DARK TALE OASIS

主に映像作品にふれて、思った事を書いていきます

「ジキル博士とハイド氏」を思う

ロバート・ルイス・スティーブンソンの古典ともいえる「ジキルとハイド」の物語は、一体何度映像化または舞台化されているのだろうか?日本でも丹波哲郎主演の大胆なTVドラマなんかが存在するが、きっと世界中で様々な(良くも悪くも)自由な発想の下でキワモノが製作されているのではないだろうか?その亜流と言える別作品(単純にパクリであったり、新味の要素を盛り込んだ意欲作だったり、こちらも実に百花繚乱である)も数多く、その流れは現在も途切れる事がないように思われる。それは、それほどこの小説(その内容)が魅力的である証であるに違いない。
 数ある「ジキルとハイド」物の中で、最も豪華な顔ぶれが揃うのは、1941年のアメリカ製作による「ジキル博士とハイド氏」になるのではないだろうか?何しろ監督はあのヴィクター・フレミングであり、主演はスペンサー・トレイシー。画面を彩る華として、イングリッド・バーグマンにラナ・ターナーというタイプの違う超美人が顔を揃える。アカデミー賞(この賞も色んな意味で下らない代物ではあるが)を尺度に考えても、どんだけノミネートされれば気が済むのと呆れるばかりだ。
 フレミング監督といえば大作「風と共に去りぬ」や一部の人にやたら人気のある(残念ながら、私にはその良さが今一分からない)「オズの魔法使い」の監督として特に有名であり、スケールの大きな作品を思い描く人がいるかもしれないが、「ジキル博士とハイド氏」は原作の薄さに比例するように、実に薄っぺらい作品となっている。場末の舞台劇のようだとは言い過ぎかもしれないが、どこか空回りしているのは確かではあるまいか?バーグマンにしてもトレイシーにしても、演技過剰な部分が見受けられ、作品の成功以前に自分達の表現みたいなものを重視したと勘繰られても仕方のない仕上がり。何度も言っているかもしれないが、映画における役者の使命はコマに成りきる事であるわけだから、この時点で作品が成立する前にすでに失敗作になる予兆はあったと言えるだろう。フレミングの演出がどうとかいう問題ではないのだ(役者を仕切る術がなかったというのは別にしてだが)。
 ジキル博士は人間の中に潜んでいる善と悪を分断する事が、自分の研究では可能であると自己判断を下している。ところが、世間はそんな研究は神に対する冒涜としてみている。ジキルの研究に眉間を寄せているわけだ。あいつは神にでもなったつもりか、というわけだ。そんな逆境の中、自分が実験体になる事を試み、その実験によって生み出されたハイドという人格に翻弄されていくというのが物語りの骨子であるわけだが、どうなんでしょう?ジキルが薬を飲むとハイドになると言う事は、ジキル博士というのはよっぽど自分の事を善良で天使の心を持っている人間だと思っていたと考えられるわけだ。うーん。気持ち悪い人ではないか。そしてジキルの時に偶然出会ったバーグマン扮する酒場の女に、一目ぼれしてしまったのは明らかだ。一方で婚約をした女性との愛を誓い、もう一方では酒場の女も手にいれたい。そんな欲求を、ハイドという別人格に理由づけを押し付けているのがみえみえだ。ジキル博士とは、周囲に対しては善良を装った愚劣な男である。ハイドは酒場の女を金で買い、軟禁したうえで暴力とSEXの捌け口にするわけだ。しかも、それを婚約者の不在の時にしている点も見逃せない。婚約者が帰ってくると、ハイドの件はなかった事のように全てを闇に葬り去ろうと奔走する点も、こいつは本当に善良な男なのかと勘繰りたくもなるではないか。実に破廉恥で傲慢な男。それこそがジキル博士の本性といえるのではないか?私には欲望に忠実なハイド氏よりも、誰からも好人物と見られ自らもそれを装うジキル博士の方が、よほど恐怖の対象である。ジキルとハイドという名前の由来は、ハイド・アンド・シーク(日本でいう{かくれんぼ遊びの意})から採られているのは有名な話だが、スティーブンソンが描きたかったのが、そう言った他人の中の自分が知らない部分に対する恐怖であるのは明白である。薬なんて、実はどうでもいい事なのだ。それこそ{ちんからほい}とかの魔法の言葉でもいいわけだ。他人には見せない自分の顔。誰にでもあるはずだ。付き合っている間には絶対見せない部分が、結婚して白日の下に晒され、ついには離婚に至る。先進国における離婚率の急激な上昇は、思い込みのズレからも起こっているのは間違いない。ジキルは天才であり時代の寵児なわけだが、結局は自分自身に押し潰される末路を辿っていく。それは現在の人類そのものの姿に重なりはしないだろうか?
 身近な話として、酒やドラッグに溺れる人達がいる。彼らは、ハイド氏の世界を垣間見ている存在だ。酒に酔っ払っていれば何をしても許されるのか?ドラッグでハイになり記憶をなくしていればレイプ犯罪が双方合意の上の肉体関係になるというのか?やれドッペルゲンガーだなんだと多重人格という病名が随分ともてはやされた時期があったが、そんなものに頼らずとも、人間は誰でも裏の顔を既に持っているのではないか?誰にも言えない秘密を抱えていない人が、この世の中にどれだけいるというのか?
 人間の本性とは、他人にとっては強烈な恐怖の対象になると、「ジキル博士とハイド氏」は教えてくれる。そして残念な事に、小説では必ず滅ぼされる悪の顔も、現実にはそう簡単に引き下がらない手強い存在だという事実がある。人が存在する限り、恐怖が姿を消す事はありえない。しかし、それは一種の自浄作用なのかもしれない。もしこの世から恐怖という概念が消え去ってしまったとしたら、そこには本当の恐怖の世界が存在するのかもしれない。



  「ジキル博士とハイド氏」      1941    アメリカ
 監督  ヴィクター・フレミング
 主演  スペンサー・トレイシー   イングリッド・バーグマン 


「ステルス」を思う

テクノロジーの発達が、究極的には人間の首を締める事になるというのは誰もが思い描く未来予想図だったりします。今まで人間がやっていた一つ一つの所作を、機械が全て肩代わりするようになると、人間は一体何をすればいいのでしょうか?労働意欲という以前に、労働する場所がそもそも無くなってしまうのは明らかです。金銭の流通によって社会が成り立っている現在から見ると、世の大多数が職に付けないわけですから、社会そのものの在り方がどこかで覆るのも間違いないでしょう。一般に言われている資本主義社会というのは、一人の金持ちを何百何千という貧乏人が支える事で成り立っています。金持ちというのは、貧乏人の財布の中身を吟味しながら物の値段を決めていきます。これぐらいなら出せるだろうと、必死に金勘定です。貧乏人とは、常に釈迦の掌で踊らされている孫悟空みたいなものです。日光猿軍団の爆笑ショーに手を叩いて喜んでいる私達庶民の姿を、富裕層という人達は同じ目線で見ているのでしょう。が、それも時間の問題で、金持ちと貧乏人の比率がバランスを欠いてしまった時に、一体何が起こってしまうのか?歴史を紐解くと、一つの時代がガラリと変換してしまう現象は実に頻繁に起こっているのが分かります。どんなに金持ちでもスーパーマンになるのは不可能です。そして人の生死なんて実にあっけないものです。どんなに金があろうと、死んでしまえば何の意味もありません。そして、皆が血眼になって追い求めている金という物も、ただの紙切れになる可能性を常に秘めているあやふやなものです。「日本沈没」が最近リメイクされてちょっと話題になったようですが、現実はあんなに生ぬるいものではもちろんないでしょう。もしかしたら数十年後には、日本民族が世界の特別天然記念物として絶滅を危惧され保護政策の只中にいるなんて事もあるかもしれませんね。まぁそれでも日本人はなんとかやっていくでしょう。何しろ外面だけは怖ろしくいいですから。
 最新のテクノロジーが最も活躍する場所の一つが、軍事というのは世の常であります。最近では、どこかで紛争が起こる度に新兵器が投入されて、さながらテクノロジーの見本市となっています。ソビエト連邦の崩壊によって、国家レベルでの争いは一先ず沈静化したわけですが、アメリカの新兵器開発熱は異常なまでに盛り上がりをみせています。その一端を担うのが、いわゆる無人兵器群です。空に陸に海に、バビル二世の三つの僕のように無人兵器は今日も元気に動きまわっています。「ステルス」に登場する戦闘機も、飛ばすだけなら近未来でもなんでもありません。きっと実際もうあるでしょう。願わくば実用化にはまだまだ時間をかけて欲しいものですが。忘れてはいけないのは、今一般に最新鋭兵器と呼ばれている物は、人々に知られた時点で過去の兵器だという事実です。技術は日進月歩。便利が追求されると一般に人は馬鹿になってしまうもので、それを自覚しているのか世間は脳トレ・グッズで溢れかえっています。一体どこまで効果があるのかわかりませんが・・・。大体、世の中全員が頭が良くなってしまったら、社会というのは成り立っていかないように出来ています。貧乏人は馬鹿でいいというのが、富裕層の本音なのは間違いないですから、あまり期待して金を使わない方が利口かと思われます。個人的にも、そんな事をしている暇があれば新聞を毎日隅から隅まで読んでみた方がよっぽど有意義かと考えますが。まぁ好き好きですよね。よけいなお世話でした。無人兵器がこれほど重宝されるのは、無論自国の戦死者を一人でも減らそうとする努力の賜物です。自国の死者を最小限に抑えつつ、敵国を大虐殺する方法が民主主義国家を名のる国々には絶対不可欠の条件となっています。この辺はアメリカ映画の指向性と何ら変わりがありません。映画は時代を映す鏡であると同時に、その国の国民の総意を端的にでも確実に反映するものです。アメリカ映画は実にドンパチが好きだなぁと感じたら、それは国民性の表れだと言って差し支えないでしょう。
 もはやアメリカ映画の技術は行くとこまで行った感があります。もうCG技術にも皆が慣れてしまって、「ステルス」ぐらいでは誰も驚かないに違いありません。以前、クリント・イーストウッドが出演した似たようなジェット戦闘機もの「ファイヤー・フォックス」とは比べ物にならない映像です。ロブ・コーエン程度の監督でこれだけ使えるのだから、もはや誰でもこれぐらいは朝飯前なのでしょう。アメリカという国は本当に底知れない化け物ですね。内容的には、アメリカ産大作映画にありがちな幼稚さに満ち満ちていて、特に観るべき箇所もないようです。荒唐無稽と言ってしまうと褒めすぎでしょう。私が関心したのは、アラスカの民間飛行場に主人公が降り立つ場面ですかね。アメリカという国は民間の飛行場でさえ、倉庫に溢れるほど兵器が隠されているみたいですね。軍隊と何ら変わりません。備えあれば憂いなしなんでしょうか?本当だったら立派です。後半になると、もう別の映画になっちゃっている所も、何となく微笑ましいですね。どうしても北朝鮮を出したかったのでしょうね。現実には中東近辺で手一杯なので、せめて映画の中で鬱憤晴らしといった感じで、もうやりたい放題です。この馬鹿っぷりは、やはりアメリカ映画にしか許されない特権ですね。さすが世界の警察と自画自賛してしまう国の面目躍如です。とにかくアメリカ人以外なら、ロシア人だろうとアジア人だろうと実にサクサク殺しまくってくれます。あそこまでやるには、人としてよっぽど勇気があるのでしょう。何しろ、ロシアのパイロットにしろ北朝鮮の兵隊にしろ、少なくとも映画の中では何の非もありませんからね。逆に言えば、マイケル・ムーアばりのとても自虐的な映画とも言えそうです。
 「ステルス」は、本国アメリカで大した興行成績を上げられなかったようです。この内容だから当たり前と普通なら思うのですが、ただ単にCG物に飽きちゃったとか、或いは自虐的な部分が何となく自尊心を傷つけたとか、そんなアメリカでしかあり得ないようなわけのわからん理由でコケただけなような気もしないではないです。考えようによっては、やっぱり怖ろしい国に思えて仕方ありません。クレジット後のおまけがまたねぇ。美しき自虐・・・。



  「ステルス」         2005    アメリカ
 監督  ロブ・コーエン
 主演  ジョシュ・ルーカス    ジェシカ・ピール


「ハムレット」を思う

舞台というものが、そもそも嫌いだ。映画は随分観てきた気がするが、演劇にはとんと興味がない。どうしたわけか、舞台を見ていると、身体中がむずがゆくなるのである。何か妙に落ち着きがなくなって、いてもたっても居られなくなる。そんな事を言うと、演劇好きな人がこう言った。{それは、へたくそだからだよ}なるほど。それまで私が観劇してきたものは、素人同然の若者達が立ち上げた劇団の公演に、半ば義理で観にいっていたものがほとんどだ。さもありなん。確かに映画でも、妙に居心地の悪い思いをさせられる作品がある。画面から安心感が与えられないという事だろうか?それは、イコールへたくそという捉え方も出来そうだ。けれど、随分前に「レ・ミゼラブル」という作品を帝国劇場で大枚はたいて観劇した事があるのだが、やはり私は居心地の悪い思いを少なからず感じた。「レ・ミゼラブル」といえば、かつて大変話題になった大舞台であり、その出演者がへたくそだったとは思えない。やはり慣れの問題だろうか?よくミュージカルがダメという人がいるが、私はむしろミュージカルは大好きで(無論、映画に限った話だが)ジーン・ケリーとスタンリー・ドーネンが監督した「雨に唄えば」は映画史上に残る名作として常に記憶にある。繰り返し見直した回数でも、「ゾンビ」を軽く上回っているはずだ。その他、主要なミュージカル映画は70年代以前のものはかなりの数を見ているに違いない。なんかの雑誌でミュージカル映画BEST30みたいな企画をみかけた時も、8割方既に観ていた作品だった。「レ・ミゼラブル」にしても、一曲とても好きな曲があって、そのシーンだけはなんとなく記憶に留まっている。ところが他のシーンは全く印象にない。これは今だからではなくて、実際に観終わった後そう感じたのだから始末に悪い。フランスの生んだ文豪ヴィクトル・ユーゴーの「あぁ無情」の筋くらい誰でも知っているわけだから、あらすじ自体には問題はなかったが、そうでなければ筋さえも私には理解できなかったかもしれない。とにかく演劇の舞台というものは、私の集中力を木っ端微塵に破壊する何かを孕んでいるわけだ。映画でも、演じる人間が妙に鼻につく時があって、完全にコマになっていないもどかしさに腹立ちさえ覚える俳優がいるが、そこら辺に、私の演劇嫌いの答えがあるのかもしれない。
 「ハムレット」は、言わずと知れた英国の巨人ウィリアム・シェークスピアの戯曲の一つである。かつてはあのシェークスピアにあって失敗作と評される事もあった作品だそうだが、現在では後の「オセロー」「マクベス」「リア王」等を抑えて最高傑作といわれる事も少なくないようだ。このような評価の変化はいつの時代もあるもので、例えば「スター・ウォーズ エピソード5 帝国の逆襲」は今でこそシリーズ最高傑作と言われているものの、公開当初の評価は結構低かったのではなかったか?事前に期待のかかるものほど、やみくもに否定したがる輩は評論家にもたくさんいるわけで、中には否定する事でしか自分の居場所を見つけられない不幸な人もいるようだ。げに評論家連中ほど下世話な人間もいないのではないか?作品の良し悪しは、やはり自分にしか確かめられないものに違いない。世に絶対はないのだから。実際には自分自身すら怪しいもんだが。何しろ、その時の気分によって評価なんて大きく変わるのだから。のめりこんで最初観た時は無茶苦茶面白かった映画が、後々見返して観たら全然面白く感じなかったなんて経験はもう何度もあるなぁ。あれはなんなんでしょう?人間って面白いですね。
 シェークスピア劇には、魔女やら妖精やら超自然的なものが多々出演しますが、「ハムレット」では定番の亡霊が出てきます。実の弟に毒殺されて、王の座を奪われた父・ハムレット王の亡霊が、息子・ハムレットに復讐を誓わせるというなんとも{なんだかなぁ}的物語です。当然シェークスピアですから、元の話はちゃんとあります。シェークスピア以前にも舞台として演じられていた作品のようです。他の作品もみんなそうですが、どうしてシェークスピアだけが後世に名を残しているのでしょう?シェークスピアに関しては謎が多く、実在の人物なのかどうかも怪しいという話もあるぐらいです。二十代半ばに突如として演劇界に現われ、傑作劇を連発した時代の寵児。よくよく考えたらシェークスピア自身の方が、よっぽど作品よりも魅力的に感じるのは私だけでしょうか?それはさておき、王子ハムレットにとって復讐とは何だったのでしょう。ハムレットは初登場シーンから、ふてくされています。何故なら、叔父である現王が、母と婚礼をあげるからです。先王の死から二ヶ月ほどしか経っていないのに母ものりのりなわけですから、息子としては当たり前の感情でしょう。よほどの馬鹿でない限り、父の生前から不義があったのは誰の目からも明らかなわけです。ようするに、「ハムレット」とは破廉恥な王妃・ガートルードに振り回された馬鹿男達の物語なわけです。王子ハムレットは母親に振り向いて欲しかっただけのマザコン男です。亡霊が事の真相を話した時に、ハムレットは復讐を{押し付けられた}と言っていますし、ちょっかいを出す女・オフィーリアには愛を口にしながらも、実は全く愛していないようです。後に、気がふれて入水自殺をしたオフィーリアの葬式に出くわした時も、何のショックも感じていません。気がふれた振りをしたりなんだりと、やる事なす事全て母を振り向かせるのがその理由としか思えません。あげくは現王を殺す絶好の機会も、なんだかんだ理由をつけてみすみす逃してしまうわけですから、結局はハムレットにとって亡霊となった父の望みなんて実はどうでもよかったのでしょう。
 シェークスピア悲劇の代表作ですから、結局はみんな死にます。ラストのハムレットから王から王妃までみんな死ぬ場面も、結構無理くり感満載です。シェークスピアの真髄がここに見え隠れするわけです。シェークスピア劇の本来の姿である大衆劇としての一面です。日本におけるシェークスピアの高尚感は、実際作品に触れると実に的外れな場合が多々あります。シェークスピアは本来敷居の高い物ではなく、その辺のB級映画と並べて楽しめばいいのではないでしょうか?作品に接する度に、個人的にはその思いを強くします。雑多な民衆が喜んでくれればそれでいい。そう思って作品を仕上げていたからこそ、シェークスピアは現在まで名を残しているとはいえないでしょうか?
 思い出の一つとして、かつてシェークスピア劇を観劇に行った事がありました。小さいですが、現在もある都内の割と有名な劇場です。その劇で、照明を担当していた女の子からチケットを買ったわけです。「夏の夜の夢」これまた大変有名な喜劇です。その時、私は唯一むずがゆくなる事も居心地が悪くなる事もなく、観劇を終わる事が出来ました。けれど、やっぱり筋も何も全く覚えていませんでした。何故なら、私は照明の女の子がいるライトの方角しか見ていなかったから。恋は盲目。くれぐれも、愛する人を間違えないように。愛とは時に恐怖の前触れなのですから・・・。



  「ハムレット」        1948   イギリス
 監督 ローレンス・オリヴィエ
 主演 ローレンス・オリヴィエ   ジーン・シモンズ


「太陽を盗んだ男」を思う

「原爆は誰にでも作れる。プルトニウム239を手に入れる事が出来れば」
 「太陽を盗んだ男」の主人公は、私達にそう語りかける。彼は学校の理科の教師。彼は生徒達に教科書ほったらかしに、原爆の作り方を教え続ける。生徒達は、そんな彼の授業にはまるで無関心であり、原爆製造法にも無論興味を示さない。世界のどこかで、今日も人知れず原子爆弾が製造され続けているのは現実であるのに、誰もそれを気に留めようとはしない。今日の晩御飯のおかずは何かとか、どうすれば大好きなあの娘とHできるかとか、今年のM−1の優勝者は誰かとか。とかく世の中は気にすべき事柄があり過ぎるらしい。私達は誰しも、明日出かけた先のどこかで被爆して塵と消える可能性を常に背負っているけれど、それは明日どこかの路上で一萬円札を拾う確率よりも遥かに低いと考えてしまいがちだ。本当にそうだろうか?{人が想像出来る事は、人は必ず実現出来る}最近はCMでもおなじみになったフランスの空想小説家ジュール・ヴェルヌの言葉だ。その言葉通り、かつては小説の世界だけの話だった事が、今では普通に生活の中に入り込んでいるものは少なくない。原子爆弾というかつては夢の軍事兵器だったものが開発され、もう半世紀を過ぎてしまった。一体、あの広島から、この兵器はどれだけの進歩を遂げているのだろうか?携帯電話の、わずか数年での劇的変化を目の当たりにしている私達だが、原爆に対するイメージはまるで変わっていないのは何故なんだろう?究極の破壊兵器・原爆について、私達はあまりにも知らなすぎはしないだろうか。半世紀前の生活を顧みた時、現在原爆がボウリング大の大きさで携行可能な兵器になっていないのは何故か?否、実はそうなっていないとは言い切れないのではないか?想像力は時に人を死に至らしめる力を持っているが、想像力なくして人に未来などないではないか。
 歴史は時に歪曲される運命と隣り合わせだ。日本がアメリカと戦争を起こした事で、アジア各国が列強からの独立を達成した引き金となったという漫画家がいたけれど、もし万が一日本がアメリカに勝っていたら、アジア各国は独立を勝ち取っていただろうか?日本の植民地として、今も奴隷のような生活を強いられていたかもしれないではないか。もちろん、たらればには何の意味もないが、結果をもって日本の戦争にも意味があったという理屈は正しいとは思えない。それは傲慢な考え方だ。日本人はアメリカという強大な壁を、今も越えられずに指を咥えて眺めているだけの民族だが、未来永劫にその状態が続くかどうかはまだまだ答えが出ない問題だ。自衛隊の平和的世界進出(あくまで日本国政府のみの物の見方だが)の始まりは、一体どういった目で世界から見つめられるのか?憲法改正には、一体どんな未来が続くのだろうか?その前に、日本国憲法を平和憲法と言う人がいるが、日本国民が太平洋戦争以後戦争に巻き込まれていないのに憲法が何らかの影響を与えているという人がいるのは実におかしいのではないか?日本は大戦以後、他国を攻める必要性がなかった。そしてアメリカのおかげでもあるが、他国から攻められる事もなかった。その結果、国民は戦争と無縁でいられた。ただそれだけの事に過ぎない。憲法なんてあろうとなかろうと、戦争は始まるし巻き込まれる時は巻き込まれるのは、日々のニュースを見ていれば一目瞭然ではないか。誰が好き好んで強盗にレイプされますか?親に殺されるのを望んでいる子供(或いは、その逆も)はどれだけいるのでしょう?要するに、それはただ規模が違うだけに過ぎないではないか。人類の歴史において、戦争がなかった時代などない。恐怖の時代はいつだって背中合わせだ。それが日本人には当てはまらないと言う人がいたとしたら、それこそ平和ボケだ。その日は、ある日突然やってくる。日々偶然に訪れる小さな不幸と何ら変わらない形で。その恐怖を払い落とすには、やはり見ない振りをするしかないのかもしれない。どうしても見ない振りが出来ない人は、一体どうしたらいいのだろう?ただ気が狂うに任せるしかないのだろうか?その中の一人が、個人で原爆を所持する為に奮闘したとしても、私にはそれを否定出来ない。
 あなたがもし、原爆を手にいれたとしたら、どうしますか?或いは、国民全員に一つづつ原爆を配ったとしたら、世の中はどう変わるのでしょうか?人は作ってしまった物は使わずにはいられない生き物のようです。世界が広島以降原爆の被害(小さな意味では、各種実験や製造過程において被害を被った人は間違いなく存在するはずだが)を受けていないのは、きっとそれが個人の所有物ではないという理由だけだと考えるのは、決して間違いではないはずだ。ボタンを押すのは一人でも、決断するのは一人であるとは考えずらい。が、そう、がである。もし、たった一人の人間が原爆を所持しているのと同じ状態である場合はどうなんだろう?誰もその人物に逆らえないような絶対的ピラミッド型のグループが原爆を持つという問題点は、そこにあるのではないか?アメリカやロシアが核ミサイルを発射する確率とは、桁違いの危機がそこには発生するはずだ。そして忘れてはならない事実。人は遅かれ早かれ必ず死ぬという事実。死んでしまったら何もかもお終いという事実。「太陽を盗んだ男」のラストが与えてくれる恐怖は、実に桁違いの恐怖ではないだろうか?世界のあちこちで、核兵器の問題が毎日のように取沙汰されている現在。これほど、原爆のニュースが取り上げられている時代がこれまでにあったのでしょうか?
 「原爆は誰にでも作れる。プルトニウム239を手に入れる事が出来れば」
これは限りなく真実に近い嘘だが、それはこの際問題ではない。真の恐怖は、この原爆という太陽を自宅で作り上げたジュリー演じる主人公にある。この男が原爆を作った理由は何だったのか?その目的は何だったのか?そこに示されている事実は、正に現代の私達自身に起こり始めている気持ちなのかもしれない。この映画には、真の恐怖映画の真髄が垣間見える。ちょっと長いけども。途中だれてしまうけども。時折、妙にマンガチックだけれども。音楽つまんねぇ・・・けども・・・。




  「太陽を盗んだ男」      1979      日本
 監督  長谷川  和彦
 主演  沢田 研二   菅原 文太   池上 季実子


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