DARK TALE OASIS

主に映像作品にふれて、思った事を書いていきます

「第48回 宝塚記念 (G1)」を思う

2007年のJRA上半期最後のG1レースである宝塚記念は、一攫千金を狙う人達にとっては実に予想のしやすいレースであったと思われます。夏を前にした時期的な問題で、なかなか頭数の揃わないのが例年の宝塚記念なのですが、今年はフルゲートの18頭。数が多いのだから予想は難しいはずだと思われがちですが、実はそうではありません。競走馬にはそれぞれ獲得賞金額というクラス分けがあり、それによって出走するレースに制限があるわけです。つまり下級条件のフルゲートというのはどんぐりの背比べであり、確かに予想は難しい場合が多々あります。ところがある程度勝ち進むと、競走馬は自動的にオープン馬というクラスに入れられます。美浦を本拠地とする関東場で120頭程、栗東を本拠地とする関西馬に220頭程のオープン馬が現在登録されているわけですが、このクラスはどんなに力の差があろうとも同じクラスに在籍している事になります。
 つまり2007年の宝塚記念は、頭数は揃いましたが、各馬の力の差がはっきりしていた紛れの少ないと思われるレースであったという事です。それは、オッズにもはっきりと示されていたと思います。上位6頭は、戦績的にも能力的にも、他馬とは本来まるっきり違うクラスにいる馬達なわけです。宝塚記念での馬券は、ほぼこの6頭の争いで間違いない。ある程度競馬に親しんだ人は、そう考えるのが普通ではないかと思われます。
 後は、この六頭の馬で、どう馬券を買うかという問題になりますが、レース前のパドックで、また一頭脱落した馬がいました。ダイワメジャー。マイルのG1を中心に活躍を続けるこの魅力あふれる馬は、2000メートル以内の距離では部類の強さを誇る馬です。2200メートルの距離で争われる宝塚記念は、この馬にとっては距離の壁があるのではないかと元々懸念されていたわけですが、近年はゴール前直線だけの瞬発力勝負になるレースも増えてきて、展開によっては捨て去ることの出来ない馬である事に間違いありません。所が、残念ながらパドックに姿を見せたダイワメジャーは、どう見ても馬券を買えない出来でした。前走より16キロのマイナスとは、デビュー以来最も軽量ではあるまいか?とにかく細々と見えたではないですか。これでは力を出し切れる状態とはとても思えません。最近は人気馬がパドックでここまで悪くみせるというのはあまりなかったのですが、パドックを見ずにダイワメジャーから馬券を買ってしまった人達にはお悔やみ申し上げます。
 さて残った上位5頭。普通に考えると、今回一番人気に推されていたアイドル馬ウォッカは、真っ先に馬券としては軽くなるはずです。長年馬券に親しんでいる人達は、このウォッカの人気が実に嬉しかったはずです。かくゆう私もそうでした。直近の東京優駿において、ウォッカからのワイド馬券(押さえとして買っただけで、馬券として本線では全然なかったのですが、これが結構つきまして。ありがとう、ウォッカ)で随分儲けさせてもらっておいて、我ながら容赦ないなぁと思いながら、私の頭にはウォッカが掲示板にのる場面は全く想像出来ないもの(負担重量51キロはやはり魅力でしたが・・・)でした。2400のダービーで力を出し切って(本来、3歳馬はこのダービーが最終目標のはず)勝ち、中3週で現時点では能力差のあるはずの古馬相手に勝つのは、どんだけ化け物なんだと普通は思いますよね。しかも、桜花賞ではダイワスカーレットに力負けしているわけです。ダイワスカーレットが今回出走していたら、1,2番人気になるって事でしょうか?馬券というのは(特に単勝馬券というのは)本当に不思議ですね。
 さて、残った4頭。メイショウサムソン、ポップロック、アドマイヤムーン、そしてカワカミプリンセス。ここまで絞ると、もう私なんかにはどれが勝つか分かりません。従って、4頭でのBOXでの勝負となります。とりあえず、4頭のBOXで3連複を購入。
 さて、敢えていうなら、好みの馬はカワカミプリンセスとメイショウサムソンの二頭なのです。3歳時のカワカミプリンセスの強さは尋常ではありませんでした。あんなレースを立て続けに見せられている記憶は、そうそう消せるものではありません。前走のヴィクトリア・マイルは案外のレース(もちろん馬券も、大負けしましたよ。とほほ・・・)だったので、この馬がもうあの頃の強さを見せる事はもうないのだろうなと思いつつ、パドックを見るとやはり捨てきれない。鞍上・幸四郎というハンデ(下手くそではないと思いますが。兄と違って才気がないですな)をものともせず、そんな場面が浮かんでくるではないですか。にやにやしながら、カワカミプリンセスを頭に3連単を買う私であります。
 続いてメイショウサムソン。この馬には本当に世話になっています。昨年春シーズンと今年の春シーズンには随分とよくしてもらいました。君のおかげで、何度昼飯にステーキを食べた事か・・・。一方、昨年の秋シーズンには、何度泣かされた事か。買っても買っても馬券に絡まない君。ディープインパクトなんて、私にとってはどうでもいい馬だったのだぞなんて呟いていたあの頃。懐かしいなぁと言いつつ、メイショウサムソンを頭にした3連単も嬉々として購入。
 残ったポップロックは鞍上・名手武豊。アドマイヤムーンは元々は武豊のお手馬。個人的にはそれだけで割り引いてしまう私って、どうなんでしょう?かつては豊の馬が負ける度にわけのわからない喜びを感じていた私がいたのも事実。最近は安藤勝と岩田君の大活躍の前に、苦しんでいる様子。しかも、お手馬を岩田君に奪われているではありませんか?少し前では考えられない事態。ポップロックからの3連単が多少贔屓されるのも仕方のない所か。最後にアドマイヤムーンからの3連単を押さえ的に購入。
 レースが終わり、結果的にはプラス収支。それも悪くないプラス収支。アドマイヤムーンが一着。二着にメイショウサムソン。三着ポップロック。的中したとはいえ、最も儲けの少ない結果になり(サムソンがもっと馬体を寄せ付けて凌ぎ合いに持ち込めていたら・・・)何となくクリスタル。
 これで今年も半分終わったわけですが、蓋を開けてみれば上半期プラス収支で終了。的中させたG1はオークス、ダービー、宝塚記念だけだったとはいえプラス収支。思えば、この3レースは全て万馬券での的中。ダービーのワイドが100倍越えだったのが、今にして思えば奇跡。土曜競馬で信じられない位負け続けたのも、何の重荷にもならなかったという事か。   
 競馬って実は儲かるんじゃないの?
 いゃあ、秋が楽しみだなっていうか、夏も本腰入れてやっちゃいますか?
 そんな事を考えてしまう私。これが競馬の怖さなんですよね。そうではないか?
 人間って怖いなぁ。最近のホラー映画が実につまらなく感じるのも、こういうリアルさが足りないのかもしれませんねぇ。
 そうそう、4着アドマイヤフジって・・・。えっ、誰?こ、こわ〜い。


  「第48回 宝塚記念 (G1)」      2007   日本
 主催  日本中央競馬会
 主演  ウォッカ   アドマイヤムーン





  

「ヒストリー・オブ・バイオレンス」を思う

{ヒストリー・オブ・バイオレンス}とは、そのまんま人類を指す言葉である。人類の歴史は、いつの時代も血生臭い暴力に満ち満ちている。暴力を主題にした映画は実に多いが、それもそのはずこれほど魅力的な題材を包括している分野は他に類を見ない。毎日毎日飽きもせず垂れ流されるTVのニュースに、暴力の現場が映し出されない日が果たしてあっただろうか?それどころか、猟奇的な或いは奇怪な事件が報じられる度に、誰しもがこれ以上の残酷な事件は二度とないのではないかと思わずにはいられないにも関わらず、三日も過ぎればそれ以上の事件が当然のように禍々しく報じられるのだ。暴力のいたちごっこ。暗黒の魔王が、さながら人類をけしかけるが如く、私達はまた闇のヒーローの誕生を目撃し続けなければならない宿命を持っている。願わくば、あなたが子羊となって標的に選ばれない事を祈るのみだが、神が人の願いをまともに聞いた事は一度だってないときている。天災は忘れた頃にやってくると相場が決まっているが、どっこい人災もまた然り。悪意は思ってもない場所から確実に降り注いでくる。しかも悪い事に、それは歩み寄ってくるような律儀な時間稼ぎなどしやしない。ズドンと一発。雷鳴の如し。気付いた時には、やけに楽しげに微笑む天使に導かれ天へと上っていく自分自身を見つめていなければいけない状況に立たされる。かように人間とは、かくも弱き獣なり。折りしも日本では、相も変らぬ健康ブームである。まるで食事に気をつけてさえいれば、誰もが百歳まで生きられるといいたげな按配。確かに身内で人がころころと死ぬなんて事は、最近ではあまりなくなってきているのかもしれない。二十歳を過ぎたのに、一度も葬式に出ていないなんて人もいるでしょう。けれど心配ご無用。悪魔は今この瞬間もせっせと身を粉にして働いているのですよ。人口増加の煽りを受けて、たまたま出番が少し遅れているだけなのではないか?聞くところによると最近の日本では、必要に迫られれば確実に拳銃を手に入れる事すら不可能ではない様子。もちろん、どこにでもいる一般市民レベルでの話ですよ。怖ろしいですね。実に怖ろしい限り。ちょっとうかうかしていた隙に、麻薬ばかりか簡単に人を殺傷出来る道具までが、生活のすぐ側までやってきています。そのうち百円ショップに拳銃が並ぶ日がやってくるのでしょうか?少なくとも拳銃を持たなければ身の安全が保障しかねない時代は、すぐそこまで来ているのではないか?何故なら、必要のない場所に必要でないものが集まった試しはないのですから。
 デヴィット・クローネンバーグは、数少ない天才肌の映画監督の一人に違いない。好き嫌いはあるにしても、目が離せない麻薬のような存在感をその映像は放っている。クローネンバーグなんてつまらない作品ばかりじゃないかと言うあなた。大いに結構。その意見、尊重します。むしろクローネンバーグ大好きなんて方には、ちょっと近寄りがたいものを感じますね。残念ながら私も、クローネンバーグには距離をおきたい派です。何故なら、私にとってクローネンバーグは煙草と一緒だから。体に悪いのは痛いほど分かってるんだから、止められるものなら今すぐに止めたいのだけれど、今日も食事の後にはスー、パッパ。いや、実に美味い。大体この世の中、美味いものは身体に悪いと相場が決まっています。細く長く、美味しいものを我慢して生きるのがいいのか、それとも美味しいものをジャンジャン食べて短くとも至福の中で一生を終えるのがいいのか。それが問題だ。私が敬愛するかのポップ・スター、エルヴィス・プレスリーは間違いなく後者の生き方を選んだ人物として名高い。もちろん私はエルヴィスではないわけで、悪いものもちょっと齧りつつ生きられるだけ生きようと思うって、いやぁ我ながら実に情けないですなぁ。とにかく、クローネンバーグの名前がある限り、私はこっそりとそして大いにその作品を楽しむ輩なのです。もう時間さえあれば何度でも観たい。そう思わせる監督は本当に少ないのではないか?思い浮かぶだけでって・・・、そうそう思い浮かびませんよ。
 カナダが生んだこの監督の旬は、実はとうの昔に過ぎ去っているようです。1970年代の後半に長編デビューですから、かれこれ歳を重ねられているのは当然です。「ラビット」や「ザ・ブルード」といった作品がいわゆる一つの頂点でした。私が最初に劇場で観たのはスティーブン・キングの原作を見事に映像化したと一部のマニアから絶賛された「デッド・ゾーン」なわけですが、実は私途中で眠ってしまって随分後になってヴィデオで見返すというていたらく。それもあってか、実は「デッドゾーン」たいして思い入れのない映画ですね。キングの原作にしても、私はデッド・ゾーンはたいした作品ではないと思っています。正直、そんなに面白くないです。キングは面白い作品の衝撃が凄まじいので、全部が高評価されてしまうきらいがあるようですが、つまらない作品も結構あると私は思います。もちろん腐ってもキング。キングの作品の中ではと限定されていい話ですけど。ちなみにITも長いばっかりでたいして面白くないです。読破するのに物凄く労力を必要とした小説としか印象がありません。TVミニシリーズの「IT」の方が楽しめたという点では、実に興味深い(小説より映画の方が楽しめるなんて、実はほとんどないのではないか?)ところですが、それはまた別の話。クローネンバーグの「デッド・ゾーン」は良くも悪くも普通に巧く出来上がった映画の典型で、悪く言う必要は全くない映画ですが、これを最高傑作と言ってしまってはクローネンバーグの名が泣きはしませんか?クローネンバーグはもっともっと変態であるべきだし、だからこそ天才肌なのですから。クローネンバーグの名前を一般に最も知らしめた「ザ・フライ」も、同じ理由で可もなく不可もなくといった感じですか。あれぐらいの映画は、この監督なら普通に撮ろうと思えば撮れるに決まってます。けれど、もっともっとその変態的作家性に引き込まれる作品を私は観たいし、だからこその中毒なわけです。そこで「ヒストリー・オブ・バイオレンス」。かなりいい線入っているのではないでしょうか?映像は昔よりもかなり洗練されて巧くなってしまっているとはいえ、どこを切ってもクローネンバーグの香りがする映画ではないですか。こういう作品こそ、実は芸術性が高いと言えるのではないでしょうか?芸術とは一個人の人間性が炸裂した個人色の強い作品とも言えるわけだ。誰もが描けるステレオ・タイプのそれを誰も芸術とは言わないように。暴力もまた芸術の一つの形であるのは、もう間違いのない所であります。人は何故こんなにも暴力を忌み嫌うのか?そして一方では、何故こんなにも暴力に魅かれるのか?クローネンバーグは実にさらっと、自分らしくその答えを見つめている気がしてなりません。
 憎しみの連鎖は、言い換えれば暴力の連鎖でもあります。人類が辿ってきた歴史を振り返る必要さえなく、私達はいまだその暴力の真っ只中で生きる事を強いられています。暴力というのは、肉体的なそれだけではもちろんありません。何よりも目に見えない暴力は、ボディブローのように精神を蝕む力を持っています。この世から暴力の嵐を消し去る事が出来ないとしたら、私達は暴力とどうつきあっていけばいいのでしょうか?それが愛だという人がいたら、その人は実に楽天家ですね。愛と暴力は、いつだって裏表だからです。愛のある所に必ず暴力があります。逆に言えば、愛のない場所には暴力もないのかもしれません。それが人類にとって幸せな事なのでしょうか?


  「ヒストリー・オブ・バイオレンス」      2005  カナダ=アメリカ
 監督  デヴィット・クローネンバーグ
 主演  ヴィゴ・モーテンセン     マリア・ベロ


「Doom ドゥーム」を思う

「Doom ドゥーム」は面白くもなくつまらなくもないという、いわゆるしょーもない作品の一つだ。この手の映画には、もう飽きてしまったというのが正直な感想だろう。何度も何度も同じ物ばかり見せられると分かっていながら、何故か見てしまう自分も実にしょーもないと言わざるをえないが、何度も言うとおり映画ファンというのはそういうものだ。私は都合三回の挑戦で、エンディングに辿り着く事が出来て、エンド・ロールはようやくこの映画と縁が切れるという事実に心を震わせられました。こんなにグワングワンとうるさい映画でも、人間は眠れてしまうのだから大したものではありませんか。少なくとも、映画ファンには睡眠誘発剤は不必要だと、またしても証明されたわけだ。
 またしてもと言えば、この映画はゲームの映画化というわけで。ゲーム画面を忠実に再現したと思われるシーンがありまして、きっとそこが売りなんだと思われます。たった数分の為に一本映画をでっち上げてしまう心意気には、感服しますと言えばいいのでしょうか?どうせなら、全編それで通して見せて欲しかった気がします。それならば、面白いとか面白くないといった感想は関係なく、恐らく奇抜な映画として記憶には残ったと言えるでしょう。最近の怪物映画は、どういうわけか記憶に残らないものが多すぎます。完全に型が出来てしまって、どの作品も誰が作ったわけでもないルールに則って作品をでっち上げているようです。映画という虚構の世界でさえ、マニュアルが蔓延っている現実は悲しいものです。最近の邦画の宣伝でも、泣けるというキーワードがやたら強調されているようですが、泣けるという事がどれだけ重要なのか私には分かりません。泣くだの感動するだの、そんな事は日々の日常で幾らでも体験出来るのではないでしょうか?映画でしか泣けない人が増えているとしたら、それはそれで世の中どうかしているのでしょう。ロボットが感情を持ってという類の話は、映画でも小説でも度々取り上げられる題材ですが、そんな事より先に人間が感情を失くしてしまう方が実はより現実的なのかもしれません。
 「Doom」でもう一つ思ったのですが、どれだけ最先端の武器が存在しようと、最後は何故かいつも殴りあいに終始するのは何故なんでしょう?アメリカのアクション映画はいつもそうではないですか?殴り合いは確かに面白いのかもしれませんが、どんだけ〜〜です。肉体美を誇る男と男が死力を尽くして殴りあう様に、アメリカ人は異様に興奮する集団なんでしょうか?近年日本でも、K−1だのプライドだの格闘技の人気が定着してしまった感があります。これは間違いなく日本人の体格が欧米人に近くなってきた証ではないかと思われます。ちっこいのがちょろちょろ殴りあっても、迫力不足は否めません。要するに、人間というのは基本的に暴力が好きなんですね。そして強い者に魅かれるように遺伝子が命じているのでしょう。ただし、でか過ぎるのは気に入らないみたいです。規格外の体格を持つファイターは、いつも日本では悪役を演じさせられている気がしませんか?わがままですねぇ。この映画の前半部を見ると、どう見てもロック様(知る人ぞ知る大スターですね)が主役として撮影されています。ところが、最後の方だけはロック様が悪役になっています。これでは本来の主役は可哀相ですね。全く印象が薄いです。ロック様の為にロック様だけがかっこよく見えるようにとの配慮が、前提として映画が製作されているとしか思えません。ロック様はカリフォルニア州知事の座でも狙っているのでしょうか?日本でも参議院選挙の季節がやってきます。あいもかわらず、TVで顔を売った人達が次々と立候補されているようです。これは別に悪い事ばかりではありません。少なくとも選挙になって初めて名前を聞く人よりも、その人の人となりの一端でも知っている事になるわけです。やれ売れなくなった芸能人の天下り先とも揶揄されそうな参議院でありますが、参議院というのは本来衆議院が成熟している場であるならば、不必要の集団であります。与党が過半数を占める事にでもなれば、極論でいえば本当に無意味な人達の集まりになりかねません。適当に選ばれてしまうのも致し方ない選挙と言えるのではないでしょうか?社会保険庁の話題が上らない日がない今日この頃ではありますが、この問題にしてもブレイクするのがあまりにも遅すぎるのがそもそもの原因でしょう。年金として国民から強制的に徴収した、いわば国民から預かっていたはずの金を、自分達の好き勝手に存分に垂れ流しておいて、年金受給者が増えたら足りなくなりましたというのがまかり通っている事態がそもそもおかしいではないですか?国民の金を横領していても何も罰せられないのですから、大した国だよなぁと改めて思い知らされます。足りなくなったら、税金を増やせばいい。日本国政府から各地方自治体まで、揃いも揃って本当に悪代官そのままです。給与明細を見れば、住民税の額の高さには愕然としますが、このお金は一体どのように使われているのでしょうか?私の住んでいる地域では、ごみの回収が有料となりました。専用のごみ袋をわざわざ買ってきて、それに分別して出さなければ持っていってくれないシステムになっています。この有料袋が実に高い。本当に高いですよ。この袋の値段にしても、どれだけ厳密に調査をして決めたのか不審でなりません。適当に多めに取っておけばいいんじゃない的な値段の決め方ではないと、誰が言い切れるのでしょう。市は、毎月どれだけのごみが出て、その処理にどれだけの金が使用されて、収支の結果はこうなりましたと、全市民に通知する義務があると思いますが、そういう気配は全くありません。もっとも、仮にそういうものが発表されていたとしても、どうせインチキな数字が示されているだけなんだろうなと市民にしてみれば諦めの気持ちが横行しているのがもはやこの国の常識です。社会が大きく変わる時代というのは、こんなものなんでしょうか?ある日突然世の中の秩序が崩壊した時、日本人一人一人に求められるのは暴力に代表される力となるのかもしれません。マンガやら映画やらゲームで、子供達が日々教え込まれている残虐な暴力の数々もそう考えてみると、あながち無意味な教義でもないのかもしれません。時代が暴力を求めているというのは言い過ぎでしょうか?子供達が真っ先にその風潮に対応し始めているという考え方は、もしかしたら至極全うな意見なのかもしれません。真の戦国時代の到来に、あなたは生き残る事が出来ますか?


  「Doom ドゥーム」       2005     アメリカ=チェコ=ドイツ=イギリス
 監督  アンジェイ・バートコウィアク
 主演  カール・アーバン      ザ・ロック

「サウンド・オブ・サンダー」を思う

作家レイ・ブラッドベリが1952年に発表した「A SOUND OF THUNDER」を読んだ事がある人なら分かるでしょうが、ここで言うサウンド・オブ・サンダーとはティラノサウルス・レックスの叫び声の事である。ブラッドベリはその諸作において、恐竜を雷に結びつける表現を度々使っている。ブラッドベリが恐竜という現代では未知の生物に、どのような印象を持って作品に扱っていたのかが何とも想像出来る。雷を恐れ嫌う人は多いが、夜空を貫く稲妻は時にとても美しい輝きを秘めている。恐竜に、恐怖と同時に憧れを持つ少年はかつてたくさんいたに違いない。日本でも大きな展示会などが開かれる度に、数多くの人が足を向ける。もちろん、私もその一人だ。かつては恐竜博なるものが開かれる度に、西へ東へと奔走したものだ。人は時に絶大なる力に対して、盲目的な崇拝を見せるが、ティラノサウルス・レックスのような肉食の大型恐竜もまた人を誘惑する力に満ち満ちているといえるのだろう。
 1925年に公開された「ロスト・ワールド」は、恐竜映画の古典として映画史に名を残しているだけではなく、現在でも比較的容易に観る事が出来る作品という点が興味深い。シャーロック・ホームズの生みの親としての側面があまりにも大きすぎるアーサー・コナン・ドイルの、もう一つの代表作を原作にしたこの映画は、恐竜好きの人間には堪えられない作品ではあるが、そうではない人にとっては大して価値のある出来ともいえないが、後にリメイクされたトカゲにヒレをくっつけただけの贋物恐竜などとは比べるべくもないその造型こそが現在もみゃくみゃくと恐竜映画好きの人達を惹きつけている要因であるのは間違いがない。「ロスト・ワールド」で恐竜に魂を吹き込んだ男・ウィリス・オブライエンの名前は、1933年には「キング・コング」でとてつもない名声を獲得した。そして、二人のレイがそれに続く血脈となって追従する。二人のレイとは、レイ・ブラッドベリであり、レイ・ハリーハウゼンだ。私が映画にのめり込んだきっかけは、少年時代にレイ・ハリーハウゼンの「アルゴ探検隊の大冒険」をTVで見た事であるのに間違いない。あれからもう随分と様々な映画を観てきたが、「アルゴ〜」以上の興奮を与えてくれた作品は、もしかしたら皆無かもしれない。そして、飽きもしないで未だに映画を観続けているのも、「アルゴ〜」の体験が忘れられないからだろう。もし万が一「アルゴ〜」を越える映画をこの先観る機会が訪れたとしたら、私はもう二度と映画を観ないで済むのかもしれません。きっと観なくなるでしょう。映画とは、本来点数などを付けて順位づけするものではありません。どんなに下劣な出来の映画であったとしても、たったワン・シーンがある人には生涯忘れられぬ一本になる事も数多あります。そこにも映画というものの魅力があるのではないでしょうか。そのレイ・ハリーハウゼンの代表作に「恐竜グワンジ」があります。ストーリー的には「キング・コング」をそのまま西部劇の世界に舞台を移して、コングを恐竜に変えただけの代物ですが、恐竜映画のマストピースであるのは疑いようがありません。そして、恐竜好きの心を鷲摑みにしたと同時に、ある種の魔法をなし崩しにしてしまったあの映画が1993年に劇場公開されました。「ジュラシックパーク」。スティーブン・スピルバーグ監督の数少ない駄作として知られるこの映画は、一方恐竜映画としては完璧な出来栄えでした。今でこそ当たり前ともいえるCG技術ですが、私はこの映画を大スクリーンで観た時にどぎもを抜かれたのを覚えています。と同時に、恐竜に対する憧れのようなものも消え去ってしまった気がします。あの映画の恐竜は完璧過ぎて、いわゆる想像して楽しむ余地を踏みにじってしまいました。あの映画以降、優れたCG技術の進歩を、数々の映画が魅せつけてくれました。ピーター・ジャクソン版「キングコング」やら「スパイダーマン」やら、SFXを売りにしたアトラクション系映画は物凄い数が量産されています。面白い映画もたくさんありますし、くだらない映画もそれ以上存在しますが、私には「アルゴ探検隊の大冒険」が与えてくれた感動を、それらの映画から与えられた事は皆無です。これは作品の質がどうのこうのという事を言っているのではなく、私が映画の観客としてはもうすでに老人だという事実に他なりません。出来る事ならば・・・、これらの娯楽映画を鑑賞する度に最近の私はこんな感想しか出てきません。二十年後に映画が現在の形を維持しているかどうかは定かではありませんが、正直その時代の移り変わりを私が実際に目にする確立は低いでしょう。残念ですが仕方ありません。私が初めて劇場で観た映画は「スター・ウォーズ」でした。現在の小学生の中には、初めて劇場で観た映画が「スター・ウォーズ エピソード3」だという人もたくさんいるのではないでしょうか。その事を思うと、カルチャーギャップという言葉を思い返さずにはいられません。「エピソード3」を劇場であくびをしながら観ていた私と、かぶりつきでのめりこんでいる少年の違いは何なんでしょう?なんか涙が出てきそうだなぁ、およよ。
 「サウンド・オブ・サンダー」という邦題は何とかならなかったのでしょうか?この題名はこの映画に相応しくありません。ブラッドベリを知らない人には、全く意味不明の題名です。正直、ここ日本に於いてレイ・ブラッドベリが有名人かどうかも疑問です。しかも映画の中身は原作のような恐竜が主役のものではなく、わけのわからない猿とトカゲのあいのこみたいな化け物が右往左往しているだけの代物です。本来は劇場未公開のコアなファン向けDVDで出せば良かったのでしょうが、劇場で上映するのならばせめて題名を何とかして欲しかった気がしてなりません。製作が難航しただの資金繰りがどうのといった裏話も、観る人には無関係でしょう。この映画の最大の弱点は、作り手側の想像力の貧弱さと登場人物の薄っぺらさにあります。私なんかは、最後まで誰が誰なのかよくわからなかったです。えっ?今死んだの誰?とか、この人ヒロインだっけ?と、いちいち小首を傾げながら観る映画に傑作なんてあり得ません。この手の映画は、時にSFXがどうのこうのと言われる事もあるように思いますが、映画を評価するのにSFXなんてどうでもいいのではないでしょうか?特撮が凄いとか、ちゃっちいとか言うのであれば、ミュージック・クリップとかその手の物を見ていればいいじゃないですか。わざわざ高い金払って、特撮の出来に一喜一憂するのは理解出来ません。これもカルチャーギャップでしょうか?あぁ、また涙が・・・。世の中には「ジュラシック・パーク」のようにSFXは素晴らしいのに、とにかくつまらない映画も存在します。映画ではないですが、「リバーダンス」みたいに舞台装置には何も金をかけなくても音楽とダンスだけで魂を奮わされる舞台も同様に存在します。少なくとも日本製の娯楽映画がつまらないのは、SFXがちゃちいからではありません。もっと金をかけられれば、もっと凄い映画を作れるのにと公言する監督はいない(はずですが・・・)でしょう?単純に特撮がどうのこうのと語られる映画は、大体がつまらないからです。本当に面白い映画は、特撮がどうのこうのなんて感想はきっと出てこないのではないでしょうか?
 ところで、タイムマシンという設定は両刃の剣だよなと、今更ながら思わされた映画でもありますね、この作品は。世の中には、理論的にはタイムマシンは実現する可能性があると信じている方々(単なるSF好きから科学者に至るまで)も少なからずいらっしゃるようです。個人的には、もし万が一タイムマシンが将来誕生したとして、過去に戻って何かしてもそれは既に織り込み済みの事で、それによって現在の何かが変わるというのはおかしいと思うんですが。それはそれとして、これほどリアリティのないタイムマシンという設定でも「バック・トゥ・ザ・フューチャー」みたいな確実に面白い映画は存在するわけです。時代と共に映画も窮屈さをましているようです。その裏には、製作者と共に観客にも想像力の欠如がある気がしてなりません。世の中が便利になればなるほど、人間の周りには色々な見えない壁が築かれ続けていると感じるのは気のせいでしょうか?人が想像する事を、人は必ず実現出来る。そんな言葉はいんちきだと思ってしまう今日この頃、これも老人になった証でしょうか?


  「サウンド・オブ・サンダー」     2005   アメリカ=ドイツ=チェコ
 監督 ピーター・ハイアムズ
 主演 エドワード・バーンズ    キャサリン・マコーマック

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