RAINBOWは永遠である。この世界最高最強のロックバンドを知っている人は幸せである。
ロックの歴史は以外と短い。ラジオのDJ アラン・フリードが自身の番組に「Rock'nRoll」と名づけたのは1952年の事だ。その番組で流されていたのは、今でいう黒人のR&Bだった。ロックンロールとは単に音楽を示す言葉ではないのだ。その後、白人達がこの黒人のR&Bにカントリー・ミュージックを融合して新しい音楽を生み出した。実際にはもっと細やかな誕生の歴史があるし、人によってはアイルランド移民達がアメリカに持ち込んだ音楽にまでルーツを遡らせるわけだが、とにかくアメリカのポピュラー・ミュージック・シーンをがらりと変えてしまう50年代の転換期に華々しく響き渡った流行の音楽がロックの歴史の始まりと言ってしまっていいのではないか?そして王様が誕生した。言わずと知れたエルヴィス・プレスリーの登場だ。この時点ではまだカントリー色の強かったロック・ミュージックではあるが、新大陸以外の場所にとんでもない新星が現われ、その歴史は一気に頂点に達してしまう。THE BEATLES が、そうだ。ビートルズはバンド形態でロックンロールを基本に、実に様々な音楽を融合させる事で、実に多様な音楽性を表した。その偉大さに肩を並べる音楽家は未だにいない。少なくともポピュラー・ミュージック界には、そういう人物が現われる事は二度とないだろう。ビートルズの製作した全てのアルバムを聴けば、今巷に溢れている流行歌の原型がほぼ全て集まっている事に気づくに違いない。
ロックは実に様々な形に形態を変え、実に多くの枝葉を生んでいく。このバンドは何々ロックという形で、商売がしやすいようにたくさんのネーミングが作られた。ハード・ロック或いはヘビーメタルと呼ばれる音楽は、ある意味その王道を突っ走っていく。ブラック・サバスのトニー・アイオミは、あの頃ハード・ロックと呼ばれるバンドは三つしかなかったと述壊している。三つのバンドとは、レッド・ツェッペリンであり、ディープ・パープルであり、自身のサバスというわけだ。先陣を切ったツェッペリンは確かにハードな曲もあるが、印象的にはブルース・ロックの延長線上にある感じだ。一方パープルはというと、デビュー当初はオルガンを主体としたアート・ロック的雰囲気を漂わせていたが、ツェッペリン成功とジミー・ヘンドリックスのギター・スタイルがギターリストのリッチー・ブラックモアを感化させ、メンバーも変えてその音楽は大きく変貌する。私は真のハード・ロック完成形は、このパープルの「IN ROCK」アルバムではないかと思っている。パープルの特徴は一にも二にも黒人音楽の影響の希薄さだ。むしろカントリー・ミュージックにより近い音楽であり、より白人らしい音楽だという事だ。そして計算されつくしたかのように曲を形に嵌め込んで展開する様は、クラシック音楽を思わせる所がある。これはメンバーのリッチーとジョン・ロードの嗜好によるものだろう。この辺りが、ツェッペリンやサバスのレベルまでアメリカで成功しなかった一因になっているのかもしれない。最も直接的な原因はアメリカでのツアーが順調さを欠いた、その一点に尽きるのだろうが。当時アメリカではライブの成功がレコードの売り上げに直結していたわけだから、これは当然の事だ。一番の痛手は最もアメリカで注目を集めた時期に、メンバーの脱退とリッチーの離脱問題が重なったのもバンドにとっては不幸だった。たらればになるが、20万人とも言われる観客を集めた歴史的ロック・フェスのカリフォルニア・ジャムのヘッドライナーを、イアン・ギラン在籍の下で務めていたら、DEEP PURPLEはより偉大なロック・グループとして世界に君臨していたかもしれない。アメリカでビッグ・ネームでないと格下に見るという日本の風潮自体が実際はおかしいのだが、少なくともパープルはかつて日本においてレコードの売り上げがビートルズについで二番目だった事からしてもその偉大さは推して推すべきだ。少なくとも客観的に見て、バンドとしても楽曲としてもパープルの方がツェッペリンよりも優れたグループだと私は思うのだがどうなんだろう?もちろん両者は実は音楽的にも微妙に違うわけで、比較する事自体が無意味なのかもしれないが。それとパープルの音楽が単純明解で分かりやすいというのも、日本における世間という場所では低く見られがちだ。でも実際は凄い事を単純明解に表現する事は、難解にするよりも遥かにリスクがあるし難しいはずなんだけどね。その辺りも、日本人のちんけなかっこつけ性質が垣間見られて、まぁ微笑ましいですけど。
世間の注目とは別に迷走するパープルから、結局リッチーは脱退。そして自身の為の新しいバンドを結成する。それがRAINBOWである。RAINBOWというバンドは、今となってはアメリカでは一般的には無名に近いバンドかもしれない。日本でもそうなのだろうか?コアなロック・ファンには馴染み深いバンドだろうけれど、あくまでも一般的にはという話。試しに洋楽好きな人にRAINBOWの知名度を聞いてみてはいかが?好きな人は大好きなRAINBOWも、若い人にはどうなのかな?リッチー・ハゲモアとか言っても笑ってはくれないのではないか?
今回の話題は、このRAINBOWの初期のライブ・ビデオである。売り上げ的には後のグラハム・ボネットやジョー・リン・ターナー在籍時の方が良かっただろうに、とかく取り上げられるのはロニーとコージーという二大パフォーマーがいた時代。再結成の話もあったみたいですが、ドラムスのコージー・パウエルの交通事故死によって露と消えてしまったようですね。やっぱり悲しいですね。私はリッチーの来日公演は多分十数回(パープル、レインボー、ブラックモアズ・ナイトを含め)観ていると思いますが、コージーを生で観る機会は結局訪れずじまいでした。私のライブラリーには二十本近いリッチー関係のライブ・ビデオがありますが、コージーもちらほらと顔を窺えます。どのライブでもコージーの(それがホワイトスネイクだろうとなんだろうと)ソロはやっぱりいかしてます。身震いするぐらいカッコいいです。
それにしてもこのライブ。何度か観てきましたが、遂に正規のルートでみられるのですね。いい時代になったものです。オープニングのドロシーのセリフには、やはり感動してしまいます。慣れ親しんだ曲の数々も、かつてギターをコピーしてピロピロ弾いたものばかり。懐かしいなぁ。まるで良質な一本の映画を観ている気分になってしまいます。否、はっきり言ってどんな名画も決して手の届かない孤高の魅力を、このライブ映像は確かに持っていますね。ドキュメンタリー映画として観ても、歴史的な映像といえるのではないでしょうか?ラスト、ギターを叩き壊し奥の闇へと引き下がるリッチーのバックに流れる「オーバー・ザ・レインボー」の映像に、こんな格好いいラスト・シーンを持った映画が一体どれだけあるというんだと、自問自答しては余韻に浸る私なのでありました。
RAINBOWは、ROCK史上最高最強のバンドである。少なくとも、私の中では・・・。
「RAINBOW ライブ・イン・ミュンヘン 1977」
RAINBOW リッチー・ブラックモア(g)
ロニー・ジェイムス・ディオ (vo)
コージー・パウエル (ds)
デヴィット・ストーン (key)
ボブ・ディズリー (b)
少年とは、明日に向かってオナニーをする生き物である。
かねてから、私は青春映画とカテゴライズされる映画にはとにかく甘いのです。特に直球的な内容の作品には無条件にその存在を認める傾向にあります。「チェケラッチョ!」は、これ以上ないくらいのベタベタの何のフックもない青春映画の枠に納まった映画です。いわゆるど真ん中にするするっと入ってしまった力の無いストレートとでも申しましょうか。無価値でつまらない一本であり、TVの改変期にでもさらっと流せば印象はぐっと良くなったのになぁと思わずにはいられません。映画館でちょこっと金稼いで、DVDで出演者達のファンから金を巻き上げつつ、映画館で話題を呼んだあの作品が早くも地上波初放送みたいな売りで、視聴率を当てにしたTV映画です。そういう意味で、元々真剣に作られた劇場映画ではないので、どこがどうつまらないとか面白いとか議論する余地は皆無です。一部のTV局には年に何本劇場映画を製作しなければいけないみたいな決まり事があるのかもしれません。その中の括りごとの一つとして、これから連続ドラマの主役を任せられる視聴率稼ぎのアイドル育成という旗印もあるのでしょう。「伊豆の踊り子」や「潮騒」では、題名で客が離れるのは目に見えているので、流行のキーワードをまぶして、筋書きはこんなもんでしょうみたいな。それにしても、日本人というのはこういう作業が本当に得意ですね。感心します。ここ数年だけでも随分こういう映画が見受けられますが、本来こういった作品は映画ではないのかもしれません。劇場で公開されたTVドラマというのが正しいでしょう。映画には総合芸術としての側面もあるわけですが、少なくともこの手の映画には芸術と呼ぶに値する作品はありません。100円ショップで売られている陶器やコピー絵画の類を芸術と呼ぶ人はいますか?いるとすれば、それは単なる無知でしょう。
ところで、青春映画なる言葉はよく聞きますが、一体その定義はどう答えればいいのでしょうか?アイドルと呼ばれる若者達が、恋に遊びに跳ね回る映画でしょうか?或いは主にティーンエイジャーと呼ばれる観客をターゲットに製作された映画という見方も出来るかもしれません。なるほどその年代の興味といえば、もっぱら恋愛にあるわけで、もっと下世話に言えばとにかくSEXなわけです。恋だ友情だなんだとけち臭い言葉の裏には、いつもアレがいるわけです。物語的には、主人公達の想いは叶わずに終わる事がやたら多いですね。映画の基本はハッピーエンドであるにも関わらず、この手の映画だけは何故か失恋してこそよしみたいな風潮があるようです。青臭い内容の映画であっても作り手というのは結構年齢的にはジジイであったりするわけで、もしかしたらやっかみとかエゴ(笑)がそうさせるのかもしれません。{若いやつにはまだまだいい思いはさせへんで}みたいなノリがあったりして。実際には、初恋が実ってそのまま人生を山も谷もなく全うしたなんて人は数が少ないのでしょうから、失恋劇の方がより共感を呼びやすいというのが定番であるというのが妥当な線でしょうけど。日本の婚姻制度の制約から、個人をとってみても成功は一回(最近ではそうも言えなくなってきたようですが)、失敗は無数にが当然のなりゆきなわけです。生涯に愛した人はただ一人なんて、それこそファンタジーでしょう?違いますか?私が思うに、浮気なんて絶対に許せないという人ほど簡単に浮気してる気がするんですけど・・・。
ジョージ・ルーカスの「アメリカン・グラフィティ」は、青春映画の一つの完成形といえる作品ではないでしょうか?大好きな青春映画を一つ上げろと言われたら、私の場合はかなりの確率でこの名前が出てきます。黒澤明の「素晴らしき日曜日」とか「ロッキー」とか幾らでも名前は浮かびますが、「アメリカン・グラフィティ」ほど青春映画の傑作に相応しい作品はない気がします。イスラエル映画「グローイング・アップ2」もとても好きですが(エッチなシーン満載だし)、これは明らかに「アメリカン・グラフィティ」の影響下にある作品であるわけで、ラストシーンが出色の出来であったとしてもオリジナルに軍配を上げたい所ですかね。ロックンロールやポップスの名曲の数々をバックに、カスタム・カーとファッションに彩られた地方都市に住むどこにでもいそうな若者達のたった一夜を描いたこの作品は、少年から大人へと成長する主人公の姿と、開放的で明るいアメリカが徐々に暗く陰鬱とした世相に移り変わるあの50年代から60年代の時代の空気とを、見事にオーバーラップさせた奇跡の一本である事はもはや疑う余地もない見事な名作であります。後に「スター・ウォーズ」で映画界に殿堂入りした感のあるルーカスですが、映画監督としての手腕を遺憾なく発揮させたのは後にも先にもこれ一本であると断言しても過言ではないでしょう。フランシス・F・コッポラに見出され、学生時代の短編をリメイクした処女作「THX−1138」が商業的に惨敗して、絶対にヒットする作品を求められたルーカスが放ったこの衝撃的作品は、そのネーミングの素晴らしさが示す通り大ヒットを記録したわけだが、この辺りもルーカスが只者ではないと感じさせるに十分なエピソードではないか。この作品以後、青春映画と呼ばれる映画には大きな壁が出来てしまったのは仕方がない所であります。
ここ日本での青春映画といえば、よりアイドル映画との関係が密接であると言えるでしょう。高峰秀子や久我美子から吉永小百合、薬師丸ひろ子、そして現在の長澤まさみと脈々と続くアイドル女優の姿。女優人に比べて層の薄い感のある男優陣にしても、石原裕次郎、加山雄三という巨星がいる。が、日本における青春アイドル映画には、決定的な代表となる傑作は見当たらない気もしないではない。しいて言えば今井正の「青い山脈」であろうか?「青い山脈」もまた、時代と通じた見事な作品というのも、面白いつながりを感じさせる。これは、きっと青春映画と呼ばれる物が、その時代時代の空気と密接な関係にある事の表れなのかもしれない。そういう意味では「リリィ・シュシュのすべて」なんかは、一度くらいは観る価値のある作品ともいえなくもないのではないか?面白い面白くないは別として。
日本における近年の青春映画の質を観ていると、少年のそれというよりも猿に近いといった方が適切なのかもしれません。猿がオナニーを覚えると死ぬまで擦り続けるなんて笑い話があるが、映画も一度死なないとダメなのかな?それともこれから人へと進化するのでしょうか?みんな擦って大きくなった(笑)これは紛れも無い事実ではあるよね。
「チェケラッチョ!!」 2006 日本
監督 宮本 理江子
主演 市原 隼人 井上 真央
幼稚な映画が花盛りの日本映画界ですが、久しぶりに大人(年齢とは関係なく)が肩肘はらずに楽しめる映画でありました。「寝ずの番」には、日本映画でしか出しえない雰囲気と味がそこここににじみ出ているようで好感がもてます。後半のマンネリ気味な失速感や、やたらに言葉が聞き取りにくい点など、欠点も簡単に指摘出来る類の映画ではありますが、こういう作品は絶えて欲しくないと強く感じます。イベント事にはとりあえず首を突っ込んでみるのが大好きな日本人というのは、メディアにとってはとても操り易い存在ではありますが、くだらないガキの映画ばかりが集客を伸ばす昨今の映画館事情に辟易している人もたくさんいるのではないでしょうか?現代のメディア戦略の巧さは、映画における金儲けの部分にのみ重点がおかれています。この事は、間違いなく映画そのものの寿命を縮める行為となっています。個人的には、映画というメディアそのものがそろそろ限界を迎える過渡期に来ているのではないかと思っているのですが、それにしても映画がもたらす至福の時間というのはまだまだそれに替わるものの追随を許さない魔力を少なからず持っているのではないでしょうか?映画とTVの融合は、日本においては明らかにTVに分があるようです。TVでやればいい素材を銀幕に垂れ流し続けるこの状態は、近いうちに大きなしっぺ返しを日本映画界にもたらすはずです。そうなった所で、映画ファン自体には、無論影響はないでしょう。世界には良質の映画を提供してくれる国が幾らでもあるわけですから。しかし、それはあくまでも代替物でしかありません。人間としての魂を揺さぶる事は出来ても、日本人としての魂を揺さぶるのは、やはり日本映画にしか出来ないのではないでしょうか?映画界というものが、これ以上繁栄する姿なんてなかなか想像は出来ません。写真業界がデジタルカメラの誕生により急速に衰退を遂げたのはご存知の通りではありますが、銀塩フィルムの魅力を知っている人がいる限り、この世から完全にフィルムが無くなる事はないでしょう。けれど、やがては無くなる運命にあります。何故なら、これから生まれてくる子供達はデジタルしか選択肢がなくなるからです。フィルムって何?こんな子供達が大勢を占めるのは、もはや時間の問題です。ある年代からは、既にそうなっているかもしれません。実際、ビデオ・テープなる存在を知らない子供は結構いるのではないでしょうか?日本映画って何?映画って、金払って観る大画面のTVでしょう?これが現実なのかもしれません。魅力のある日本映画は、近年益々少なくなってしまいました。良質な作品が陰に陰にと押しやられている姿は、本当に忍びないものがあります。過去に良いものがあるのだから、それでいいじゃないか。本当にそうでしょうか?映画は時代を映す鏡でもあります。それ以上に人間の心を映す鏡でもあるわけです。日本映画が無くなる日。その時、ある意味で日本人もまたこの世から無くなるのかも知れません。
それにしても、毎日毎日選挙カーの騒音には気が滅入ります。日本の選挙というものは、一体どれだけ意味があるのでしょうか?当事者以外は全く無関心。それが日本における選挙の実態です。候補者は朝から晩まで名前を連呼するだけで、市民一人一人に自分の考えを聞いてもらおうという気はさらさらないようです。ちなみに、日本全国では市議会議員等のいわゆる地方議員の方々の多数は、無投票当選される方が多いようです。候補者が集まらなくて選挙にさえならないというわけですか・・・。これは今の日本人の実態をよく表しているようで、ついつい笑いがこぼれます。要するに、得のない所に手は伸ばさないわけです。国会議員はまだまだ金になるが、地方は厳しくなる一方だ。やーめた。もちろん、一概には言えませんが、こういう人は確実に増えているはずです。面倒臭ぇから、あいつにやらせとけばいいよなんて、まるで学級委員みたいな決め方が社会全般の議員職にまで広がっています。これは正しい民主主義の選挙の姿なんでしょうか?日本における戦後民主主義は、自ら勝ち得たものではなく、アメリカから勝手に与えられたものであるのは周知の事実。この事が日本人に落とした影響は、思っている以上に計り知れないものがあるようです。イラク戦争の終結時に、アメリカが未来のイラクの形として日本を成功例としていた挙げていたのが思い出されますが、事実日本はかなり運よく美味い汁を吸い続けて成長してきました。よく団塊の世代なんて言われる人達が幻想にかられて俺達が日本をみたいな事を意気揚々と叫んでおられますが、残念ながら客観的にみればそういう時代の流れだっただけの事でしかありません。アメリカが日本を必要としていた。日本はもう誰にも逆らう気力がなかった。この二点が日本をこれだけ伸し上げてきたわけです。よく勘違いされる事ですが、何もない所で何かを成し遂げるよりも、全てが揃っている所で何かを成し遂げる方が遥かに難しいのです。日本はある意味、全てが揃い過ぎてしまった国なのかもしれません。よく頭良さげな人が、この国にも日本人一人一人にもビジョンがないなんて尤もらしい意見を述べていますが、ある意味ビジョンが見え過ぎちゃってどうでもよくなったという側面もあるのではないでしょうか?日本は残念ながらマニュアル社会ですので、どの職業につくにもある一定のラインが出来ています。そして、その職業について良い面も悪い面も開けっぴろげです。昔は男の子は親父に憧れて、仕事の面でも後を継ぎたい(いまだに美味しい職業では二世三世花盛りですが)と思ったりしたものです。人間は基本的にカッコつけしぃなので、子供にもそういう面しか見せていなかったのでしょう。それが現代では・・・。ここまで来たら、もうなるようにしかならない。日本人はとにかく増えすぎましたね。兎にも角にも一人一人がしっかりと考えとか、そういうレベルは既に越えてしまっている気がしてなりません。本当は個人に密接な関係があるはずの選挙が、個人にとって全くそう感じられないという不幸な事実が、日本の選挙という世界でも類の無い特殊な世界を形成してしまったわけです。戦後日本人特有のなぁなぁ節が、そんな日本特有の選挙の姿を放っぽり投げて慣例化させてしまったのが、結局は目も当てられなくなっただけの話で、これはもう昨今の若者がどうこういうだけの問題ではあり得ないというのが私の結論です。
夏頃には、日本のドキュメンタリーでズバリ「選挙」なる映画が上映されるようです。日本のある候補者の選挙戦を忠実に追った、ある意味実に見応えのある(笑)映画になっているのではないでしょうか?この映画は日本人として、やはり観なければならない一本になるのではないでしょうか?そして世界のたくさんの人に観ていただかなくてはなりません。きっと世界中から{ありえない}とか{馬鹿みたい}とか言われる事でしょうね。それでいいんです。罵言雑言の数々、シャワーのように浴びようではありませんか?それが私達、お箸の国の人だものに与えられた義務に他なりません。人間の、そして社会の真実を映す鏡。それもまた映画に与えられた宿命であるならば、そこから湧きだした意見が例え塩辛いものばかりだったとしても、私達は甘んじてそれを受け止め思考を新たにするべきなのです。それが学ぶって事でしょう?
「寝ずの番」 2006 日本
監督 マキノ雅彦
主演 中井 貴一 木村 佳乃
「石の筏にのって」は、実に壮大なファンタジー映画である。
監督はあのジョルジュ・シュルイツァー。あの、と書いたのは他でもない、サイコホラー物の傑作と名高い「消失」によって世に知られる事となった監督だからだ。あまりなじみのないオランダ映画という枷もあってか、ちょっと前までは知る人ぞ知る名品と囁かれていたこの「消失」も現在ではDVDによって比較的簡単に手に入るようだ。何はともあれ喜ばしい事ではあるまいか。映画とは、その良し悪しを語る前に、まずはたくさんの人の目にふれなければならないのだから、ソフトの乱発は悪い事ばかりではない。願わくば、簡単に廃盤にする事なかれ。ここ日本では、一度廃盤になるとそれこそ山の中に埋もれてしまい二度と陽の目をみないなんて事態もざらに起こるのだからたまらない。これも乱発の弊害としての側面だ。それこそ血眼になって、いついかなる時もあらゆる方向に触手を伸ばしておかなければいかない。情報過多のこの時代、至極当然の悩みなれど、もっとお手軽にいろんな作品に出会えるといいのにねぇ。ともあれ、「消失」は観るべき価値のある作品であるわけで、手に入るうちに入手するのが吉ではないでしょうか?ほとんどSEXレスだった恋人との別れが決まると、無性にSEXしたくなるなんて経験ありませんかぁ?当たり前ですけど、そういう時にやらせてくれる人はほとんどいませんよね。失ってからしか大切なモノに気づけないのって、人類最大の宿命なんでしょうか?ウディ・アレンの名作「ギター弾きの恋」などを何度も見直して、肝に銘じなくてはいけませんねぇ。もちろん自分に言ってるんですが、この自分っていうのがねぇ・・・。
ヨーロッパ圏でのヒットに伴って、アメリカでのリメイク版製作が決定する流れがありますが、「消失」もご多分に漏れずリメイクされました。キーファー・サザーランド主演の「失踪」がそれです。好みの差はあれ、作品の持つ魅力或いはパワーという点で、オリジナル(両方ともシュルイツァー自身が監督してます)には及ばないと思われます。「ヴァニラ・スカイ」が「オープン・ユア・アイズ」に遠く及ばないのに近いものがありますね。リメイクのむずかしさがここにあります。映画の出来を決めるのは偶然の産物という部分も確かにあるわけで、その意味で優れた作品には奇跡が力を添えている事を私は強く確信しています。同じ監督が同じ題材で製作した所で、絶対に同じ質の作品が出来る事はありません。特にアメリカ映画には特有の規制もしくは制限があるわけで、シュルイツァーが「失踪」において自由に羽ばたけなかったのは想像に難くないですね。ラスト辺りにその辺の迷走具合が見て取れます。当たり前の話ですが、オリジナルが素晴らしいからリメイクが作られるわけで、その分新作のハードルはとても高くなってしまいます。神は気まぐれですから、そうそう何度も振り向いてはくれません。どんなに才能が溢れた人間であったとしても、実力だけではどうしようもない部分というのが確かにあるわけです。スピルバーグがいい例です。どの作品も水準以上の作品であるにも関わらず、ぼろくそに言われる頻度も高いのは、自分で自分のハードルをとてつもなく高くしてしまった結果であるのは言うまでもありません。ホラー映画に限ってもそういう監督はたくさんいます。自分に追いつき追い越せないジレンマに悩まされる監督達がなんと多い事か。おいたわしや。それでも皆が自殺するでもなく生き続け作品を作り続けていくのは、きっと心のどこかで俺はまだやれる、傑作を作れるはずだと考えるある種傲慢な執着心という名の希望があるからだと思われます。その哀愁溢れる後姿に魅かれて応援するのがファン心理であり、その支えは時にモチベーションになり、時にプレッシャーとなるわけです。ともあれ、映画ファンとしては、どの監督にも声援は惜しみなく贈りたいものですね。褒めるべき時はこれでもかと褒めちぎってあげましょう。そしてとんでも映画には惜しみなく罵声を与えましょう。それが正しい映画鑑賞の基本姿勢であります。なおシュルイツァーには、他にも「マイセン幻影」なる収集癖に取り憑かれた男を描いた映画もあります。これも観て損のない映画ではないでしょうか?まぁ、好みにもよりますが・・・。
「石の筏にのって」の筏は、ただの筏ではありません。イベリア半島です。って言ってもピンとこない方が多いかもしれないですね。私自身、去年のスペイン旅行がなければ全然ピンと来なかったはずです。ピレネー山脈を境に、フランスとスペインの国境付近から先のヨーロッパ大陸の最西端の部分の事です。要するに、スペインとポルトガルの土地がぼっきり欧州と離れて漂流してしまうわけです。スケール的には日本沈没と大差ないのではあるまいか。にも関わらず、映画は実にのほほんと進みます。冒頭、ピレネー付近に大規模な亀裂が入るのですが、TVのニュースは{例によってアメリカの介入が決定しました。アメリカさんが何とかしてくれるでしょう}みたいな感じで、実に笑かしてくれます。かつてヨーロッパではピレネー越えたらアフリカだみたいなジョークがあったわけですが、スペインやポルトガルが近代のヨーロッパ圏でどういう立場に置かれていたのかが推測できます。とにかくアメリカの絶大な力も及ばず、イベリア半島は大西洋へと流れ始めてしまうわけです。何度も言いますが、こんなとてつもないスケールを背景に、映画はのほほんと進んじゃうわけです。凄いですねぇ。こんな状況の中、ちょっと不思議な体験をした二人の女と三人の男と犬と車と馬が織り成す話なのですが、これ面白いわ。正直、よくわからない映画といえばそうなんだけども、何か考えさせられるタイプの奥深さが魅力なんだなぁ。
この映画は、きっと多くの人の目に留まる類の作品ではないのかもしれません。それはこの映画が、傑作とか名作といわれるような作品ではないからという理由だからではないでしょう。もっと単純に作品の内容とは別の部分で、淘汰されてしまうのはとても悲しい処です。金になる邦画が隆盛を極めている昨今の日本の状況は、一人の映画ファンとしては非常に由々しく思っているわけではありますが、世界にはいろんな映画があるぞと思わせてくれる「石の筏にのって」みたいな映画が観られる幸せを一人でも多くの方と享受したいものです。
「石の筏にのって」 2002 オランダ・スペイン・ポルトガル
監督 ジョルジュ・シュルイツァー
主演 フェデリコ・ルッピ イシアル・ボリャン
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