興味がないと(遅いんだよなぁ、いつも)はたと気づいた私は、いわゆるSFという小説は一切読まなくなりました。やはりスティーブン・キングの影響ですかね。キングの「呪われた町」を読んで以来、今度はホラー小説なるものに心を奪われ、クーンツだのマキャモンだのあんなのからこんなのまで、ごまんとありますなぁ。実はそれすら数年前から興味が薄れ、最近では本当に雑種犬状態です。面白ければ何でもいいと、ついにノン・ジャンルの人になりました。映画も同じですね。実はどんなのだっていいんです。もう、そんなもんです。それでも怪奇・幻想・耽美みたいな物に最も魅かれるのは、やっぱり江戸川乱歩が根っこなんだからなんでしょう。何故って、やっぱり乱歩は素晴らしいですよ。三島よりも、川端よりも、宮沢賢治よりも、私は乱歩道を邁進しようと心に決めました。無論、決めてみただけですけど。
時には自身のルーツを見返してみるのも悪くないものです。たまたまCSで放送していたので、久し振りに観てみたんですけど、やっぱりいいなぁ美女シリーズ。人間は年齢を重ねる事に微妙に変化し続ける生き物ですが、根っこの部分はやっぱり変わりはしないものですね。大人が一番大事にしなければならないのは、自分の事なんかじゃなく子供の教育なんじゃないかと、しみじみと感じ入りました。全国のお父さんお母さん。そろそろ男とか女とか止めにして、父親母親になってみませんか?未来とは、やっぱり子供の為にあるんじゃないのでしょうか?
「五重塔の美女」 1981 日本
監督 井上 梅次
主演 天知 茂 片平なぎさ
わざわざ冒頭にあってもなくてもいい駐韓米軍のシーンから始めるぐらいなので、この映画は反米意識がまずありきの映画なのだろう。自分達の手にあまる巨大な暴力に対して、世界という大きな視野に全く関心のない一家族が嫌も追うもなく巻き込まれていく様をコミカルに描いているのは、ちょっとした自虐風刺に近いものがある。良くも悪くも、何か問題が起こると山となって反旗を翻す人々が群れをなす韓国の人々と、何でもかんでも見てみない振りをして陰でぐちぐちと文句をこぼすだけの日本の人々は、一体どちらがまともなのだろう?
最近は自己責任という言葉が頻繁に聞かれるようになったが、この言葉がもっと大勢を占めるようになった社会というものを考えると、私は薄ら寒い気がしてならない。少なくとも国が、個人に対して自己責任を押し付けるのはいかがなものか?どこかの馬鹿が愛人のご機嫌取りの為に盗んだ金のおかげで、自分が積み立てていた金を正当に還元されない人が存在するのはやはりおかしいだろう。その減らされた受給額のおかげで国の壁に阻まれて寿命が一日でも縮まった人がいたとすれば、それは立派な殺人幇助だよ。日本という国はカッコつけた体面と小賢しい屁理屈で、今日も国民の命というロウソクをばったばったと切り捨てている死神と同じだ。老後は人里離れた離島で、或いはいっその事海外で暮らすのを夢見る人が、昨今はだいぶ増えている。それは言って見れば、長年この国で暮らしてきてもう嫌んなっちゃったという人が増えたという事だ。先人達が見放した国に残されてしまうこの国の子供達は、その後姿をどう見て感じているのだろう。残された老人達は、やれ介護負担だ医療費負担だと攻め立てられる。産婦人科医の不足を例に上げるまでもなく、この国の医療の現場はすでに崩壊しているようだ。国ははっきりと口にしないだけで、とりあえず貧乏人は長生きしないでよと囁いているではないか。こんなに怖ろしい国もあったもんじゃない。
消費税の引き上げ。これは当然の成り行きだろう。普通に人として考えれば、それ以外に何をしようっていうんだ?実は国民は誰もがそう思っているのではないだろうか?日本の人口は完璧な逆三角形である。ある程度の年齢に達すると、人間はあちこち悪くなるのは当然だ。この惑星の上には、平均寿命が30歳に満たない民族だっているのだ。短い短い命を、人類は長年の望みである不死に向かって全力で知恵を絞ってきた。日本の平均寿命の長さというのは、これは誇るべき記録だ。日本の現状を見ていると、そろそろそれも限界という気もするが、ここで諦めてしまうには惜しいとは思わないだろうか?こういうものは一度下がると、笑ってしまうほど続落していくものだ。全ての人類は生きる権利がある。老人だって出来る事なら、みんな長生きしたいと望んでいるはずだ。だったらさせてやろうではないか。それは自分達の未来への手助けだ。人間なんて二十歳を過ぎれば、あっという間に老人だ。十年なんて飛ぶように過ぎていくぞ。そうではないか?そしてそれを支えるのは、この国に生まれた義務だろう。だったら目一杯の負担も仕方がないよねぇ。食料等生活に最低限必要なものは、現状の消費税でいいだろう。嗜好品や贅沢品に関しては、消費税最大80%頂きましょう。車?煙草?ゲーム?当然80%でしょう。エステ?化粧品?へそピアス?間違いなく80%でしょう。嫌なら辞めればいいでしょう。それでも俺は車に乗るという真の車好きだけが、車に乗ればいいのです。いやぁ、きっとモテルでしょうねぇ。フェラーリなんか乗っていれば、股を開かない可愛い娘チャンはいないかもね。素晴らしい。なんて素晴らしき世界。派手な化粧で夜の蝶を気取った女性なら、日本中の男を手の平で転がせるかもしれないね。高い金払って自分に投資した分以上のものを、あなたは手にする可能性があるわけだ。イケメンもオタクも自由自在。素晴らしい。なんて素晴らしき世界。そしてたんまり蓄えられた税金は、全ての高齢者達の未来の為に使ってもらいましょう。医療費は全てタダ。年金も全ての高齢者に分け隔てなく平等に配当しましょう。日本中に蔓延する、笑うおじいちゃんの姿。元気はつらつのおばあちゃんの姿。高齢者達は若者に感謝の念を持つだろう。若者はそんな高齢者達を誇りに思うだろう。子供達も笑う家族に確かな明るい未来を感じて、にこやかに微笑むのだ。みんなが笑ってる〜。お日様も笑ってる〜。る〜るる、るるっる〜。今日もいい天気〜である。これでいいのだ・・・ZZZZZZZ・・・・・
・・・・・おっと、いつの間にか寝てしまっていたようだ。どんなに楽しかろうと夢は夢か、夢とは儚いと同義なんだね。叶わないから夢なんだ、と誰かが言っていたが、実に夢のない言葉ですね。いやだねぇペシミストは。願い続けていれば、いつか夢は必ず叶う、って言ってた人もいましたね。馬鹿製造機と気づかずにドラえもんに依存し続ける、のび太みたいな言葉ですね。いやだねぇオプティミストは。私達が日々生活をしている世界が現実だと言うのであれば、私達はまず現実を語らなければいけないはずです。夢を語るのはそれからでも遅くはないのではないでしょうか?世界の建築家が先日亡くなりましたね。日本から稀代の人物が、また一人いなくなりました。日本生まれの数少ない天才でしょう?実は私は彼に投票した事があります。一度ならず二度ね。友人には鼻で笑われましたねぇ。何ででしょう?アホみたいな選挙活動の彼を、さんざ見せつけられたからですか?私は別に現実逃避をする為に、彼に投票したわけではありません。天才とは何か?私はその答えを、努力する大切さを身に沁みて知っている人の事だと思っているわけです。一芸に秀でるものは、という言葉は戯言ではありますまい。何をするにしても、その基本は全て同じだと思うのです。まぁ、半か丁かみたいな所は確かにありましたが。人生はギャンブルなり、とも言いますし。競馬でも私は穴党でありますし・・・。
で、消費税ですが。要するに、猿に金を上げる事になると国民が思っているから、皆が反対するわけです。それはそうだよね。そう思わせるだけの所業を、これでもかと見せつけられているのが現実なのですから。嘘とインチキで塗り固められたこの国の未来は、このままでは果てしなく暗いのでしょうね。せめて韓国ぐらいの元気があればねぇ。もしかしたら、もうとっくに政権は変わっているのかもしれないなぁ、と思うわけです。そうなっていたとして、民主党はコケルでしょう。その後はどうなったんでしょう?コケてコケてコケまくるのかな。流転の日本国。それでも現状維持よりも、ずっとましなんじゃないのかなぁ。だって世界はギャンブルなんだから。
で、「グエムル」でしたっけ?グエムルって何ですか?何か気になる響きですけど、訳わかんないなぁ、グエムル。映画自体の面白さは、正直ピンと来ませんでした。怪獣にしたらいいんじゃないって、単純に閃いたんでしょうね。で、でっち上げて見たら、こんなの出ちゃいましたって所なんでしょう。監督の狙いは、韓国の人には十分伝わったのでしょうね。日本人にはどうでもいい映画なのかもしれません。日本人は皆、自分の事で忙しいですから。私は、何となく羨ましい気がしました。昨今の韓国映画の良さ(もちろん、どうでもいい映画もたくさんありますが)は、やっぱりその潔さにあるのではないでしょうか?言葉は足りないですが、要するにナニガシカのパワーをいつも感じます。それは凄く大事な事なんでしょうね。
「トレマーズ3」みたいに、次は飛ぶのかな?星条旗つけて。
「グエムル 漢江の怪物」 2006 韓国
監督 ポン・ジュノ
主演 ソン・ガンホ ピョン・ヒボン
「白い風船」は贅沢さの欠片もない映画で、こういう映画はかつて日本にもたくさん存在していた。今、日本映画にそういうものが存在しないという事実は、見方によっては喜ばしい事であるともいえる。その一方で、現在の日本映画が失くしてしまったものを考えると、それが本当に日本人にとって良かった事なのかどうかは、疑問の余地が残ると言わざるをえないのではないか?
イラン映画についての私の知識なんて、ないに等しい。知ってる名前といえば、アッバス・キアロスタミぐらいのもんだ。キアロスタミの作品を観た経験のある人なら分かって頂けると思うが、現在世界に存命中の映画監督としてはキアロスタミはその十傑に数えられても何ら不思議のない優れた映画監督である。ここ日本でもキアロスタミの作品は、比較的簡単に観る事が出来る。その事実が、端的にその優秀さを示しているのではないだろうか?最近では日本人にとって、はなはだ遠い国になってしまった感のあるイランだが、「白い風船」に描かれるテヘランの人々の姿は、当たり前の話だが何ら私達と変わりがない。その一喜一憂に、私達は容易に感情移入する事が出来る。彼らの悲しみを同じように悲しく感じる事が出来るし、彼らの苛立ちを同じようにイライラしながら感じている自分に気づかされる。人の原始的な感情に、政治や宗教は関係がないのだろう。彼らがすぐ隣に住んでいたとしたら、何の躊躇もなく挨拶をし、食事をし、Hな話をにやにやしながら語り合っていたとしても不思議だとは誰も思わないのではないか?残念ながら私には、イラン人の友人はいない。というか、日本人でイラン人を友人に持つ人が一体どれだけいるのだろうか?この一点だけを見ても、日本という国が目指している気になっている国際化というものが、いかにも眉唾ものの国際化であるのではないかと、個人的には常々疑問に思っている。制度や数字をひけらかしてその国と日本を比較する事は多いが、風土や歴史が違うのだからその比較にどれだけの有用性があるのかは実際には分かろうはずもない。
日本の歴史は、他国の知恵を取り入れ続けた歴史でもある。古代では現在の朝鮮や中国から知恵を授かり、近代ではヨーロッパにその範を求め、大戦後はアメリカから多くのものを学んだ。日本という国は、正しく物真似によって発展してきた国だといえる。これは別に卑下するような事柄ではなく、人間の成長には欠かせない要素でもある。試しに、世界に名を残す芸術家達の言葉を拾い集めて見れば、それは一目瞭然の事実だと分かる。皆、最初は模倣から始まるのだ。しかし、重要なのは物真似で終わるのではなく、そこから脱却して自分自身の存在に裏打ちされた自己の技へとシフトするという点である。もう長いことメジャー・リーグで活躍するイチローは、もはや誰にも似ていないではないか?自分の体格や特徴を組み合わせ、模倣のまま終わるのではなく、より上手に発揮できるように発展、変換させた結果であるのは当然だろう。そのように自身の優れた部分を巧みに取り入れた模倣を、人はオリジナルと呼ぶのだ。オリジナルはゼロから生まれるものでは、決してない。というか、ゼロから生まれるモノなど、この世には存在しないのだ。今ある全ての科学技術も芸術も、ある日突然ぽっかりと何もない所から現れたわけではない。そこには必ず気の遠くなるような歴史があるのだが、最近ではその地道な部分をないがしろにする人が多いようだ。ただ何でもかんでも{よい}と思われるものを取り入れた所で、実は何の役にも立たない場合が世の中には実に明解にある。現在の日本が抱える問題は、この辺にも隠れているとは思わないだろうか?これから日本は何を模倣して生きていけばよいのでしょうか?そして、近年に至っては、模倣をどれだけ自身の物として咀嚼、展開させてきたのだろうかという部分はどうだろう?日本はもうそろそろ大人になってもよい国なんじゃないでしょうか?{もったいない}という言葉が世界で随分と活躍していますが、日本人は{面倒くさい}という言葉を肝に銘じなければいけない気がします。{面倒くさい}事は切り捨ててしまっていいのでしょうか?これは私自身への、強いメッセージでもあります。私は本当にしょーもない程、面倒くさがりなのです。情けないねぇ。
直接的ではないにしろ、映画によって他の国を学ぶ機会というのは多々あります。「白い風船」を観て、イランという国(或いは国民)にちょっとした好意を持つ人は必ずいるでしょう。昔の日本人は、華やかやハリウッド製の映画に憧れたものです。今、ハリウッド製の映画に憧れる人は少ないのではないでしょうか?それは、日本という国の豊かさがアメリカのそれに限りなく近くなった事を意味します。もはやハリウッド製の映画に憧れるのではなく、その傲慢さや金満ぶりに逆に反感を抱く日本人が増えている気がします。遠くの金持ちには関心を示さず、すぐ近くの小金持ちにはやたら対抗意識を燃やす人っているじゃないですか。日本とアメリカというのは、実はそれだけ近い国になった証拠なのでしょう。日本はアメリカの属国だとか、自虐気味にいう人はとても増えています。もしかしたら日本は、親離れがしたくても出来ないジレンマに苦しんでいるのかもしれません。そう考えると、アメリカという母親にべったりとくっつき甘えながらも時々生意気にわがままを口にする日本という国の姿は、そのまま私達日本人の姿を現しているようで笑ってしまいませんか?その国の国会議員を見れば、その国の国民のレベルを正確に捉えているのが分かります。安部元首相はさんざマスコミに非難されていましたが、日本の国民なんて(私も含めて)あんなもんでしょうって事です。小泉首相がいまだに人気があるっていうのが、個人的には怖ろしい国だなぁと感じますが。それはまた別の話。
政治家と同様、映画の人物達もその国の国民をある意味で浮き彫りにしているのは間違いありません。そう考えると、「白い風船」に登場する人物達も様々な解釈が成り立つわけです。イランは映画に対する検閲がとても厳しい国だと聞きます。そういう国であるからこそ、むしろ逆に映画に込めるメッセージは強いはずです。ただ単純に、この映画を子供の視点から描いた可愛らしい物語と評するのは簡単です。それも正しい映画の見方でしょう。こんな可愛らしい子供達を、近い将来国益の名の下に殺しまくる日がくるかもしれません。その時私達は、また見てみぬ振りをしなくてはいけないのでしょうか?日本の全国民がこの映画を観て、イランになんか知らんけど何となく好意を持ったとしたら、ほんの少し何かが変わるのかもしれません。また子供達の立ち居振る舞いに、接する大人達の態度に、ほんの少しの金がなくて故郷に帰れない兵隊さんに、風船を売って必死に生きていく道を探している少年に、製作者が込めた思いを考えて(時にはその背景を知る為に努力をして)みるのも、また正しい映画の見方なのでしょう。それによって何かを感じたとしたら、或いは何らかの知識を得たのだとしたら、きっとその映画は成功したといえるのではないでしょうか?
知らない国の映画の映画を観るのは、とても楽しいですね。いつの日か、イランに日本人が気軽に旅行出来るようになる時が来るのを、心から願ってやみません。
「白い風船」 1995 イラン
監督 ジャファル・パナヒ
主演 アイーダ・モハマッドローニ モーセン・カリフィ
実に馬鹿げた映画というものがあるもので、「麦の穂をゆらす風」はその最たるものかもしれない。この映画に感動する人はいないのではないだろうか?それはこの映画が、見事に人間を描ききってしまっているからだ。人間なんて、こんなもんに違いない。馬鹿げた生き物である。やれ泣けるだのなんだのと、くだらない三文映画が蔓延る世の中にあって、少しでも真摯に客観的に人間を描こうとすると、身震いするほど怖ろしい映画が出来上がるというわけだ。人間そのものを真正面から描いたというだけで、この映画は賞賛に値するし価値がある。面白いとか面白くないとかいう次元の映画ではもはやない。つまらないから観なくてもいいと、言えない映画というものもあるのだ。
アイルランドの史実が基盤になっているからといって、この映画を語る際にアイルランドの歴史をつらつらと並べ語るのはナンセンスだろう。これは麦の話であって、風の話でもあるわけだ。つまりは世界中のどこにでも、またいつの時代でも存在する物語であって、その意味で普遍的な物語となっている。ケン・ローチ監督はイングランド出身だが、スコットランドやアイルランドといったケルトの国を舞台にする事が多いようだ。スティーブン・キングがその著作の大部分を、とり憑かれたようにメイン州に設定するのと同じようなものではないだろうか?普遍的な物語を自身のホームグラウンドの只中で消化するのは、より確かな信憑性を込めるのに役に立つはずだ。例えどんなにニューヨークについて緻密に調べ上げたからといって、ニューヨークに訪れた事もない人がその空気を表すのは至難の業だ。ソヴィエトが生んだ巨人アンドレイ・タルコフスキーが異国で製作した「ノスタルジア」や「サクリファイス」からは、そこはかとなくロシアの大地が見え隠れしているが、目に見えないものが心に感じられるというのは間違いなくある。恐るべき人の感受性。どんなに遠く離れても、人は生まれ育った場所の呪縛からは逃れられないのかもしれない。ケン・ローチはこの作品で、アイルランドの歴史を皆に伝えたいというよりも、アイルランドの歴史をうまく利用したという方がより適切なのではないだろうか?嘘八百を並べる時に、そういう歴史上の事実というものは実にお手軽な隠れ蓑になるという事を、一体どれだけの映画が証明してみせた事だろう。ただし、どれだけ巧みに織り交ぜられるかは、その監督の手腕が如実に垣間見えてしまうある種の諸刃の剣には違いない。この作品はその辺も絶妙だ。ケン・ローチという監督が、やぶさかでない才能の持ち主である事実は、疑いようもないと言えるのではないだろうか?ここにもまた一人、手練手管の嘘つきがいたわけだ。どうりで映画産業がなかなか廃れないわけである。世界は広い。そして才能は奥深い森にひしめいているものだ。
「麦の穂をゆらす風」では、二つの戦争が舞台となっています。占領軍である英国から、アイルランドが独立を求めた戦争が一つ。もう一つはその後のアイルランドの内紛。戦争というのは一庶民から見れば悲劇の大安売り状態を示すわけで、この映画の主人公達にもいい事は一つも与えられない。だから戦争はダメなんだとか、安易な反戦風が全くない所も、この映画の価値を一段高めている要因になっていると言えるでしょう。この映画には一貫して善悪の区別が存在しないのだ。もちろん、ベトナム戦争以後ではそういう映画もごまんとあるわけだが、それでもここまで徹底的に登場人物達を突き放した映画はなかなかないのではないだろうか?私達は、誰にも感情移入をさせてもらえない状態で、最後まで映画に振り回される事態に直面する。なんだかんだいって、いかに勧善懲悪に慣らされてしまっているかを痛感するではないか。よく、夢ばかり語る人を夢想家なんていうが、あれは嘘ですよ。ねてもさめても夢、夢、夢って人は、実は夢なんかないんでしょ。金、金言ってる人は貧乏人だし。幸せ、幸せって言う人は不幸せな人なんだろうし。理想の男性は優しい人っていう女性は、基本的に自分は優しくないでしょ?違いますか?要するに、自分が持っていないものを人に託すわけです。人間って基本そういう生き物です。私は絶対浮気しないって公言する人は、ほぼ間違いなく浮気します。これは私の経験から言っても間違いないですね。全然関係ない話でしょうか?そうかもしれないし、そうでないかもしれない。世の中にはやたら戦争に対してNOを連発する人がたくさん存在しますが、戦争が無くなる兆しはありません。戦争反対とシュプレヒコールを掲げる人と、浮気なんかするわけないじゃんと公言する人に、一体どれだけの違いがあるのでしょう。浮気がバレてしまい追い詰められた人は、泣き喚いて許しを懇願したり、開き直って逆ギレしたりして自分を正当化しようとします。浮気は文化だと言った人もいましたよね。じゃあ戦争も文化なんじゃないの?戦争に出向いて人殺しまくっちゃったけど、それは仕方がないでしょう戦争なんだから、と言った人がいるとします。これは見方によっては、ただの逆ギレでしょう。
日本はアメリカ相手の大戦で敗れてしまいました。そしてその後は一切戦争をしていない国だなんて、自慢げに言ってみたりします。本当でしょうか?時の政府はテロ特措法の延長を決めるのに必死です。国際貢献というお題目を掲げていますが、どの国際を指しているのでしょうか?野党は野党で日本国憲法を平和憲法と勝手に決め付けて、テロ特措法は憲法違反だのなんだのと喚きたてます。何を根拠に平和憲法などと言っているのでしょうか?そもそも日本人の考える平和とは何なんでしょう?
昔、戦争を題材にしたボード・ゲームが欲しかった事がありました。まだ小さかった私はそれを手にいれる立場にはなかったわけですが、コンピューター・ゲームの発達により、TV画面で簡単にそれらを楽しめる時代がやってきました。戦争シュミレーション・ゲームという類のものです。その手のゲームをやった事がある人は分かると思うのですが、戦争とは基本消耗戦だという事です。無敵の戦艦も戦闘機も存在しません。アメリカが求める無傷の勝利なんてものは、現実はおろかゲームでさえあり得ないものです。やってはやられ、潰しては潰され、その駆け引きがゲームとしては面白いわけですが、そこで一番重要な要素は何かと問われれば、補給であると断言出来るでしょう。戦争において最も重要な要素は、ずばり補給です。補給のない戦争などあり得ません。補給こそが戦争継続の為に最も必要な要素であり、勝敗を決める全てであるといっても過言ではないでしょう。日本は朝鮮戦争やヴェトナム戦争という冷戦の縮図をきっかけに急成長を遂げた国です。どうして急成長したのでしょう?湾岸戦争にしても、イラク戦争にしても、日本は戦争において必要不可欠な部分を担ってきました。日本は大戦後一切の戦争をしていないという言葉は、スティーブン・キング風に言えば骨の袋です。テロ特措法に対してある記者が{燃料の給油をしたあとに、戦場にその燃料が使われた事はないのか?}というような質問を投げかけた場面がありました。日本政府は{給油の後は、その国の裁量にまかせてあるのでわかりません}みたいな答えをするわけです。もの凄く笑える質疑応答ではないですか?質問が茶番なら、回答も茶番。これが、日本という国の根本的な姿勢であり、美しい国の正体です。この国のやってる事は、嘘ばっかりだ。子供達がそう思っていたとして、誰がそれは間違いだと言えるのでしょう?社会保険庁の問題にしても、必ず中には一生懸命真面目に働いている人もいますとコメンテイターが意味のわからんフォローを付け加えたりするのがこの国のニュース番組ですが、あれもどうなんでしょう?イジメが原因で自殺者を出してしまったクラスの、見て見ぬ振りをしていた傍観者達に、君達は真面目に懸命に知らん振りをしていたのだから何も気にしなくていいと言うのと大した違いはないのではなかろうか?或いは、何も気づかず他人に全く干渉せずにぽかんと過ごすのが、人間の正しい姿だと力説したいのでしょうか?
人は嘘をつく生き物だ。それは紛れもない事実だ。そして最も忌まわしく、そして悲しいのは、人は自分にすら嘘をつかなくては生きていけない生き物だという事だ。嘘をついては、それを誤魔化して歩く獣。何かに責任を転嫁し続ける哀れな獣。そんな馬鹿げた生き物の姿を、「麦の穂をゆらす風」は冷静に見せつけてくれる。この映画は観ていて楽しい作品ではないし、感動するには程遠い内容だけれども、単純につまらないという言葉で片付けられない重さがある。
「麦の穂をゆらす風」 2006 イギリス・アイルランド・ドイツ・イタリア・スペイン
監督 ケン・ローチ
主演 キリアン・マーフィ ボードリック・ディレイニー
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