映画の冒頭に{この映画は実話です}といった類の言葉が並ぶ映画はけっこうあります。これは総じて、実際にあった出来事をある人の視点からなぞってみた作り話ですという意味です。当たり前の話ですが、どんなに事実に正確に近づけようと試みた所で、映画は虚構でしかありません。「エミリー・ローズ」は作り手が悪魔の存在を強く信じているのがよく分かる作りになっています。或いは、そうした方が金が稼げるはずだという信念が見受けられます。しかしながら、監督の撮りたかった映像はあくまでもエミリーに起こった怪異現象を再現した部分であるのは明らかで、法廷を舞台にした物語本来の部分の方が負けてしまっています。これはちょっとしたジレンマとなって、作品の質を貶めている要因になっています。映画の大部分を占めている骨子である部分に監督が興味がないのですから、映画全体としては妙にしまりがありません。どんなに目新しいアイデアであっても、これではいかんせん中途半端な感は否めません。いいところに目をつけたのに、それを活かしきれなかったのは残念というしかありません。
悪魔祓いというと、神父が出て来てふんがーふんがーみたいな想像をしてしまうものですが、それはもちろん「エクソシシト」という映画の影響でしょう。日本にも狐憑きとかいろいろあるとおり、本来はキリスト教の専売特許ではありません。動物が生きていくうえで重要な要素として恐怖という概念があるわけですが、中でも人間は恐怖を際限なく膨張させてしまう優れた脳を持っています。人間の歴史は常に恐怖との戦いだったわけで、現在こうしてぬくぬくと生活していられるのも先人達が一つ一つ恐怖の対象を消していってくれたからに他なりません。しかしながら、恐怖は次から次へと手を変え品を変え人間の前に立ち塞がるわけで、いたちごっこの様相を呈しています。裏を返せば、人間は恐怖なくして生きられないとも言えます。実際、恐怖という感情がなければ、人間はとっくの昔に滅び去っていたはずの弱弱しい動物なわけです。臆病者とか言われ蔑まれている皆さん、あなた方は実に正しい人間なのですよ。ただし、度を越しすぎると人としてまともな生活を送れなくなってしまいます。私達は常日頃から、恐怖を生み出しては自身の精神によって浄化或いは昇華するという行為を繰り返して正常を保っています。つまりは、人類とは押しなべて悪魔憑きであり、悪魔祓いをも自ら演じているのです。自身が産み出した怪物を自身で退治出来なくなってしまったとしたら、それはとてつもない恐怖となって人の精神を蝕み始めます。そこで登場するのが、科学的根拠に裏づけされた医師なのですが、まだまだ医学では足りない部分が世の中にはごまんと残っているのですから堪りません。その道のプロであるエクソシスト達(そのほとんどが金目当てのインチキ商売であるという現実をお忘れなく)の登場は、必要不可欠なのかもしれません。「エミリー・ローズ」で描かれる神や悪魔が実在するかどうかなんて、この際問題ではありません。日本人の私に言わせてもらうならば、どっちだっていいじゃんそんなの、といった感じです。問題なのは、精神のバランスが崩れてしまった時に、私達は一体どう対処すればいいのだろうかという事です。正直、私にはわかりません。ただそうならない事を祈るのみです。
エミリーは悪魔祓いに失敗してしまいました。悪魔祓いに失敗したのは、医師によって処方された薬が原因だなんて意見も映画の中で告発されています。そして、エミリーは世の人々(はっきり言って、一部の人達限定ですが)の為の{犠牲}となって死んでいく運命を選んだという結末になっています。映画の最後に{エミリーに花を捧げにくる人達が後を絶たない、うんぬん}との字幕が・・・。この辺は、もうほとんどの日本人には全く興味がない話になってしまい、どうにもおいてけぼり気分になりますね。この映画は布教活動には一役かえない代物です。何しろ悪魔はむっちゃ怖いみたいです。そしてキリスト教の神は、むやみに人を助けてはくれないようです。この映画の根本にある主題は、悪魔は現実に存在すると人々が認めれば、即ち神も存在すると認められるという仮説みたいです。聖母マリアが、エミリーにそれを強要するのです。敬虔な信者であるエミリーにとり憑いた悪魔を、自分の存在を強固に示す為に聖母様はいいように利用しています。この図式はとてもよく理解出来ます。悪がなければ善もなくなります。光あるところにハゲ(失礼)影があるわけです。うがった見方をすれば、神と悪魔は一心同体で、人間を自由気ままに弄んでいるようにも見えます。何故そこまでして、人は神を信じなければいけないのでしょうか?何を信じるかは、個人の問題です。八百万でも一神教でも、宗教の自由は日本国憲法でも保障されています。日本人自体も、その点では実に寛容な気がします。素晴らしい事です。私達の生活の場には、いろんな神様がもうぐっちゃぐちゃに入り乱れています。仏壇を拝みながらも首にはクロス。こんな事は当たり前です。これは別に悪い事ばかりであるとは言い切れないのではあるまいか?過ぎたるは及ばざるが如し。強すぎる信仰が人を不幸にするのは本末転倒であるにも関わらず、その本末転倒が世界には横行しています。一つの事を頑なに信じるという事は、それ以外の事を拒絶するしかないのでしょうか?エミリーの犠牲は、とても儚い犠牲なのかもしれません。サクリファイスを生かすも殺すも、ようは私達の心持一つであると、今更ながら思わせられる映画でありました。
去る5月20日。東京競馬場に於いて第68回オークスが開催されました。新しく改装されて美しく整備された東京競馬場を舞台にした最初のクラシック・レースです。晴れ渡る空に、緑のターフは実に綺麗に光り輝いて見えました。フルゲート18頭の牝馬達が、今か今かと逸る気持ちを滾らせています。G1のファンファーレ。スタンドがどよめきます。あなたの夢はどの馬でしたか?私の夢はゼッケン2番ローブデコルテに託されていました。レースは大方の予想通り、直線での瞬発力勝負になりました。道中じっと折り合いに専念し、最後の直線にその力を溜め込んでいたローブデコルテは、一番人気ベッラレイアに肉薄。写真判定の末、ローブデコルテがハナ差で差しきった所がゴールでありました。3連複の配当金が一万とんで450円。ありがとう、ローブデコルテ。ありがとう、ベッラレイア。そして、ありがとう、ラブカーナ。あなた達の頑張り、決して忘れません。競馬は夢。競馬はロマン。そして、競馬は金。私はその時、神の御姿を見たのかもしれません。断言しよう。その時神は、福沢諭吉の顔をしていたと。
「エミリー・ローズ」 2005 アメリカ
監督 スコット・デリクソン
主演 ローラ・リニー トム・ウィルキンソン
「笑の大学」は、とても退屈な作品だ。とにかく長すぎる。そして反戦映画の側面を、恥じも外聞もなくひけらかしている。日本的な反戦論に常々疑問を持っている私には、こういった脳天気な反戦猿芝居には眉間に皺の一つも寄ってしまうというものだ。三谷幸喜という胡散臭い人間がそもそも好みではないが、実はこの映画は機会があればぜひ観てみたいと思っていた作品だった。何より作品の設定に心が魅かれたからだ。喜劇作家と検閲官との密室でのすったもんだを描くというのは、何やら面白そうな雰囲気を醸し出しているではないか。コメディ映画はチャップリンだけで十分と割り切ってあまり観ていない(世の中にはあまりにもたくさんの映画があるので、映画ファンは常に取捨選択を義務づけられている。私にとって三谷幸喜なんかは真っ先に観ないリストに名を連ねる常連だが、そこに食わず嫌いの論理が顔を覗かしているのは認めざるを得ない。とはいえ、TVでもたまに見かける三谷氏の立ち居振る舞いが、私はどうしても好きになれない。だから作品も観ない。これだけ人気もあり地位も確立している人物なのだから、当然優れた才能の持ち主なんだろうが、作品の選択にはそこは無関係である)のだが、「笑の大学」という映画の存在を知った時に、私は直感的に{これは面白いんじゃないか?}と何故か思ってしまったのだ。理由なんてあるはずもない。だって直感だから。そして、まんまと時間を無駄にしてしまった。私は趣味で中央競馬を嗜んでいるのだが、直感に頼って馬券を的中させた事がないのにはたと気付いた。あぁ、私は動物としては実に下等な生き物なんだなぁと思い知らされてしまうわけなのだ。情けないやら悲しいやら、はらひれはれほれ。
笑いは世界を救えるのだろうか?本当にそう信じている人がいるとしたら、それこそお笑い草とも言われかねない。では、みんなが大好きな愛なら世界を救う事が出来るのだろうか?実に抽象的で何とも言いがたいが、夢を見る自由は保障されているのだから特に否定する必要もないのだろう。かつてビートルズは「愛こそすべて」と歌い大金を稼いだ。そのメンバーのジョン・レノンは熱狂的ファンの愛によって命を奪われた。愛とは実に個人的な(そしてかなり一方的な)感情である。全世界的な愛なんてものは、ほぼ絶対に存在しないのは目に見えている。愛は膨大な金をもたらす幻想として、あまりにも過大評価され且つ神格化されて人々の中に根付いている思想に過ぎない。
それにしても、「笑の大学」の反戦気分はとってつけたようで実に居心地が悪い。別にただの検閲官と作家の人間としてのやりとりで十分作品になったんじゃないの?と、ついつい思ってしまう。{お国のために、お国のために、お国のために}と三回いれなさいとか検閲官が作家に要求するのだが、それは裏を返せば三谷氏が{お国のために死ぬなんて馬鹿だ}と思っている事の表われだろう。その言葉の裏にあった各個人の気持ちをないがしろにして、昔の日本人っていうのは本当に馬鹿だよねと、鼻で笑っている気がしてしまうのは私の理解力が低いという事なんでしょうか?後半、赤紙を手に{お国の為に死んできます}と作家がいう場面も、私には{何で?}って感じでした。確かに戦場に兵隊として赴くわけだから死ぬ可能性を考えないわけではないだろうが、そこで人は{お国の為に死んできます}と言うんだろうか?人間ってそういうものですか?検閲官は必死こいて{生きて帰って来い}と作家を送るのだが、これも100%死ぬと思っているとしか見えなくて、私にはどうにも腑に落ちなかった。しかも、この「笑の大学」の舞台世界には戦争の影は微塵も感じられないのだから、まるで二人の戦時中と設定したコントみたいな感じがして妙に違和感があった。こんなものは反戦メッセージでもなんでもないですよ。自分のエゴの為に反戦というスパイスを使ってみましたみたいなもんでしょう?何か気分が悪いなぁ。反戦なんて実は考えた事もないけど、それで金と賞賛が得られればいいや的な匂いがぷんぷんするんですけど。うがった物の見方なのかなぁ?「パッチギ!」とか「男たちの大和」みたいな一方的な押し付け映画が最近多いから、斜めからしか映画を観れなくなってしまったのか?それはそれで怖いなぁ。
そういえば憲法改正に伴う国民投票がもう現実のものとなりそうです。いつまでもずるずると意固地に改正せずにごまかし続ける姿はどうにも真っ当ではないと思う私は、とりあえずは賛成です。日本国憲法を平和憲法とか言うのには、もう我慢ならないですよ。大体、平和憲法ってなんだい?日本は憲法を遵守して守り続けてきたなんて言う人もいるようだけど、どう考えてもただほったらかしにしといたけどたまたま何の不都合もなかった的な日々を積み上げてきただけのような気がするんですけど。例えば台湾で有事が起きて、米中が緊迫する状態になったら憲法がどうとか言ってる場合じゃなくなる気がしてしょうがないんだけど。イラクに本格的にイランが介入を開始して、アメリカが再び戦闘状態に突入したら、現地の航空自衛隊の人達はどうなってしまうんでしょう?日本はそろそろ色んな部分で変化していかないと、本当に沈没しかねないんじゃないの?結果的に、日本人がお国の為に死んでいく時代がまたやってきたとして、「笑の大学」みたいな映画は胸を張ってリバイバルされたり出来るんですかね。もし自分が徴集されたりした時に、「笑の大学」みたいな映画を見せられたら、アホかこのクソ映画ぐらい言いそうな気がしてしょうがないなぁ。機関銃を撃ちまくりながら日本の領土に侵入してきた征服者達に、全部あなたに差し上げますから苦しまないように即死させて下さいと懇願する人間には、私は絶対になりたくないぞ。そんな時代は絶対に来ないと、誰が保障してくれるって言うのでしょう。アメリカですか?一番何するか分からん国のような気がしてしょうがないんですけど・・・とほほ。自分の身は自分で守るしかない。これが現社会の個人の大原則ならば、それは国という単位であっても同じでしょう。そういう意味では日本国憲法は国が持つ憲法として破綻してますよ。身に降りかかってからしか何事も対処出来ないなんて、とてもナンセンスだし手遅れでしょ。いっその事、日本人全員に自動小銃を税金で配るっていうのはどうでしょう?少なくとも陰湿ないじめは減少するかもしれませんね。そして、拳銃による殺人件数はアメリカを遥かに凌駕するんでしょうね。考えたくはないけど、やっぱり日本人って、どっか変なのかもしれないなぁ。「馬鹿の壁」ならぬ、「日本人の壁」って本を出したら馬鹿売れするのかな・・・。
「笑の大学」 2004 日本
監督 星 護
主演 役所 広司 稲垣 吾郎
正直、ちょっと驚きの映画でした。
面白いとか面白くないとかいう以前に、こういう映画を平然と撮れるのはどうしてなんでしょう?もともと井筒監督の映画で好きな作品はありませんが、心から観なければ良かったと思う映画はなかなかどうしてありそうでないものです。「男たちの大和」という映画がちょっと前に話題になりましたが、視点の違いこそあれ、「パッチギ」と「男たちの大和」に何の違いがあるのでしょうか?どちらも胡散臭く、描き方が一方的という点で全く同じなのではないでしょうか?反戦だとか愛だとか、言うのは自由なのかもしれませんが、日本という国にはもうそういうものは無くなってしまっているのかもしれません。平和がいいというのは、ごく当たり前の意見だし、誰もが平和に毎日を暮らしたいに決まってます。ただし、平和という言葉が存在するには、その逆も必ず存在するわけです。そうでなければ、平和なんて言葉はこの世にあるはずがありません。誰だって強盗には遭いたくないし、ましてそんな偶然の不幸で命なんて落としたくないわけです。好むと好まざるとに関わらず、そういった出来事は身に降りかかってきます。それが社会の、或いは集団生活における負の部分であります。国と国との戦争にしても同じ事が言えます。少なくとも日本人のほとんどが、先の大戦でアメリカと戦争などしたくはなかったでしょう(或いは、どうでもよかった。人口が増えれば増えるほどリアルである事柄は少なくなっていきますから、これは仕方がないのかもしれません)。戦争回避の為に打てる手は、当然(総てではないとしても)打ったはずです。日本が傲慢から大国に果敢に戦争を仕掛けたというのは、実に無理のある視点なのではないでしょうか?日本は追い込まれて戦争に突入したと考える方が、遥かに自然です。少なくともあの時点では(そして恐らく一部の白人達においては今も)日本人は猿と人類との中間の生き物だと差別されているわけです。「パッチギ」の冒頭に1968年公開の映画として「猿の惑星」の看板が出てきますが、「猿の惑星」はもともとピエール・ブールによって日本人をモデルにして書かれた寓話小説です。白人にしてみれば、自分達よりも劣った動物である人類に似た生き物に支配されるというのは想像を絶する恐怖だったのでしょう。ちなみに、「続・猿の惑星」の最後はコバルト爆弾によって猿の惑星が破壊されて物語が終わります。猿に支配されるぐらいなら、地球なんて消えてなくなってしまえばいいという、これは白人達の決意の表れともいえるのかもしれません。実際、日本には原爆が落とされました。その根底に差別意識があったのは、もはや常識です。井筒監督は日本人なんて原爆でみんな死んでいたらよかったといいたいのでしょうか?少なくとも、「猿の惑星」は看板のみならず、登場人物達のセリフでも何度か出てくるぐらいですから、意味がないとはとても思えません。わけのわからん暴力描写の連続と、かなり意識的な日本人批判のこの映画に、個人的にはやはり懐疑的にならざるをえません。何か裏があるのでしょうか?と、勘繰りたくもなります。そして、早くも第二弾が上映公開されるわけですが、これもどうなんでしょう?当初から予定されていた作品としか私には思えませんが・・・。
映画というものがメッセージ性を持ったメディアであるのは当然の事です。映画監督というものは、一つの作品において神とも呼べる存在であります。だからこそ、これだけの魅力を持ちえた職業だとも言えます。例え擬似的ですらあれ、神になれる職業はそうそうあるものではありません。小説家もまたそういう一面を持ちますが、本には映像がありません。映像としての部分は読み手の想像力に託されています。映画との根本的な、或いは絶対的な違いがそこにあります。より強く、直接的に自身の思想なり嗜好をプロパガンダするにはうってつけの素材となります。戦時に於ける戦意高揚映画に例をとるまでもなく、政治的にも利用されます。民衆を一つの思想のもと操作できる危険が、映画にはあるわけです。それはドキュメンタリー映画とて例外ではありません。むしろ、ドキュメンタリー映画の方が遥かに簡単に実現出来るとも言えます。これは全て真実の映像であると言われると、なるほど事実なのかと思ってしまいがちですが、見せられる映像というのは作り手が選んだ映像でしかありません。真実はいつも作り手の視点によって自由に作り上げられるものです。TVばっかり見ていると馬鹿になるという人がいますが、これはある意味とても正しい意見といえます。選挙になると顔が売れた人物ばかりが当選するようなこの国では、TVなんてものは早々にぶっ壊す方がいいのかもしれません。あなたの周りにもいるでしょう?TVから得た情報ばかりを、さも自分の意見であるように得意気に話す人が。昔は自然状況から天気を自分で予想していたはずですが、今ではTVの天気予報に一喜一憂しているだけで自分で判断する人は少ないのではないですか(私もその一人ですけど)?自分で判断。この国では、そんな当たり前の事ですら疎かになりつつあるのではないでしょうか?なんでもかんでもとなれば、確かに面倒ではありますが。文明というものが、楽を機軸に発達している事実を考えると、致し方ありませんかね。人類はどんだけ楽になれば気が済むのでしょう?それを考えると、人類の未来はやっぱり暗いのかもしれません。恐竜の例もあるしねぇ。
日本人として、日本人らしく、とは一体どんなものなんでしょう?時の流れと共に人もまた変化しているわけですから、昔の日本人を思い浮かべるのは無理があるはずです。昔はこうだったとか、昔はこんなじゃなかったとか、そういう意見は実際建設的ではありませんね。そんな事を声高に言っても何の意味もありません。アメリカ人になりきるっていうのも、こっちはそれでよくても向こうが許さないのはみえみえですし(見た目ではっきり違うからなぁ)。「パッチギ」は日本人としての意識を考えさせるのには、そんなに悪い映画ではないのかもしれません。68年の京都を舞台にした出来の悪い「ロミオとジュリエット」にしては、いろいろと考えさせてはくれるという点では。けれど、やっぱりおかしいよ、この映画は。とてもまともではない気がするのは私だけなんでしょうか?
「パッチギ!」 2004 日本?
監督 井筒 和幸
主演 塩谷 瞬 沢尻 エリカ
「LET IT BE」は1970年5月に発売されたTHE BEATLESのラスト・アルバムである。2枚組みの大作アルバム「THE BEATLES(通称ホワイトアルバム)」の後を受けて製作を開始したこのアルバムは、常に新しい物を目指した彼ららしくリハーサルの現場をフィルムに収めた映画を同時進行で撮影するというアイデアが採用された。常に撮影クルーという言ってみれば部外者がうろついているスタジオではやはり意識が散漫になってしまったのか、結局このアルバムは一旦オクラ入りになってしまう。知っている人も多いだろうが、これが本来「GET BACK」というタイトルで世に出るはずだったアルバムの末路である。THE BEATLESはその後「ABBEY ROAD」アルバムを制作・発表。「ABBEY ROAD」の最後に収められた楽曲タイトルがTHE ENDであるように、これにて四人での音楽活動は終止符を打ったわけだ。グループのリーダー格だったジョンはヨーコとの活動を本格的に開始、ポールはソロとしての活動を自宅の音楽ルームでしめやかに開始した。この頃既にジョン・レノンはメンバーに脱退を表明していたといわれているが、メンバーの反対にあってその事は隠されていた。1970年4月にポールが初のソロ「McCartney」アルバムを発表と同時にTHE BEATLESからの脱退を表明。ジョン・レノンは自分のアルバムを売る為にバンド脱退発言を利用したと激怒するが、それは当然の怒りだろう。脱退を最初に口にしたのは自分であり、ポールの意向もあり表沙汰にはしていなかったのだから。ポールにしてみればメンバーの中では既にバンドは解散状態であり、今更その事がどうのこうのという問題ではなかっただろうが、その発言一つが大金を生むバンドであったのは事実だし、そういう意味では配慮が足りなかったと言わざるをえない。ポールは当時THE BEATLESのマネージャーを務めていた元ストーンズの会計顧問アラン・クラインを提訴していて、以後THE BEATLESは裁判所の中のみで生き続ける事になったわけだ。
実質的なラスト・アルバム「ABBEY ROAD](「LET IT BE」はサウンドトラック版である為、オリジナル・アルバムとしては真にラスト・アルバムとも言える。一方で半世紀を経て発売されたポールの意地とも言える「LET IT BE NAKED」が当然THE BEATLESの名義で発売されている為、現在はこれがラスト・アルバム)が、実にビートルズらしいユーモアやアイデアに溢れた陽気なアルバムであったのに対し、オリジナル「LET IT BE」は実に不思議な雰囲気に包まれた異色作だ。圧倒的に憂鬱であり陰気だ。楽曲的には(このバンドのレヴェルではもはや当たり前だが)粒ぞろいで魅力に溢れているし、意見が分かれる所かもしれないがアルバムとして実にまとまっている作品だと私は思う。その結実したまとまりぐあいが、実はそれまでのTHE BEATLESのアルバムとは決定的に違うのではないだろうか?ビートルズのアルバムは、いつもどこかに必ず余裕とも取れる遊びというか息が抜ける瞬間があったのだが、オリジナル・サウンドトラック「LET IT BE」にはそれがない(MAGGIE MAEのような明らかにバンドのお遊び演奏も含まれているが、それこそが最も作為的だ)。フィル・スペクターという天才プロデューサーの最高傑作ともいうべき完成度のこのアルバムは、友好的解散の道を開けなかったバンドの姿を明確に押し出そうとする作為的な意識に満ち満ちている。殺伐間であり寂寥感。ある意味部外者によって、その方向でのみ制作された音の一つ一つが、一つの時代の終焉を描ききった傑作として世に生まれ出た。ポプュラー・ミュージックの歴史の、とりわけROCKとされる分野において燦然と輝くべきアルバムではないかと思われる。と同時に、熱狂的なビートル・マニアには受け入れがたい迷作であるのも確実だ。このアルバムは傑作であればあるほど、ファンには受け容れがたいという実に奇妙な体裁を持っているといえる。
映画「LET IT BE」は、サウンドトラック・アルバム「LET IT BE」と似ているとも言えるし、似ていないとも言える。この二つの作品は同じであって同じではない。確かに映像として映し出される四人のビートル達の周りを覆う空気は殺伐としていて何とも陰気くさい。演奏も倦怠感に満ちているし、メンバー間の口論もあり画面に現場の緊張も滲み出ている。それでも演奏中のメンバーは概ね楽しそうだし、もはや解散が決まってしまったバンドという感じは私には微塵も感じられない。それはメンバーが、THE BEATLESという確立してしまったイメージには嫌気がさしているが、こと音楽に限っては飽きもせず大好きだという現われだろう。次は俺の曲やろう、その次は俺みたいなポールとジョンの二人については、それが顕著だ。憤りを隠しきれないのは、むしろジョージでありリンゴの二人のようだ。ビートルズの解散については、ジョンとポールの確執だとか、ヨーコの存在がとか皆が言いたい放題だが、私は実はジョージとリンゴの気持ちがTHE BEATLESを解散に追い込んだとみている。THE BEATLESは四人のバンドだが、内実はジョンとポールのバンドであるという事実。これがジョージとリンゴを追い込み、そのもやもやとした気持ちが二人の天才の仲を裂いたとはいえないだろうか?解散後のジョンとポールのすったもんだについても、あれはどう見ても仲がよい二人だからこその兄弟喧嘩にしか私には見えない。かつてプレイボーイ誌(だったかな?)のインタビューでジョンが{ポールについて悪口を言っていいのは俺だけだ。他の奴が言うのは許せない}と発言しているのは言いえて妙ではないか。ジョンがポールの音楽的才能の開花に嫉妬し、危機感を募らせていたのは事実だろう。ポール・マッカートニーの音楽センスは尋常ではなく、あれだけの才能を持ったジョンですら手が届かないレベルまで到達している。ビートルズのアルバムを発売順に聴いてみれば、ジョンからポールへとはっきりとイニシアチブが移っていく様があからさまにはっきりと分かるだろう。少なくとも「ラバーソウル」アルバム以降、ジョンの楽曲は露骨にポールとは別の次元を目指し始めているのに気付くはずだ。もはや同じ次元で勝負出来なくなってしまっているというのは暴言だろうか?ジョンはビートルズ解散後、数枚のアルバムを出すが結果として主夫となって表舞台から降りてしまう。そこにポールの才能の影が見え隠れしはしないか?一方、ポールもまた自身の築き上げた高すぎるハードルに悩ませられる。私はポールのオリジナル・アルバムは全て所有している根っからのポール・ファンだが、そこにビートルズ時代の英気は感じられない。当然だろう。ポールは大好きな兄貴であるジョンに褒めてもらいたい一心で、優れた曲を書き続けていた節がある。要するに、モチベーションの問題だ。近年はさすがに才能の限界を感じさせる部分もあるようだ。何事も無限ではない。人間の限界が30であるとすれば、それも致し方ないと言わざるを得ない。
人間は平等ではけしてない。才能もまた然り。だからこそ様々な人間模様を見て、私達は一喜一憂するのだ。現在の社会は画一的とも言われる。様々な個性が様々な場所で花を咲かせる時代ではもはやないという事だ。格差がどうのと言われる世の中だが、アメリカを見ればその限界も近いとは言えないか?一握りの金持ちが、高い塀に囲まれてガードマンに守られて生活区域を限定されて暮らしているのはどうしてだ?アメリカ寄りの政権が選ばれ、パリで暴動が起きているのはどうしてだ?イラクが今日も元気にへこたられる事もなく燃え上がっているのは何故か?始まりがあれば終わりがある。これは紛れもない事実だ。日本の国防について日米同盟の重要性を説き続ける政府の姿に、どうして一部の国民が違和感を抱いているのか?日米同盟なんて、アメリカの思惑一つでいつでも白紙になると、歴史が証明しているからじゃないのか?事実、アメリカはずっと変わりなくそういう国だったのではないか?国益に合致すれば、裏工作をしてでも無理から戦争を仕掛ける姿勢が何度貫かれれば、私達はそれはおかしいと声を大にして言えるようになるのでしょうか?
映画「LET IT BE」は、素晴らしい人間ドラマの一旦を垣間見せてくれる時代の映しえだ。この映画が誰でも簡単に観られるように早くなりますように。少なくとも、ここで表現されている音楽の数々は、代々後世に伝え継ぐに足る輝きに包まれている。映画の最後を飾る伝説のルーフトップでのコンサート。そこには、もはやこれが最後と知っている四人のどこか開放感に満ちた笑顔が溢れている。お互いに強く愛しあい、誰にも分かりはしない四人だけの空気と絆に息がつまるのは、一般家庭の家族の絆と何ら変わりがない。これからはもっと気楽に付き合えるさ。四人はそう思っていたのかもしれない。現実にはTHE BEATLESの幻想を追い求める他人によって、さらなる袋小路に追い詰められる事になってしまったが・・・。凡人はいつだって天才の足を引っ張る存在だ。天才は自分を、そして他人を省みないきらいがある。世の中には、どちらも必要だというのに。何故なら、良くも悪くもこの世は全てバランスで創られているのだから。
「LET IT BE」 1970 イギリス
監督 マイケル・リンゼイ=ホッグ
主演 THE BEATLES
ジョン・レノン
ポール・マッカートニー
ジョージ・ハリソン
リンゴ・スター
1992年、フランスのインフォグラム社がIBMパソコン対応ソフトとして、画期的なゲームを製作した。言わずと知れた「アローン・イン・ザ・ダーク」だ。いまだ平面的な画面で繰り広げられていたゲームの世界は、この一作で一変してしまう。ポリゴンの手法により3Dで表された画面の中を、立体の人間が動き回る。これだけでも当時は衝撃だったわけです。今のゲームでは考えられない理不尽な謎解きに、甚だしき操作性の悪さをも物ともせず、「アローン・イン・ザ・ダーク」は全世界で大ヒットを飛ばします。日本でもパソコン用ソフトとしてヒットした後、天下のパナソニックが社運を賭けて世に送り出した家庭用ゲーム機・3DO・REALの目玉ソフトとして発売され、広く?遊ばれる運びとなります。ちなみに私の家庭では3DOはいまだ健在です。去年だったか一昨年だったか(あれれ、本当に記憶にないなぁ)、満を持して某家電量販店のポイントで購入したPS2は、わずか三本のソフト(「バイオハザード4」であり、「零で」あり「デメント」というラインアップ。共通項はホラー・ゲームって事でしょうか?腐っても鯛)、を稼動した後沈黙、現在は薄っすらと埃にまみれています。正直、PS2に関しては、購入した事を後悔しています。あのポイントがあればパソコンのメモリーが・・・。とにかく私も随分と歳を重ねたせいか、ゲームにはもはや興味もない(ホラー・ゲームは時として例外だが)状態だが、それでも年に片手で数えられる程度にゲーム機に手を伸ばす時期があります。ものすご〜く無気力になった時がそうです。とにかくな〜んにもしたくないような時に、ゲームは役に立ってくれます。そこで活躍するのが我らが3DO・REALなのだ。押入れから引っ張りだす事年に数回。大体、一週間程でまた箱詰めされて闇に放り込まれる運命のこのゲーム機だが、まだまだ故障もせずに健気に働いてくれます。私が思うに、3DOの良さは、はまるゲームがないという一点に尽きるのではないでしょうか。ようするに、取っ付きが悪かったり、妙に理不尽だったり、とにかくつまらないゲームが多いのです。だから30分ぐらいプレイすると、もう飽きてしまうのだ。一時間も二時間もゲームをすると、無茶苦茶時間を無駄にした気分になってしまうようになって随分と経つが、そんな私にはぴったりのゲーム機だといえるでしょう。もひとつちなみに、MYベスト・3DOに輝くのは、「ザ・ホード」「ロード・ラッシュ」「コープス・キラー」。次点に「リターン・ファイヤー」です。って、ほとんど誰も知らないのかもしれませんけど。購入して十数年経ちますが、どれもクリアしてません。今後クリアする気も、もはやありません。「ザ・ホード」は最後どうなるのかちょっと興味があるのですが、私の腕ではとても無理なようです。がむしゃらに頑張ってプレイする気にも、もちろんなりませんし。どのゲームもいつも序盤ちょこっとやってお終いという連続なので、序盤は鬼のようにうまいんですが、中盤になるとほとんど歯が立ちません。はっきり言ってしまうと、面倒くさくなります。そして箱詰めです・・・。
さて、「アローン・イン・ザ・ダーク」ですが、ゲーム版はぞくぞくするようなホラー・ゲームです。今で言う攻略本抜きでは、私には到底クリア出来ない代物ではありますが、過去にきっちりとエンディングを見た記憶が微かにあります。難しいというよりは、理不尽と言った方が適切な気がしないでもないのですが、どうなんでしょう?何となく覚えてるのは、あっちこっちに手を伸ばして、やっとヒントを入手しては先に進むの連続で、いつもこんなの分かるかよと文句言いながらやっていた気がします。それでもエンディングまでたどり着いたのは、やはり若さゆえでしょう。それ以外には考えられません。実は、年に一回は必ずこの「アローン・イン・ザ・ダーク」(もち3DO版)に電源を入れては楽しんでいるのですが、ここ数年はスタートして最初の犬みたいなモンスターか廊下のゾンビにやられてしまって、ラブクラフトちっくなイラストのゲーム・オーバー画面を見て満足して電源を切るに終始しています。難しすぎて、とても先に進む気が起きません。実際、もう謎解きとかも覚えてませんし、いつも新鮮ではあるのですが。それでも懲りずに電源を入れるのは、私がこのゲームの雰囲気を愛しているからに他なりません。このゲームの世界観は、見事にラブクラフトの世界を再現しています。幾多のホラー・ゲームが世に出ようと、私にとっては「アローン・イン・ザ・ダーク」が最高峰であるのに変わりありません。それにしても、もう少し思った通りにカーンビーが動いてくれたらいいのに・・・。もう少し的確にパンチやキックが当たると助かるんだけど・・・。何が怖いって、主人公の顔が一番怖かったりするし・・・。
映画化された「アローン・イン・ザ・ダーク」は、評判が悪いようです。評判が悪いという事は、世の中にはいまだにゲーム版「アローン・イン・ザ・ダーク」を嬉々として楽しんでいる人がいるという事なんでしょうか?だとしたら嬉しいような、不気味悪いような・・・。ゲーム版「アローン〜」は、簡単に言えば日本で生まれたPS用ゲーム「バイオ・ハザード」まんまです。「アローン〜」の謎解きを簡単に(あまり理不尽じゃなく)して、操作性を良くすると「バイオ〜」になります。ただし、「バイオ〜」の方がホラー色は極端に落ちます。「バイオ・ハザード」は映画版もホラー色はほとんどなく(ゾンビがいっぱいでているというだけ)痛快?なアクション映画でしたが、ゲームの方もはっきり言ってホラーとは名ばかりの内容ですので違和感はなかったです。ところが、映画版「アローン〜」は全くの別物といった感じしかしません。違和感ありありです。ゲーム版「アローン〜」は、もしかしたら世界で唯一の真のホラー・ゲームという雰囲気と魅力を持った内容だったのに、映画版はただのつまらないアクション映画になっていました。この映画をホラー映画とジャンルづけするならば、「仮面ライダー」も「ウルトラマン」もホラー映画(TVドラマですが)と言わなければいけません。断言しますが、映画版「アローン・イン・ザ・ダーク」は、ただの幼稚な怪獣映画です。ここにはホラーのホの字もありません。ただ単にゲーム版「アローン〜」の名を勝手に使った、実に卑怯な映画です。今に始まった事ではないのですが、ホラー映画でもないのに何とかホラーとかってジャンルづけされる映画はあまりにも多すぎます。真のホラー映画とは、時に芸術であり、且つエンタテインメントであり、優れた人間洞察の場でもあるわけです。こういうちんけでいい加減な「アローン・イン・ザ・ダーク」のような映画を、ホラー映画と呼ぶなと声を大にして言いたい(時もあるといった程度ですが)ものです。最もそういったみょうちくりんな訳の分からんごった煮的ジャンルだからこそ、底知れぬ魅力を隠し持っていると言えない事もないので、今回もまた許してあげましょう。ただ一つはっきりしているのは、映画版「アローン・イン・ザ・ダーク」はホラー映画であろうとなかろうと、つまらない映画であるという事実ではないでしょうか?そうではないか?
「アローン・イン・ザ・ダーク」 2005 カナダ・ドイツ・アメリカ
監督 ウーヴェ・ポル
主演 クリスチャン・スレイター タラ・リード
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