
「デスペレーション」は、スティーブン・キングが1994末から1995末までのおよそ一年間を通じて著された作品である。廃坑となっていた炭鉱場の再開発によって、地中深くに眠っていた邪悪な何かが甦って、デスペレーション=絶望という街を舞台に繰り広げられる恐怖を描いた物語だ。筋だけを拾い上げると、大して興味を惹かれないかもしれない。しかし、キングの作品はいつもそうだ。物語の再生産がキングの術であり、キングという作家の能力は別の所にある。キングといえば、その著作の分厚さが有名だ。読書に慣れていない人には、それだけで致命的な障害になる。けれど、キングは圧倒的なベストセラー作家の地位にしがみつき続ける。何故か?理由は簡単だ。面白いから。神がかり的な観察眼と緻密に書き込まれる文章の妙、誰にでもごく身近な物(歯磨き粉だったり、キャンディーだったり、何でも)をこれでもかと書き込む事によるリアリティの追求、誰でも一度は触れたはずの懐かしい秘密と愉しみの復活。細かな長所を幾ら並べ立てた所で、面白いという一言に勝る理由などあるはずもない。キングはもしかしたら、世界で一番人々に読まれた作家かもしれない。それは最も愛された作家という称号に等しい。それは何故か?ホラーを題材にして怖ろしいほど怖いからか?私はそうは思わない。キングの作品を読んで、心底震え上がった経験など私にはない。繰り返しになるが、ただ面白いから読むのだ。面白いから大多数に受け入れられた。ホラーの帝王という称号は実は眉唾だ。エンタテインメントの帝王。こちらの方がよほど似つかわしいではないか?キングにとってホラーは化粧のようなものだ。その核は善と悪の戦いであり、突き詰めれば人間を描いているに他ならない。人間の心の奥底に潜んでいる光と闇を描き続ける作家。それがスティーブン・キングだ。
絶望とは、誰の心にも棲みついている深く暗い終わりのないトンネルだ。百人の人間がいれば、百の絶望がある。そこから逃げ出す道があるとすれば、究極的には死しかない。死んじまったらおしめぇよ。全くその通り。死によって個人的な痛みや悲しみは消え去るだろう。けれど、それには大きな代償もついてまわる。喜びや楽しみであるのは言うまでもない。それらは生きていなければ絶対に手に入らないものだ。人はそこに価値を見出す事によって生きている。希望と言ってもいい。たくさんの人が死に、邪悪の何かが強大な力を持っていたとしても、物語では大抵誰かが生き残る。これは私達人類と全く同じプロセスだ。日々、たくさんの人が死んでいる。一方で生きようと努力を続ける人がいるのも間違いない。「デスペレーション」の中でキングが何度も何度もしつこく書き続ける言葉。{神は残酷、人生は試練}この言葉に絶望を感じる人もいるかもしれない。けれど、小説を読んでもらえば、キングの言いたい事が実はその逆である事が分かるはずだ。敢えて逆の事を描ききる事で、一つの事柄を浮き彫りにさせるのは、小説でも映画でももはやありふれたやり方だ(無論、それが成功するしないはまた別の話である)。キングは見事にそれをやってのけた。「デスペレーション」とは、実は希望という意味なのだ。
この小説にはキリスト教の言葉が溢れている。キングは熱心なキリスト教徒なのだろうか?私にはそうは思えない。信仰心はあるだろう。それは誰の心にもある。私は無宗教だが、信仰心はある。神の存在は信じるが、宗教(を語る団体)を信じないだけだ。神とは何なのか?これについては人それぞれ考えがあるに違いない。神とは見えない存在である。魂を救済する天使であり、時に魂を剥奪する悪魔でもある。そう考えていくと一つ、神に似ているモノを私達は誰でも知っているわけだ。それは人の心だ。人間は実に残酷だ。このブログで、私は何度もこの言葉を書いた。けれど、私は今日もこうしてのうのうと生きている。何故か?知っているからだ。人間は残酷なだけではない、と。私が今日、こうして生きているのは、たくさんの人の善意にふれてきたからに他ならない。人は一人で生きるにあらず。その通りだ。よく{幸せになりたい}とぼやく人がいる。自分の殻に閉じこもって彷徨い歩く人は、けっして幸せにはなれないだろう。思い出して見て欲しい。人が生きていく過程には必ず記憶という道筋が残されている。どこかに幸せを感じた記憶が落ちているはずだ。そして、幸せを感じた瞬間には必ず自分以外の何かが存在していたはずだ。これ以上書くと、偽善になってしまう。私自身、まだまだ旅の途中だ。どうしようもないダメ人間でもある。しかし、巨匠キングもそうなのではないか?だからこそ書く。書き続ける。自分自身に言い聞かせるように。自分の心に忘れるなと釘で打ちつけるように。時には、自分自身を棚に上げるのも、悪い事ではないはずだ。
キングの最近の映像作品はTV映画として製作される事が多いようだ。これはもの凄く正解だ。キングの面白さを描くのに派手なSFXなど必要ない。長時間の作品にするのもTVの方が制約が少ない。キングの緻密な面白さを表現するには、ある程度の尺は絶対不可欠だ。キング自身にしてみれば、自分が深くより自由にその製作に関われる点もよいのではないだろうか?こと映像に対して、キングには才能がない。私は以前からそう思っていた。(余談だがキューブリックの「シャイニング」やデ・パルマの「キャリー」はそれぞれ良い点を持っているが、あれはそれぞれの監督が自分の作品として完全消化した結果であり、キングの作品では決してない。)キング自らが監督した「地獄のデビル・トラック」の失敗が、その最良の証拠ともいえるだろう。ジョージ・A・ロメロと組んだ「クリープショー」も実にくだらない作品だった。けれど、その考えは間違っていたようだ。TVに居場所を見出してからのキングの映像化は、「ランゴリアーズ」を筆頭に割りと成功しているからだ。({キングが監督してるわけじゃないからじゃん}という人もいるかもしれないが、それはどうだろう?映画作品とは決して一人だけの力で造りえるものではない)TVという垂れ流しのメディアの作品という事でリラックスした状態で臨めるからかも知れない。数をこなして、こなれてきたというのも事実だろう。映画版「デスペレーション」は、傑作というほどの出来にはないが、それなりに楽しめる作品であるのも事実だ。個人的には、こういう作品がある事を知って、一人でも原作に手を伸ばす人が増えるといいなと思う。小説「デスペレーション」は、私が一番好きなキング作品だからだ。リチャード・バックマンの「レギュレイターズ」(知らない人がいるといけないので敢えて書くが、バックマンはキングのペンネームだ。この作品を最後に偽名癌(笑)でこの世を去った。「デスペレーション」と「レギュレイターズ」は全く別の作品だが、実は一つであるのは有名な話だ。片一方は善としての少年、もう一方は悪としての少年が巧みに描かれている)と合わせて読む事をお勧めする。この作品を読んで、面白いと歓喜される人が増える事を切望する。ある日の酒場で、偶然隣りに座った方と、もし「デスペレーション」の話題で盛り上がる事が出来たならば、それは私にとって大いなる{幸せ}の瞬間でもあるからだ。
「スティーブン・キングのデスペレーション」 2006 アメリカ
監督 ミック・ギャリス
主演 トム・スケリット スティーブン・ウェバー

「梟の城」あたりから、再び忍者映画が脚光を浴びているのだろうか?なんだかんだ言って、結構な数が製作されているようだ。忍者と宇宙人は、ある時期の子供達にとっては二大ヒーローだったわけだが、その時代の子供達が大人になって映画を作っているのが現在の状態なのかもしれない。昔欲しかったおもちゃが、今なら手に入るってわけだ。宇宙人はアメリカ製の映画で散々いじられまくってしまったので、日本人がそこに切れ込んでも相手にならないと思い込んでいるのか?はたまた日本人なら忍者でしょうという{掟}があるのかもしれません。
忍者は陰のヒーローという宿命を背負っています。戦の為に必要とされ、生み出された人間の集団です。手裏剣などの特殊な武器を持ち、鍛え上げられた体術を使い、秘密裏の危険な任務を遂行していくなんて、とてもカッコイイですね。実際に忍者がどのような活動をしていたのかは忍者だけによくわかりませんが、民衆の娯楽の一つとしてその活躍は忍ぶどころか、大袈裟に伝聞され続け、最近ではこの映画「
SHINOBI
」のように、「X−MEN」のミュータントと何ら変わらない化け物に成り下がりました。
この映画のキャラクターは多分にマンガ的です。何しろオダギリ・ジョー演じる主人公の使う術は「サイボーグ009」で主人公・島村ジョー(おぉ、ジョーつながりではないですか?)こと009が使う必殺技・加速装置です。その他のキャラクターの必殺技も、どこかで見たようなものばかりで新味はありません。敵・味方が5人づつ代表を選んで戦うというのも、実にオーソドックスな戦い方のルールに則っています。忍者でこのような図式で思い出すのは横山光輝の傑作少年マンガ「伊賀の影丸」です。あのマンガの特徴として、影丸を中心にした伊賀忍者のグループとどこぞの山の中の隠密忍軍との熾烈な争いがありますが、ようするに「
SHINOBI
」はまんまその面白さを映画で表現しようと試みたのではないでしょうか?そして見事に失敗してしまいました。最大の失敗要因はキャラクターの薄っぺらさにあるのは一目瞭然です。それと5対5のチーム性が全く生かされる事がないのも、せっかくの設定を無駄にしている気がするのですがどうなんでしょうか?5対5のチーム性がいいとか悪いとかではなく、5対5と決めたのに観客が{これって5対5にする必要ってあるの?}と思わせた時点で、その設定は失敗しているわけです。マンガのキャラクターは人目見ただけで違いが分かるように、作者が工夫を凝らします。マンガというものが止まった画の集合である強みというのもあります。読む人が好きなだけ時間をかけて各キャラクターを覚える時間をつくれるし、そのキャラクターに自分勝手な肉づけをしていく暇もあるというわけです。映画の場合は時間も限られているし、所詮は人間が演じているわけですから、パッと見て瞬時にキャラクターを一人一人覚えていくのは、よっぽど各キャラクターごとにインパクトのあるエピソードを挿入しない限り不可能です。「
SHINOBI
」はその点で観客を無視しているとも言えるでしょう。製作している本人達は、頭つき合わせてアイデアを出し合い、それなりの長い時間を使って一人一人創作していくわけだから、キャラクターの違いは判っていて当然(或いは、判ったつもりになってしまう)なのはよくわかりますが、具体的に映像で示してくれないと観客には伝わりません。私には、誰が誰やらさっぱりだったし、今一体双方何人残っているのか(5対5のゲーム性を楽しむ一つでしょ?)わかりゃしないし、一人一人の特徴(どんな術の持ち主なのか?とか)も掴む前にどんどん死んでしまうし、何だかなぁと思っているうちに映画は終わってしまいました。これでは面白いとか面白くないとか言う以前に、腹が立つという人がいても仕方がない事と思われます(私はこういう映画にも慣れてしまって、もはや怒る気力もありませんが)。
監督が何を作りたいのかという点は、非常によくわかりました。その点は、もの凄く正直に表現されていると思われます。ようするに、超人的な技を使ったバトルの映像をふんだんに撮りたかったのでしょう。この監督にしてみれば、もちろん予算や技術の限界はありますが(独自のアイデアは皆無だし、見ている私達には安っぽい馬鹿馬鹿しいアクションの連続に過ぎないのだが)、きっと楽しめた撮影だったのではないでしょうか?映画全編のほとんどが戦闘シーンであり、その他の部分はおざなりな付け足しに過ぎないのですから。監督は映画を作りたかったわけではなく、格闘ゲームのゲーム画面を実写で撮ってみたかったのです、きっと。その為に、これは映画であると嘘をついて金を集めたのではないでしょうか?まんまと成功したわけですね。この作品を映画だと思って観てしまった私達は、体よく詐欺にひっかかったカモであります。過ぎてしまった事をくよくよしても仕方がありませんので、これも人生勉強と思っていさぎよく許してあげましょう。
アクションにしろホラーにしろその場面を生かすのは、きちんと形成されたドラマ部分がありきのはずです。映画にあってストーリーや基本的な設定を無視するのは、一般的には致命的です(時に、その枠を破壊してみせる監督も確かにいますが)。最近の日本の映画の多くは、常識に囚われているのに、基礎がおろそかにされている物が多すぎます。現実からかけ離れた突飛なキャラクターなりストーリーをかたるには、現実がしっかりと理解されている事がまず必要なわけです。そこを踏まえずに許されるのは、子供だけです。映画監督という職業にも、大人の身体を持った子供が増えているのでしょうか?願わくば、子供の心も忘れていない大人が増えて欲しいものです。
「
SHINOBI
」 2005 日本
監督 下山 天
主演 オダギリ ジョー 仲間 由紀恵

ホラー映画に限らず、履歴書の趣味の欄に映画鑑賞という文字を書き込む人間ならば、必ず一度は通らなければならない映画界の巨人の一人にアルフレッド・ヒッチコックの名前がある事は誰しもご存知の事に違いない。ヒッチコックの何が優れているのかというのは、そういう本が幾らも出ているし、そんな物を読まずともそのお宝的作品群を観れば分かるのだから、こんな所で語る必要もないだろう。ヌーヴェル・ヴァーグの旗手と言われた自身が優れた映画監督であり、正確無比な映画評論家でもあるフランソワ・トリュフォーは{どんな監督をもしのぐ素晴らしい才能がヒッチコックである}と述べているが、そんな大上段に構えずとも私達はその素晴らしい作品をただ楽しめばいいのだ。ヒッチコックは何の予備知識もなしにその作品群から適当にチョイスして観たとしても、期待を裏切る事の少ない数少ない監督の一人だと断言出来る。個人的には「海外特派員」や「逃走迷路」、「見知らぬ乗客」といったモノクロ時代の作品が最も好きだが、世紀の美女グレース・ケリーを筆頭にその美しさを堪能出来るハリウッドの豪華さと洒落っ気も楽しい「裏窓」や「めまい」といった充実期の作品も見事の一言だ。映画と共に絵画等にも興味がある人は奇才サルバドール・ダリを起用した「白い恐怖」なんて、もう鳥肌ものなのではあるまいか?
{サスペンスの巨匠}一般にそう呼ばれているヒッチコックだが、この表現は当たらずも遠からずではないかと私は思う。ヒッチコックが一貫して描く世界は恐怖だ。おぞましき欲望に突き動かされて殺人を犯し続ける人間達を、こんなにも多く作品として残した監督はそうはいない。独特のユーモアと溢れる程のエンタテインメントに残酷さやB級感は鳴りを潜めてはいるが、その本質はサスペンスではなく紛れもなくホラーである。「フレンジー」もまた、その事を如実に表した一本だ。
「フレンジー」はヒッチコック晩年の作品である。この後に「ファミリー・プロット」というユーモラスなアクションに満ちた作品を製作した後、ヒッチコックはこの世を去る。「ファミリー・プロット」が彼の初期の作品群の色を映し出していたのと同じく、「フレンジー」もまた自身の作品の集大成的な色合いを持っていた。「フレンジー」の骨子は、精神異常者の殺人と末路(「サイコ」の主人公ノーマン・ベイツはその代表格ではないか?)であり、無実の人間が犯人に仕立てられていく(ヒッチコックお得意の)巻き込まれ型の融合である。特筆すべきは、無残に犯されネクタイで絞殺される被害者達も、その加害者である殺人鬼も、無実の身で逮捕され裁判にて有罪の判決を受ける主人公も、みなが顔見知りだという点だ。もの凄く狭い世界で展開される異常の中に、私達は奇妙な親近感を覚え何ともいえない不安に襲われる。そしてラストシーンへのくだりでハラハラドキドキさせられる私達は、同時にある事実に気づかされてしまうのだ。それは、人間なら誰しも(あなたも、私も、それぞれ近しい人達も)ある日突然殺人鬼に豹変する可能性があるという事実だ。殺人という現象は、決して特別な現象ではないのだ。個人の心の中は、他人には決して覗き見る事は出来ない。ましてや人間は皆、他人の目を意識して生活をしているわけで、それは誰もが常に自分を装って生きている事に他ならない。自身の中にくすぶる怒りや妬みを、日ごと蓄積しながら。この映画の主人公は無実である。その事を観客である私達は重々承知なのだが、主人公とて清廉潔白ではないのだ。
映画の技術的側面から観ると、廃棄するじゃがいもを大量に積んだトラックが、荷台に殺人者と被害者の死体を乗せて走るシークエンスはこの映画のハイライトである。この部分だけ観てもこの映画の面白さが分かるし、ヒッチコックという監督の力量を推し量る術になる。あんまり面白くて、私もついつい笑ってしまった。もちろん、その笑いの奥には言い知れぬ恐怖が同居していたのは言うまでもないだろう。
ヒッチコックは一説には童貞のまま結婚し、生涯で妻しか女性を知らなかったと言われている。ヒッチコックは女性を美しく撮る事に定評のある監督であるが、その能力(天才的とも言える)と女性に大してオクテである事実が無関係であるはずはないだろう。また、ヒッチコックは異常なほど臆病な人間であった(スティーブン・キングにも繋がる事実ではないか?)とも言われている。一貫して恐怖を描き、その頂点を維持し続けた才能もまた、その性格に由来しているのは明らかに違いない。ヒッチコックが最も恐れていたであろう人間の闇の部分。その悪魔的な心の奥底を映画という形で明るみにする事で、ヒッチコックは自身の救済の道を模索していたのかもしれない。そうして自分自身に言い聞かせていたのではないか?人間とは実に愚かにして残忍な生き物であるが、その残忍さは封じ込めておくのが可能であると。それは、人と人との良好な関係に他ならないのだ、と。
「フレンジー」 1971 アメリカ
監督 アルフレッド・ヒッチコック
主演 ジョン・フィンチ バリー・フォスター

マスターズ・オブ・ホラーに参加している監督達の中で、映画史に名を残す資格を有している偉大な映画監督はいるのだろうか?「悪魔のいけにえ」を監督したトビー・フーパーには十分その資格がありそうだ。思い出すのもおぞましい恐怖がそこには確かに存在していた。その後の映画(もちろんホラーに限らずだ。「悪魔のいけにえ」はホラー映画というジャンルを既に飛び越えている作品である)に与えた影響は計り知れず、フーパーの演出は神がかりとしか思えない完璧な映像世界を構築している。仮に「悪魔のいけにえ」に匹敵するホラー映画など存在しないとすれば、肩を並べる者は一見いないように見受けられるが、それは事実ではない。「ディア・ウーマン」を監督したジョン・ランディス。彼もまた映画史に残るべき神がかりな作品を過去に製作している。その映画とは言わずと知れた「ブルース・ブラザース」だ(個人的には「サボテン・ブラザース」のノー天気さも捨てがたいが、残念ながらそこに神は存在しない)。ジョン・ベルーシという唯一無二のキャラクターに救われた面もあるにはあるが、「ブルース・ブラザース」は面白い映画の条件をほぼ完璧に取り揃えたお手本のような映画だ。この映画をつまらないと一蹴出来る人なんているのだろうか?思うにそれは、メガヒット作「タイタニック」や「スター・ウォーズ」のここがつまらないと指摘するよりも数十倍も難しいのではないか?何度見返しても変わらず面白い「ブルース・ブラザース」を監督したジョン・ランディスがトビー・フーパーと肩を並べるのは当然であるはずだ。
ジョン・ランディスといえば、「ブルース・ブラザース」を筆頭としたコミカルな映画を思い浮かべるのが普通である。ランディスの映画は彼独特のセンスによって形成されているが、そこには笑いの要素が重要な位置を占めている。彼にとっての映画とはまず笑えなければいけないのかもしれない。彼のもう一つの代表作「狼男アメリカン」も、ホラー映画でありながら笑える要素が満載である。ホラー映画とコメディ映画の合体という形式は、別に目新しい事では決してないだろう。それこそサイレントの時代からそういう映画はある。しかし、それらの映画と「狼男アメリカン」とは実は大きな違いがある。それまでのホラー+コメディ映画は、概ねコメディの部分が主体でホラーは味付けとして体よく使われたに過ぎないが、「狼男アメリカン」はその逆を見事にやってのけた映画なのだ。その特異性による印象の強烈さが、本来ホラーが重要な位置を占めないランディスをして、マスターズの一員に名を連ねたのは想像に難くない。そういう意味ではランディスはマスターズの中では異端の存在である。それも崇高なる異端児だ。
マイケル・ジャクソンの名前を知らない人はかなり少ないはずだ。病気により(本人がそう言うのだからそうなのだろう。そうではないか?)白い黒人となってしまった悲劇の王子マイケルがポプュラー・ミュージックの頂点に立った時に、ランディスは大きく貢献している。言わずと知れた「スリラー」のビデオ・クリップの演出を担当したのがそれだ。墓場から甦ったゾンビ群と共に歌い踊るマイケル・ゾンビ(この頃のマイケルは本当にカッコ良かったのにねぇ。人間とは不思議な生き物だ)は、ミュージック・ビデオの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」である。「狼男アメリカン」の大ファンだった(類は類を呼ぶ、という事だろうか?)マイケルが声を掛けた事から生み出されたこの世紀のプロジェクトは、ランディスの資質を如実に表している好例だ。ジョン。ランディスにとってホラーは趣味なのだ。それもかなりマニアックな。オフィスの玄関にウルトラマンのワッペンを貼っているという逸話からも、スピルバーグ的幼児性も感じられるではないか。
そんなランディスの原点であり、全てであると言っても過言ではない映画が「シュロック」だ。猿人系モンスター(ランディス自ら演じている)が巻き起こす騒動を描いた35mm処女作において、ランディスはやりたい放題である。出来自体はまだまだ未完成の部分が大半を占めるが、幾つかのシーンは後のランディスと変わらない切れ味を持っている事に気づかされるに違いない。猿人系モンスターがピアノで華麗にロッキンする場面なんて、ランディス以外には考えられない名(笑)場面もある。シュロックとは安物・クズといった意味を持つ言葉だそうだ。ランディスがこのタイトルに込めた思いが、みなさんにも伝わるのではないでしょうか?
そんな人生を楽しむ為に生まれたようなランディスにも、(世界はバランスによって成り立っている)やがて暗く長いトンネルがやってくる。スピルバーグと共に、自身のおもちゃを見せびらかす為に製作を開始した「トワイライト・ゾーン THE MOVIE」の不幸な事故とそれに伴う裁判沙汰が、ジョン・ランディスをミステリー・ゾーンへと連れ去ってしまう先鞭をつける。ジョン・ランディスが再び「ブルース・ブラザース」に匹敵する映画を撮る可能性は果たしてあるのだろうか?常識的に言って、限りなくゼロに近いのは疑う余地がないだろう。
「ディア・ウーマン」には「狼男アメリカン」の影がちらついている。何故鹿女なのか?というのは、私にとってはどうでもいい事だ。何故鹿女の話を撮ろうと彼に決めさせたのか?が重要だ。
人には中毒という状態があるのは誰でも知っている。一度知った味を貪欲に求める人の姿は、様々な場面で出くわす事が出来る。ジョン・ランディスの新作に「ブルース・ブラザース」や「狼男アメリカン」の色を求めるのは、人間として当たり前の欲求なのかもしれない。プロである以上、その要求に応える姿勢もまた否定出来ない。けれど人は慣れていく生き物なのだ。そして残酷なまでに非情な生き物だ。頂点を極めた者が、過去の自分に回帰する事のむずかしさを痛感させられる。ジョン・ランディスは一歩進む事を止めてしまった人物だというのは、あまりにも辛辣だ。ただ個人的には「ディア・ウーマン」には何も感じられなかったと言うしかない。作品の完成度は決して低くはない。結果的にランディスらしい作品に仕上がったのも事実だ。しかし、そこには神の欠片も見当たらない。ランディスがもう一度輝く為に向かう場所はどこにあるのだろうか?その答えは、もちろんランディスにしか分からない。或いは、ランディスにも分からないと言った方が正確なのだろうか?真実は常に藪の中か・・・。
「ディア・ウーマン」 2005 アメリカ
監督 ジョン・ランディス
主演 ブライアン・ベンベン シンシア・モーラ

ブラジルといえば浅草サンバ・カーニバルである。本場リオの熱狂的な情熱に比べて、浅草のそれは妙にエロっぽくて仕方がない。私が日本人だからなんでしょうか?あのど派手な衣装に身を包んだ日本人女性というのは何やら目のやり場に困ってしまいますね。体格のせい?それとも日本人が総じて童顔だから?とにかく、妙な違和感を感じて仕方がない。最も、実際に浅草まで足を運んだ事はないので、現場で体験すれば妄想とは関係なく楽しめるのでしょうか?いつも今年こそは行って観てみようかなと思うんですけど、気づくと終わってしまっているのがとても悲しいです。
気をとりなおして、ブラジルといえば、最近ではサッカーでしょうか?いつのまにか日本に定着したサッカー人気ですが、ほんの少し前までは本当に日陰のスポーツだったのにねぇ。恐るべし「キャプテン翼」、そしてキング・カズ。私は幼少の頃にサッカー・クラブに入っていました。ポジションはウィンガー(当時はフォワードが5人位いるのが普通でしたね。そうではないか?)。背番号は31でした。もちろん補欠です。ある大会で参加賞としてコカ・コーラをもらった記憶があります。練習試合では控えチームとして出場し、華麗なる自殺点を何故か幾度も上げて(今思い出しても本当に不思議な現象でした。相手ゴールへのシュートは必ず枠を外れるのに、自陣でのクリアーボールは物凄い確率でゴールを奪ったものです)、悪魔のようなゴール・ゲッターとして主に味方のみに恐れられた存在でした。従来の飽きっぽさもあって、中学に行ってからは見事にサッカーとは縁を切り、テニス部に入りました。何が目的かって?記憶では、たまたま友人に一緒に入ってと誘われたのではなかったかな?特に理由はなかったと思うけど・・いや、本当に。
さてさて、一部の奇妙な世界の住人の間では、ブラジルといえば彼の名前が出てくるのです。コフィン・ジョー。眉毛つながり(あくまでも印象ですが)のキレ者のおじさんです。彼はデビューすると共にブラジル国民に熱いエールを送られて、恐怖の世界の支配者として君臨したかどうかは定かではありませんが、少なくとも一部の人達からはそれなりに支持を受けました。ブラジル生まれの悪のヒーロー。それがコフィン・ジョーです。
彼は何故か町の人間達から恐れられ、何故か自信たっぷりで、何故か人を次々と己の欲望の為に残酷に殺害し、何故か占い師に死の宣告を受け、何故か気が狂って勝手に滅してしまうのです(もちろん、それは必ずしも死ではないのですが。何故ならそこはコフィン・ジョーの世界なのだから)。こうして書いてしまうと、誰も観る気が失せるかとは思いますが、百聞は一見にしかずと申しますように、個人的には観てみる価値がある映画だと思います。この作品、一見どこにでも蔓延るクソ映画の全てを網羅しているかの如く見えてしまうのですが、何故か退屈しません。よくホラー映画を観て、笑えると評する人がいますが、あれはどういう評価なのでしょうか?あまりに下らな過ぎて、こんな物に時間と金を費やした自分を嘲る笑いでしょうか?それともあまりに怖すぎて笑うしか自分を繋ぎ止める術がなかったのでしょうか?私はこの映画にはとてもじゃないですが、笑う気にはなれなかったです。コフィン・ジョーのような人間は確実に存在するし、実際ここ日本において確実に増えているのではないかと感じているからです。日々のニュースはその事を知らせてくれているのではないか?コフィン・ジョーは自らのプレッシャーに押しつぶされて自滅してくれるが、現実にはそう簡単には自滅してくれません。皆、のうのうと生きていくわけです。そして人は誰でもコフィン・ジョーになる可能性を捨て切れません。恐怖とは何か?コフィン・ジョーはその後の作品「コフィン・ジョーのジョーの世界はちょっと凄いぜ!!!」(この素晴らしき邦題(笑)のセンスは何なのでしょう?私は邦題だけで観ずにはいられなくなりました。そうではないか?)において観客に、恐怖とはあなた自身の事だと吐き捨てます。ある意味もの凄く的を得た答えだ。恐怖を知る事は人間を知る事に他ならない。そこには自分自身を知るという事ももちろん含まれるはずだ。あなたはどんな映画のどんな場面を怖ろしいと感じるのでしょうか?そこにはあなた自身の心の底が見え隠れしてはいませんか?
カルト的人気を持つ映画には、ある種の真実が隠されている場合が多い。映画とは人間の心を映す鏡である。人間についての真実を部分的にでも描いていない映画は、ただの退屈な動く写真でしかない。ホラー映画に敢えて背を向けて認めない人も多いが、それは自分自身に嘘をついて封をしているのに似ている。何故なら良質なホラー映画というものは(そうではないホラー映画があまりにも多いのも確かに問題だが)、確実にかつ直接的に人間の心の中を映し出す奇妙な鏡だからだ。
「鏡よ、鏡よ、鏡さん。世界で一番怖ろしい映画はなぁに?」
「それは、あなた様でございます」
「コフィン・ジョーのお前の魂、いただくぜ!!!」 1963 ブラジル
監督 ジョゼ・モジカ・マリンズ
主演 ジョゼ・モジカ・マリンズ マグダ・メイ

昨今、「〜デッド」なる映画が乱発されている気がします。昔のドラキュラ伯爵、フランケンシュタインの怪物、ウォーでがんすの狼男からなる怪物くん御三家から、ホラー映画の怪物といえばゾンビであるという図式が確立してしまったのでしょうか?
ゾンビが他のモンスター達と決定的に違うのは匿名である点です。一体ごとに名前や個性があるわけではございません。死人に名なし。そして大概はとても弱いです。のろのろと歩いて、目先の物にすぐ飛びつき、あっという間に頭を打ちぬかれて一巻の終わり。ずるずると地に倒れて再び腐っていく存在です。こうして考えて見ると、これほどの人気を博す理由が見つかりません。一体、何故世の中はこれほどまでゾンビを求めているのでしょう。現在、映画で描かれるゾンビ像は(走りまわろうが、わめきちらそうが)ジョージ・A・ロメロが確立したものです。それ以前にも、もちろんゾンビは蠢いていたし映画にも登場していますが、ブードゥー系魔術の関連としてあくまでも脇役の存在でした。ロメロはゾンビをして、ブルーカラーの怪物と語っています。ようするに私達にもっとも近しい怪物こそゾンビであるという事です。世の中何が怖いって、見知らぬ隣人が一番怖いわけです。真夜中に薄い壁ごしにわけのわからない呪文が耳に届いてきたら、無茶苦茶怖くないですか?人けのない暗い道を、駅からずっとついてくる足音はどうですか?別に暗くなくても、電車の中で座っていたら、ぶつぶつ言いながら時折叫び声を上げる理解不能な人物が目の前に立ったらどうでしょう?そうしたごく日常の恐怖に最も近い怪物を具現化したものがゾンビなのです。なにしろ誰でも、死んでからもう一度動きだせばゾンビになれるんです。どう頑張ってもフレディやジェイソンやドラキュラ伯爵にはなれないのです。これらのホラーの英雄達には映画の中でしか会う事は出来ませんが、ゾンビならもしかしたら明日にも会えるかもしれませんねえ。
「ハウス・オブ・ザ・デッド」では、劇中にSEGAっていうロゴが意味もなく大写しになります。SEGAについて詳しく知りたい方はリンクの欄からgmcmさんのブログ・ゲームを思う、にいますぐアクセスしましょう。なかなか興味深い話が読めます(そうではないか?)ピンと来た方もそうでない方もいるでしょうが、「ハウス・オブ・ザ・デッド」はゲームの映画化のようです。私はこのゲームやった事がないのでゲーム内容については一切知りません。映画の中に意味もなく挿入されまくるゲーム画面を見る限り、出てくるゾンビをガンガン撃ち殺していくシューティング・ゲーム?ではないかと思いますが・・・。そのてのゲームにも筋とかあるんでしょうか?まぁその辺はきっとgmcmさんがきっちりと解説してくれるのではないでしょうか(と、淡い期待を抱きつつ)。
ゲームの映画化といえば、やはり「バイオハザード」シリーズが有名です。こっちは私もやった事があります。無限に撃てる銃がクリアすると出てきたりして、二回目の方が楽しいです(ただし、二回クリアすると私はさすがに飽きてしまいますが)。大変大袈裟な馬鹿げた発想を臆面なくさらけ出せる(昨今は映画もそれに近い形が増えてきている気はしますが)というゲームの世界観は、マンガの異常発達を遂げた日本の伝統芸ではないでしょうか。面白ければなんでもありというスタンスについては、私は大歓迎です。映画の世界もまたしかり。映画もゲームも存在意義は同じです。ようするに、短くも長い人生の暇つぶしであるという点です。大変飽きっぽい私は、とにかくきっちり時間がくれば終わる映画により強い指向を持っているだけの事です。素晴らしい作品は映画にもゲームにもマンガにも或いはそれ以外の媒体にも、確実に存在しているはずです。「バイオ・ハザード」は大ヒットしたゲームなのですから、いわゆるゲーム界の代表の一本であるはずです。だからこそ映画にもなったのでしょうが、映画の方は名作にはほど遠い出来でしかありませんでした。(余談ですが、このゾンビ・ゲームの映画製作当初、監督候補に挙げられていたのは他でもないジョージ・A・ロメロだったのは有名な話です。ロメロは実際脚本まで執筆したのにボツにされてしまったのです。哀しきゾンビ巨匠)「ハウス・オブ・ザ・デッド」は、それに何十も輪をかけたとんでもないクソ映画です。ようするに、ゲームの人気にあやかって金儲けを企んだだけの作品にすぎません。作る価値なし。観る価値(一部の方達を除いて。もちろん私はこの一部に属する一人なのだが)なし。金を払う必要など全くなし、な映画に仕上がっています。
マンガの映像化について、私は何度か苦言を呈してきました。今回ゲームについても同じ事を繰り返さなければいけません。その映画化、本当に必要ですか?と。マンガで面白い物はマンガで楽しめばいいじゃん。ゲームで面白いものはゲームで楽しめばいいじゃん、と。ただし、これだけは間違って欲しくないのですが、私はマンガやゲームを原作とした映画は作ってはいけないと言っているわけではないのです。金儲けだとか視聴率稼ぎだとかの安易な魂胆で、大して思い入れもないのに映像化を決めて、くだらない作品を作り上げても平気な顔をしている映画製作者の傲慢さに腹を立てているわけです。それぞれの媒体の素晴らしい作品に平気で泥を塗る映画という媒体。お前は一体何様なんだ、と。
私は単純にわくわくどきどき楽しませてくれる映画が好きなだけです。たとえつまらなくとも、真剣に作っている姿勢が見えればそれもよしです。「ハウス・オブ・ザ・デッド」は気取った映画です。{どう、これかっこいいでしょ}みたいな(もちろん勘違いの類ですが)、上辺だけの脳みそスカスカ映画です。ホラー版「マトリックス」みたいな物です。こんな映画を観て、ホラー映画はつまらない(私はこの映画をホラー映画とは思わない。その理由はサスペンスの欠如にある)と言われるのは大変悲しい。
「ハウス・オブ・ザ・デッド」 2003 ドイツ・アメリカ・カナダ
監督 ウーヴェ・ボル (って、誰?何者?)
主演 ジョナサン・チェリー

マスターズ・オブ・ホラーの功罪として、しばらくホラー映画から遠ざかっていた監督がホラーに回帰している点があり、それぞれが実に楽しそうに作品を作っている点が素晴らしい。好きこそ物の上手あれではないが、何事も楽しんでやる事に意義があるし、自分が楽しくない物を作る事の無意味さを改めて感じ入る次第である。
ジョー・ダンテという名前に、私個人としては何の感慨もない。劇場で観たジョー・ダンテ作品といえば、「トワイライト・ゾーン THE MOVIE」だけだ。知っての通り、TV番組の映画版で4話のオムニバスからなっている作品であり、ジョー・ダンテはリチャード・マシスン原作の超能力を持った男の子の家庭で繰り広げられる怪奇譚を担当していた。とてもアニメ的な映像をモチーフにして、他の三話よりもジュブナイル的な面白さを狙っている(要するに子供の頭の中の世界を描いた作品らしくという事)感じもあって異質ではあったが、作品の出来自体は可もなく不可もなくといった感じだったように記憶している。当時の私としては、その映画そのものよりも、「トワイライト・ゾーン」ノベライズを、ロバート・ブロック(ヒッチコックの「サイコ」の原作者として有名)が書いている事実の方が興味を惹かれたものだ。マシスンとブロックは共に異色短編の名手であり、言って見ればエドガー・アラン・ポーの直系の子孫達である。はたからみればライバル関係にある二人だが、実はブロックはTV版の「トワイライト・ゾーン」には一切関係していないのだ。(余談ではあるが、その当時ブロックは「世にも不思議な物語」や「ヒッチコック劇場」といった怪奇・スリラー物の別番組でひっぱりだこだった)ブロックが何故、「トワイライト・ゾーン」のノベライズを担当したのか?それはやはりミステリー・ゾーンの成せる業だったのでしょうか・・・?
ダンテと言えば、何なんでしょう?これといった代表作は私には見当たりません。もともとロジャー・コーマンの元で映画編集を学び、監督に転進し「ピラニア」(「ジョーズ」以降の水中生物パニック物の一つであるのは言わずもがな)で頭角を現し、スピルバーグに気に入られてからは主にスピルバーグ関連(TVのCMで押し付けがましく連呼されるスピルバーグ製作総指揮の一連の作品達。当然のように本来の監督達は事実上宣伝からは抹殺されてしまう運命にある。哀しい・・・。人生って厳しいのね)なんかをこなしていたまでは記憶にあるのですが、近年は何をしていたのでしょうか?やはりTVでしょうか?一番のヒット作は続編があるという単純な理由で「グレムリン」に違いない。ホラー・ファンとしては人狼譚を描いた「ハウリング」が頭に浮かびますが、どちらも個人的には評価は低いですね。特に「グレムリン」は、当時の私はホラー版セサミ・ストリートであると勝手に思っていました。
今となってはフィービー・ケイツが懐かしいくらいか(若い人は全く知らないでしょうが。当時人気のあった女優さんで、青春エロ映画を中心に活躍していた女優さんです)。
そんな、私にとっては身もふたもないジョーダンテですが、「ゾンビの帰郷」は私の中にあったジョー・ダンテのイメージをぶち壊す作品でありました。普通に(この場合の普通は取りあえず始まりから終わりまで特に退屈も熱中もしなかったという意味)面白く観れました。表向きは現・アメリカ政府批判を打ち出した内容ですが(マイケル・ムーアみたいな物です。あそこまで下品ではないが)、要するにアメリカ国民全てに(アメリカ人が世界を語る場合には、アメリカとヨーロッパの時代遅れ共とその他の野蛮人の国となりますので敢えて限定してみましたが、アメリカの属国たる我が日本人も本来は含まれているものとします)このまま馬鹿まるだしで生きていたら罰があたっちゃうんじゃないのかな?と、ジョー・ダンテなりに危機感を表した作品なのではないでしょうか?もうすぐ大統領選挙を控えたアメリカ(日本も参院選が控えていますが、スケール感は数十万分の一でしょうか・・・。)ですが、みなさん実際選挙には興味ゼロって人が多いんでしょうね。まぁこんだけ人口が増えてしまった国では、国民一人一人に選挙に対してリアリティを持たせるのは不可能なのかもしれません。よく自民党は否だけど、民主党も馬鹿っぽいし、その他なんてあってもなくても一緒なんて声を聞きますが、だからどうでもいいじゃ世の中何も変わりません。個人的には同じダメなら与党ではなく野党に一票入れるべきだと思うのですが、どうなんでしょう?どこの世界でもそうですが、長く続ける事は一見安定しているかのように見えますが、中身は腐敗でもうドロドロになっているものです。ニュースを見ていれば、自民党の腐り具合が鼻につくではないですか。民主党に何も出来ないのは明らかですが、同じダメならどんどん変えていくのがよいのでは?目先の事ではなく、どんどん政権を交代させて与党としてのスキルを自民党以外にも付けさせていかなくては絶対にダメだと私は思います。日本人は今まで散々油をうってきたわけで、そろそろそのしっぺ返しが来るのは必然だし、日本国民は甘んじてそれを受ける義務を持っているはずだ。そうではないか?世の中は全てバランスで持っているのですから、いい時があれば悪い時もあるわけで、それを考えると日本から早く脱出したい気にもなるのですが、みなさんはどうなのでしょう?俺には関係ないやと言えた日が懐かしくなる時代が、もうすぐそこまで来ているのではないのでしょうか?
「ゾンビの帰郷」は、大統領選を軸に物語が進んでいきます。ここでのゾンビ達は明確な意思を持って再びこの世界に戻ってくるのです。その目的はただ一つ。選挙に参加して投票をする事です。ゾンビが生き返ってこなければならない程、私達の世界はどうしようもなく腐ってしまっているのでしょうか?そうかもしれません。日本は残念ながら火葬が一般的なので、ゾンビ達に選挙を託すわけにはまいりません。ならば、私達一人一人が自分の足で投票場に行くしかないではありませんか。死んでから投票したいと思っても、日本人には不可能なのですぞ。
「ゾンビの帰郷」 2005 アメリカ
監督 ジョー・ダンテ
主演 ジョン・テニー ロバート・ピカード
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