名匠ロバート・ワイズ。手がけた作品に二度のオスカー受賞をもたらしたこの監督には、この言葉は少々物足りない位なのかもしれない。シェークスピアの「ロミオとジュリエット」を下地とし、その舞台をニューヨークの下町に移し、移民の若者達の魂を活写した「ウェストサイド物語」。アルプスの美しい自然の中、迫りくる侵略者の魔の手から必死の逃避行に旅立つ一家を描いた「サウンド・オブ・ミュージック」。この二本の映画は、ミュージカル映画の傑作を通り越して、映画史に名を残す功績を挙げた。それぞれバーンスタインとロジャース&ハマーシュタインというブロードウェイで一時代を築いた音楽家達に支えられつつ、舞台ではなく映画の利点を最大限に活かしたその演出は、後の映画界にも(はたまたブロードウェイにも)多大な影響をもたらしたのは間違いのないところである。けれど、ワイズの魅力はそれだけにとどまらない。「砲艦サンパウロ」や潜水艦ものの秀作「深く静かに潜行せよ」等の戦争映画の重厚感、SF映画の古典として今だに取り上げられる「地球の静止する日」や宇宙から飛来した未知の病原体の恐怖をドキュメント・タッチに描いた「アンドロメダ・・・」のサスペンス、そして輪廻転生をモチーフに正統派オカルト映画の代表作でもある「オードリー・ローズ」等、その作風の広さは賞賛に値する。そしてどれも面白いのだから驚き桃の木山椒の木である。そんなワイズの最高傑作は果たして何だろうか?「ウェストサイド物語」がその最右翼となるのは当然だろう。あの瑞々しさは尋常ではないし、ダンスの迫力も素晴らしい。物語としても、主役二人の純愛悲劇は分かっていても涙腺うるうるではないか。二人がお互いを愛おしみながら歌う「トゥナイト」は本当にいい歌だ。うん、「ウェストサイド物語」に決定。めでたしめでたし。
そんなワイズのもう一つの傑作が「たたり」である。言わずと知れたシャーリー・ジャクソンの幽霊屋敷物の傑作を、ワイズは実に見事に映像化している。幽霊屋敷は遊園地の隠れた花形アトラクションである。ディズニーランドにおいても、花形コースター群の陰でひっそりとその人気を保っている。個人的にはカリブの海賊とホーンテッド・マンションは私にとっては外せないアトラクション(最も一番好きなのはスタージェットかも)だ。コースター系が体感的に一瞬の恐怖を与えてくれるとしたら、カリブやマンションはイマジネーションに語りかけるタイプのじわじわとした恐怖を与えてくれる(ちなみに一番怖いのはスタージェットだ。乗れば分かるさ、行ったら乗ろう)。最も映像化された作品「ホーンテッド・マンション」はいただけなかった。コメディにするにしても、あれはないよね?そう思いませんか?気を取り直して・・・、映画の世界において幽霊屋敷を舞台にした映画は山ほどある。その中で敢えて有名な作品を挙げると、キューブリックの問題作「シャイニング」とマシスンの代表作を映像化したジョン・ハフの「ヘルハウス」だろうか?そして、この二作品に多大な影響を与えているのが「たたり」なのだ。「ヘルハウス」に至っては、「たたり」の再構築作品であると言えなくもないほど似通った部分を持っている。
日本でも幽霊屋敷の類はあちこちにある。夏になると、気の合った仲間と連れ立って、車で夜中にいわくつきの場所(実は多くの場所が単なる風説だが)に肝試しに出かけた思い出が、あなたにも一度はあるのではないでしょうか?湿った薄暗いトンネルのあの匂い。経営破綻の末に置き去りにされた煤けたホテル。廃墟と化してホームレスの根城になってまで残され続ける病院。そして多くの場合、血塗られた記憶が刻み込まれたと囁かれる荒んだ家屋。そこには好奇心を満たす闇がおあつらえ向きに存在し、ある物全てが人の想像を膨らませ恐怖を感じさせてくれる絶好の小道具となる。そう、幽霊屋敷とは、実はただの廃墟の一つに過ぎないのだ。そこに人間が一歩踏み込む事によって、ただの屋敷が息をしだす。その事を実に明確に再現してみせるのが、この「たたり」の恐怖の源である。
「たたり」にも恐怖を煽るお膳立ては存在する。しかし、霊なる存在はこの映画には表現されていない。観終わった後に、何の怪奇現象もなかった事に、はたと気づかされるはずだ。ただの古びた洋館があるだけだ。私達は、そこで勝手に右往左往する人間達を、ただじっと眺めているに過ぎない。それなのに、この映画が与えてくれる恐怖は尋常ではない。何故か?恐怖とは人のイマジネーションによって作り出されるものだからだ。この映画は人に対して想像する事を要求するのだ。主人公はエレノアという薄幸の女性。エレノアは子供の頃にポルターガイスト現象を体験している。それが元で、屋敷の秘密を探る博士によって選ばれた。この女性はパラノイア的性格で描かれている。そこにこの映画の全てがある。情緒不安定のエレノアが、屋敷に触発され同化していく。その過程によって、ただの古びた屋敷は幽霊屋敷として一変する事になる。ここで起こる超常現象の類は、実はエレノアによって引き起こされている未だ解明されていない人類の能力の発露なのかもしれない。エレノアというどこにでもいるような女性が、その内面で引き起こす感情の揺れを丹念に描き出す事で、モンスターや幽霊はもちろん血やバイオレンスといった視覚的小道具も一切使わずに、ここまで崇高で格調ある恐怖の世界を作り上げたワイズの手腕に脱帽するではないか。「たたり」はホラー映画の傑作の一本として、揺ぎ無い地位を確立している。そして、ホラー映画とは心理ドラマの一パターンに過ぎない事を浮き彫りにした数少ない映画だとはいえないか?
後年、パラノイアの恐怖を自身の命題とする作家リチァード・マシスンによって、「たたり」は「ヘルハウス」へと引き継がれる。そこには、ベラスコという霊が確かに存在し、エンターテインメントとしての幽霊屋敷譚の頂点を極める。けれど、真の意味での恐怖は薄れたとはいえまいか?その答えは、あなたの目でこの二本の傑作を見比べた上で判断して頂きたい。個人的には、この二本の映画は甲乙つけがたい。両方とも大好きな作品だ。そして、この二本の映画は同じ題材を描いていながら、全く別の恐怖を描いているような気がするのだが・・・。恐怖、それは実に奥が深い、実に甘美なワインにも似て、人の心を掴んで離さない麻薬のようなものではないか?
「たたり」 1963 アメリカ
監督 ロバート・ワイズ
主演 ジュリー・ハリス クレア・ブルーム
日本のみ限定でヒットする映画というのがたまにある。その代表作とも言えるのが、イギリスで製作された「小さな恋のメロディ」だ。11歳の少年と少女が、いつも一緒にいたいというその場限りの思いつきで結婚を宣言し、子供達だけで結婚式をあげるという、筋だけ言えばただそれだけの映画だ。ラストシーンで二人がトロッコに乗って旅立っていくシーンは、一部の熱狂的映画ファンの間では名シーンと呼ばれて憚らない。イギリスというお国柄を考えると、この映画は厳格でコチコチのイギリス人ならびにイギリスという国のあり方について、ユーモアをもって風刺したコメディという所なのだろう。日本人には、もちろんそんな感覚はないわけで、もっと純粋な気持ちでこの映画を可愛らしい恋愛映画として観る事が出来た。ビージーズの曲が映画によく合っていて、たわいのないシーンも音楽によって名シーンに変貌する様がよくわかる。個人的にはお金持ちの僕ちゃんと貧乏人の悪ガキの二人が、街に遊びに出かけた時の件がとても好きで、その後僕ちゃんが悪ガキの誘いを断って女の子と逃げていってしまったシーンが妙に心に残っている。友情なんてもんは、恋の前では裸で逃げ出すんだよね、そうそう、結局そんなもんですよ。人間というものは、自分の欲望に本当に素直なんだなぁ。そんなどこかノスタルジックな雰囲気を持って異国日本で愛され続けるこの映画だが、その一番の理由はやっぱりトレイシー・ハイド演じるメロディという女の子の魅力のような気がする。この映画をアイドル映画視したのは、もしかしたら日本人だけなんじゃないだろうか?何故なら、映画として観ると大した作品ではないように感じるが、アイドル映画として観るとこれは超一級品の作品といえる気がするからだ。
「タッチ」は現在大人気の長澤まさみが主演を務めている青春映画だ。ただそれだけの理由で、アイドル映画視される作品である。でもって、実際には全くもってアイドル映画の名に恥じない作品であった。アイドル映画という言葉には、駄作の匂いがついてまわる。それには最もな理由があって、そのほとんどが実際どうしようもない作品だからだ。イメージとして、もう定着してしまっているわけだ。もはやイメージを通り越してレッテルと言ってもいい。そんな逆境の中、世に放たれた「タッチ」だが、個人的には十分楽しめた。大した映画じゃないと言ってしまえば確かにそれまでだが、別段悪い所もないように思われる。私は「タッチ」に関して無知な部類に入るからだろうか?実はマンガもアニメもほとんど読んだ(見た)記憶がない。それでも大まかな筋は知っているのだから、それだけ世間一般ではチョー有名な作品なんだろうと改めて認識している。双子の兄弟と幼馴染の女の子の三角関係(実際には完璧両想いの二人と完全無欠の片思いの一人だから、かなりいびつな三角関係)を軸に、とっても青春しているお話は結構いい線いっていると今更ながら思わされた。高校野球は個人的に大嫌いなのだが、この映画では全然厭味なく受け止められた。{いやぁ、若いっていいねぇ}と、ついつい思ってしまったぐらいだ。最近観た邦画では、「リンダ リンダ リンダ」も同じような感覚で(主人公の一人の韓国人女優さんの個性にかなりの部分救われている気もするが)いいなぁ、これと思った映画だ。どっちも再見する機会があれば(まぁ、ないだろうけど)、もう一度観てみるのに全く抵抗はない。と、思ったけど「リンダ リンダ リンダ」は見るけど「タッチ」は見ないかも、といった方が正確か。この辺はきっと好き嫌いの領分かも。
双子の兄弟は、ホラーの題材にもちょくちょく使われている素材だ。双子ならではの不思議な能力なんてものが、突拍子のない事柄でも妙なリアリティを感じさせる要素を持っている所が、ありえない話を語る時に有効な手段とされるからだろう。「タッチ」にも、兄の身体に死んだ弟が憑依したと思わせるシーンがラストに存在する。もちろん、作品的にも恐怖を狙った演出ではなく、あくまで兄弟愛といったような感動を狙ったものであるが、客観的に見れば同じ事だ。憑依される側が、肯定するか否定するかの違いだけである。このお話では、双子の弟は実にいい所なしの存在として軽視されているように思われる。真面目で一つの事に一生懸命に努力して、誰からも好かれ、勉強もよく出来て、野球ではその才能を高く評価される逸材で(このあたりは私の憶測で、映画では全く描かれていないので実際にどういう設定かは不明だが、こういう点でも実に軽視されている)等、典型的な優等生タイプのキャラクターと思われる。それなのに、好きになった人には振り向いてもらえず、実は兄の方が凄い才能を持っていると勝手にコンプレックスを抱え、あげくの果てには物語の途中であっさり死んでしまうというこの扱い、実に悲劇的ではないか。映画では、この点が特にあっさりしている気がする。{みんな知ってる話だから}という製作者の甘えだろうか?この辺の不親切さが、実はこの映画の欠点かもしれない。詳しい話を全く知らない私には、人物の心の動きが唐突な気がして仕方がない。深みがないのだ。それでも割りと面白く観れたのは、青春ドラマとしての普遍的な心地よさが物語にあったといえるのではないだろうか?ありきたりなんだけど、やっぱり悪くない話ってありますよね。それで女の子が可愛いなら、映画としてはひとまず成功なのではないでしょうか?もしかしたら、長澤まさみではなく、もっと無名の同じ位可愛い娘が演じていれば、それなりに人気の出た映画なのかもしれません。あまりにも有名な話に、あまりにも有名なアイドルを持ってくるのは、ちょっと鼻について悪口の一つもいいたくなるのは、人情っていうものです。「小さな恋のメロディ」はその点で、トレイシー・ハイドがパッと出てパッと消えてしまった事が、一つの神秘性のようなものを持つのに有効だったと言えるのではないでしょうか?
日本人の特性として、何でもかんでもアイドルを取りあえず作り上げる事に躍起になっている気がします。これは映画に限った事ではありません。例えば、スケートの浅田真央人気。これによって、スケートを見る機会が増えた人がたくさん出た気がしますが、スケートそのものが人々の間に根を下ろす気はしません。これはスケートそのものよりも、人を見ているだけに過ぎないからです。これはどのスポーツにも言えるでしょう。映画にしても、いつも同じ人が主役を演じているので、作品そのものよりも人の好き嫌いが評価を決める時がないとはいえないでしょう。これは日本映画の残念な部分の一つです。TVや雑誌でいつも見ていると、やはり安っぽくなってしまうのは当然です。せめて、映画の役者は映画にしか出ない位の気位でやって欲しい気もします。それはそれとして、長澤まさみはホラー映画には出ないのでしょうか?沢尻エリカよりも、よっぽどホラー向きな気がしますが、どうなんでしょう?ま、どっちにしろ、つまらなければ酷評しますが。
「タッチ」の続編は、憑依された兄と弟の霊との葛藤を軸に、南ちゃんが奮闘する完全新作のホラー映画にしてみてはいかがでしょうか?そんなのありえないって?はいはい。そうですね。つまんないねぇ、世の中って・・・。
「タッチ」 2005 日本
監督 犬童 一心
主演 長澤 まさみ 斉藤 祥太&慶太
マスターズ・オブ・ホラーの中で、一番の異色作である「インプリント」は、個人的には全13作品中もっとも退屈な作品となってしまいました。同じ日本人としては、とても残念ですが、日本の監督になど大して興味もないだろうミック・ギャリスが、アジアからも一人入れた方がワールド・カップぽくていいじゃないという理由(単純に、JAPAN MONEY狙いとは思いたくないしなぁ)で適当に選んだ感があって、作品製作においても{あいつ言ってる事よくわかんないし、勝手にやらせときゃいいよ}的な放置プレイに徹したような所が容易に想像できてしまうのは考えすぎでしょうか?結果、アメリカ国内ではTVでの放送が見送られ(内容的に当然だろうが・・・。これは三池監督の放置プレイへの仕返しなんだろうか?それともただ単純に趣味嗜好で撮ってしまい、海外の放送コードなどまるで頭になかったという事?)、一部で劇場公開がなされただけに終わってしまったようだ。普通なら、これは大きなチャンスだし、頭のいい監督なら制約があればその中で自分の能力を遺憾なく発揮すればいいし、またそれが出来てこそのマスターなわけではないのでしょうか?そういう意味で、三池監督がマスターズ・オブ・ホラーの13人の中に選ばれてしまったのは、とても不幸な選定だった気がします。
作品的には、調子っぱずれのロマンポルノに幼稚な残虐性を振りまいたちょっと異常な作品といった感じでしょうか。恐怖はこの映画には希薄です。画面全体からあふれる(狙いなのか、たまたまそうなってしまったのか不明ですが)無国籍な感じが妙な雰囲気を出してはいますが、それが作品にプラスになっているとは思えません。この内容ならば、もっと日本の土着的な部分を突き詰める方がよいし、セリフも日本語(英語字幕)でいいのではないでしょうか?もっともこれは日本人だからそう思うという部分ですが。欧米人には、もとより日本の歴史・風俗なんて興味はないだろうし、十分に異国情緒溢れる画面だからこれでもいいのかもしれませんが。もしかしたら、この映画は日本よりも欧米の人間の方が比較的好意的に評してもらえる類の作品かもしれません。人間は実にいい加減な生き物なので、何か理解出来なかったら取りあえず褒めとこかなんて気持ちになったりしますしね。あなたの周りにもいるでしょう?よくわかんないものを、分かった振りをしてやたらに褒めちぎって悦に入ってる人。少なくとも、私の考えるホラー映画の良作には、この作品はあたりません。
日本人は根っからのエログロ好きな人種だなぁと、この作品を見ているとつくづく思わされます。そう考えてみると、例えば何とか文学賞受賞なんて作品を読んで見ると、性描写がやたら多かったりして、単なるエロ小説だろと思ってしまう事も納得させられます。要するに、作品の選者がエログロ好きなんでしょう。エログロシーンにはどうしても引き込まれてしまう人間が多いのだから、そういう作品が選ばれるのに有利なわけです。これは日本人の国民性によるところが大きく関係しているのに間違いありません。世間というものの目を気にするあまり、本性が内々にこもりがちなわけですから、自身の内面で変態性が肥大化するのはいたし方ないともいえるのでしょう。そして、人間というものはそういうひた隠しにされた個人の秘密には、無性に興味を注がれるわけです。要するに、悪趣味こそ人間の原点とも言えるのではないでしょうか?そして、日本人ほど性に関して貪欲な人種はいないのでしょう。それは、都会に蔓延る風俗店のヴァラエティに富んだ営業内容に、如実に反映されています。一部の外国の好き物達から、日本は性のディズニーランドと思われても仕方のない現実がそこにはあります。売春は世界最古の職業であるといわれる通り、個人的にはそういう事があるのはごく普通の事と考えています。そもそもが必要悪から生まれたものなのだから、それをつべこべ言うのはナンセンスなのかもしれません。売春が禁じられた国に、ソープランドという世界に誇れる売春宿が大手を奮って存在しているという事実も、国がそれを必要悪と認識している好例でしょう。モータウン・ミュージックを代表するダイアナ・ロス&シュープリームスの名曲の一つに{恋愛はGIVE AND TAKEのゲームなんだから}という歌詞がありますが、ここ日本では性そのものが GIVE AND TAKE のゲームになっているわけです。実際問題として、世の中には所謂風俗店で勤務している女性でなくとも、性をゲーム化している女性はたくさんいるのではないでしょうか?よく{男はすぐ浮気する}とか文句を言われ非難されたりするものですが、私に言わせれば{浮気に男も女も関係ない}と言いたいですね。実際、浮気をした事がないと言い切れる女性は、どれだけいるのでしょうか?要するに、そういう行為に走る機会が、多いか少ないかの問題だけの気がするんですけど?結論からいえば、{浮気しない人間などいない}というのが正解ではないか(残念ながら、したくても出来ない人も存在するのは、どうしようもない事実だが)?まぁ、私は浮気しないですけど(笑)いや、本当に(笑)あっ、したくても出来ない方だからだって、ほっといてくれまいか(怒)
「インプリント」には、日本人としての全うなエログロ精神はきっちりと反映されています。私は「オーディション」以外の他の三池作品を観た記憶がないのであくまで憶測ですが、この映画は単なる監督の個人的趣味な気がします。女を縛って拷問にかけるのが、三度の飯より好きなんでしょう。人の趣味をとやかく言う気には、私にはなれません。そういう興味が全くないかと問われれば、ちょっと返答に困りますし・・・。少なくとも、そういう本が目の前にあって、他に何もする事がなければまず見ちゃうだろうし。胸もほんの少しドギマギしちゃったりなんかして。それはそれとして、だからこそこの映画はマスターズ・オブ・ホラーにおいて異色なわけです。だって恐怖を描こうとしてないんだから。人間をしっかり描く事でしか、本物のホラー映画を描く事など出来ないと、改めて感じ入った次第であります。「インプリント」。好きな人はどうぞ。私は街に出て、気持ちよくなるほうがいいかな・・・。
「インプリント ぼっけえ、きょうてえ」 2005 アメリカ
監督 三池 崇史
主演 ビリー・ドラゴ 工藤 夕貴
ミック・ギャリスがマスターズ・オブ・ホラーの一遍に選んだ題材は、「トワイライト・ゾーン」タイプの恐怖を描いた作品だ。ある日、突然他人の眼を通してその人の生活を垣間見てしまう男の話である。一種のパラノイア状態を、より超常現象よりに描いていく手法だ。主人公は離婚したばかりの中年男。突然訪れた孤独へのストレスと不安、愛する息子が手元から奪われた寂寥感、そしてまだ若い人間なら当然ついてまわる解消されない性的欲求の処理問題は、男女問わず誰もが少なからず経験として理解しているはずだ。自分の中に他人の五感が入り込み、見知らぬ場所を見せられていくなんて、何とも不思議で驚きである。わけがわからない現象に不安が押し寄せ、言い知れぬ恐怖感に支配されるのは当然なのだが、それと同時に別の感情が湧き上がるのは見ていて{そうかもね}と思わせるに十分な説得力がある。それは好奇心である。自分が見ているのは一体なんなんだろう?夢の類なのか、現実にどこかに存在しているものなのか、或いは完全に頭が狂ったか?この作品の主人公の男が見る{他人の眼}は、女性だから尚更興味が湧いたのは想像に難くない。しかも、鏡に映る女性は美人だ。それだけでも話は進めるのだろうが、そこはホラー映画の世界。この主人公は五感全てをいわば乗っ取られた状態で、女としてSEXを体験し、尚且つシャワーで自慰にふける女に同化して{いっちゃたり}する。この辺のくだりを悪趣味と感じるかどうかは個人差があるのではあるまいか?少なくとも表向きにはね。不安で怖ろしい現象が、いつしか待ち遠しい現象になっていく動機づけとして、SEXが使われるのは手っ取り早くて分かりやすいのは言うまでもない。それは人間の本能だから仕方がありませんねぇというわけだ。
「チョコレート」を見ていて、頭に浮かんだのはドラッグの存在だ。一言でドラッグといっても種類はいろいろある。MDMAに代表される幻覚剤から、大麻草、コカイン等のアップ系に、LSD、そして日本では麻薬の王様とも言えるアンフェタミン。作用持続時間は短かったり長かったりまちまちだが、それぞれ多幸感や浮遊感といった普通では感じられない感覚を手軽に味わう事が出来、感覚が敏感になる事で性的快感が強まったりするものもある、というか、らしい・・・。皆、知っていつつも何故か無視してしまうようだが、その快感の代償はとてつもなく大きいのではないか?願わくば、一生目に触れずにいられれば、それにこしたことはない代物であるのは間違いない。一時期、街角の特大ヴィジョンなんかで、{ダメ、絶対!}なんてCMがよく流されていたのを思い出すと、実はドラッグとは無縁の生活を送っている人達が思っているよりも、遥かにこれらの代物は流通しているのかも知れない。なるほど、そう言えば、金八先生の所の生徒さんにも、溺れてしまった中学生が描かれていた。もし、あなたがそれらを目の前にした時、どれだけの人が好奇心に贖う術を持ちえているのだろうか?コカインや覚醒剤にはNOといえるが、マリファナならいいかなって思っている人はいないといえるのだろうか?だめだと心で分かっていたとしても、実際に体験してみないと人間というのは分からない悲しい生き物だ。とても怖い現実がそこにはある。
もともとアンフェタミン或いはメタアンフェタミン=覚醒剤は、軍事用に使われていたものだ。2、3日の睡眠を不要にし、とにかく元気になるという理由で。戦後は有力製薬会社から「ヒロポン」という名前で販売されていたという事実も結構知られているはずだ。日本では1951年に麻薬と指定され、一切の製造が禁止された。それにはもちろん理由があるわけで、濫用者が急増して社会問題になりはじめた(或いは、なっていた)からだ。これぐらいの予備知識は日本人なら誰でも知っていなければいけないはずだが、実際にはどうなのだろう?日本人はもう少し自らの恥部をさらけ出す必要があるのではないだろうか?それが悪いと断定するのであれば、もっと詳しく忠実に社会一般に分かりやすく積極的に情報を開示するべきではないのか?口先だけでダメというのが、この国では多すぎる気がするのは私だけだろうか?正しく知識として全ての国民に知らしめる事が、一番の解決策への近道と思うのだが、政府は参議院選挙への対策で猫の手も借りたい程忙しいようだ。幾人かの大臣達の素っ頓狂ぶりには、一国民としてはもう笑うしかない。美しい国と叫ぶその陰で、国民達は深く静かに汚されていくのだとしたら、これ程怖ろしい話もないと思うのだが。残念ながら、覚醒剤はその製造法が難しいものではないために、アジア各国に広まってしまった。その製造理由が金稼ぎであるのも知れたこと。金の為に死ななくて済んだ人が、ここにも確かに存在している。
「チョコレート」は欲求を抑えきれずに、自らの快楽を追い求めて自滅していく男の悲しい物語である。その恐ろしさは、私達により身近なホラーを味合わせてくれるものだ。ホラー映画が提示する命題の、一つの姿がここにはある。マスターズ・オブ・ホラーがビジネスとしても、楽しいイベントとしても成功を収めたというのであれば、この作品もまた一役買ったのはどうやら間違いがないようだ。
「チョコレート」 2005 アメリカ
監督 ミック・ギャリス
主演 ヘンリー・トーマス マット・フルーワー
ハワード・フィリップス・ラブクラフトの名前は、恐怖の世界に殿堂入りを果たした数少ない一人であろう。彼の創造した恐怖の世界は、その死後になってオーガスト・ダーレスやロバート・ブロック等の信奉者達によって、ようやく幅広く世間一般に知られる所となった。ラブクラフトは太古からの恐るべき怪物と現代の科学とを微妙に寄り合わす現実主義の手法を好み、エドガー・アラン・ポーとは全く違う独自の恐怖小説の形を世に示した。現代のモダン・ホラーと呼ばれる作品にも、少なからず影響を与えているのはもはや常識だ。その特徴の一つとして、それぞれ独立した作品にも関わらず、相互が微妙にリンクするキーワードが数多く登場するのも魅力の一つになっている。その代表が、魔道書「ネクロノミコン」という書物の存在だ。紀元730年に執筆されたとされるこの暗黒の書物にも、真実味を帯びた歴史が形成され、小説作品以外の小道具に関してもきっちりと検証を試みるあたりに、ラブクラフトの性格が表れているようで面白い。まるで「指輪物語」執筆のために、ホビット族とその世界の歴史をきっちりと作り上げたJ.R.R.トールキンを彷彿とさせるが、独自の世界を緻密に創造するのは、自分自身がその世界の絶対神として君臨する愉しみを享受する至福の時間を与えてくれた事だろう。そして、その愉しみは現在私達の元へと届けられ、新たな恐怖史が脈々と語り継がれていくわけだ。もはやラブクラフトの世界が尽き果てる事は、人類が滅亡するまでないとはいえないか?その先鋒を担ぐべく、ラブクラフトにこだわる一人の映画監督がスチュアート・ゴードンである。
マスターズ・オブ・ホラーの一遍にラブクラフトを導入するというアイデアは、ミック・ギャリスにはなかったのではあるまいか?13人の監督の一人に指名されたゴードンが、以前から温めていた企画をギャリスに提示したと考える方が賢明な気がする。デビュー作「ゾンバイオ/死霊のしたたり」(相も変わらず酷い邦題ですが)から次作「フロム・ビヨンド」とラブクラフトの名前を冠した作品で、それはそれは好き勝手やってくれたゴードンは、その後ホラーから離れて失速。ポーの名作をこれまた好き勝手に作り上げた「ペンデュラム 悪魔のふりこ」や、「キャッスル・フリーク」(この映画はフルチンの怪人が、ぼかしを伴って恐怖と笑いをふりまいてくれるので好き物の人達にはある意味たまらない映画と言えるのではないか?)で、猪突猛進型の本来の手腕を見せてくれてはいるが、やはり監督デビュー当時(といっても38歳デビューだが)の馬鹿パワーには遠く及ばなかった。新世紀を迎えて、やはりラブクラフトの「DAGON」を発表、そして今回のマスターズへの参加で、ゴードンの時は熟した感がある。「魔女の棲む館」は、現在の所ゴードンの最高傑作といえるのではないだろうか?これはマスターズの光明の一つだ。限られた予算に、制約の厳しさ、そして極めつけの時間制限。この三つが全ていい方向に向いた好例となる。何よりもゴードンのゴードンたる不必要な部分をいみじくも削ぎ落とす事が、作品の完成度を上げたのは何とも皮肉な結果だ。最もラブクラフトに近く(熱狂的ラブクラフト信者には批判をかいそうだが)最もゴードン作品から離れる事によって・・・。これが今後よい方向に向けば、ゴードンはこれからが楽しみな監督になるというのは言い過ぎだろうか?どうせならTVを媒体にして、ラブクラフト全集でもやったらいいんじゃないかな?まぁ、そんな好き物のプロデューサーを見つけるのは、今のTV界では限りなく不可能だろうけれど。ようするにそれぐらい思っても不思議でないほど、「魔女の棲む館」はまともな作品だったというわけだ。個人的には、ラブクラフトの原作よりも(またまた怒られちゃうかな)こっちの方が私は面白かった。
ラブクラフトといえば、最近書店にて創元推理文庫版のラブクラフト全集の7巻が出ていたのでびっくりしたのを思い出す。知らない人には何のことやらだろうが、この文庫版全集・1巻が出版されたのは1974年の事だ。私は古書店にて一冊づつ購入していたわけだが、6巻だけは定価で購入した。それが1989年の事だ。もう一昔前ではないか。それからというもの、7巻は一体いつ出るのやらと数年はぼんやり頭の片隅に置きつつ書店による度に思い出していたのだが、最近ではすっかりその存在さえ忘れていた。それが出ていたのだ。裏を見ると、これが2005年初版らしい。30年かかって全集が完成したという事か。この空白の15年に、どんなドラマが隠されているのでしょうか?ラブクラフトが生前に発売した著書(作品ではなく、一冊の本として。作品は主に「ウィアード・テールズ」のようなパルプ雑誌に掲載された)は、信奉者の一人が自費で製作した短編集ただ一作だけだったとも言われているが、この人の作品を発表するのには何か呪いのようなものがかけられているのでしょうか?とにかく全集完成おめでとうございます。とかいいつつ、私はまだ7巻を購入していないのですが。何故って?うーん、何ででしょうね。時が熟してないとしか・・・。
「魔女の棲む館」 2005 アメリカ
監督 スチュアート・ゴードン
主演 エズラ・ゴッテン スーザン・ベイン
「デスレース2000年」は、とんでもがらくた映画の代表作ともいえる一本だ。実にくだらない映画だ。主人公の名前から、車のデザインから、へんてこなレース・ルールから、とにかく何から何まで幼稚でみすぼらしい。こういう映画は得てして熱狂的支持者を生み、カルト的な人気を博す事がままある。サブカル好みとでも言おうか、とにかく人が認めない作品を褒めて褒めてほめ倒して、悦に入る変わった人達の格好の標的である。近年リメイクの話も持ち上がったほどだが、流れたようで以後音沙汰がない。まずは胸をほっと撫で下ろしておこう。この作品をリメイクする必要はさらさらないし、このとんでもなさを再生産するのはまず不可能だ。
70年代といえば、LOVE&PEACEの幻想を貪りつくし、ベトナム戦争の泥沼化にやっとの思いで終止符を打った疲弊したアメリカという印象がある。けれどこと映画の世界ではアメリカは非常に力を持った時代だ。一般に60年代の映画好きはヨーロッパの映画を好み、70年代の映画好きはアメリカ映画を好むと言われている。それ以降、世界の映画がアメリカを中心に回り始めたのは、今更言うべき事でもないだろう。その先鞭をつけたのがアメリカン・ニュー・シネマと呼ばれた作品群だ。これはこの時期、アメリカ映画協会がプロダクション・コードを緩めたのと強烈にリンクする。アメリカにおいて映画というものが、より自由度を増した結果、大手撮影所中心のそれまでの形態と違い、ハリウッドの撮影所出身者以外の人間が映画製作をスムーズに進められる土台が出来たという事だ。
アメリカン・ニュー・シネマには明確な定義はないように思われる。アーサー・ペンの名作「俺達に明日はない」から始まって、「卒業」「真夜中のカーボーイ」「イージー・ライダー」「明日に向かって撃て!」等々、映画ファンを自称する人間が見ていないはずがない幾多の優れた作品がニュー・シネマという括りで語られたが、そこに一貫した繋がりは感じられない。アンチ・ヒーローの台頭、暴力やSEXのあからさまな表現の肥大、ポピュラー・ミュージック・シーンとの連動など、キーワード的に共通項が見出せるだけだ。だが確実に言えるのは、映画がより身近に社会の様々な小さな世界と接点を持ち出したという事ではないだろうか?表現の自由が拡大された事により、少数意見が取り上げられるようになったと言ってもいい。でなければ、「ゴッドファーザー」や「スター・ウォーズ」、「悪魔のいけにえ」、「タクシー・ドライバー」に「ディア・ハンター」といった映画史に残すべき作品も生まれ得なかった可能性は否定出来ない。
そんな混迷と光明がないまぜになった時代にこそ、「デスレース2000年」が産み落とされる余地があったというのが重要だ。この映画の土台は、我が国のアニメーションである「マッハGO!GO!GO!」のような低年齢層向けと思われる素材を、いい大人が面白がって作り上げたものと言っては言い過ぎだろうか?この時期から、大人が本気になって子供のおもちゃを取り上げにかかったのだ。ごてごてと飾り立てた悪趣味な造形の車によるアメリカ縦断レース。ドライバーもこてこてのキャラクターで決まり。この頃の近未来といえば定番の、管理・抑圧された無能の集団が織り成す社会。それに反抗する事のみを生きがいとする奇妙なレジスタンス集団の存在。極めつけは、レース中に殺人を冒すことで得点が加算されるというわけのわからないルール。とても非常識でリアリティの欠片もないこの映画が製作されたのは奇跡に等しい。しかし、忘れてはいけないのは、こうした映画の存在が次の新しい作品誕生への布石となるという歴然とした事実だ。
もう一度繰り返して言わせてもらうと、私のこの映画の感想は{実にくだらない映画だ}という言葉に尽きる。そして、苦々しくも私はこの映画が割りと好きだったりもする。この映画が描くアメリカという国の姿は極端に誇張されてはいるが、間違いなく現在も脈々と受け継がれるアメリカ合衆国の真実の一端を正確に表している。「デスレース2000年」はアメリカでしか生まれる余地のない、或いはアメリカにしか作れない類の映画である事は間違いない。アメリカという国は、自らの恥部をあっけらかんと世界に発信する勇気(笑)と破天荒で無考の明るさを伝統的に堅持しているわけのわからない国だ。しかし、だからこそ自由の国という異名を大上段に構えられる現在唯一の国家なのかもしれない。自由の国アメリカがこの惑星の警察を名乗って久しいが、世界はますます混沌とした闇に覆われていくようにも見える。その事に大して一番無関心なのは、きっと警察を名のるアメリカという国であるという事実。「デスレース2000年」を観ると、それも仕方のない事だとついつい納得してしまうではないか。それなのに、どうしてどうして妙に頬が緩んでしまうのはなんなんでしょう。この子供じみた映画に何か魅かれるものが存在するようだ。それは何か?その答えは、現実のアメリカ合衆国が答えてくれているのではないでしょうか?違いますか?
「デスレース2000年」 1976 アメリカ
監督 ポール・バーテル
主演 デヴィット・キャラダイン シルベスター・スタローン
スペインといえば、イタリアと並ぶ欧州圏のホラー大国であるのは周知の事実。その自由奔放なお国柄か、ぐちゃぐちゃげろげろ映画も数多いが、じっくりと落ち着いた恐怖を演出する監督も確かに存在する。マスターズ・オブ・ホラーが本国アメリカにおいてまずまずの成果を上げたのを受けて、スペインで同じようなプロジェクトが旗揚げされた事に驚くホラー・ファンなど、まずいないだろう。私達が驚いたのは、そのプロジェクトを監修したのが、ナルシソ・イバニエス・セルラドールであった事ではないか?
セルラドールの名前を聞いて、ピンと来る人はあまりいないかも知れない。私自身「象牙色のアイドル」と「ザ・チャイルド」の70年代に製作された二本の映画しか観た事がないし、他に作品があるのかどうかの情報すらない。しかし、この二本の映画には何ともいえず味があるのだ。うまいんだか、へたくそなのか確定すら許さない荒削りな演出が、どういうわけだか癖になる所がある。特に「ザ・チャイルド」(邦題はザ・子供だが、正確にはチルドレンではないか?)は、劇場公開後TV放映を数回(偉大なりテレビ東京)されたきり暗黒の谷底に押しやられて、知る人ぞ知る幻の作品として崇め奉られた逸品であった。見終わった後の不快感という点では、この作品を超える映画などないかもしれない。この映画がトラウマになった人も絶対いるはずだ。私自身、幼い頃にTVで観て以来、題名や内容は忘れても、幾つかのシーンはふとした瞬間にぽろっと顔を覗かせたものだ。あぁこんな映画あったなぁ。あれ何だったけなぁ。そう思いながら年齢だけを重ね、数年前に再見した時の感動はそうそう忘れられるものではない体験だった。何故か?普通、こうした古い記憶の断片しか残っていないものというのは、過剰に美化してしまうものだからだ。こういった記憶の片隅におぼろげながら残っていた映画を、後々再見するという機会は私には幾つもあった。が、どうしたわけか見終わった後にがっかりするケースがほとんどだった。シーンとして素晴らしい物を持ちながら、映画全体としてはどうしようもない凡作だったり、或いは勝手に忘れ去られた部分を創作していて実際はもっと単純で味気ない作品だったり、理由は様々だ。けれど「ザ・チャイルド」は、私の想像(忘れた記憶の辻褄合わせの作業)を超えこそすれ劣ってなどいなかった。傑作かどうかは観る人それぞれの判断に委ねるしかないが、私にとってはもう忘れようもない一本となった。とても怖ろしい映画だ。そして、どうしようもなく不愉快な映画だ。不条理という言葉があるが、この映画が示しているのはむしろその逆だ。因果応報。それが最悪の状況で行われてしまう可能性があるという事を、あっけらかんと提示した映画である。この映画の素晴らしい点は、現在においてもその主題がそのまま通用してしまう恐ろしさにある。もしかしたら、現在上映された方がしっくり来てしまうのかもしれない。これ以上は語る必要もないだろう。映画好きを自称するあなたなら、もう既にレンタルビデオ店に或いはショップに駆け出しているかもしれない。その価値は十分にあるだろう(もちろん絶対ではないが・・・)。
「ザ・チャイルド」には、派手な怪物も生ける屍も登場しない。ごく普通の旅行者とごく普通の田舎の子供達が織り成す、ちょっと不思議で不気味悪い世界の話だ。今回取り上げた「スパニッシュ・ホラー・プロジェクト 産婦人科」もまたしかり。プロテスタント中心のキリスト教自体が形骸化しつつある自由の国アメリカのホラー・プロジェクトとは、似ても似つかないホラーがここにはある。古い町並みに陰鬱な色彩感覚は、まさにヨーロッパの空気を感じさせてくれるものだ。セルラドールの演出は随分と達者になってしまったような気がする。安心して観れる反面、独特のアンバランス感はもはやない。所々、ホラーらしい怪しい雰囲気を漂わせているも、流して観てしまえばこれってホラーなの?と疑心暗鬼になってしまう人もいるかもしれない。しかし、ホラーとは本来視覚で感じる感覚ではないはずだ。内臓ぐちゃぐちゃやおどろおどろしいモンスターにオエッとなる事はあっても、それ自体に恐怖を感じるのは不自然だ。仮に恐怖を感じたとしても、それは幼稚な低レベルのホラーに過ぎないのではないか?ただし、この作品に関しては、私もいまいち感を覚えた。これはまたしても因果応報の物語だが、どうにも焦点の定まらない気持ちを抑えきれない。もしかしたら、日本人には分かりずらい類の話なのかもしれない。ピンとこないという、あれだ。そういう事は得てしてあるのだから、その事に文句を言っても仕方あるまい。ただセルラドールは元気に生きていた。その事実で、とりあえず私は満腹だ。生きているというのは、単純だがもの凄く重要な事だ。生きていればまた傑作や名作を作り出す機会を得る可能性が残されているのだから。かの恐怖の帝王アルフレッド・ヒッチコックでさえ、死んでしまった今となっては新作を生み出す機会は訪れるべくもない。そんなの当たり前だって?そうだろうか?そうなのかもしれないし、そうではないかもしれないではないか?世の全ての事柄を知り尽くしているという考えは、人間のいつもの、そして最大の傲慢であると、歴史は常に教えてくれてきたのではなかったか?やられたらやりかえす。やられる前にやれ。わけわかんないけど、とりあえずやっとけ。これ全て人間の所業である。
「スパニッシュ・ホラー・プロジェクト 産婦人科」 2006 スペイン
監督 ナルシソ・イバニエス・セルラドール
主演 ニエベ・デ・メディーナ モンセ・モスタサ
マスターズ・オブ・ホラーは言って見れば、ホラー映画の料理の鉄人である。13人のノートリアスな監督が各々の得意分野で腕を揮っている。事前に企画立案者的なミック・ギャリスが中心になって、ホラー映画の枠の中で重なりがないように調整がきっちりなされている事も窺える。その為、一種の博覧会的要素も備えているのが楽しい。{君が「ハロウィーン」で行くなら、僕は「サスペリア」でやらせてもらうよ}なんて会話が聞こえてきそうだ。現在、進行中のマスターズ・オブ・ホラー2はどうなのだろう?13ものパターンを既に使い切ってしまっているわけで、更なる細分化を余儀なくされてしまうのは必須だ。それはよりマニアックになっていく事を意味するわけで、愉しみでもあるがクズが量産される可能性も否定出来ない。少なくともホラーに免疫のない人達には、いささか厳しいものになるのではないか?監督の顔ぶれも今回よりも華やかさがなくなる事だろう。フーパー、ランディス、カーペンター、アルジェントと、現役のスーパー・エキスパートは使い切ってしまっている感は否めない。残されたビッグ・ネームは、ブライアン・デ・パルマやウェス・クレイブン、クライブ・バーカー、サム・ライミといった面々だろうが、当然参加はしないに違いない。どうせなら、スティーブン・スピルバーグやジェームス・キャメロン、リドリースコット、デビッド・リンチ、ピーター・ジャクソンにロマン・ポランスキー、そしてデビット・クローネンバーグなんかが参加したら、それは盛り上がるだろうにねぇ。ビジネスとしてどうかというより、ミック・ギャリスにそれを期待するのは荷がかちすぎるのは明らかなわけで。損得抜きにしたら、みんな好きなんだろうけどねぇ。ハイリスク、ローリターンであるのは間違いがないわけで、それ以上にみな既に老人に身体半分突っ込んでいるのがネックではあるよね。冒険に出る資格を有するのは、常に子供である。老人は自分の作った城に閉じこもって(場合によっては他人の作ったホームに無理矢理押し込められて)出てこないのが通例であるし、ビッグネームとなれば高い高い山の頂にいるわけであるから、尚更わざわざ魑魅魍魎とした下界に降りてくるのは正直しんどいのは想像に難くない。2に私達が期待するのはむしろ、無名の若手のとんでもない怪作に出くわす可能性にあるわけだ。そして、それこそがホラー映画に魅了された人々が真に望んでいる事なのかもしれない。そうではないか?何故、こうも裏切られ続けぼろぼろになりながらもホラー映画を見続けるのかと問われれば、ぎらぎらと光り輝くだろうエルドラドの誕生に、誰よりも早く遭遇出来る可能性がホラー映画にはあるのだと、私は断言するだろう。
ラリー・コーエンもまた、懐かしいという形容詞が似合う監督になってしまった。「刑事コロンボ」の数編などでも名を知られている人だが、監督よりもむしろ脚本家としての方が作品数は多いのではあるまいか?最近では「フォーンブース」という控えめに面白い作品の脚本を著している。監督としての代表作はもちろん「悪魔の赤ちゃん」シリーズ。他に一体何があるというのか?「ザ・スタッフ」や「空の大怪獣Q」を知っている人が一体どれだけいるのでしょう?オーソドックスではあるが手堅い監督であるが、華がないのが玉に瑕で、そのせいか日本での知名度は結構低いと思われますがどうなんでしょう?日本の興行主の目がふし穴なのか、或いは優れた目利きなのかは各人の判断に委ねるのが正しい物の見方ですか?まぁ、いいや。
「ハンティング」の面白みは、主人公がアンチ・ヒーローであり、尚且つ二人である部分といえるのではないだろうか。一人は大型トラックの運転手でヒッチハイカーを引き込んで殺るのが(あまり良い表現ではありませんが)流儀の人狩り熟練者であり、もう一人は逆にヒッチハイクをして乗せてもらって殺るのが(すいません。下品で)流儀の若手人狩り新参者というこの設定が、(多分本編よりも)面白いわけです。この二人が共通の獲物(残念ながらあまり美しくない女性ですが)に狙いを定めて、さてどうなるか?って、ここだけ読むとかなり面白そうではないか?実際には大したフックも飛躍もなく進んでしまうので、かなり良心的な猟奇映画といった評価になってしまうのが残念ですね。まぁそれがコーエン的とも言えるし、コーエンが結局超える事のなかった壁でもあります。ラストのオチも、トワイライト・ゾーンみたい(それもロッド・サーリング脚本のどうでもいい類のそれ)で、好きな人は{そう来たか}とにこやかに微笑む余裕を見せるのでしょうが、そうでない人には{はぁぁぁ?}ではないでしょうか?短いので主人公達のバックグラウンドが見えにくい(想像力がある人は別かも?)部分が作品に深みを与えられなかったのが残念な所でしょうか?二人が奪い合う獲物に魅力のかけらもないのが決定的マイナス点であるのは間違いありません。現実のリアルさと映画のリアルさとは全く別の物であるというのに・・・。そんな事ラリー・コーエンのようなベテランなら重々承知なはず(なんだけど)。とにかく、もっと面白くなる可能性があったという点では、マスターズ13篇の中では飛びぬけている気がしてなりません。まぁ、それもまたコーエンっぽいという言い方も出来るのがまた真実なんでしょう。
それにしても、このヒッチハイクという文化が、私にはどうもピンと来ないですね。昔、猿岩石なる芸人コンビがユーラシア大陸をヒッチハイクで横断してましたが、個人的にはもの凄く非日常的でどうにも興味が湧かなかった記憶があります。もちろん、そういう非日常への憧れという物は確実にあって、それが日本人の心を捉えたという言い方も出来るのでしょうが。「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズの異常な盛り上がりに、ファンタジー好き日本人の姿を思い知らされましたが、みなさんやはりヒッチハイクに憧れたりするんでしょうか?私には{ありえない}ですね。どうして乗れるの?理解出来ません。私が興味があるのはむしろ、島国の単民族であり向こう三軒両隣りみんな知り合いみたいな顔をして歴史を生きてきたこの日本で、どうしてヒッチハイクのような文化が生まれなかったのかという点ですね。外面ばっかりいい日本人の、真実の姿がそこに見え隠れしているような気がしませんか?
「ハンティング」 2005 アメリカ
監督 ラリー・コーエン
主演 マイケル・モリアーティ ローレン・ランドン
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