DARK TALE OASIS

主に映像作品にふれて、思った事を書いていきます

「インランド・エンパイア」を思う

  私のケツは、どうも二時間を越える苦行に耐えられるほど鍛えられてはいないようです。もともとケツは自慢の一つではありませんし、はりもなければピンと吊り上ってもいません。という事は、セクシーな尻ではないという事でしょうか?世の中には尻に異様な執着を見せる人が少なくないようですが、私は残念ながらそうではありません。そういう意味では、プレイの種類を一つ減少させてしまうわけです。他の部分で頑張るしかありませんが、う〜ん、どうなんでしょう?とかく人を満足させるのは、大層難しい話ではありませんか?尻の穴一つ舐められないような男は去れ、と言われないよう精進するしかありません。
 東京では、現在恵比寿と新宿のわずか二館のみで、私達は「インランド・エンパイア」を観るしかありません。とても選択肢が少ないですね。私は今回新宿でこの作品を観てきたわけですが、映画館というよりは金持ちの私設シアタールームで映画を観ている気分でした。スクリーンも小さければ、箱自体も狭くてなんとも一所に集められた囚人にも似た感覚がありました。ミニシアターの存在は、なかなか観られない地味でマニアックな作品をスクリーンで観る機会を与えてくれる貴重な場であるのは確かです。しかし、このような施設を映画館と認めていいものなんでしょうか?しかも大きな劇場と同じ値段を取って。この手の劇場で映画を観終わった後に、家でゆっくり寛いで観る方がましだなといつも思ってしまうのは私だけでしょうか?日本はもはや映画という文化が衰退している国なのだという事を実感させられます。日本の映画産業が抱える様々な問題をいちいち取り上げるのも馬鹿らしい気がしますし、ミニシアターが与えてくれる至福の部分も考えればむしろエールを贈らなければいけないのかもしれませんが、個人的にはミニ・シアターは嫌いですね。ミニ・シアターが大きな劇場では扱おうともしない良作や秀作を発掘してきて提供してくれる事は映画好きとしては大変ありがたいという事実を踏まえた上で、ある意味で我が国の劇場での映画鑑賞離れを助長している点も絶対にあるのだという事も言えると思うんですけどどうなんでしょう?もちろん映画館問題で一番槍玉にあげられるべきが、最近とみに増加しているシネコンの存在である事は承知しているつもりですが。まぁこれも時代の流れ、映画が時代を映す鏡であるのならば、時代と共に形を変えて消え去っていく文化であるのも容易に想像がつきます。映画の歴史も百年を越え、もはやソフト面でもハード面でも寿命が近づいているのは否めません。人間に例えれば、まぁ長寿ですよ。大往生ではないですか。それにしても日本の映画産業があろう事かTVの延長になりつつあるのは、返す返すも不幸な結末に見えてなりません。これもお国柄ですか?美しい国の人だから?
 最近はパズル的なものがちょっとしたブームのようです。脳を活性化させる方法は、実にいっぱいあるんですねぇ。皆さんがこぞって脳の活性化にご熱心なのは、自分の脳味噌の性能が人よりも劣っていると感じるからなのでしょうか?そう感じさせる何かが、あなたの生活を脅かしているとか?誰かに、お前本当に物を知らないよなぁと言われたとか?クイズ番組なんかを見ていると、物をしらない人達が随分と持て囃されて、その珍妙なお馬鹿回答の数々が爆笑を呼んで番組を盛り上げています。ちょっとした吊るし上げですが、本人達は至ってへこたれていないようです。物を知らないという事が、逆にタレントとしてのセールス・ポイントにまでなっているかのようです。TVの前の私達は、それを笑いながら見る事によって、心のどこかで癒されているのかもしれません。世の中には上には上がいるもんだ、と。実際、世の中が便利になればなるほど、脳味噌は退化していくものです。小さな電子機器に必要な物が全て収められるとなれば、まず覚えばければいけない事は、その電子機器の取り扱い方だけという事になります。十代の若者の新製品(新技術)への順応性は驚くべきものがあります。無駄に物知りな中年と次世代技術にのみ精通している若者のどちらがこれからの時代に通用するのかと考えれば、その答えは考えるまでもないでしょう。若者は既にその事を知っていて、常識とかいわれるわけのわからないもしかしたらただの無駄な知識を、知らない事に何の気後れもしないのかもしれません。未来は日本の国会議員達のような老人の為にあるのではありません。未来とは常に子供達の手に委ねられるものなのです。
 パズルには答えがありますが、デヴィット・リンチの映画に正確な答えは見当たりません。本当でしょうか?きっと本人も、自分が撮ったいくつかのシーンに対して、何の答えも持ち合わせてはいないのでしょう。リンチの幾つかの映画は観客に思考する必要を要求します。よくわからない場面があるんだけど、あれは一体何なのだろう?特に意味のないシーンでも、観る人によっては意味を持つ場合があります。それこそが、リンチの映画に特有な魅力であり、映画の持つ限りない可能性を示しています。正確な答えはあります。それは自分が考えた上でたどり着いた結果であり、それはあなた自身だけに通用する答えなのでしょう。百人いれば百人の答えがある。リンチの考える物と、私達一人一人の考える物が違っていたとしても、それはそれでいいのではないでしょうか?世の中には分かり易い事柄と分かりにくい事柄が存在します。受容する事に慣れすぎてしまうと、人間はひたすら怠惰な動物と化していくでしょう。ただ感じてそこから何をインスパイアされるのか?そういう意味では、リンチは限りなくサルバドール・ダリに近いシュルレアリスムの感覚を目指している映画作家であり、ダリが好んだ{ダブル・イメージ}の手法を映画に使用或いは発展させているとも言えるのではないでしょうか?
 「インランド・エンパイア」には大まかな物語があるようですが、ストーリー自体は途中で霧散しているように見えます。物語の土台だけ与えて、後は自分で作りなさいとでもいいたげです。提示されるのは混乱した映像の場当たり的な羅列のようでもあり、計算され尽した編集の技のようでもあり、その辺のセンスがリンチを映画監督として認めさせている理由の一つなのでしょう。登場人物達のクローズ・アップが多様されていますが、人間は他人の心の中を覗けるようには出来ていません。推測だけが、常に求められます。自分の心について思い巡らしてみると、感情という物が必ずしも制御可能なものではない事に気づかされます。人間という不確かな存在と、不確かな感情。他人どころか自分自身の心についてでさえ映像化を試みれば、きっとそれは理解不能な物とかろうじて理解の範疇にあるものの混乱状態になるのではないでしょうか?人間は常に狂気を隠しもって生きている動物です。人間の心の闇を覗き見する事は、ある意味最も甘美な甘い蜜でもあるのかもしれません。
 それにしても3時間は苦行です。映画に集中するなんて、私にはやはり無理です。DVDになったらもう一度観て見たい映画ですね。何故なら、私は帰りのエレベーターの中で、何だかつまんねぇ映画観ちゃったなと、思ってしまいました。この映画自体に好奇心をあまりそそられなかった気がします。それが私のケツの問題なのか、それとも映画自体に魅力が乏しかったのか、それが問題だ。


  「インランド・エンパイア」      2006  アメリカ
 監督  デヴィット・リンチ
 主演  ローラ・ダーン    ジェレミー・アイアンズ

「来るべき世界」を思う

個人にとって、来るべき未来というのは長くとも百年あまりしかありえない。
 その個人が現実的であればあるほど、未来は憂鬱で荒廃しているものに見えるようだ。映画の中で描かれる近未来というのは、比較的悲劇的な背景が描かれる場合が多いようだ。核戦争により砂漠化した街が、無法者達で荒れ狂うジョージ・ミラーの「マッド・マックス2」はその典型だ。陸地が無くなって海ばかりの世界を描いた「ウォーター・ワールド」の世界観は、今もユニバーサル・スタジオのど派手なアトラクションとして喝采を浴びているが、その世界の住人達は常に死と隣り合わせの生活を強いられている。ジョージ・ルーカスの処女長編である「THX−1138」は、管理社会の一つの極みとして今もカルト的な人気を誇り、数々の後継作を生みおとしているが、その主人公はその世界からの脱出を試みているのは知っての通りだ。世界が人類の手から猿達の手に委ねられている「猿の惑星」は、その圧倒的な世界観だけで幾つもの続編が作られた。ジョージ・A・ロメロが描いた「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」では世界中に死者があふれ出し人々を食い散らかしていくといういささか荒唐無稽な話ではあるが、そこに人間の一つの側面をカリカチュアしたものだと考えてみる事によって様々な深読みが発生し、ついにはニューヨーク近代美術館にマスター・フィルムが永久保存されるに至った。日本にも永井豪によって「バイオレンス・ジャック」という傑作が陽の目をみた。世界でも類を見ない壮大で斬新な想像力は、マンガという特殊なメディアの中で時折花開くようだ。が、しかし・・・。
 未来はこんなにも厳しく辛いものなのでしょうか?
 映画の中の主人公達は、大概どこか希望のようなものを滲ませていたりします。どんなに苦しくても道は開けるさとか、一生懸命努力を重ねれば人は変われるとか、そもそも未来なんてものは自分の手で切り開いていくものだとか、まぁそれはそれは手を変え品を変えて観客を絶望の淵から救い出す事に余念がありません。「インディペンデンス・デイ」のように世界に何が起ころうとアメリカが救ってくれるのでしょうか?或いは「宇宙戦争」のように必死に耐え忍んで生きていれば、災厄の方から勝手に自滅してくれるとか?
 現実は映画よりもかなりドライであるというのが、私達の本音であるはずです。世の中というものは、個人の意志だけではいかんともし難いというのが常です。そう考えると、映画というものはそもそも金持ち達が貧乏人に対して、現実から目を逸らさせる道具として使われているような気がしないでもありません。人類の歴史は常に支配する者とされる者という仕組みが原則となって成立しています。ピラミッド型の社会というわけです。突き詰めれば弱肉強食という自然の掟に則っているとも言えます。人間の場合はそこの部分がちょっと複雑なだけです。ただ食べてしまうのではなく、時に懐柔し飼いならすわけです。人間は皆平等で、主権は下々の皆さんにあるんですよなんて、うわっぺらな甘い言葉を投げかけてきたりします。これらの言葉は全てがデマでないだけに、実にやっかいな言葉となります。人間というのは本来怠惰な生き物であり、与えられた枠に順応する為の優れた知能も持っています。とりあえず大きな不満さえなければ、面倒くさい部分には目を向けないのも個人が生まれた時に与えられたごく限られた時間を考えると、ある意味正しい選択なのかもしれません。
 歴史を振り返ると、下々の民にかまわなくなってしまった(ないがしろにした、或いはプライドを無用に傷つけたといってもいい)権力者に対して、底辺にて支えている人達の怒りが爆発し時の権力者が転覆させられる事態というものが多くみられます。絶対的な権力を保持しているものが、歴史の上で結構あっけなく滅んでいくのには理由があります。それはピラミッドを見れば一目瞭然なわけで、要するに数の論理です。過去において限定すれば、どんなに殺傷能力の高い武器を持っていても、圧倒的な人数の前ではいつかは屈服せざるをえない状況に追い込まれるのが当然の成り行きでした。「戦国自衛隊」で描かれていた自衛隊員達の末路は、普通に考えればはなから分かっていた結末に過ぎません。アメリカがベトナムであれだけ苦い思いをしたのにもかかわらず、中東でまた同じ歴史を繰り返しているのは結局の所、科学や兵器は進歩しているのに、根本の人間自体が何ら進化していない事の現れではないでしょうか?ただし、世界の警察を自称するアメリカが、各地の紛争で苦い思いをするのには、アメリカにたった一つの欠点があるからに他なりません。アメリカは紛争に介入する国々と地続きではないという地理的な壁が常に存在するわけです。もしも全ての国々がアメリカと地続きであったなら、世界はとっくに惑星国家として生まれ変わっていたのかもしれません。大西洋と太平洋という大自然の存在が、果たして他の大陸の人々にとって地獄に仏だったのか、或いは結果的にただただ不幸な事だったのかは誰にも分かりません。少なくともアメリカに服従した日本国は歴史上類を見ない発展を遂げました。それはズバリ運がよかったと言えるでしょう。幸運は長続きしないという世の原則を、無視すればの話ですが。当然の事ながら、結果はまだ出ていないわけです。百年後に、今という時代はどう表現されているのでしょう。現在、鎌倉時代が教科書数ページですっとばされて教えられているように、現在もまたいつかは教科書の数行のみで判断されてしまうわけです。一億数千万人があたかも一つの生命体であったかのように。
 国自体が大きく変わってしまえば、それは革命と呼ばれます。我が国で最も起こりえる可能性としてみると、それはまず政権交代という事になります。参議院選挙は嵐の中、予定調和ともいえる結果に終わったのは知っての通りです。自民党が大敗したのが何かの変化の兆しには全く見えない所に、この国の先行き不透明感が見え隠れしています。人は皆、失って初めて大切な事に気づくのだと、たくさんの映画が私に教えてくれました。実際の経験からも、その事を何度も教わりました。それでも変わらず怠惰でいる自分が時折情けなくもあります。あまりにも遅すぎた自民党の大敗に、一体何の意味があるのでしょうか?人類の超大な歴史の中で、個人なんてものは川を流れる木の葉以下の存在でしかないのも分かります。それでも微々たるものであろうとも投票率が上がっているとするならば、それは確実に社会が動いている証だと言えるのではないでしょうか?一見無駄に見える事が、次の世代の若者達に何らかの恩恵を与える事だってあるのかもしれない。希望とは、本来自分の為に持つものではなく、自分の子供や孫やその子孫達に託すべき理想を指すのではあるまいか?社会の変革を思うと、個人の一生はあまりにも短い。だからといって、ただ無関心でいる事の無意味さは来るべき未来に対してはかりしれない損失を与えているのかもしれない。何をするにも、まず自分が動く。結局はそこからしか何も変わらないのだぞと、また今日も自分に言い聞かせるのですが、明日になるとまたそんな気持ちは忘れてしまう私なのです。
 「来るべき世界」は原作者であり、この映画の脚本を書いているH・G・ウェルズの未来予想図を映像化したものだ。一人の人間の理想だけが貫かれているという点で、この映画世界の人間達の作り上げる未来に異議を唱える人はたくさんいるに違いない。それでも人の意見に耳を傾けるというのは、時にとても楽しいものだし、そこから自分がぼんやりと思っていた事がちょっとした形になるというアハ体験に出くわす事だってある。映画自体は後半に向かうに従ってどんどんつまらなくなっていく気がしないでもないが、それは個人的にロメロのゾンビを連想させるシーンあたりが、自分にとっての映画の頂点だったからに過ぎない。ウェルズの想像する来るべき未来は、現実とは大きくかけ離れているにも関わらず、根本の所で当たらずも遠からずと思わせる部分もあって、やはり一種の天才性を感じさせるのに十分だ。もちろん、ウェルズも未来はこうなると予言しているのではなく、こういう風になる可能性もあるかもね、君はどう思う?と、語りかけているかのようだ。私たちの描く未来予想図はごく個人的なスケールの小さい事柄が、ほとんどなのかもしれない。気分転換にたまには、こんな壮大な未来を予想してみるのも楽しい事ではないだろうか?未来を想像する事。それは時に、人の生きる意味にもなりうるのではないだろうか?


  「来るべき世界」      1936    イギリス
 監督  ウィリアム・キャメロン・メンジース
 主演  レイモンド・マッセイ   エドワード・チャップマン


「BLACK SABBATH LIVE IN MONTREAL 1983」を思う

今秋、ここ日本の地・埼玉にBLACK SABBATHがやってくる。
 このニュースに関心を示す年代とは、即ち棺桶に片足を突っ込み始めている人々という事になるのだろうか?それともおじさん達の知らない所で、若い人の間にもSABBATH熱は密やかに燃えているとか?まぁ、ありそうもない話ですこと・・・。
 さて、今回日本にやってくるのは、HEAVEN AND HELLなるバンド名を名のるSABBATHですが、要するに元RAINBOWのボーカリストであるロニー・ジェームス・ディオがいた時代の編成という事らしい。私は熱烈なSABBATHファンだった事は一度もない。実はオジー・オズボーンがヴォーカルを務めていた本家SABBATHのLP(CDでは決してない)は一枚も持っていなかったりする。SABBATHはハード・ロック界ではビッグ・ネームだし、エンターテインメント・ビジネスの総本山アメリカでのSABBATH人気は日本では人気のあるDEEP PURPLEなんて足下にも及ばない影響力をいまだに持ち続けている。ちなみに私の一押しであるRAINBOWは、SABBATHに比べれば、アメリカでは鼻くそみたいな存在でしかない。あの伝説的なライブ・イベントのLIVE AIDでも、ペイジ&プラント(要するにZEP)やジューダス・プリースト等と共にハード・ロックを代表する存在感をオジー&SABBATHは見せつけてくれた。私はこのライブ・エイドの本放送をVIDEOに録画していて何年かに一度の割合で秘かに楽しんでいるのだが、衛星中継の技術が未発達な上に、日本のスタジオで解説もどきの活躍をみせる面々のしどろもどろ具合といい、実に不愉快ではある。映画でも例えば松崎しげる、大場久美子吹き替えによる「スター・ウォーズ」のTV放送版(これも私はVIDEOに録画している。カビが生えてしまってもう観る事もないだろうが)や、TV東京でのとんでも吹き替え映画がマニアの間では爆笑のネタになっていたりするが、LIVE AIDは笑えない分価値は下がるのだろうか?このLIVE AIDにおいて、バンドの名前と共にアルバム・ジャケットが紹介として使われているのだが、SABBATHのそれは「BORN AGAIN」のジャケットだった。何故に「BORN AGAIN」が選ばれたのか、神のみぞ知るだが、熱烈なSABBATHファンはきっと{なんでやねん}と突っ込む所ではないだろうか?
 SABBATHの歴史は怖ろしく長い。大きく分ければ、概ね三つに分かれるのだろう。オジー在籍の本家SABBATH時代。ロニー在籍(個人的には、この時期のSABBATHが最も結実していたと思うのだが、どうだろう?)の時代。そして、トニー・マーティン以下その他の時代。これらが、前後左右入り乱れて今に至っている。唯一言える事は、SABBATHとはギターリスト・トニー・アイオミのバンドだということだ。その人気を牽引したのがオジーであろうとなかろうと、トニー・アイオミが居ればそのバンドはBLACK SABBATHなのだ。それが現実だ。
 HEAVEN AND HELLのニュースを聞いて、古臭い映像を今回再見してみた。「BLACK SABBATH LIVE IN MONTREAL 1983」1983年と聞いて、誰がヴォーカルを務めているか分かる人はそういないだろう。誰あろうイアン・ギランである。といってもマニアしか知らないだろうから、ちょっと解説すると、イアン・ギランとは(黄金の)第二期DEEP PURPLEの(PURPLE自体もはやマイナーか・・・)ヴォーカリストであり、現DEEP PURPLE(信じられないが、いまだ現役バンドなのだ)の旗頭だ。どうしても分からない人はROCK好きのおじいちゃんに説明してもらって下さい。オジー時代のライブも、ロニー時代のライブも持っている(重ねて言うが、バンドのファンであった試しはない。説得力ゼロですか?)が、私はこのイアン・ギラン時代が一番好きだったりする。熱烈SABBATHファンには最も忌み嫌われる時代と言ってもいいのではないか?けど、好きだなぁ、ギランのいるSABBATH。わけの分からんストーンヘンジの舞台セットもイカスではありませんか。ギランも一生懸命シャウトしまくってます。下品な笑いも全開です。左右に分かれたアイオミとギーザー・バトラーもおどろおどろしくてかっこいいではないですか。そう、これこそが「BORN AGAIN」というたった一枚のアルバムを残し消え去ったライン・アップなのです。そして、これこそ私が唯一持っているSABBATHのアルバムなのです。
 ちなみにこの1983年のセット・リストは、Children of the grave ・ Hot line ・ War pigs ・ Born again〜Disturbing the priest ・ Supernaut〜Rockn'Roll doctor ・ Iron man ・ Zero the hero ・ Digital bitch ・ Black sabbath アンコールに Smoke on the water ・ Paranoido となっています。どうですか、このマニアックなセット・リスト!SABBATHを語る時に、普通じゃ考えられないですね。しかし、何度観てもこのアンコールは絶倫ものですよ。アイオミの弾くスモーク・オン・ザ・ウォーターも乙なものですが、ギランが叫ぶパラノイドは実は隠れた名演だとつくづく思います。こう言ってはSABBATH党の皆さんに怒られてしまいそうですが、オジーの歌ってどうなんですか?と、思ってしまいます。
 さて、ロニー&サバスの面々が、ここ日本でどれだけ受け入れられるのでしょうか?SABBATHファンではないとはいいつつ、ぜひ温かい目で見守って頂きたいものです。ロニーはバビブベボの発音が異常に力強いですが、とても優れたヴォーカリストですよ。トニー・アイオミも一時代を築いたという意味ではジミー・ペイジやリッチー・ブラックモアに引けをとらないギターリストであります。その独特のリフが、きっとあなたの耳に重くのしかかるでしょう。みんな、この秋は埼玉に集合だ!といいつつ、埼玉かぁ・・・遠いなぁ。
 私としては、ギラン在籍のSABBATHが見てみたいものですが、夢のまた夢ですな。
 そういえば、その昔、中野サンプラザにGILLANのライブを観にいった事がありました。三日連続公演の中日で、当日券で入ったのに前から三番目の席で(笑)観客は三十人もいなかったんじゃなかろうか・・・。けど、そのライブを観た人なら分かってくれると思いますが(いっても30人ですけど)、その日のイアン・ギランのコンディションは絶好調でした。DEEP PURPLEでも何度か観ているし、色んな年代のVIDEOも持ってるけど、あれほど良いヴォーカルのイアン・ギランはちょっと見当たりませんね。いまだに、私の良き心の宝物になっています。
 HEAVEN AND HELLの日本での公演が、最良のものになりますように。心から願っております。
 誰かの心の宝物になりますように。その力は持っているバンドのはずです。きっと・・・。


  「BLACK SABBATH LIVE 1983」   カナダ  1983
  BLACK SABBATH
      トニー・アイオミ    (g)
      ギーザー・バトラー   (b)
      ベヴ・ベヴァン     (ds)
      イアン・ギラン     (vo)

「失踪」を思う

比類なき傑作映画の一本である「消失」は、言ってみれば{センス・オブ・ワンダー}に集約される短編小説の味わいを秘めた作品である。この作品の面白さを端的に語るとするならば、主人公と殺人鬼のサイコ合戦という面を挙げる事が出来るのではないだろうか?殺人鬼が狂っているというのは定石だが、主人公さえもどこか狂っている。要するに、人間とはみんなどこか少しづつ狂っている生き物なのではないか?という問いかけが描かれた作品なのだ。そして、その狂気は、ある日突然、何の問題もない家族にすら降りかかる危険性を常に孕んでいるんだよという、メッセージを付け加える事によって、私達はすべからくこの作品に恐怖を覚えずにはいられなくなるのだ。自分は絶対に狂ってなんかはいないと、誰もが思いたいものだが、本当にそうなのだろうか?一端この問いに行き着いてしまった人は、どうやってその答えを導き出せばいいのだろう?あなたは自身をして自分は正常だと言い切る自信がありますか?
 「失踪」は、「消失」のヨーロッパでの評判を聞きつけたアメリカ人が、自国でのリメイクを提案した事によって作られた映画である。監督はシュルイツァー自身、つまりは完全なセルフ・リメイク作品である。何故シュルイツァーはこの作品のリメイクを引き受けたのだろうか?最近、日本の監督がこぞってアメリカで映画を製作しているのはご存知の通りだ。彼らはこれを大きなチャンスと受け止めて、海を渡ったのに違いない。サッカー選手ならスペインやイングランドの一部リーグで活躍したいと夢見るものだろう。映画ならば、当然アメリカでというわけだ。特に日本の映画監督で、確固たる意思でもって日本において日本でしか作れない映画を目指している人は果たしているのだろうか?好きだから映画を撮るという姿勢も当然ありなわけで必要な要素ではあるわけだけれど、本当に彼らをして自己表現の場として自分には映画しかありえないと覚悟している日本人映画監督は一体どれだけいるのだろう?何故昨今の日本映画はどれも似たり寄ったりで没個性的なのだろうか?話がそれてしまったが、シュルイツァーもまたハリウッドでの映画製作に憧れを持って海を渡ったのだろうか?という点に、私ははっきりとそうではないのではなかろうかと思う次第なのだ。
 1988年のオランダ映画「消失」と、1993年のアメリカ映画「失踪」は、基本的な作品の骨子となる部分は全く同じだ。自身の手で忠実に再現する事に、ことのほか重点を置かれているようにも見える。が、その作品全体から放たれる雰囲気がまるで違うのは何故だろう?簡単に言えば、「消失」はヨーロッパの映画に見えるし、「失踪」はちゃんとアメリカ映画にしか見えない。そう、アメリカ映画にしか見えないという部分が重要なのではないだろうか?これは、「消失」が「失踪」の3分の2の時点で終わっているのに対して、「失踪」はさらにそこから物語が発展していき別の結末が用意されている事だけの理由ではもちろんない。シュルイツァーがこの2作品で表現しているのは、映画という物は、同じ原作を扱ったとしても、製作される国によってこんなに違うものなんだよという事なのではないだろうか?「消失」をセンス・オブ・ワンダーに集約される短編小説の味わいと先に述べたが、「失踪」はより娯楽性を重視したエンターテインメントの長編小説の味わいを秘めている作品なのだ。個人的には、どちらが上でどちらが下という出来ではないように感じる。これはシュルイツァーという監督の力量を示す重要な手掛かりだ。映画にハッピー・エンドを求める人もいるし、アン・ハッピー・エンドににんまりする人もいるに違いない。それは実に自由な選択だと、私は思う。ただしこの2本には重大な違いが存在する。結論から言えば、「消失」は真の意味でのホラー映画(大量の血や化け物とは一切無縁の、人間が抱える根源としての恐怖を感じさせてくれる映画)の傑作であり、「失踪」はやや見世物的なホラーを感じさせるサスペンス映画の佳作である。どちらも金を払って(日本の映画館の料金は絶対高すぎるが)観る価値があるし、どちらもシュルイツァーの映画監督としての手腕を見事に表現する事に成功しているのではないだろうか?それもかなり意図的に。シュルイツァーという監督は、実に自信満々で小賢しい人物という気がしないでもない。しかし、口でどんなに感心させられたとしても大した作品を撮れない監督があまりにも多い昨今にあって、実に頼もしい映画監督の一人であるという点は疑いようのない事実だ。シュルイツァーは確かな腕を持った優秀な映画監督の一人として、ここ日本でももっともっと評価されるべき人物なのではないだろうか?
 さて、アメリカに進出した幾多の他国の映画監督が、その後もアメリカで活躍を見せる場面が多い中、シュルイツァーは「失踪」以後アメリカ映画を撮ってはいないようだ。「失踪」は少なくとも、一本の作品として失敗作ではないにも関わらずだ。これはシュルイツァー自身が、自らの意志としてヨーロッパでの映画製作を選択しているといって間違いなさそうだ。その思想は、例えば最新作である「石の筏にのって」を観てもらえば分かる問題なのではないだろうか?シュルイツァーは自らがアメリカに進出して完璧なアメリカ映画を製作する事によって、自身の映画への思いを明確にしたとも言えるのではないだろうか?これによって、シュルイツァーのアメリカ進出は、実はある種の都合のいい実験だったのではないか?と言えなくもない。映画大国アメリカを巧みに利用して、実験作によってアメリカ映画を痛烈に批判したとしたら、こんなに痛快な話もないのではないだろうか?
 「失踪」はアメリカ映画の佳作として、その一本でも十分に楽しめる作品である。けれど、「消失」と完全パックにした時に、どうしても「消失」の引き立て役を押し付けられている映画という気がしてならない。「失踪」はその物語としての終結を告げた後に、エピローグ的な場面が続いている。本来、あってもなくてもいい場面だ。主人公が、自分の体験した物語をぜひ本にして出版しないかと持ちかけられるという件だ。こういうセリフが語られる。「私は出版者だ。ぜひ書いてくれ。絶対に後悔はさせない」と。主人公はこの話を笑って断るのだ。シュルイツァーはこのような言葉で、このリメイク映画の製作を依頼されたとしたらどうだろう?「映画はハリウッドだ。ぜひ撮ってくれ。絶対に後悔はさせない」アメリカ映画界に対して、実に皮肉なシーンとは言えないだろうか?「失踪」を撮り上げたシュルイツァーが、「どうです。これがあなた達の映画ですよ」と、にやにやしながら語る姿が想像出来ませんか?



  「失踪」            1993   アメリカ
 監督  ジョルジュ・シュルイツァー
 主演  キーファー・サザーランド    ジェフ・ブリッジス


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