DARK TALE OASIS

主に映像作品にふれて、思った事を書いていきます

「ハチミツとクローバー」を思う

自由になるという事は、孤独になるという事に等しい。少なくとも、携帯電話にしがみついている人には、自由は決して訪れはしないだろう。他者への依存は、自由から遠ざかる道でしかない。
 一人であてもなく遠く異国の地を歩いていると、とんでもなく寂しい気持ちになったり、悲しい気持ちになったり、ようするに切ない気分になる瞬間が突然訪れたりするものだ。それは何も気にやむ事もなく、もの凄くリラックスしている状態の時に限って感じたりする。
 アイルランドの片田舎で、大して有名でもない城を暇つぶしに見に行った事があった。十分も歩けば、端から端まで歩けてしまうような小さな町。二階建て以上の建物なんて考えた事もないような人達が集まり、店といえばちょっとした雑貨屋とアイルランドでは常識の無数のパブが軒を連ねているだけの町。町外れのB&Bに泊まっていた私は、宿の主人の作った朝食を見知らぬ年配の旅行客夫婦と共に食べ、リュック一つ背負って部屋を出た。「これからどこへ行くんだい?」と、主人に訊ねられて、別に予定もなかったけれど、「城を見に」と何気なく答えた。この町の外れに城がある事は、どの町にもある旅行者用の案内板で前日に見ていた。主人は軽くうなずくと片手を差し出してきたので、私達は握手を交わした。何となく楽しい気分になって、私の顔に笑みがこぼれた。主人もまた笑顔だ。一泊限りの間がらだけれども、何か繋がりのようなものが生まれるのを感じた。この主人はこの小さな町で、こうして世界中のいろんな人に毎日笑顔を見せているのだろうなと思うと、ちょっぴり羨ましくなった。世界中を旅する人と、小さな町で世界中の旅人に一泊の宿を提供して一生を終える人は、一体どちらが世界を深く知っているのだろうか?残念ながら、どちらにも縁遠い私には、その答えは永遠に分からない類のものだ。
 小さな町には不釣合いの立派な教会を見学して、道を一本渡ると、湖沿いに森の中の遊歩道がずっと続いている。旅行者用に城までの馬車があるようだが、貧乏旅行の私は当然徒歩で遊歩道を歩く選択をする。霧がかかっていて、森の道はやけに幻想的だ。オフ・シーズンなので、城までの長い道のりで人と出会う事はなかった。多分、ほんの三十分ほどのこの道のりで、私はもしかしたら初めて自由を経験したのかもしれない。
 カンボジアにふらりと訪れた時もあった。別にカンボジアに行きたかったわけでもないんだけど、安く旅行出来る場所を探していた時に、アンコール・ワットの写真を見てかなり衝動的に行く事にした。シェムリアップの町は、カンボジアの観光の拠点でもあり、かなり大きかった。宿泊を決めたホテルは小さな所で、従業員もこれでいいのっていうぐらい少なかった。空港等では結構目についていた日本人どころか、他の国の観光客すらほとんど見かけなかった。カンボジアでの最初の食事は、着いた時間が遅かった事もあり、ホテル内のレストランで済ませた。縦長のそれでもけして小さくはないスペースを持った店だったが、客は私一人だけ。スープカレーのようなものを一人でがっついている私を、店員が三人横一列に並んで少し離れた場所でニコニコしながら眺めていたのを今でも思い出す事がある。例え見知らぬ人でも、笑顔というものは悪い気はしないものだ。正直あまり美味しくはなかったんだけどね。
 翌日から適当にアンコール・ワットを見学していた私は、たまたま運よく日本人相手のガイドをしていた現地の人と話す機会があった。そこで、その人が気ままな一人旅の私にある人を紹介してくれる事になった。この偶然がカンボジアの私の旅を最高なものにしてくれたのだから、世の中本当に何が起こるかわかりはしない。正直、ちょっとヤバイのかな?とも思ったんだけど、まぁ出たとこ勝負的な気分になっていた。空港で記念写真を取り合った人(制服を着ていたので、多分空港の職員の人だと思うんだが、この人がまた面白かった)といい、ホテルの人といい、この旅はどこかツイている気がしていたからかもしれない。とにかく、明日の朝ホテルに連れて行くうんぬんの約束をして、その日は終わった。
 で、約束の朝。ホテルのロビーでぶらぶらしていると、彼がちゃんとやってきて友達とやらを紹介してくれた。彼は仕事があるからとそうそうに立ち去り、私と彼の友達ベントン君がぽつんとロビーに残された。ベントンは日本語がまるきし話せなかったが、英語はぺらぺらだ。普段は英語圏の旅行客のガイドをしているらしい。前日、約束していた額(現地で手配している日本人向けのミニ・ツアーよりもかなり安い額を提示されていた。無論、直接全額が彼のポケットに入るのだから、きっと割りのいい仕事だったのではないかな?)を手渡すと、ベントン君はまだ観光客向けのツアーが組まれていない、比較的最近発見された遺跡に案内してくれるといってくれた。ベントンの車(大阪の車検証が貼りついたままのTOYOTA)に乗り込むと、二人っきりのドライブがスタートした。車はどんどん街から離れ、道もぼこぼこの未舗装道路になるは、辺りに人の気配もなくなっていく。ほとんど無言のままドライブは続くんだけど、わかります?この緊張感(笑)大袈裟でなく、私は心の片隅で生命の危機を感じていましたね。今から思えば、この二時間あまりのドライブで見たカンボジアの風景は、普通の観光客では絶対に味わえないものだったのだろうけど、ちょっとそれどころではなかったねぇ。途中何回か通行の検問もあったし、あれは何の検問だったのかしらん。ベントンがお金渡してたりしてねぇ。けれど、とにかく目的の遺跡にやっと着いた時には、肩の荷がどどどっと下りましたね。森の中にあるその遺跡はそんなに大きなものでもなかったけど、観光客用の整備とかも全くされてなくて、気分はインディ・ジョーンズで実に楽しかった。まぁ何度か、そっちは地雷があるかもしんないから行っちゃダメとか止められたりしたけど・・・。二人で写真取り合ったりしているうちに、互いの気持ちがほぐれてくるのがひしひしと分かって、とにかく楽しかったなぁ。それからはもうただ楽しくて、街に戻っていろいろ観光地を回ってくれて、山の上から見た夕陽はそりゃもう最高でしたね。契約というか約束は夕方までだったんだけど、ベントンが呑みに誘ってくれて、現地の人しかいない店で安い酒のみまくって、あげくの果ては・・・まぁそっからはいいや。とにかく夜もどっぷりとくれるまで、楽しんじゃいました。互いに酔っ払ってたのもあって、ホテルまでの帰り道はもう二人で車内でずっと爆笑しあってましたね。何があんなに楽しかったんでしょうか?今となっては、まるで夢のようです。
 さて、人けのないホテルに戻って、私がした事といえば。その夜はベッドとトイレの往復でした。旅行で薬飲んだのは、この時の正露丸が初めてなんじゃなかろうか?向こうではビールを冷やしていないので、がんがん氷を入れて呑むんだけど、その氷だね、やっぱり。そして、トイレで一人唸りながら感じていたのは、祭りの後の寂寥感と自由だったのではないかと思うのです。
 「ハチミツとクローバー」は、何もない映画ですね。あきれるくらい薄っぺらな映画です。まともな人間が一人も出てこない映画は無数にあるし、それが逆に作品自体を面白くする場合もあるものですが、この作品ではひたすらマイナスにしか作用していません。違う星のファンタジーとでも言えばいいのでしょうか?その苦しみも悲しみも喜びさえも、何一つ伝わってきません。感情が存在していないという点では、何かの環境VIDEOに近いものがありますが、心に残るようなシーンも一つもありません。片想いは誰でも経験する、人としての一つの通過点であります。男と女がいたらSEXするのが当たり前の世の中だから、ひたすらプラトニックなものを美化してみようという試みなのかもしれません。それはそれでいいと思うのですが、それはひたすら幼稚なものを描くというのではダメなのではないでしょうか?少なくとも、まともな大人が観て楽しい映画ではないように思われます。この監督は片思いについて、一体どんな思いを秘めているのでしょうか?映画が薄っぺらだと、本人も薄っぺらな人生を生きてきたんだろうなぁと、目頭が熱くなってきますね。
 それにしても、蒼井優さんという女優さんは、一体どんだけの作品に出れば気が済むのでしょうか?ここ何年かはもう出ずっぱりですね。その割りに、代表作と言える作品はない気がします。もっともそれは女優さんの問題ではないわけですが。同じく出ずっぱりの沢尻さんとか長澤さんと共に、出涸らし三羽烏にならないといいですね。これはもう完全に製作者側の事情なのでしょうが、そろそろ断る勇気も必要なのではないでしょうか?確かに、所詮この世は単なる消費社会ですし、花の命は短いからな。
 個人的には、映画には常に新しい俳優さんが主演してくれると嬉しいですね。毎回同じ顔ぶれだと、映画自体に興味が薄れます。それでなくてもつまらない映画が多いのですから。私は字幕を読むのがけったクソ悪い人なので、日本映画がとてつもなく面白ければわざわざ外国の映画を見る必要もないのになぁと、たまに思うんですけどね。「ハチミツとクローバー」のような映画に出会うと、もう日本の映画全てがくそみたいに思えてしまいます。最近の日本映画には、全く自由が感じられません。便利が生み出したものは、底なしの退屈なのではないでしょうか?少なくとも最近の日本映画を観ていると、日本に生まれた事が単純に幸せだと思えない気分になってきます。


  「ハチミツとクローバー」     2006    日本
 監督  高田 雅博
 主演  桜井 翔       蒼井 優

「オーメン」を思う

1976年に公開された「オーメン」は、今でこそ何かもの凄く価値のある映画のように語られている場合もあるが、実際は「エクソシスト」の柳の下を狙った作品であるし、一本の映画として観て見ても語られているほど優れているとは言い難いのではないか。なるほど娯楽作品を作らせればリチャード・ドナーは確かに上手い。ジェリー・ゴールドスミスの音楽がなければ一体どうなってしまうんだろうと心配してしまうぐらい、音楽が内容よりも心に残る傑作であったのも事実だ。ショッキング・シーンも満載で、何より黙示録をオカルト的に捕らえる発想そのものが秀逸で、その後に幾多の亜流を生んだのは特筆に価する。けれど、どう考えても一級品の作品ではないし、言ってみれば典型的な安上がりのホラー映画の一つである。個人的には、大ヒットにあやかった「オーメン2」の方が面白さで言えば上ではないだろうか?とさえ思う。シリーズ化されるぐらいだから、一作目は全て傑作であるという考え方は誤りだ。「エクソシスト」「ハロウィーン」等、一作目が傑作であったが為にその恩恵のみで駄作を垂れ流し続けたシリーズもあれば、「13日の金曜日」や「エルム街の悪夢」のように徹頭徹尾にくだらないシリーズもあるわけだ。「オーメン」は「スキャナーズ」なんかと同じで、一作目がたいした作品ではないにも関わらずその発想にずば抜けた面白みがあるという理由で、観客が続きを欲したシリーズと言える。しかし、人の妄想を凌ぐ映画なんてのはなかなか出来るものではなく、三作目にあたる「オーメン 最後の闘争」は今でも語り草になる程の決定的な駄作で、オーメン・シリーズの底を必要以上に吐き出してしまった。「オーメン」は面白い映画ではあると思う。けれど、それ以上に面白い映画は、ホラー映画と揶揄される類に限定したとしても山ほどある。もともとその程度の作品に過ぎないのだ。
 今回リメイクされた「オーメン」は、666にちなんで製作された映画だ。2006年6月6日に全国同時公開するという、イベントありきの映画だという事を忘れてはいけないだろう。全く新しいものを想像するのではなく、まんま同じ物を再生産するのも、イベントとしては十分に意味があるといった所ではないだろうか?言っても、オリジナルが製作されてから既に30年という月日が流れているわけで、オリジナルを未見の人が世界中にあふれているはずだ。公開の際の宣伝でも、{オリジナルを観た事がある人は観る必要がありません。同じものです}と言ってしまってもよかったのではないだろうか?人間は古いものと新しいものが全く同じ形で存在している時、どうしても古いものを贔屓してしまいがちだ。これは何も映画に限った話ではないのではないか?過去を美化するのは誰にでもある事だ。オリジナルの「オーメン」はなるほどそれなりに楽しめる映画だった。そして今回リメイクされた「オーメン」もそれなりに楽しめる映画だった。よくもまぁここまで同じレベルで作品を作り上げたものだと、私は感心してしまった。どちらの方が上か下かというよりも、どちらもそれなりの作品でしかない。これが私の個人的な感想だ。今回のリメイク版が、オリジナルと比べて興行的にも人の話題にも乏しかったとしたら、30年という年月が映画ファンの世代交代をさせるにはまだまだ短かったのだろう。VIDEOの存在はより映画を身近な物にしたわけだが、と同時に映画の持つ魔法をかなりの部分損なってしまったとも言えるだろう。最近の映画はつまらないものが多い。という意見は、当たらずとも遠からずの意見には違いないが、スクリーンでそれを証明出来ない映画達の悲劇も少なからず存在するに違いない。何度も繰り返しになってしまうが、類似品の多さに本家さえも煽りをくうのが、この世の常だ。人は慣れていく生き物だという事を、この映画もまた証明してしまった。30年という年月が、全てにおいて裏目に出た。そんな気がしてならない。
 さて、同じものだからどっちを観てもいいわけだが、敢えて人に薦めるならオリジナルの方がいいんじゃないという結論に達する。これは両方の作品を観た人の共通の意見に違いない。何故か?リメイク版「オーメン」は、どうしたことかダイジェスト版を見せられているような気になりはしないだろうか?あらゆる現象が起こるまでの流れがスムーズでない為に、どのシーンも唐突に感じられてしまうのだ。オリジナルもそうだったのだろうか?正直、そんな細かい事は憶えていないし、これを機に観返してみる気など毛頭ない。そうではないか?それと画面全体から最近のホラー映画の流行に蝕まれている感が、ありありと伝わってくる。時代の流れだし、別に模倣が悪いと言うつもりは全くもってないが、オリジナルの方が洗練されていない分重厚な雰囲気を身に纏っていたような気がする。あくまでも気がするだけかも知れないが・・・。これは好き好きの問題なので、どちらがいいとは一概に言えない部分かもしれない。今の若い人には、リメイク版の方が優れていると感じさせる可能性は実際あるだろう。中身なんて問われない時代なのだから。そして、この二本にはとてつもなく大きな違いが一つだけある。それは、悪魔の子ダミアンのキャスティングである。
 リメイク版ダミアンは、貧弱で弱弱しく将来のある部分をいじめられっ子として過ごす事を義務づけられている少年にしか見えない。気味が悪いのは確かだし、いかにも社会全体を呪いまくってやるイメージには優れている。現代は、そういうわけのわからなさに最も恐怖を抱く時代なのかもしれない。一方、オリジナル版のダミアンは憎憎しげでふてぶてしい、将来のある部分をいじめっ子として過ごす事を義務づけられている少年のように見えたのではないか?あぁこいつはきっと悪いよ、と手放しで納得するだけの強烈な個性が顔から滲み出ていたはずだ。これが30年の違いなのかも知れない。悪魔の子も時代によって、イメチェンをするのだ。少なくとも、私はオリジナル「オーメン」のダミアンがやたら怖かったし、悪魔顔ナンバー1の座は君のものだと宣言してやまない。だからといって、その意見は今の子供達にはそぐわないものなのかもしれない。世の中、変わらないものもあれば、変わるものもあるのだ。中でも人の心ほど、激しく身勝手に移ろい行くものもないわけだ。
 それにしてもリメイク版のラスト・シーンのあっさり感は何を意味しているのだろう?少年だけが生き残るのは、オリジナル「オーメン」の浸透度を思えば自明の理ではある。けれど一つの独立した作品であるのならば、育ての親が悪魔の子を倒せたのか倒せなかったのかという部分は最大の山場であるにも関わらず、そういうサスペンスを完全に放棄してしまっている。う〜ん、もしかしてこのリメイク版は、オリジナル版DVDを買わせようとする宣伝映画だったのか?


  「オーメン」        2006     アメリカ
 監督  ジョン・ムーア
 主演  リーブ・シュライバー   ジュリア・スタイルズ

続「Ritchie Blackmore’s Rainbow Japan Tour 1995」を思う

 久し振りに、リッチーのVIDEOでも見てみようかと、特にあまり観ない作品を再生してみました。1995年の日本公演最終日のライブ映像です。画像が汚くて観続けるのが苦行に近いものがあります。それでも何となく楽しい気分になれるのは、その時の自分が幸せを感じていた記憶があるからだと思います。映ってはいないけれど、私もこの中にいたのだなぁと、何だかうるうるしそうです。もう長い間聴いてもいない当時の最新CDも引っ張りだして聴いてみました。今回はそんな顛末をだらだらと文章にしてみました。
CDの帯には、{伝説、今再び・・・・。新生レインボーが放つ渾身の第一弾!}と書かれています。1995年に発売されたリッチー・ブラックモア参加バンドの「Stranger In As All」アルバムは、十年前に露と消えたバンドRAINBOWの記憶を消し去る事の出来ない私のような輩を随分と喜ばせてくれたものです。CD発売と共に、BANDは来日公演も決定していた。もちろんリッチーが入ればここ日本ではどんなメンバーだろうと確実に金になるわけで、これは英断でもなんでもなく当然の成り行きだろう。
 思えば1993年の暮れ、DEEP PURPLEの来日直前にバンドを脱退して日本のファン(くどいようだが、私ももちろんその輩の一人だ)に大顰蹙をかったリッチー側のせめてもの罪滅ぼしの意味も込められていたのかもしれない。知らないけど・・・。リッチー脱退のニュースは事前に知っていたけれど、私は武道館の前に行くまでどうしても信じられなかったし、実際ジョー・サトリアーノの剥げ頭を見ながらも何となくクリスタルだった。ジョー・サトリアーノ在籍時のDEEP PURPLEの音源は今でもたまに(3年に一回とか)聞くけれども、実際貶す所も見つからない。イアン・ギランはまだそれでも聞ける部類だし、ジョン・ロードもイアン・ペイスも迫力あるプレイを聞かせている。リッチーが入れば決して披露されない類の曲を聴けるという棚から牡丹餅的な機会も得ることが出来た。ジョー・サトリアーニのプレイもリッチーへの底知れぬリスペクトを感じさせるもので、実に見事に代役を務めていた。とにかく上手なギターリストだ。リッチーよりも遥かに上手いのだから、物真似もお手の物という見方はもちろん出来るが、間違いなくそれ以上の仕事をしている。リッチーに拘りがない人ならば、DEEP PURPLEというバンドは(再結成後という但し書きは付くが)この時が最も素晴らしかったのかもしれない。少なくとも、個人的にはその後のスティーブ・モーズ時代よりも遥かに好みな演奏だ。ちなみにドラムスのイアン・ペイスのこれ以後のベスト・パフォーマンスは、ポール・マッカートニーのバンドに参加していた時期のもので、PURPLEでは生気が抜けている。リッチーなきPURPLEではリラックスの極致で、ポールのバックでは緊張感たっぷりにプレイに励んでいるからなのかもしれないが。私のレコード・コレクションには、PURPLEのライブ(もちろんリッチーも健在の)にジョージ・ハリソンが飛び入り参加でプレイしているものもあるが、PURPLEのメンバーのTHE BEATLES好きの一面が見えて微笑ましい。それはともかく、リッチー抜きでもPURPLEには遺産として良い曲が数多くあるし、それなりに楽しめるロック・バンドだし、この先も懐メロバンドとして頑張ってくれても全然構いませんよ、と私は思う。最後に買ったCDは1998年の「ABANDON」だけど、2001年の来日公演以来生では一切観ていないけれども、それでもDEEP PURPLEという名前が私の中で色褪せる事はないだろう。何故なら、リッチーがいたバンドだから・・・。イアン・ギランも好きですけどね。GILLANのアルバムもあらかたほとんど持っているし、いまだにたまにそれらも聴きますよ。名曲だなぁと思う楽曲も一つや二つではないですし。GILLANで来日してくれたら絶対観にいくけど、DEEP PURPLEはもういいやって感じなんです。だってそうでしょ、PURPLEにはもう何もありませんから・・・。来日する度に購入しているパンフも2001年来日時のものまでで6、7冊ありますから。もう勘弁してください。もう来ないで下さい・・・とは言いませんけど。それはあなたの勝手でしょ。
 Ritchie Blackmore's Rainbow名義のアルバムは、1975年の「銀嶺の覇者」以来二枚目となる、実に二十年の時を経た作品ではないか。この二枚に共通しているのは、リッチー・ブラックモアの新たなる船出という点だろう。ご存知の通り、75年のバンドは、ロニー・ジェイムス・ディオのヴォーカリストとしての類稀なる才能とコージー・パウエルというロックの歴史に名を刻み込まれた偉大なるドラマーの参加によって、RAINBOWとして活動を継続していく。世界最強のロック・バンドRAINBOWは、ロニーが消えてもコージーが消えても、しぶとくシーンに存在し続けた。その理由を問われれば、リッチーの頭にはそれしかなかったからだろう。ロックの世界で地位も出来たし、今更タクシーの運転手でもないだろう。とりあえずアメリカで売れたいな、そしたら俺ってスーパースターじゃん、みたいな。その為にはバンドが必要だったというだけ。臆病で社交的という言葉とは無縁のギターリストが、他人のバンドに参加した所でイジメられちゃうだろうし。もちろん良い曲が書ける人なので、自分が中心になるのに何の不自然さもありません。だったら続けりゃいいじゃん。つまる所、バンドの存続なんてそんなもんでしょ。だからDEEP PURPLE再結成の話が出たら、RAINBOWなんて目もくれないわけです。実際、RAINBOWはあのまま続けていたら、アメリカで売れる可能性は十分あったと思うんですが・・・。DEEP PURPLEの方が知名度あるじゃん。金儲かりそうじゃん。って、人間は過ちを犯す生き物なのですね。しかし、そのおかげで私はリッチー入りのDEEP PURPLEが拝めたわけです。あげくはジョー・リン・ターナーまで参加して、バンバンブァァ〜ンなんて歌ってましたね。実に楽しそうでしたが、私はイアン・ギランの方が好きかな。「THE BATTLE RAGES ON」アルバムは確かにとてつもなくつまらないアルバムではあったけど、その後のアルバムもつまらない出来だったけど、93年95年98年01年とリッチー抜きのPURPLEに足を向けさせたのは、間違いなくイアン・ギランだったわけですし、私の場合はね。もういいけどね。あ、それとジョン・ロードのソロも楽しみでしたね。あ、ジョン・ロード好きかも・・・。
 1995年来日時の新生Ritchie Blackmore's Rainbowは、結局RAINBOWに発展する事はありませんでした。パンフレットを見てみると、これがやたらでかいんです。もはやお決まりの酒井康氏と伊藤正則氏のお言葉がのっています。いつも思うのですが、ライブのパンフレットは無用の長物ですね。中身がないのにやたら高い。でもなんとなく買ってしまうファン心理のみで成り立っています。思い出の品ではありますが、これを開いて見るなんてそうそうありはしません。で、今見てみたんですけど、やっぱり中身は何もありませんね。ちらしが挟まれていたので報告します。レインボーの裏はオジー・オズボーンですね。この瞬間を待っていた、と書かれています。そうですか・・・オジーをね。シンディ・ローパー(これは観に行った記憶があります)の裏はおぉぉペイジ/プラントですね。遂にあの飛行船が日本に舞い降りる、と書いてあります。日本に燃え墜ちるの間違いではないのでしょうか?次はイーグルスですか。一体、いつの時代なんでしょうか?他にもジョン・サイクスやらヴィンス・ニールやらの小物が続いて、ホール&オーツが出てきました。これは何かその時代を感じますねぇ。ちらしと一緒に、三日分のセット・リストが私の手書きで書かれたメモも出てきました。このツアーでは三回もリッチーを観たんですね。代々木に横浜にベイNKですか、結構大きな所でやってます。この三回だけでもリストはだいぶ違いますね。横浜は曲少ないなぁ。リッチーって割とそうですね。地方行くと途端に手抜きをします。料金は同じなのにねぇ。でもそこでしかやらない曲があったりして、地方公演も楽しみなんですよねぇって、どれだけ行ってるんですかね、私は。ちょっとしたキチガイですね。今、自分でそう思いました。愛知とかでもリッチーを観た記憶があります。確か台風が直撃した日で、電車が止まりまくって行き着けるが不安だったのを憶えています。う〜ん、2004年のBlackmore’s Nightですね。10月20日の愛知県勤労会館ですか。セット・リストはって・・・役に立つなぁパンフレット。
 で、この時期の皆さんの想いはというと、これからまたRAINBOW時代が続くのだろうといった漠然とした物が感じられる文章を誰もが書いています。ライターさん方にしてみると、大事な金ずるなんだから当然の希望的観測が述べられるのは仕方がないですね。ところが現実は知っての通り、RAINBOWは虹の彼方にぶっ飛んでしまいました。もう二度とお目にかかる事は決してないでしょう。それでいいんでしょう。リッチーは少なくとも幸せそうです。Blackmore’s Nightのアルバムは当たり外れもありますが、「Ghost of a Rose」は良い作品ですね。よく聴いています。もう一回、リッチー観たいですね。最近、よくそう思います。何故なんでしょう?私ももう老人なんでしょうね、きっと。
 こうして何となく思い出に浸る瞬間とは、どうしてどうして悪くないものです。私の場合、思い出は映画ではなく音楽と密接に繋がっている場合が多いようです。それが意味するものは何なんでしょう?そんな事を考えながら、寝る前にどの映画を観ようかと考えているのですから呆れますね。馬鹿は死んでも直らない。はいはい、その通りでございます。
 総理大臣は福田さんですか・・・。麻生さんでとりあえず良かったんじゃないの?なんて、人の思いというのは中々実現しないものなんですね。


  「Ritchie Blackmore's Rainbow Live」   1995   日本
 Rainbow
  リッチー・ブラックモア    (g)
  ドゥギー・ホワイト      (vo)
  グレッグ・スミス       (b)
  ポール・モリス        (key)
  チャック・バーギ       (ds)

「親切なクムジャさん」を思う

復讐は殺人を正当化させる一つの手段とも言えそうだ。
 これまでに数々の映画によって、この事は立証されている。映画の主人公はバッタバッタと人を殺しまくるくせに、いつだって英雄として祭り上げられている。かのチャールズ・チャップリンが自身の傑作「チャップリンの殺人狂時代」で吐き捨てたあまりにも有名なセリフを引用するまでもなく、殺人というのは大義名分さえあれば何ら非常識ではない、ごく普通の行動なのかもしれない。ちょっと前に、{どうして人を殺してはいけないのか?}という問いに、誰も明確に答える事が出来ないという事がやたら取沙汰された時があった。いつのまにかうやむやに霧散した話題であり、今では誰も口にしようとも思わないようだが、別にこれは日本人が何でもかんでもうやむやにして曖昧に物事を片付けるのが大好きな民族だからそういう結末を迎えたという類の流れではないのだろう。ようするに、{それを言っちゃあ、おしめぇよ}の質問なのだ。社会というものが、ある秩序を定めてその上にのっかって存在している以上、根本的なルールというものが必要になってくる。そこには当然矛盾も生じるわけで、殺人という行為もその一つだ。人類の歴史を振り返れば、かつて殺人はごくごく自然の行為であったのは間違いない。特に最初に世界の覇権を握ろうと試みた一部の白人達の歴史は、あまりにも血塗られている。それほど大きな規模ではないにしろ、白人以外の種族にしたってそれは同じだろう。自分達の部族が生き残る為に、他の部族を虐殺して歩く。そこには{どうして人を殺してはいけないのか?}という質問は、実にナンセンスだ。世界最大の宗教であるキリスト教にしても、そこまで全世界に根を下ろすにはそれ相応の命が犠牲になっている事だろう。人心に救いを与えると掲げるこれらの宗教ですら、その発展には暴力が不可欠だったわけで、現在も継続中の宗教間の争いは、つまる所どちらかが滅びてしまうまで続くのだろう。人が革新的に変貌するまで。或いは、現在、私たちが固持している社会が消えてなくなるまで。なるほど「2001年 宇宙の旅」でキューブリックが提示したラストのように、長い歴史によって強固に築きあげてきたものを人類があっさり捨て去るのはまず無理だろう。ならば、矛盾はなるべく最小限にひた隠しにするのが良策とするのも、あながち間違いとは言えまい。それには、ガス抜きも必要だ。映画における殺人の数々は、実際そういう役目も負っているという事だ。残虐な暴力描写が人を暴力に駆り立てるという側面も当然あるのだろう。けれど、その一方で暴力から遠ざける側面も否定出来ないのではないか?それはアダルト・ビデオの効能に近いものがあるはずだ。アダルト・ビデオに触発されて、強姦或いはそれに近い非道に手を染める輩がいるのは事実だ。けれど、そういう媒体によって自身の性的衝動を抑圧し制御する事によって、社会の一員として問題なく生活している人間はその比ではないだろう。{どうして人を殺してはいけないのか?}という質問は、{どうして売春がなくならないのか?}という質問と同じように、社会としての大きな矛盾を抱え込んでいる質問なのだ。
 「親切なクムジャさん」のクムジャさんの親切は、全て自分の目標の為の偽りの親切だ。人は自分を正当化する為に、自分の目標を完遂する為に等、あらゆる理由によって他人を利用して生きる動物だ。親切というものが全て無垢で無償な善なる心から行われていると本気で思っている人がいたならば、その人は相当おめでたい人に違いない。先のアフガン戦争やイラク戦争で人間の盾といって自分達を表現していた人物達を、私は信じない。ボランティアの精神は尊重して然るべき事柄であるのは当然だが、注目を浴びるような地にしか目を向けない輩のそれは、怒りすらおぼえる。腹をすかせて路上に横たわるホームレスの前で、被災地の募金を集めている団体を見た事があるが、こういう人達が善なる衝動で動いているとは私には想像すら出来ない。一代で巨万の富を築いた人間は、年齢を重ねると必ずといっていいほど地元の人の為に献金をしたり、基金団体を作ってさも世間に対して協力していますという姿勢を見せる事が多々ある。こういう裏にどんな心理が隠されているのかを考えると、とても憂鬱な気分になりませんか?全ての親切がそういう個人的な思惑を持っているわけではもちろんない。私自身、身も知らぬ他人から親切にしてもらった憶えは無数にある。そういう小さな思いがけない親切は、これみよがしな巨大な親切よりも、遥かに人間を幸せにするし心を豊かにするものなのではないか?人から親切だと言われる事は重要ではない。けれど、そういう小さな誰の目に止まらない親切をひたすら重ねている人こそが、幸せであっていて欲しいと願っているだけの話だ。実際、クムジャさんはとてもではないが幸せには見えない。それが復讐という暗い宿命に端を発しているからだというのは、あまりにも短絡過ぎた意見ではないだろうか?
 一方、復讐は生きがいにも成りうる。やりたい事がみつからないだの、何もする気がおきないだの、自分探しに没頭しているだの、そういう事を誰彼構わずのたくっている人が増えた気がするのは気のせいだろうか?そういう事を簡単に言葉にして他人に語る人は、さっさとあの世にでも旅だてばいいのだ。そういう不安や悩みは誰でも少なからず持っているものだし、だからこそ人は手探りで行動するものだ。自分という個の基礎の部分でさえ、他人に依存しなければいられない人間など果たして生きている価値があるのだろうか?しかしながら、現在の社会が生きがいを持ちにくくしているのは確実のようだ。大人が子供に夢を持てというのは簡単だ。けれど夢なんてものは、本来自然に心に宿ってくるものだし、それを連呼してみた所で何の意味もない。子供に限らず、押し付けられたものが身につくなんてのは稀だろう。大人の行い(社会そのものと言ってもいい)が子供から夢を奪っているにも関わらず、夢を持てと強要するのだからこんな歪な話もない。こんなわけのわからない世の中で、子供がまともに育つと思う方がどうかしている。少年法の改正やらなんやら、ようするに臭いものに蓋の理論に過ぎないのではないか。子供達の苦しみが世界を捻じ曲げているとしたら、大人達がその罪を背負うのは当然だろう。子供の人格は、良くも悪くも親の影響によって形成されるのだから。
 復讐しか生きがいの持ち場がなかった人は不幸なのだろうか?この映画では復讐から子供へと生きがいが転化されて終わってしまうので、その結論はうやむやにされてしまっている。あまりにも暗鬱な作品だから、最後くらい何か光を当てたかったというよりは、答えを見つけられなかった上の苦肉の策といった感じがする。たくさんの人間が復讐を同時に遂げる事によって、たくさんの人が復讐という呪縛から開放されて新たな人生を送れるようになったとでもいいたいのだろうか?正直、私は復讐の過程よりも、遂げたその後に興味があるので、この作品には不満がある。主人公にも、どうにも好意がもてなかった。もっと単純に復讐を取り扱った、チャールズ・ブロンソン主演の「狼よさらば」の方が、映画としての面白さは上だろう。それが良い悪いは別にして、アメリカ的思想を明確に打ち出した「狼よさらば」の方が理解し易いし、納得もいくというものだ。「親切なクムジャさん」は、頭でこねくり回して作りあげた感が強い。その分、インパクトは弱いと言わざるを得ない気がする。あそこまで惨い殺し方をする程、クムジャさんが酷い仕打ちを受けたのかどうかも疑問だ。
 復讐はあって然るべき感情の一つだろう。自分の妻を、子供を殺されて、殺した相手の死を願う被害者の気持ちを理解するのは難しい事ではない。かつて仇討ちが許されていた時代もあったのだから。当事者同士の問題と簡単に片付けられない現代では、人の死もただの案件のように語られる場面が多い。私達は、もうすぐ陪審員として復讐に決着をつけなければいけない場面にも出くわす可能性があるかもしれない。もはや他人事と見てみぬ振りもしてはいられないのではないか?好むと好まざるとに関わらず、あなた自身が人の生死を決定する日がやがてくるのだ。直接的にではないにしても、それもまた一つの殺人の形ではないのだろうか?


  「親切なクムジャさん」        2005  韓国
 監督  パク・チャヌク
 主演  イ・ヨンエ        チェ・ミンシク

「ザ・ショック」を思う

イタリア恐怖映画の始祖とまで呼ばれるマリオ・バーヴァの存在は、ここ日本では一般的にあまり知られていない。その作品の多くが日本で未公開なのだから、至極当然の事ではあるのだが、マニアの力とは怖ろしいもので、ホラー映画好きの間ではちょっとした伝説的な監督になっている。人の見聞ほど本来いい加減なものはなく、伝説というものがいかに嘘八百を秘めているかは何事にも言える事だ。例えば、ある著名な人物が最も影響を受けた人物の名前を上げ無条件に褒め称えると、その対象の人物が必要以上に評価される事は往々にしてある。そして人から人へと伝播していく過程で、ありとあらゆる誇張と変化をきたし、全く知りもしないのに誰もが素晴らしいと持ち上げるわけだが、ここ日本では(或いは、この地球上では)そのような事例が実に多く存在するのではなかろうか?そんなのばっかりだ、と言っても過言ではないぐらいに。持ち上げるだけならまだいいが(いいのか?)、貶める場合も同じくらいあるわけで、そこに人間の意地汚さというか小賢しさが見て取れる。人というのは、いつだって人を利用して生きる獣なのだ。自分の為になるなら、他人などどう扱ったって構いやしないという気持ちが根本にあるのは如何ともし難い。そういうイイカゲンさが、時に悲劇を生み、時に英雄を生む。う〜ん、なかなかいいバランスを保っていると言えなくもないが、身近な問題として捉えるとどうなんでしょう?自分の知らない所で、自分というものが一人歩きしているのは、やはり不気味悪いものではある。{あいつはいつも逆立ちしながらうんこをしている}と、陰でひそひそ言われているとしたら、こんなに悲しい事はないわけで。だから有名人は自伝を書くわけだ。{私はちゃんとしゃがんでうんこをしているのだ}と、声高々に宣言する為にだ。もちろん、自分で自分の事を書くわけだから、そこにはありとあらゆる嘘が込められている(少なくとも誇張や削除は絶対に存在している。そうではないか?自分の自己紹介を考えれば・・・)わけだが、読んだ人達はそこから、また勝手な妄想を膨らませていくわけだ。結論を言えば、他人の心など結局分かりはしないのだ。よく相談事を受けて、共感したり同情したり、はたまた慰めたり元気づけたりという場面に出くわすが、あれも端から見たらなんじゃこりゃである。{うん。分かる、分かる}って、一体何が分かっているのだろうか?しかし、だ。それがなければ、世の中一体どうなってしまうんだろうか?少なくとも、他人の心を理解しようと努める事は大切な作業には違いないのだ。だから、嘘でもふりをしてあげる(親身に優しく接してあげられれば、尚ベターか?)。それも大事なコミニケーションの一つであるのだから。その気遣いが、人を人たらしめているのかもしれない。問題なのは、いつだって無関心である事なのだ。何も考えずに、与えられた情報や思想を鵜呑みにする。世の中は危険なプロパガンダで満ち満ちているのだから、せめて自分の目で耳で確かめる努力をするのは、人として当然の姿勢なのではあるまいか?学校で教わった知識のほとんどは、生きていくのに全く必要でないのかもしれない。しかし、繰り返し繰り返しある事を身につける為の素材として使われているとしたらどうだろう?人間の生活において、予習復習はとっても大事である。学校で本当に学ばなければいけないのは、歴史の年号や数学の正解ではないのだ。考える事、知る事、理解する事、より多くの人と接する事、学校とはその為に存在しているのではないか?
 「ザ・ショック」が日本において劇場公開されているのは、マリオ・バーヴァにとって不幸中の幸いであるのかもしれない。バーヴァ自体は、どこの国にでもいるような特に際立った才能を示すわけでもない職業監督の一人だ。イタリア映画の影の歴史は、模倣の歴史にも等しい。表舞台を見れば、フェリーニやデ・シーカ(「自転車泥棒」は心を踏みにじられるという点では世界一の名画だ)ロッセリーニ、ヴィスコンティ、ジェルミといった、貧しいながらもリアリスティックに真摯な目(人によっては豪華絢爛な作風ではあるが、どこの世界にも金持ちはいるのだ)で映画を撮り続けた巨匠達の名前が次々と浮かんでくる。これら名匠達の作品は、今観ても十分面白いし、尚且つ心にぶっといナイフを突き刺されるような痛みを味あわせてもくれる。良薬口に苦しというが、イタリア映画の名作の多くは、正にこの事を教えてくれるものが多いのではないだろうか?個人的にはヴィットリオ・デ・シーカの作品が大好きで、悲し過ぎて{こんな映画二度と観てやるもんか}と観終わる度に思うんだが、十年後に我慢しきれずまた観てしまうような、どうしようもない中毒性を孕んでいる。はっきり言って最近のジュゼッペ・トルナトーレなんかは、イタリア映画界ではまだまだ小粒なのではあるまいか?(もちろん、それを判断するのは私なんかではなく、あなた自身ですが。そうではないか?)その一方で、イタリアには娯楽一辺倒の通称マカロニ作品群がわんさか量産されている。アメリカやイギリスで製作された娯楽映画のエッセンスを絶妙に取り入れ、エロとバイオレンスをトッピングした痛快な裏世界からは、言わずと知れた巨匠セルジオ・レオーネや、かのダリオ・アルジェントといった傑出した才能が産み落とされた。このバランスが、またいいではないか。イタリアというお国柄を如実に示しているようなこの落差。紳士にしてエロ。かっこつけるんだけど、とんでもなくエロ。振り向けばエロ。追いかけてエロ。世界で一つだけのエロ。イタリア映画万才である。
 エロの伝統は、例えばトルナトーレにも完璧に受け継がれているようだ。トルナトーレの作品を観て見ると、きれいなお花畑の下に芳醇なエロのエッセンスを見つける事が出来る。実際、トルナトーレの作品からエロという核を失くしてしまったとすると、それはただきれいな風景にきれいな音楽を重ねただけの映画になってしまうのではないか?そんな物にはたして人は関心を寄せるのだろうか?そもそも誰もが関心を持たずにいられないものは何かを考えれば、その答えは明々白日ではないか。トルナトーレの素晴らしい所は、その核の部分が多分に変態性を持っているという一点に尽きる。つまり、トルナトーレが好きと公言する人は、世間に向かって{私は変態が好き}と言っている事に他ならない。それは非常に喜ばしい事で、私は人として全く正しい宣言であると全面的に同意するものである。
 その対極として、フランスのギャスパー・ノエという監督がいる。凡庸で生真面目なものが根底にあるノエは、それを徹底的な変態性の仮面で覆いつくす作風をでっちあげた。「カルネ」と「カノン」(この二本の作品は全く同じもので、シャム双生児のようなものだ)は、ここ四半世紀のフランス映画の中でも最もトンガっている傑作だ。ある意味で突き抜けているし、頭で考えてこしらえるものとしては、究極の高みに届こうとしている名作に間違いない。けれど、その根底にあるもののパワーを比べると、ノエは残念ながらトルナトーレには遠く及ばないのではないだろうか?今後のこの二人の作品が持ちうる力というものは、きっと大きく差が開くであろう。幸運はそう何度も続くものではない。幾多の監督がそれを身をもって示してくれているのだから。ただし、ギャスパー・ノエという人物が、強烈無比なむっつり人間であったとしたら、逆転は可能かもしれない。あり得ない話ではないし、映画ファンとしたらそうであって欲しいと望むのが当然だろう。「アレックス」は狙い過ぎたゆえの駄作だった。そう述懐する日が訪れる事を、私もまた切に望む者であるのだから。
 どんどん話が横道にずれてしまっているが、それもまた必然であると言わざるをえないのが悲しい。ようするに、バーヴァというのはその程度の監督なのだ。バーヴァの幾つかの作品は、気ままで陽気な一部の観客を楽しませる事に成功した。それは紛れもない事実だ。バーヴァの金儲けの為の仕事が、ルチオ・フルチやダリオ・アルジェントらへの確かな足掛かりを作った。その功績は否定出来ない。息子のランベルト・バーヴァもまた、映画監督としてマリオの意志を正確に受け継いでいる。才能の程度は遺伝してしまうらしい。それもまたバーヴァ一族の宿命なのだろう。
 そんなバーヴァの作品なのだから「ザ・ショック」は取るに足らない作品なのだろうか?もちろん否だ。超常現象や幽霊やらの仮面を被せた、実にまっとうな映画という意味では、「ザ・ショック」という映画の持つパワーはたかが知れているかもしれない。子供を理解出来ない親の苦悩。親に理解されない子供の戸惑い。人間関係の難しさは、実際家族という親密な間柄であろうと存在している、または始まっているのだと、この映画はしらしめてくれる。そういった誰もが抱えている不安や恐怖を、目一杯娯楽の要素を詰め込む事によって、バーヴァは商業映画として立派に描ききっている。バーヴァの全てが凝縮された、実に安心して楽しめる一本だ。
 幾分アルジェント臭を漂わせる映画だが、それはダリア・ニコロディの影響にあるのだからそうでない方がおかしいとも言える。ダリア・ニコロディなくしてダリオ・アルジェントの台頭がなかったのは、まず間違いない。ダリアがいなければ、アルジェントは一介のジャッロ映画の監督で終わった可能性が高い。それはマリオ・バーヴァが歩んできた道のりを追い続ける事と同義である。ダリアのおかげでアルジェントは世界から注目を集める映画監督の一人に成りえたのであるし、バーヴァもまた「ザ・ショック」を上梓するに及んだわけだ。所詮、男なんてそんなものか・・・。手の平で踊る猿。そして才能ある女が、才能ある男を作る事によって歴史は動いていくのかもしれない。
 イタリアの映画界のファミリー・ツリーを描いてみると、実に複雑で枝葉の大きい相関図が出来るかもしれない。そういうものを眺めるのは、地球儀を回しながら世界を征服した気になるのに似ている楽しみを提供してくれる。きっとあなたの贔屓の監督も、色々な所で活躍している事でしょう。そんな中で、マリオ・バーヴァは確実に重要な地位を占めているのかもしれない。伝説とは、そんな人の想像が作り上げる偶像を意味する言葉なのではないか?今日も世界のどこかでマリオ・バーヴァが伝説として密やかに囁かれていたとしても、何の不思議があるだろうか?そこにはきっと、39を越えるショックが列を成しているに違いない。


  「ザ・ショック」         1976    イタリア
 監督  マリオ・バーヴァ
 主演  ダリア・ニコロディ     ジョン・スタイナー

「ザ・フォッグ」を思う

ジョン・カーペンター作品のリメイクが盛んである。最近ではどういうわけか、ジョン・カーペンターの評価がうなぎのぼりの感がある。まるでジョン・カーペンターこそホラー映画の権化であるとでも言いたそうな大袈裟な書物まで出ているようだが、それはどうなんでしょう?
 私が最初に劇場で鑑賞したJOHN CARPENTERS’作品は「遊星からの物体X」というゲテモノ映画ですが、この作品を劇場で観たのは今でも幸運だったと思っています。これは映画館で鑑賞しないと意味のない作品の典型で、その後家庭で何度か見直した時にはその面白さは半減どころではありませんでした。この映画の閉塞感や作品全体に占める薄ら寒い空気感は、残念ながら家庭で味わう事は出来ません。ホラー映画と呼ばれるジャンル作品において、映像から溢れ出す雰囲気というのは絶対条件の一つでもあります。要するに、お膳立てが必要なわけです。何故、大枚はたいてまで映画館へ足を運ぶのかと言われれば、観る側にもお膳立てが必要だからと言えるのではないでしょうか?DVDで映画を観ていて、あなたにとっての素晴らしい映画に出会った瞬間があったとしたら、本当はそれはちょっぴり残念な瞬間でもあるわけです。もしその作品と劇場で出会っていたとしたら、もっと強烈にもっと鮮明にあなたの記憶に刻み込まれたはずだからです。そういう瞬間というのは、とても手にいれ難い宝物のようなものです。そして何事も、簡単に手に入らないからこそ価値があるとも言えるのではないでしょうか?
 カーペンターは一方的にスピルバーグにライバル心を抱いていたのではないか?それも一時期ではなく、いまだに。これは私の私的見解であります。この二人は年代も同時期で、よくよく見るとその作品の歴史にも何やら共通項のようなものが見え隠れしていると思うのは私だけでしょうか?最初期だけを見ても、スピルバーグが「激突!」を、カーペンターは「要塞警察」をTVというフォーマットで作り上げ注目を浴びます。そして劇場に進出して、スピルバーグは「JAWS」という映画史に残る傑作で世界にその名を轟かせます。一方、カーペンターが提示した作品は「ハロウィーン」でした。この二作がその後の映画界に及ぼした影響は半端ありません。その意味でこの二作品の価値には文句のつけようがないし、両監督とも神に愛された奇跡を体現した映画監督であると言えるでしょう。こうなると、二人の次作が大きな注目を浴びるのは当然の成り行きです。そして私が思うに、次の二作は片や宇宙に、片や冥界に目を向けたという違いがあれ、実に似通った部分を持った作品でした。そこでスピルバーグは自身の最高傑作である「未知との遭遇」という更なる高みに登りつめるわけですが、カーペンターは「ザ・フォッグ」という一部のファンにのみ熱烈歓迎される作品を製作するに留まりました。ここが両名のその後の映画製作を分ける大きなターニング・ポイントだったわけですが、それはある一点において必然の結果だったといわざるを得ないのではないでしょうか?その一点とは、映画監督としての手腕に他なりません。スピルバーグが歴史上稀に見る才能を発揮したのに比べ、カーペンターはお世辞にも優れた映画監督ではありません。はっきり言えば、とんでもなくへたくそな監督です。カーペンターの魅力は、作品としての完成度ではなく、そのワン・アイデアの持つ魔力のようなものにあるのではないでしょうか?「ニューヨーク1997」然り。「マウス・オブ・マッドネス」然り。カーペンターの作品を語る上で避けては通れない言葉にチープという表現がありますが、この言葉の根底にあるのは低予算であるという事実以上に、へたくそであるという事実が隠されているのは紛れもない真実ではないでしょうか?
 この一点がその後の二人の歩むべき道を決めてしまいました。スピルバーグは万人の期待を背負いながら、その手腕を世界中の映画ファンの為に惜しげもなく発揮し続けています。その結果、巨大な富と揺るぎない地位を確立したのですから立派です。しかし、そこに一抹の寂しさを感じる人々がいるのも確かではないでしょうか?スピルバーグは本当に自分の撮りたい映画を、好きなように撮っているのだろうか?という疑問です。自身の全てを投げ打って、誰の目も気にせずに自分をさらけ出した作品を、人は時に芸術として認めるものです。その作品の出来不出来すら、度外視される瞬間がそこにはあります。あまりにもビッグ・ネームになってしまったスピルバーグには、もはやどうしても取り払えない見えない壁が築き上げられてしまいました。映画監督としては、それはとても不幸な状況であるのかもしれません。一方、カーペンターはやりたい放題です。一時期追い求めたスター監督への道も、自身の能力の足りなさを露呈するだけの結果をもたらしました。そして下らない映画をこれでもか、これでもかと必死に製作し続ける姿には微笑ましいものがあります。カーペンターはへたくそな映画監督です。だからこそ駄作もたくさんあります。しかし、それは実に愛すべき駄作であると断言してもいいのではないか?だからこそ熱烈なカーペンター信仰者が存在するのではないか?スピルバーグとカーペンターのどちらが幸せな映画監督なのかという問いは、どういう人生が人にとって幸せなのかという問いに等しい。それは正誤の問題ではありえない。一人一人の選択でしかないのだろう。私はスピルバーグという映画監督を尊敬してやまない。そして、ジョン・カーペンターという映画監督が大好きだ。
 「ザ・フォッグ」のリメイクは作られるべくして作られたと言い切ってしまってもいいだろう。「未知との遭遇」や「レイダース/失われた聖櫃」といった作品をリメイクしようなんて人間はいないだろうし、いたとしたら大したものだ。あれほど完璧な映画を再構築しようとするには、スピルバーグ以上の才能を持っていたとしても難しいだろう。そもそもスピルバーグ以上の才能を持った監督がいるのだろうか?それはそれとして、「ハロウィーン」や「ザ・フォッグ」をリメイクしようと思う輩は後を絶たないはずだ。何故なら、その後のカーペンター作品を見るまでもなく、映画監督としてカーペンターを越える才能を持った人物など吐いて捨てるほど存在するからだ。彼らがカーペンターの作品を観て、くみし易いと考えるのは勝手だし想像の範囲内だ。そして何よりも、カーペンター作品には魅力溢れる魔法が芳醇に宿っているのだから、始末に悪い。そして世の中にはどうしようもないクソ映画がゾンビの如く溢れていく。私達は汚物にまみれて、やがては映画そのものに不快感を示してしまうかもしれない。これは現在の日本映画界の状況にも似ている。
 何故リメイク作品に良作が少ないのか?この答えは簡単だ。そもそもリメイクしようと目にとまる作品なのだから、その作品は例え完璧でないにしても魅力的な作品であるわけだ。古今東西一体どれだけの映画が製作されたのかは定かでないが、面白い映画というのはほんの一握りであるのは間違いない。そもそもリメイクされる作品達は、その荒波を掻い潜って生き残った歴戦の勇士達に他ならない。世の中どんなに技術が発達しようと、人が人を褒め称えるのは容易は事ではない。オリジナルを越えるには、オリジナルに吹き込まれた情熱以上の何かが介在しなくては成立しない。これは実際、並大抵の才能では越えられない高い壁であろう。
 何度も繰り返すが、ジョン・カーペンターはへたくそな監督だ。しかし、その映画に込める情熱や想像力は、常人のそれを遥かに超越している。だからこそ彼はアメリカの映画界で生き残っているし、一方ならぬ尊敬さえ手にしているのだ。人は時に、完璧な物よりも不完全な物により深い愛情を注ぐ生き物だ。カーペンターがそれに当たるとしても何の不思議もないし、否定する要素は見当たらない。くだらないとかへたくそだとかいう思考は、必ずしも映画の評価を下げる対象ではないはずだ。少なくともカーペンターの作り上げた幾つかの作品は抜群に面白い。それは素直に認めてもいい事柄なのではなかろうか?


  「ザ・フォッグ」         2005   カナダ=アメリカ
 監督  ルパート・ウェインライト
 主演  トム・ウェリング    マギー・グレイス

「リベリオン」を思う

「リベリオン」は一本の映画として見れば、完全な失敗作に他ならない。あまりにも穴がありすぎるし、指摘されうる矛盾点も容易に見つかる。そういったガサツな作品にはB級のレッテルが貼られて、レンタル店の品揃えを水増しさせる為にだけ有効に活用され、誰の目にも留まらず埃をかぶるのが世の習いだ。けれど、この作品はつまらない作品ではないように思える。それは使い古された方法ではあるが、映画のカタルシスを正攻法に用いたその潔癖さによるものだ。ここには新鮮な驚きも新味の発想も存在しないが、確立された方法論を誠実になぞることによるある種の安心感がある。この作品を観て、例えば監督や脚本家(ここでは同一人物である)、或いは撮影監督等のスタッフに才能の種を見つける事はあり得ないのではないだろうか?少なくとも、カート・ウィマーという名前が、ある種のブランドを持ちうる可能性は非常に乏しいに違いない。これはマニュアル世代の代表格のような映画だ。これらマニュアル世代というイメージに共通するものは、とんでもなく出来が悪い物を生み出さないという利点があるのと同時に、どいつもこいつも個性の欠片もありゃしないという否定的な意見にさらされる境遇に追い込まれるという運命を背負わされる場合が多々あるという事だ。「リベリオン」はつまらないとも思わないし、特に面白いわけでもない。こういう作品は既に数え切れない程製作されてきたし、これからも(もしかしたら前代未聞のスピードで)大量に製作されていくのであろう。それは映画という文化の一つの腐敗にもなりかねない(そこまで大袈裟に考えるのもどうかとも思うが。所詮人にとって、映画は娯楽の一つでしかないのだから)由々しき問題でもある。
 これは海外のみならず、日本でより大きく速く進行しているのかもしれない。日本の映画産業がTVというメディアに取り込まれていくのは非常に残念な事だが、それも時代の流れなのだから仕方がない。日本における映画は、実はもう死に絶えているのかもしれないと、時々思う事がある。TVドラマでは放送コードに引っかかる描写も映画では可能であるとか、TVドラマよりもたくさんの人間と資金を使える事によってより大掛かりな映像を供給出来るとか、たまに映画とTVの違いを語るのにそういう意見を聞く事がある。そんな事は、実際にはどうでもいい事であるし、本来TVと映画の違いにそういう意見は的外れだし、馬鹿げているとも言える。TVと映画の大きな違いは、スナップ写真の類とギャラリー等の大きな壁にたった一枚だけ掛けられて鑑賞されるべき目的で撮られた写真のようなものだ。もちろんスナップ写真であっても、奇跡的に誰もが感銘を受けるような優れた写真は撮影される場合がある。映画と同等、時にはそれ以上に優れたTVドラマが存在する可能性は否定出来ないし、あると断言してしまってもいいだろう。TVドラマには例えば連続ドラマのように、一人か二人の主人公以外にもエピソードを肉付けし細部を強化するといった強力な利点も存在する。これはアニメーション映画の利点に近いものがある。実写映画では不可能なほど、アニメーションには緻密で幅広い情報をワンカットに好きなように挿入するという武器がある。最近ではCG技術の驚異的な発達によって、実写映画とアニメーション映画の境界線がなし崩しになりつつあるが、これは実写映画の新たな進歩というよりは、個人的にはアニメーション映画への接近という側面がより強い傾向としてみている。CG技術の使いすぎは、言いようによっては実写映画の後退なのだ。もう一つの大きな違いは、本来黒澤明が天皇という異名を取った事に表されているように、映画というのは個人を頂点として(ハリウッド映画が非難される要因は、よりTVに近い製作方法が影響しているという見方も、あながち間違った意見ではなさそうに見えるのではないか?)その一人の思想なり妄想なりを良くも悪くも表現し具現化する場であるのに対し、TVドラマというのは多数の人間が寄ってたかって(例えば視聴率やスポンサーの問題が常につきまとう)一つの作品をでっち上げる場であるという点だ。これは、作品をして芸術といえるものであるかないかの分かれ目にも相通じる点ではないだろうか?TVドラマと映画の違いは何か?という問いは、つまる所芸術とは何かという問いに似ているともいえるのではないだろうか?
 「リベリオン」は大方の映画が示している類の近未来を舞台にした作品である。その基本は例えばジョージ・ルーカスが学生時代に製作した「THX−1138」の原型である短編が描いている世界と大差がない。徹底した管理社会のもと、戦争等の争いを失くす為に、人間の感情を無くしてしまう事を善とする世界である。「リベリオン」の世界では、薬の投与によって感情を抑制しているのだが、薬は決められた時間に各個人が自分の手で投与する設定になっていて、これでは怠け者にはまず無理な相談だ。人間とは本来怠惰な生き物であって、これはかなり楽観的な治安維持方法だ。当然反乱分子は後を絶たず、政府はそれらの怠惰な人々を思想違反者という名目で処刑して回るのだ。その治安維持部隊には、特殊な能力を身につけたクレリックという兵隊を育成し任命している。戦争を失くすという大目標があるのに、自分達の杜撰な管理システムを棚に上げて、戦闘行為を悪化させているのだから何ともはやである。こんな舞台設定ですと聞かされて、この映画を観たいと思う人はいるのだろうか?まぁいい。このクレリックというのが、カンフーみたいな訓練をずっとしているのだ。西洋の人からすると神秘的な技にいまだに見えているのだろうか?それとも単にブルース・リーおたくか?まぁいい。とにかく今あなたが想像したように物語は進み、あなたが想像したような結末が用意されている。観たくなってきましたか?まぁいい。
 私はこの徹底的に人間を管理し感情を抑制する社会というものを、否定する気はない。実際、戦争行為を世界から一掃するには、感情を無くしてロボットのようになるしかないのではないだろうかと思ってもいる。それほど人間の感情というのは、扱いが難しい上にやたら好戦的であるものだと確信しているからだ。感情はいつだって、ちょっとしたきっかけがあれば簡単に暴走するものなのだ。戦争とは本来良いとか悪いとかの問題ではありえない。個人的な立場で言えば、戦争なんてない方がいいに決まっているじゃないか。戦争に問題があるとしたら、私はそれを決定するものは内地でぬくぬくとしているのに、どうでもいいと思っている人たちが煽られ手なづけられて戦場に向かい死んでいくというシステムにあると思っている。貧乏人がいつだって損をするのだ。その根幹は、人類が脈々と作り上げてきた社会の仕組みに直結している。現在の社会を形成している常識が崩れない限り、この世から戦争の悲劇がなくなる事は絶対にないし、この社会というのは実際不公平極まりないものだ。人間というのは本当に怠惰で、我慢強い生き物なのである。人口増加の問題もどうなんだろうか?個人的に言えば、出来るだけ長生きするにこしたことはないし、実際長生きしたいと思っている。けれど、人口の過剰な増加は人類全体の寿命を縮めるのは明らかだ。これは年金の問題を見てもそうだろう。みんなが長生きすればするほど、全体としては首を絞めているのも同然なのだ。少子化現象というのも、本来自然の摂理なのではないのですか?大量に人が亡くなるような事態になれば、出生率は勝手に上がるでしょう。このように、今日も社会は矛盾の中で蠢いているのです。矛盾こそ、社会の根源である。常識が多数決であるのと同じように、それは実に決まりきった意見である。
 「リベリオン」のように中途半端な作品が増えると、全体としての映画の平均点は上がるのかもしれない。けれど、それは間違いなく衰退への第一歩になる事だろう。日本人は、色んな意味で全体の平均点を上げる事に心血を注いできた。それは没個性が浸透している事と同意だ。日本はこれから良くなっていくと思いますか?それとも・・・・。


  「リベリオン」        2002     アメリカ
 監督  カート・ウィマー
 主演  クリスチャン・ベール     エミリー・ワトソン

「夕陽のギャングたち」を思う

中学生の頃、一時期狂ったように西部劇を見まくっていた時期がありました。「荒野の七人」に心躍らせたのは「七人の侍」の存在すら知らなかった頃で、誰が何と言おうと私は「七人の侍」よりも「荒野の七人」の方が現在でも大好きな作品だったりします。この頃に観た映画というのは、本当に心に深く刻まれているという印象が強く、やはり人間というのは十代までで全てが決まってしまうものなんだなぁという思いをひしひしと感じます。今、十代の青春真っ盛りなあなた、本当に羨ましい限りです。あなたの一日一日は、二十歳を過ぎた人間のそれとは同じ一分一秒でも全く違うものでありきらめく様な価値を持っているんだという事をくれぐれもお忘れなきように。そしてそんな時期を遥かに過ぎてしまった(もちろん私もその一人。呑まずにはいらんねぇな、ご同輩)皆様方には、心からお悔やみ申し上げます。
 西部劇と問われて最初に頭に浮かぶのは誰ですか?ジョン・ウェインとかヘンリー・フォンダとか俳優を思い浮かべる人もいるでしょうし、ハワード・ホークスとかジョン・フォードとかの監督を思い浮かべる人もいることでしょう?私にとっては、山田康雄に他なりません。もちろん、ルパン三世の声を演じている方です。山田氏は、かつてクリント・イーストウッドの吹き替えを担当していたわけで、「荒野の用心棒」も「夕陽のガンマン」も私にとっては山田康雄の声ありきの作品となっています。後に字幕でこれらの作品を鑑賞した時の違和感というか衝撃というか、それはそれは計り知れないものがありました。それぐらい私にとってはクリント・イーストウッド=山田康雄の図式が強固なまでに確立してしまっているため、山田氏の死後のクリント・イーストウッドはどこか贋物に思えて仕方ありません。結構贔屓の俳優であったはずのイーストウッドの作品に、ここ十数年全く興味がなくなってしまったぐらいですから、その影響力には我ながら驚かされます。これだけ技術が発達した世の中なのですから、今までの山田さんの膨大な吹き替え録音を利用して、全てのイーストウッド作品を山田氏吹き替えでDVD発売して欲しいものです。出来るでしょ?それぐらい。何の為の科学だよ!と、個人的な怒りをぶつけて見ました。いかがでしょう?
 さて、個人的に西部劇のベスト3を挙げろと言われるのは、はなはだ心苦しい質問になるわけですが、オールタイムで上位にランクするのは「リオ・ブラボー」であり「荒野の七人」であり「続・夕陽のガンマン」でしょうか?どれも名作の名に恥じない面白い映画です。アメリカ製が二本に、マカロニが一本という比率になりました。が、西部劇の俳優ベスト3を挙げろと問われれば、クリント・イーストウッド、フランコ・ネロ、ジュリアーノ・ジェンマが私の三大西部劇ヒーローであり、全てマカロニ。つまり私が西部劇にハマッタのは、イタリア製西部劇の力が大きいと言わざるをえません。ちなみにアメリカの星ジョン・ウェインのファンだった事は、過去に一度もありませんね。ジョン・ウェインって、かっこいいですか?「リオ・ブラボー」は映画としては超弩級の面白さでケチをつける所といえば、かっこつけ仕草が鼻につくでぶのジョン・ウェインぐらいしか思い当たりません。私にとって西部のヒーローは、裕福そうで自信家でパトリオチックな白いOOではなく、薄汚くて身体に悪そうなちんけな煙草を始終ふかしつつ個人の信念でのみ生きる男の中の男(ジェンマはちょっと軟弱ですけど)でなければならないわけです。
 そんな西部劇ヒーロー像を私に捻りこんだ監督がセルジオ・レオーネであります。レオーネは助監督としてのキャリアが長いせいか、監督作は両手の指の数にも足りません。しかし、その作品の面白さは凡百の監督を凌駕する質の高さを持っています。レオーネの作品群は大きく三つに分ける事が可能で、初期の監督作時代、「荒野の用心棒」のヒットでマカロニ・ウェスタンというジャンルを確立した時代、そして円熟した作品群による一般で言われるワンス・アポン・ア・タイム三部作の時代であります。現在の私は、この最後の三本がことのほか好きで、レオーネを観るなら「ウェスタン」「夕陽のギャングたち」「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」に尽きるとさえ思っています。中でも「夕陽のギャングたち」はその最高峰に位置する作品ではないでしょうか?少なくともレオーネが描く映画像のようなものを最も明確に映像化する事に成功した自身の集大成であるのは明白です。レオーネがデビット・リーン(世界が生んだ世紀の映画監督の一人であるのは間違いあるまい)に影響を受けていたのは有名な話で、それは「夕陽のギャングたち」に目に見える形で再現されている。自分なりの壮大な映像叙事詩をこの作品で形にしてしまい、例え興行的には大成功には程遠かったとしても、この作品の素晴らしさは疑うべきもないし自身も満足出来たとしたならば、ここでレオーネが一息ついてしまったのは想像に難くない。この後、レオーネが最も愛してやまなかった古き良きアメリカのギャング映画に心血を注ぎ、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」を完成させて世を去るわけだが、この流れも実に最初から運命として定まっていたかのようではないか。ファンの一人としては、例えば西部劇の良作「ミスター・ノーバディ」も自分で監督してくれればいいのにとか思うわけなのだが、レオーネは脚本と製作のみ担当し監督はしなかった。この事からも、レオーネの心は「ワンス〜」にのみ傾いていたというのは、勝手な思い込みなのでしょうか?レオーネにとって西部劇は単なる通過点にしか過ぎなかった。クリント・イーストウッドとのコンビで大ヒットを飛ばしていたレオーネが、コンビを解消してまで望んでいたものは何なのか?そこにこそ、映画監督セルジオ・レオーネの魅力が隠されているのかもしれません。
 「夕陽のギャングたち」には、他のレオーネ作品同様、悪漢しか出てきません。メキシコの革命期を舞台に、政府軍と主人公達の虐殺に次ぐ虐殺の連続。憎しみの連鎖にも通じる死の大盤振る舞いによって、物語は時にダイナミックに時にリアリスティックに主人公達の心理を紡いでいきます。そこに善も悪もありません。かように人間とはかくも殺しあう生き物なのです。アイルランドの爆弾魔がメキシコに自分の生きる道を求めてやってきたのは何故なのか?一介のちんけな強盗が思いもよらず革命の英雄に祭り上げられた上に思う事とは?この映画は実にドラマチックな娯楽作であると同時に、人間ドラマとしての側面を強く持っています。これが優れた映画でなくて、一体何を優れた映画というのでしょうか?確かに邦題はしょーもなく、これを名づけた人間は非常に罪深いわけで、猛省をして頂きたい。レオーネの特徴の一つとして、やたら長い上に回想シーンも多くて流れが途中ぶった切れてしまう部分もあるようです。それらも全部ひっくるめて、レオーネの最高傑作だとあえて言いたい。久しぶりに再見して、その事を強く思わされました。
 いつの時代も、英雄とは担ぎ上げられる存在のようです。そして、その代償は常にとてつもなく大きいものなのでしょう。それでも人が英雄に憧れの気持ちを抱いてしまうのは何故なんでしょう?そこに退屈の文字が見えないから・・・。それもまた一つの答えなのではないでしょうか?
 そうそう、レオーネといえばモリコーネについても語らなければ嘘ですね。レオーネの作品の素晴らしさを語る上で、モリコーネの音楽はなくてはならない存在です。最近ではトルナトーレとのコンビが印象的なモリコーネですが、幾百の作品の音楽を手がけているモリコーネの最も最高のタッグ・パートナーは、やはりレオーネでしょう。ちなみに{ション ション}と囁くようなコーラスが妙に耳に残りますが、あれはコバーン演じたアイルランド人の名前ですね。劇中ではジョンという名前で呼ばれていますが、ゲール語(アイルランドの母国語)のSEANという名前をロッド演じる主人公が聞き違えてJHONと思い込み、最後まで本名を知らずに終わるというエピソードの一つでもあるわけです。この部分もこの作品を楽しむ上での大事な大事な小道具となっていませんか?


  「夕陽のギャングたち」      1971     イタリア
 監督  セルジオ・レオーネ
 主演  ロッド・スタイガー    ジェームス・コバーン

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