パルマ家のブライアン氏は果たして巨匠なのか?確かにジョン・カーペンターやらサム・ライミやらクエンティン・タランティーノといった面々に比べれば、遥かに高級感が「アンタッチャブル」以降漂っている気がしなくもない。映画監督としての手腕も、先に挙げた三人よりも優れているのは確かだろう。しかしどこか中途半端で不安定なポジションに立っている印象が強くて仕方がない。実に情熱的にごく一部の人達だけに支えられているカルト監督とも呼びにくいし、スピルバーグやジェームズ・キャメロンのように泣く子も黙る大物というわけでもない。雇われ監督としての側面も否めないし、そういう意味での作家性も希薄だ。ただ、ご存知のように、この人は一貫して自分のスタイルを確立している監督であり、それは映像の魅力として銀幕上に彩られている。見事なシーンが必ずどの作品にもあるというのは、決して楽な仕事ではないはずだ。代表作と言われるような{この一本}がないのも痛い。良く言えば底を見せていないともとれるし、悪く言えばあるシーンの素晴らしさを一本の作品全体へと昇華させる事が出来ないとも言える。そういう意味ではどこかいつも観る前から限界を感じさせてしまう監督であり、作品自体の寿命も低いレベルで安定してしまっているのは、とても残念な気がしてならない。
デ・パルマの歴史は幾多の名監督がそうであったように、ホラーに題材をとったジャンル映画によってスタートしている。「悪魔のシスター」や「ファントム・オブ・パラダイス」といった一部のマニアが熱狂する類の作品で注目を浴びた後、スティーブン・キングの処女長編として有名な「キャリー」である程度の地位を獲得した。以降、幾多の一流俳優との仕事も含めて、着実に一流監督の道を突き進んで今日に至っている。その過程には「スカーフェイス」や「アンタッチャブル」或いは「ミッション・インポッシブル」といったヒット作品も生まれ、どの作品も一定の注目を集めていたようだ。個人的には「殺しのドレス」が好きな作品で、どこかダリオ・アルジェント作品に通じる魅力に何度か繰り返し観た記憶がある。「殺しのドレス」は、デ・パルマのヒッチコキアンぶりを確認する見本のように扱われている作品であるが、私は殊更ヒッチコック色は感じなかったように思うのだがどうなんでしょう?技術的な事がどうこうというよりも、もっと人間としての本質的な部分に大きな違いがあるように思えてならない。ヒッチコックは相当な怖がりで臆病な性格だったのはよく知られているが、それがコンプレックスとなって作品を作り上げていたのではないだろうか?要するに、怖い映画をこれでもかこれでもかと作り上げて、{どうだい、あんただってこんな映画でひーひー叫んでるじゃないか}と言ってにやにやしているヒッチコックの姿が容易に想像出来ないだろうか?一方、デ・パルマは怖がりな性格という気がしない。むしろ残酷な事が大好きで、血なんて見た日には人を押しのけて最前列に陣取らないと気がすまないといった感じを想像してしまうのは私だけでしょうか?嫌いだから作るという視点と、好きだから作るという視点では、出来上がった作品が同じサスペンスでもその質に違いが生じてくるのは当たり前のような気がするのだが。そういう点でも、私はデ・パルマが度々言及される第二のヒッチコックみたいな呼ばれ方には、とても賛成出来ない。SとMの違いというのは、やっぱり相当異質なのではあるまいかと思う次第である。ちなみにヒッチコックの大ファンを自称する人達は、デ・パルマの大ファンでもあるというのが大多数の意見だという統計でもでているのでしょうか?これに関しても、私は常々懐疑的であるわけです。少なくとも私の中では、ヒッチコックはかなり天空に近い高みに存在する映画監督でありますが、デ・パルマは好きな作品もあるにはあるけど、別に何を取り立てて持て囃すような監督ではないわけです。同じような世代の同じようなタイプの作品を連発する監督達とデ・パルマを比べたとしても、監督としての実力はデ・パルマよりかなり下回るのでしょうが、独特のチープさとヘタウマ感を画面に炸裂させているジョン・カーペンターの方が私には常に魅力的でありますし、独自のスタイルを確立しているという点でもより異質でよりマニアックなデヴィット・リンチに軍配が上がるのではないでしょうか?結論を言えば、ブライアン・デ・パルマは中途半端な監督である、というのが私の中でのデ・パルマの位置であると言わざるをえない。
そんなデ・パルマの最新作が結構思ったより話題にもなっていた「ブラック・ダリア」であります。デ・パルマの作品って、こんなに積極的に大々的に宣伝を受ける対象だったでしたっけ?ハリウッド黎明期の女優の卵の殺人事件に端を発して創作された作品にデ・パルマが多大な興味を持った事は、単純に理解できます。過去の作品を見ても、ある時期のアメリカの姿が実に見事にデ・パルマによって再現されていました。そしてアメリカ一有名な死体とも言われる、奇妙な女性の死体にデ・パルマが興奮に我を忘れた姿も手に取るように理解できます。何しろ最前列に陣取る人ですから(最も、これは私の想像の話ですが、あくまでも)。ここで重要なのは、このアメリカ一有名という点です。私達は図らずも日本人なわけで、少なくともまだアメリカの州の一つではなく、日本国という一見いんちき臭いとはいえ、れっきとした独立国家の住人なわけです。アメリカ一だろうとなんだろうと、日本では圧倒的に無名であり、興味も半減するのは当然です。実際、どれだけの人がエリザベス・ショートなる犠牲者の名前を知っていたのかどうかは、はなはだ疑問です。これは作品を観るうえでは、かなり問題になる点ではないのでしょうか?この殺人事件について少しでも知っている人と、全く知らない人とでは、映画を鑑賞する上で絶対に違いが生じるはずです。アメリカで興行収入でトップになったとかいう宣伝の仕方はもはや定番になっていますが、日本とアメリカは違う国であるという事実がいつもないがしろにされているようでなりません。アメリカでどんなにヒットしようと、特にしゃべくりが売りのコメディ映画等は、基本的には日本人にはさっぱりなはずです。私は、この手のコメディ映画が大好きという人の気がしれない時がままあります。「ブラック・ダリア」はある意味、日本人には理解不足な映画の典型なのかもしれません。誰もが知っている話はダイジェストでも話が通じるものですが、何も予習がない状態ではあれよあれよと進んでいく展開についていけなくなるのはごく普通の事ですし、そういう意味でこの「ブラック・ダリア」は(アメリカ人以外には)とっつきにくいタイプの映画だといえるでしょう。正直、一回の鑑賞では「ブラック・ダリア」の評価は付けにくいとしか言えません。一回観て理解が及ばない映画というのは、その時点ですごく損をしている場合があります。次から次へと製作される映画作品の波の中で、そうそう何度も同じ映画を見返すのは相当何かに囚われなければもはや無理でしょう。「ブラック・ダリア」は雰囲気にデ・パルマらしい味を魅せる良質な映像を持っていながら、そうそう評価が上がらない作品なのではないでしょうか?何度も何度も見返す事を厭わないデ・パルマ大好き人間の方には、結構いい線いった映画なのかもしれませんが、正直私は再びこの映画を観る気にはしばらくはなりません。へたすれば、一生ない可能性すらあります。
人間の人間に対する評価というのは見た目で実はほとんど決まってしまうとも言われています。一目惚れというのは、人だけではなく映画にも通用する現象です。「ブラック・ダリア」は鑑賞前の評価では、どのデ・パルマ作品よりも私の興味を誘った作品であるにも関わらず、観終わった後の満足感は非常に乏しい映画でありました。あなたにも覚えがあるのではないでしょうか?ずっと憧れていた人と念願叶ってデートまでこぎつけたのに、いざデートをしてみると何かのきっかけで気持ちがさぁっと退いてしまったという経験が。「ブラック・ダリア」は私にとっては、そんな作品でありました。
デ・パルマは果たして巨匠なのでしょうか?そうだとも言えるし、そうではないとも言えるのでしょう。結局はその作品に触れた、あなただけにしかわからない問題なのではないでしょうか?
「ブラック・ダリア」 2006 アメリカ
監督 ブライアン・デ・パルマ
主演 ジョシュ・ハートネット スカーレット・ヨハンソン
没後30周年ですか・・・。
1977年8月16日。20世紀最強最大の王様、エルヴィス・プレスリーが逝った。午後2時過ぎ、当時のガールフレンド、ジンジャー・オールデンにバス・ルームで倒れている所を発見された。パプティスト・メモリアル病院に搬送されたエルヴィスは、午後3時30分に死亡が宣告された。死因は{心臓の不整脈による心臓発作}。翌日、当時の大統領ジミー・カーターによって全米に向けて追悼声名がなされ、翌々日にはフォレストヒル墓地に埋葬されるも、一月半後には遺体はグレースランドのメディテーション・ガーデンに移された。この年、エルヴィスは実に55回のコンサートを行っている。最後の会場となったのはインディアナ州インディアナポリスにて、6月26日の出来事だった。
エルヴィスが生涯に出演した映画は33本(内、2本はコンサートの模様を追ったドキュメンタリー)に上る。内容はどれも似たりよったりで、映画スターとしてのエルヴィスには代表作らしい代表作もない。銀幕の中で青春を謳歌するエルヴィスの姿は、まさに偶像そのものだった。
エルヴィスの歴史は大きく三つに分ける事が出来る。歌手として頂点を極めた最初の4年間。映画スターとして雲の上の人として過ごした10年間。そして精力的にコンサートを行った7年間。この中で最も重要なのは、もちろん最初の4年間である。この4年間だけでも、エルヴィスの現在の地位はきっと変わってはいなかったに違いない。それほど中身の濃い4年間だったわけだ。
エルヴィスが生身の人間として活動したのは、この最初のシングルを発売した1954年から米陸軍に入隊した1958年3月までの正味4年間の出来事だ。このたった4年間の衝撃だけで、エルヴィスは王様になったと言っても過言ではない。エルヴィスがゴスペルの歌手を目指していたのは有名な話である。トラック運転手をしながら母親にプレゼントする為に一枚のプライベート・レコードを録音した事から始まったシンデレラ・ストーリーが実しやかに語られていた時期もあったが、それは完全な作り話である。18歳のプレスリーは機械修理会社から精密工具会社を経て、クラウン電気会社に就職。電気技師になる勉強をしながら、ゴスペル歌手への道を虎視眈々と狙っていた。19歳のプレスリーは、ある野心家の目に留まる。それがメンフィスで録音スタジオを経営し、インディ・レーベルのサン・レコードのオーナーを務めていたサム・フィリップスだ。サムの金のなる木は{黒人のように歌う白人シンガー}というアイデアだった。まだまだ高い壁を築いていた人種差別問題を逆手にとるこの狙いは、ずばり的中していたという事になる。エルヴィスの成功は二つの時代による偶然に支えられていた事実がある。一つは、この人種差別問題。白人の若者はR&Bに熱狂し始めていたが、それが黒人達の音楽であった為に爆発的な人気には到っていなかった。そして、SPレコードからEPレコードへのメディア変化により、レコードの普及が桁違いに増大したのが正にこの時期であったという事実。エルヴィスの登場は、神に仕組まれた出来事に見事に一致した。当初サムがエルヴィスに提示したのはカントリー・ミュージックであり、これはエルヴィスのゴスペル嗜好とも一致したのみならず、白人リスナーの取り込みを巧みに利用した。カントリーでありながら、エルヴィスの歌声は黒人R&Bのそれだった。R&BからR&Rへの流れは、ここに完璧な様式をもたらす。カントリーの新星エルヴィスは、いつしかR&Rの王様へと自然に形態を変えていく。
20歳になったエルヴィスを待っていたのは、連日連夜に及ぶライブ活動の日々だ。1955年のこの年だけで、エルヴィスは300回を越えるコンサートに出演している。ライブの成功がレコードの売り上げに如実に反映されるアメリカというお国柄もあって、エルヴィスの成功は雪だるま式に膨大な物となる。エルヴィスがビルボード・シングル・チャートでNO.1に輝いた曲は18曲にも及ぶが、その内の半分が56年と57年に発売された曲である事が示すように、エルヴィスはここで既に歌手としての頂点を迎えていたのが分かる。伝説はここに達成され、後の十数年はその幻想に浸っていただけの時期だ。
かように人の人生において、頂点といえる時期はとてつもなく短い。エルヴィスのような王様だからこそ、一生涯金に埋もれていた時を過ごせたわけだが、普通の人ならば人生のほとんどをただ同じような日常をだらだらと過ごして生きているだけの状態というのが当たり前だ。人生とは大多数の人にとっては、至極退屈極まりない日々の繰り返しに過ぎない。だからこそ人は非日常を求めて止まないのだ。それがどんなに一過性の出来事だったとしても、日常からの脱却なくして人はまともには生きていけない。非日常を得る手段として最も安易でポピュラーな体験として、映画もそこに含まれる。ハリウッドの中身のないといわれる大作映画にも、それなりの意味は確実にあるのだ。映画好きと自称する人達は、得てしてハリウッドの大作やジャンクなジャンル映画の類を軽視し侮蔑する事があるが、それは明らかに誤りであると断言しよう。そういう映画にこそ映画の本質があるのだから。映画とは本来、二時間あまりの別世界との疑似体験であって、それ以上のものが果たして必要なんだろうか?奥が深いとか、考えさせられるとか、何かのメッセージを得るとか、それは観た人それぞれの勝手な行為であって、映画の評価を決定するものでは決してないのではないだろうか?
デビット・リンチの新作が公開されるようだ。リンチの映画はとても楽しくて私も大好きだが、全ての映画がリンチ作品のようになってしまったとしたら、それは大問題だ。リンチは映画界の異端でありアウトサイダーとしての位置づけが正しいのであって、決してマジョリティーになってはいけない監督の一人だ。何か話題になってるから観て見たけど全然わかんねぇとか言って楽しんでる人達は、どうか劇場に足を運ばないで下さい。わかんないように撮っているわけだから、わからないのは当然なのです。稀に分かったとか言って自分の勝手な意見をだらだらと述べている人もいるようですが、あれもどうなんでしょう?もしかしたら、リンチ・ファンというのは永遠に交わらない並行のレールを歩いていく人達なのかもしれません。それはそうとして、私はただただゆったりと寛いだ雰囲気の中でリンチの新作を観たいだけなんですけど。それでなくても3時間の長丁場らしいじゃないですか?3時間の陶酔とか宣伝では長さを強調しているようですが、私は基本的には賛成しかねますね。3時間なんて集中出来っこないし、ケツが痛くてかなわんじゃないか。リンチの映画は90分で十分楽しめるはずだ。
で、コスカレリの「プレスリーVSミイラ男」ですが、これがまただらだらだらだらして。コスカレリの作品は基本的に幼稚だし、重箱を突けば粗が後から後から絶え間ないのがいつものパターンですが、これも相変わらずのコスカレリ節に嵌まってしまっています。純粋に娯楽映画として失敗作であるのは認めなくてはいけない類の映画です。映画監督としても、この人はいつまでも自主映画に毛が生えたような手腕しか見せてくれません。何故このような人が映画製作を続けられるのでしょうか?生まれが金持ちのぼんぼんだからでしょうか?個人的には「ファンタズム」(続編がコスカレリのライフワークの如く存在していますが、ここでは一作目のみを指します)という一本の魅力を持った映画をものしたという事実から起きた{もしかしたら現象}のせいではないかと推測します。「ファンタズム」がとびきり良い作品とは思いませんが、色んな意味で魅力を持った映画であるのは確かではないでしょうか?コスカレリもまた、マイノリティの映画作家として一本の映画で存在を認められた一人であるのは間違いないようです。それにしても「プレスリーVSミイラ男」、面白そうなアイデアだったのにねぇ・・・。せっかくくだらないアホみたいな邦題までつけてもらったのにねぇ・・・
「プレスリーVSミイラ男」 2002 アメリカ
監督 ドン・コスカレリ
主演 ブルース・キャンベル オシー・デイヴィス
部屋のエアコンがいかれました。非常に暑いです。この夏を生き残る事が出来るのでしょうか?とても心配です。クソ暑い夜が続きダルダルの毎日ですが、こんな時こそ身も縮みあがる恐怖をホラー映画には与えて欲しいものですが、昨今のホラー映画の低レベル化は実に由々しい事態となっております。ホラー映画といえば、そもそも大いなる侮蔑の目で見られる誠に虐げられた存在であるわけです。個人的には、良質のホラー映画とは、映画というメディアの最高峰に位置すべき人間ドラマであると理解しているわけですが、残念ながら私の周りにもその言葉に同意してくれる人などいるわけもなく・・・。ホラーだけは見ない、とか。時間の無駄、とか。キモッ、とか言われ続ける日々をただただ送っているわけです。そもそも、ホラー映画(或いはジャンル映画と底上げをしてもよいが)には、あまりにもくだらない作品が多すぎるという事実があります。ホラー映画擁護論を持論とする私でありますが、実際に百本のホラー映画を観れば、その内の99・8作品は、本当に救いようのないクズ映画な気がします。予算がないとか、制作環境が劣悪であるとか、ゲテモノ好きが高じて何の勉強のないまま作品を撮ってしまう(才能とは、本来努力以外の何者でもない。要は、努力を努力と感じない程、自分がのめり込む素材を愛し尽くせるかどうかの問題だ。天才が他人から奇行と呼ばれる行動や言動に走るのは、結局その目指した能力の為に他の事は一切合切捨て去った結果に過ぎない。それでもただの奇人で終わってしまう人達の何と多い事か。世界の人々から天才ともてはやされるには、やはり運という存在はとてつもなく大きい。断言するが、人の人生を司るのは、最後には運だ。どんなに努力を積み重ねても、運がなければただのバカで終わる。しかしながら、最高の運はいつも最高の努力の中にしか生まれないのもまた事実・・・かな?)いわゆるマニア上がりのオタク監督がやたら多いとか、理由を挙げればきりがないが、とにかくこのウンコまみれの作品群が、優れた作品にまでケチをつけてくるのだ。ジョージ・A・ロメロの「DAWN OF THE DEAD」がどれほど優れた作品でも、邦題の「ゾンビ」という言葉から連想されるウンコ映画の群れが人々の眉間に皺を寄せてしまう。SEXは大好きだけどスカトロは嫌い(もちろん、本当は興味津々だけど人には言えないって人も含まれる)ってわけだ。ホラー映画とは実はSEXそのものだ。その事は最高峰に位置すべき人間ドラマという表現にも通ずる。前置きが長くなりすぎました。この続きは、またの機会に。
「ルパン三世」は、日本のアニメーションの中でも特異な作品になっています。見た目もかっこよくてモテモテのダンディーな男性が高級なバーのカウンターで女性を口説いている最中に、実はホニャララが好きなんだよねとハニカミながらアニメのタイトルを語って許されるのは「ルパン三世」位なのではなかろうか(もちろん、赤ルパンではなく青ルパンといえば文句なし。ただし「カリオストロの城」というのは要注意か)?「エヴァンゲリオン」なんて口にすれば秋葉系とかって引かれるだろうし、「ガンダム」なんていえばガンプラ野郎と思われるし、「フランダースの犬」って言えば実は貧乏なんじゃないかと疑われるし、「Drスランプ」と言えばウンコかよと言われるに決まっているわけです。そうではないか?とにかく「ルパン三世」という作品は、何故かアニメオタクという虐げられたイメージの呪縛から逃れられた稀有な存在です。その主人公ルパン三世は、天下の大泥棒。いわゆるアンチ・ヒーローであり、殺し屋というダークな面も持っています。その上、女好きで猿顔という親しみ易さを合わせ持ち、尚且つアニメでは殊更義賊としての側面を強調して人々の共感を得るという念の入れよう。大義名分があれば人なんて幾ら殺したっていいんだという人間の一種捻れた感情がなければ、例えば「必殺仕事人」もパチンコにはならないわけです。このルパンを中心としたキャラクターの妙が、この作品の総てであり、どんなに話がつまらない新作が垂れ流し続けられようと人気が落ちる気配がない理由でもあります。
「007・カジノロワイヤル」における主人公・ジェームズ・ボンドは、このルパンに限りなく近いキャラクターであるのは言うまでもないでしょう。ルパン三世が幼稚で、ボンドが大人な感じがするのは、単に国民性の違いが出たというだけの事であります。007シリーズも回を重ねて、二十作を越えてしまいました。ジェームズ・ボンド役の俳優が一体何人いるのかもはや定かではありません。好きな人なら当然全員の名前を軽々と挙げてしかるべきなのでしょうけれど、私はそこまで興味がありませんね。それでも、私はこのシリーズのほとんどを観てきた事は確かです。このシリーズの歴史を振り返る事は、日本の「ゴジラ」シリーズを振り返る事によく似ています。どちらも私は惰性で観続けてきた感がありますが、ゴジラの方は何作か前で既に見切りをつけてここ何作かは観ていません。「ゴジラ」に関して言えば、一作目を頂点に急坂を勢いよく転がり落ちていってそのままどこかの穴にはまって消えてしまった感でいっぱいです。ガキの友達にまで落ちていった古きよきゴジラも駄作を連発していましたが、突如甦って泥に泥を塗りたくりまくった近年のゴジラも幼稚という点では何ら変わりがありませんでした。近年の日本映画の幼稚ぶりを最大限に発揮している旗頭が、近年のゴジラの姿である事は実に悲しいものがあります。ゴジラは昔はこんなんじゃなかったという嘆きは、日本人は昔はこんなんじゃなかったという嘆きにも似ています。一方、もともと大して好きでもなかったけど、キャラクターの魅力で観続けてきたといっても過言ではない007シリーズも、個人的にはゴジラと印象はダブリます。ロジャー・ムーア扮するボンド時代なんて、今にして思うもくだらない作品の連続でした。それ以降観たり観なかったりの時期を経て、最新作「カジノ・ロワイヤル」にたどり着いたわけですが、ある一点を覗いてはあまり興味がなく観たというのが正直な所です。ある一点。それは、ジェームズ・ボンド役の俳優が筋金入りの悪役顔だという点に他なりません。これは嬉しかった。何しろ今までのボンドは、にやけたプレイボーイが多くて、殺しの番号が泣いてあきれる感じ(私にはどうしてもロジャー・ムーア色が強いシリーズなのです。良くも悪くも)でいっぱいでした。そして、結果的に「007・カジノロワイヤル」は私にとっては、シリーズ中一番面白く観終われた作品になりました。別に傑作とかそういう映画ではないですが、現存する最良の007ではないでしょうか?ゴジラの末路を思うと、何とも羨ましい限りです。やはり日本人には娯楽映画は荷が重過ぎるのでしょうか?原作のイアン・フレミングによる007シリーズの出発点が、映画シリーズでの新たなる船出となったのも何とも頼もしいではないですか。今までの作品はなかった事にして、ここから新たに一作づつ作ってもいいのではないでしょうか?唯一の不安は、歴史は繰り返すという問題だけですが・・・。
それにしても、ゴジラは封印されたので一先ず胸を撫で下ろす事が出来ましたが、ルパン三世はいつまで駄作を生み続ける気なのでしょうか?どうせなら作画とかだけ日本人が制作して、後は外国の人々に委ねてみるのもありなんではないですか?キャラクターにおんぶに抱っこではなく、もしかしたら新たなるルパン三世の黄金期を迎える可能性もあるのではないでしょうか?「007・カジノロワイヤル」は、そんな事を考えさせられた作品でもありました。まぁ、アメリカ版ゴジラなんて珍作もありましたし、何とも言えないですけど。
「007/カジノロワイヤル」 2006 アメリカ・イギリス
監督 マーティン・キャンベル
主演 ダニエル・クレイグ エヴァ・グリーン
ポピュラー・ミュージックの世界において最も過小評価されている音楽家を挙げるとするならば、一体誰を挙げますか?
百人いたら百通りの答えが出てきそうな質問ですが、それはポール・マッカートニーではあるまいかと答えたとしたら、どうでしょう?いやいやポールはビッグ・ネームだし、十分評価されてるっしょ。そう言う人もたくさんいるでしょう。実際、洋楽好きの人なら、ポールの名前は割と誰でも知っているようです。あくまでも割りとですけど。
私が思うに、人類の歴史の中で音楽の世界をして唯一モーツァルトに肩を並べる資格を持つ勇気ある挑戦者はポール・マッカートニーだけでしょう、おそらく。膨大な曲数もさることながら、一つ一つの楽曲の素晴らしさや個性は他を圧倒して唯一無二の境地に達していると言っては言い過ぎでしょうか?少なくともあれだけバラエティ豊かであるのに、どれも高いレベルで安定しているというのは、もはや神の域に近い超人であるのは確かなようです。
五線譜というものを音楽の時間に習ったと思いますが、音楽というのは実に限られた世界の中の玉並べです。ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ。これだけ。半音やオクターブ上下を加えたとしても、大した違いはありません。後はそれをどう並べて、どう長さをつけるかだけの問題です。はっきり言って、名曲なんてものは一生のうち一曲ぐらいは誰にでも描けるものなんです。それは、一発屋(一曲だけ大ヒットして、後は泣かず飛ばず)と言われる人達の多さでも証明されているのではないでしょうか?誰にでも名曲は創り上げられるわけですから、優れた曲だけを聴いて音楽家の優劣を決めるのは非常に難題です。これはファンの定義にも直結します。ある歌手のヒット曲を一年間ずっと聴き続けた人がもしいたとしても(本当にいたら大変おかしな人というしかありませんが)、その人はその歌手のファンとは言えないわけです。ファンというものは、本来誰も聴かないような駄作(駄作と呼ばれる作品が、イコールつまらないクソみたいな作品という意味ではない事は誰もが知っている事実)に絶大なる愛を注ぐ人達に与えられる特権的呼び名でなければいけません。そういう意味でオタクとかマニアに近いものがあるわけですが、そこまで幅が広くなく尚且つ重過ぎないのがファンなわけです。つまり音楽家の優劣とは、人気とは別の所に位置しているわけです。
物語を語る時にシェークスピアをまず挙げるのには理由があって、シェークスピアが世に出した戯曲をずらっと並べて皮を剥いでしまうと、世の中に現在も脈々と生み出されている物語というのは、全てはシェークスピアが提示したもののバリエーションに過ぎない事が分かってしまうからです。シェークスピアという作者は自分で物語を生み出す人ではなく、それまで人類が語り継いできた伝承や説話を独自の解釈で形成した劇作家であるわけで、つまりはシェークスピア以前に既に物語の根幹は全て出尽くしていたといってもいいわけです。音楽も同じ事で、モーツァルトの膨大な曲を聴いてしまうと、全てのメロディの基礎は全て出尽くしているのは間違いありません。それを現在のポピュラー・ミュージックに限定してみると、モーツァルトやシェイクスピアに匹敵する存在がサー・ジェームス・ポール・マッカートニーその人であります。異論、反論は一切受け付けません。もしあったとしても、それはあなたのブログでやっていただきたい。
そんな生ける伝説・ポール・マッカートニーが、この度ニュー・アルバムを発売しました。「Memory Almost Full」。もうお買い上げ頂きましたでしょうか?私はまだ買ってません。が、とりあえず聴きました。もう十分お金持ちなんで、世界中のファンにタダで配ってくれればいいのになんて、ちょっと思っていたりします。その中の第一弾PVが「DANCE TONIGHT」です。相変わらず、いかにもポールらしい小洒落た雰囲気が楽しめる一曲です。ポールはもう随分前からファンの為にアルバムを制作している気がしてなりません。要するに、名曲に食い気を出さない人達向けという意味です。この傾向はリンダの死を境に、ますます強くなっている気がします。年齢の影響ももちろんあるのでしょうが、ポールをしてやっと俗世間から離脱出来た音楽活動に満足出来るようになったという事でしょうか。THE BEATLESからWINGS、華やかなソロ時代、バンドを率いてライブに精を出したカムバック時代、そして熱心なファン以外は殊更注目を浴びなくなった現在と、実に長い間音楽を制作してきたポール。私が生まれる以前から大スターだったわけですが、全てのアルバムを購入し聴き続けてきた私から断言させてもらうと、前回の「CHAOS AND CREATION IN THE BACKYARD」と並んでポールのベスト3に入るアルバムと言わざるをえません。これは本当に凄い事です。事件ですよ。ポールよりも好きなバンドや音楽家もいるんですが、ベスト3を挙げるとなるとどうしても過去の作品を選ばざるをえないのが本来普通ですから。そういった意味で、ポールは私の中で唯一無二の音楽家になりつつあります。そして全国の一部のポール・ファンはこの意見に賛同して頂けると確信しています。その一部とは、随分と長い間ポールを聴き続け、ポールを心の片隅に常に忘れなかった一握りの人達です。名前が売れてるからとか、凄くいい曲が入っているから拾い食いしてみたとか、人に薦められて聴いてみたとか、そういう次元で楽しめる甘っちょろい作品ではないのだよ、これは。悔しかったら何十年もかけて、一人の音楽家の作品を順繰りにするめみたいに味わってみてごらんといった、何とも優越感に浸れる作品なんてなかなかあるものではないのです。聴いたけどピンとこなかった、あなた。何となく好みで好きなアルバムとたまたま感じている、あなた。いいも悪いも興味がないよねと心底思わせてくれる私達一部のファンからすれば、言葉は悪いけれど「ざまーみろ」なのです。
それにしても、ふっと感じてしまった嫌な予感がこのアルバムには実はあります。それは、もしかしたらポールは自分の死期を感じてしまったのではないかという思いです。人は誰でも死ぬわけで、ポールももう歳ですからいつぽっくりいっても不思議ではありませんが。願わくば、派手な感じではなくてこじんまりとしたライブを来日して披露してはくれまいか、ポール。その老いたる偉大な音楽家の姿を、日本の真のファンの為に見せてはくれないものだろうか?
ポピュラー・ミュージックの世界において、最も過小評価されているのは誰か?
それはきっと百年、いや二百年後にならないと誰にもわからないに違いない。ただ一言言わせてもらうならば、ポール・マッカートニーに千円。オッズは1・5倍くらいじゃないかい?
「DANCE TONIGHT」 2007 イギリス
監督 ミシェル・ゴンドリー
主演 ポール・マッカートニー ナタリー・ポートマン
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