
マスターズ・オブ・ホラー企画において実施された人気投票は、大方の予想通り三池監督の作品が一位となったようですね。みなさんが何を基準に一票を投じたのかは分かりませんが、13作品も観る暇をつくるのはそれだけでも大変な事です。順位など気にせずに、楽しめたか楽しめなかったか、それだけが私の基準です。映画に対する評価とは、これに尽きるのではありますまいか?さて、DVDボックスの売り上げは順調なのでしょうか?もちろん私は購入しませんが・・・。これをきっかけにホラー映画が身近になった人なんてほとんどいないでしょうが、何事も地道な一歩が肝心であります。今日も地に足をつけて、ホラー探求の旅を続けて行きたいものであります。
「ダンス・オブ・ザ・デッド」という題名からジョージ・A・ロメロを連想した人もいるかと思いますが、この作品を担当したのはトビー・フーパーという監督さんです。御大リチャード・マシスンの原作を、息子のリチャード・クリスチャン・マシスンが脚本にしたようです。ロメロの代表作「
ナイト・オブ・ザ・リビングデッド
」は、マシスンの代表作「地球最後の男」にインスパイアされているのは間違いなく、ホラー界は一蓮托生、仲良しファミリーに幸あれといった所でしょうか。
トビー・フーパーは茨の道を歩く事を義務付けられた映画監督です。
彼が長編二作目として世に出した「悪魔のいけにえ」(原題のThe Texas Chainsaw Massacre という響きが実に素晴らしい)は、ホラー映画のみならずその後の映画界に絶大な影響を与えた名作として名を残しています。もしかしたら世にある全ての映画の中でも十本の指に入る作品なのかもしれません。スプラッター映画の代名詞とも言われている作品ですが、実際には直接的な残酷描写はなく、血糊もほとんどないのではなかったか?。それでも、否それだからこそ、この映画は無茶苦茶怖い映画だと断言してもいいでしょう。これだけ有名な作品であるにもかかわらず、あまり観ている人がいないというのも特筆すべき点ではないでしょうか?(無論、熱烈ホラーファンであれば、当然100%観ているはずですが)少なくとも履歴書の趣味の欄に映画鑑賞と書く人には、「
風と共に去りぬ
」やデ・シーカの「
自転車泥棒
」、チャップリンの諸作品等と共に、必ず見なければならない映画の一本であるはずだ。ホラー映画とカテゴライズされる作品でこう言い切れる作品は非常に稀だ。他にないとも言える。ヒッチコックの「
サイコ
」も、「悪魔のいけにえ」(この邦題がよくないのか?)には敵わないに違いない。とにかく映画としてのパワーが圧倒的なのだ。
そんな「悪魔のいけにえ」の存在が、創造主であるフーパーを苦難に陥れるのだから、世の中とは分からないものだ。フーパーは職人監督として優れた手腕を持っているはずなのに、その腕を素直に発揮する機会がなかった。或いは自らが{いけにえ}となって自分の能力を素直に出す事を拒んだのかもしれない。プレッシャーという魔物がそこには見え隠れする。「悪魔のいけにえ」以後のフーパー作品はどれも中途半端だ。残念ながらフーパーは自分に敗れた映画作家なのだ。同じ事はロメロにも言えるのではないか?あまりにも有名になって色んな人間の意見を聞いている内に、肝心の自分自身が見えなくなってしまうのはよくある事だ。フーパーはマスコミとは一線を画すタイプであるので、その言動から何かを読み取る事は出来ない。一方ロメロはいろいろなインタビューにおいて、まるで自分がどこかの良識者になってしまったように殊更作品のテーマに言及し、自分の映画は決してゲテモノ映画ではないかのような物言いではないか。今、私達ははっきりと言わなければならないのかもしれない。ロメロ映画はどれも下劣なゲテモノ映画である、と。けれど「ゾンビ」のような圧倒的に面白いゲテモノ映画は過去にも、そしてこれからもないだろうと。作家達自らが、自分達をジャンル映画の枠に捕らえて、デュビビエやゴダールやオーソン・ウェルズに劣等感を持っている気がしてならない。それは悲しい間違いだ。もっと自由に自分の好きな物を素直に出せないものだろうか?最もこれが理想論だというのは当然の話だ。映画作りには莫大な金がかかるもので、スピルバーグのように好きに映画を作れる人はほとんどいない。それが現実だ。そのスピルバーグも迷走しているのだから、人生とは本当に面白いではないか。
「ダンス・オブ・ザ・デッド」はパワーに溢れた作品である。人間の不可思議さや怖ろしさを端的ながら表現している。死者のダンスに表されている人間の内面の姿を、あなたはキャッチ出来たでしょうか?作品全体に世界が見えるのもいいではないか。トビー・フーパーは自身の居場所をこの企画の中に発見したのかもしれない。だとしたら、このマスターズ・オブ・ホラーという企画は大成功だったといえるだろう。もしかしたら、私にとってのマスターズ・オブ・ホラー・ベスト1はこの「ダンス・オブ・ザ・デッド」かもしれない。最も順位など何の意味もないとは先程語ったばかり、ただ一つ言えるのは、トビー・フーパーはもしかしたら復活したかも知れないという希望だ。
人は希望無くして生きる事は出来ない。
「ダンス・オブ・ザ・デッド」 2005 アメリカ
監督 トビー・フーパー
主演 ジョナサン・タッカー ジェシカ・ロウンデス

わざわざアメリカくんだりまで足を運んで、赤ペン先生よろしく自分の作品を撮り直してきた律儀な監督の凱旋後の初監督作品が「
輪廻
」です。その割にはほとんど無視されたといわんばかりの、この作品への注目度の無さは一体何なのでしょう?日本人特有のひがみ根性爆発という事でしょうか?といっても、私自身この監督の作品には全く興味がないので、実は世間的には割りと注目されていたけれど、私の耳には入ってこなかったというだけなのかも知れません。
Jホラーなんてかっこ悪いネーミングを付けられて、「
リング
」以降雨後のたけのこのように製作されまくった日本製ホラー映画の流行も最近はどん引き加減のようで、日本のホラー専門監督達の不遇時代が再びやってくるのは確実なようです。最も、ホラー映画というものはいつの時代もそういう物です。ホラー映画というレッテルは、蔑みと嘲笑が常につきまといます。それは何故か?答えは簡単です。金を払って観るには許容しがたい内容の映画が他のジャンルに比べて遥かに多いという事実が歴然としてあります。偏見もまた然り。ホラー映画に限らず、分かりやすく直接的な物に対して、人間は認めたがらない傾向にあります。居酒屋での一場面として、「
タイタニック
」を面白いと肯定するよりも、「
タイタニック
」のここがつまらないと延々と指摘する方が何となく映画通っぽく見えるとか。くだらない事ですが、人間とはそういう見栄とか他人から見た自分の立場なんかにやたらこだわりを持つ事によって自分を保っている動物なので、こればっかりは致し方ありません。ホラー映画が持つ陰のイメージが一番の障害となっているという言い方も出来ると思いますが、それに関しては私個人は何ら抵抗はありません。陰の部分を明るみにするのが、ホラー映画の一つの命題であるわけですから、イメージが悪くなるのはむしろ当然と言えるでしょう。くさいものには蓋というわけですが、その分一級品のホラー映画には人間の本質が見え隠れしているといっても過言ではありますまい。
恐怖への欲望というのは確かに存在します。それについて延々と書き連ねるには、いささか推敲不足であり、ブログという形式にはそぐわないのでここでは言及致しかねます。「
輪廻
」は人々の恐怖に対する欲求を満たす事が出来る作品でしょうか?答えはYESであり、NOでもあります。まずYESですが、これはJホラーといわれる類の映画に免疫がない(全く観ていない)人に限られます。ただし、恐怖の次元は遥かに浅くて、高校生の文化祭によくある幽霊屋敷程度のものです。真っ暗な狭い空間に押し込められて、突然足に冷たいコンニャクをあてられたら誰でも多少の差はあれびくっとします。とても一時的な恐怖ですが、Jホラーといわれる映画は九割方そんなもんです。清水監督の代表作「
呪怨
」にしても、その範疇を出ていません。ショック・シーンの描写はよいのですが、それ以外のシーン(実は映画の大部分を占めるのだが)は退屈極まりないし意味不明な時もあります。「
輪廻
」も何一つ変わっていません。はっきり言って、変わらなさすぎです。つまり、免疫が出来ている(Jホラーには目がない人。そんな人がいるのかどうかは疑わしいですが)人にとっては、全く無用の映画でしょう。この手の一時的恐怖には、人はすぐに慣れてしまうものです。同じ幽霊屋敷に何度も訪れて、いつまでも新鮮に怖がる事が出来る人なんていないでしょう(というか、その人はどこかが正常じゃないですよ)。
呪いについてよく思うのですが、ホラー映画では何の罪もない人のよい女性(もちろん実際にはそんな人間は存在しないが、こと映画の世界では度々登場する)が、悪意に巻き込まれて殺害されてというパターンがよく見受けられる。そして、その怨念が人に害を及ぼすわけだが、その時怨念の捌け口にされるのが全然その人と無関係であったりします。これって、もの凄く理不尽だなぁと思うのは私だけでしょうか?大体、罪も無く人もよい女の子が、殺されたからといって人を呪うものなんでしょうか?何十年、場合によっては何百年前の怨念が現代に甦って、次々と何の関係もない無実の人達を殺戮していく話にはどうも私は乗り切れません。意味もなくただ人を呪い続ける怨念の方が、事件に巻き込まれて非業の死を遂げた悲しい人の怨念よりも、遥かにリアルだと私は思うのだが、どうなんでしょう?
「
輪廻
」でもたくさん人が死んでいくわけですが、私には???の連続でした。あるホテルで無差別に11人の人間を殺した男と、その被害者達の生まれ変わりの(ある意味全く無関係の)人達が繰り広げる物語ですが、途中、「男は気が狂って11人を殺害したと言われているが、実際には狂ってなんかいなくて、実験として11人を殺害したのだから男は正常だった」みたいなセリフがあるのですが、そんなセリフがまかり通るこの作品こそ正常さの欠片もないのではあるまいか?
Jホラーの衰退が現実の事ならば、私は大歓迎です。
「
輪廻
」 2005 日本
監督 清水 崇
主演 優香 香里奈

かつて天才の名を欲しいままにし、ハリウッドという王国さえもその手に入れてしまったかと思われたスティーブン・スピルバーグが、何故か迷走を繰り返している。ここ数年のスピルバーグは、一体何をしたいんでしょうか?それにしても、こうまで多作である必要があるのでしょうか?普通、名監督と言われる巨匠ともなると、歳と共に作品数も減って、自分が本当に好きな映画を執拗なまでに突き詰めていくイメージがありますが、スピルバーグはまるで多額の借金を抱えているかのように自転車操業的に次から次へと作品を吐き出しています。しかもそのどれもが素晴らしい名画で、尚創作意欲がつきないというのであれば、さすがスピルバーグはまこと凄い映画監督だと、皆が賞賛を惜しまずに早く新作を作っておくれと願うのでしょうけれど、実際にはどうでもいい感じ(駄作という意味ではありません。腐ってもスピルバーグ。世の全ての映画のレベルから見れば、水準より落ちる映画は一つとしてないのではないか?)の映画を連発して、最近では新作が出る度に私達は{またか}と思うようになってしまいました。しかも下劣な(褒め言葉・・・かな?)類の作品と、高尚な(ヒューマニズムに訴えるとでも言えばいいでしょうか?)類の作品を交互に製作するこのスタイル。私はこのスタイルがどうも気に入りません。もうどうせ長いことないのですから、白黒はっきりしたらどうなんだ、と。そして私はどうしても思ってしまうのです。昔のあんたは凄かったと。昔のあんたは惚れ惚れするほど変態的映画馬鹿であったと。スピルバーグ以外に誰が「
ジョーズ
」を撮れるのですか?誰が「
激突
」を撮れるのかと。この馬鹿野郎と。
さて「
宇宙戦争
」です。この邦題をいいと思う人、手を上げて(シーーーン)。ですよね。何故変えないの?H.G.ウェルズの原作を最初に邦訳した時にその題がつけられて、以来日本では慣例になってしまったので今回もそのままでいきました。って、お前は日本国政府か!ダメなものはダメと言える勇気を持たなきゃ。この題名は最低の見本ではないか?少なくとも私はこの題名のおかげで、この作品を劇場で観る気力がなくなった。いい題名がどうしても思いつかずについと言うのなら「タコお化けVS僕達地球人の戦争」でもいいじゃないか?とにかく「
宇宙戦争
」という題は全く持って意味不明だ。この作品の本来の意図とは、あまりにもかけ離れた題名ではないか?国民に美しい国づくりを強制する前に自分達が美しくなれよ、と言いたくもなるではないか?そうではないか?
さてさて「
宇宙戦争
」ね。このあまりにも有名な作品をスピルバーグが映画化する気になった経緯は、私には分かりません。トム君が{スティーブン、頼むよ。もう一本、もう一本だけだからさぁ}と野比のび太ばりに言い寄ってきて、にっちもさっちもいかなくなった挙句、たまたま書棚で目についた作品をトム君主演ででっち上げたとかそんな所でしょうか?きっとそうなんでしょう。当たらずも遠からずではないかと、私は思っています。実際、その程度の作品です。
もしくは、かつての盟友・ジョージ・ルーカスが「スター・ウォーズ」の公開に漕ぎ着けた時に、「
未知との遭遇
」というもう一つの伝説を対抗馬として突きつけたあの快感が忘れられず、「
スター・ウォーズ エピソード3
」にあてつけて、こっちも一花咲かせてみたくなったのかもしれません。スピルバーグ的には{どーして俺に「スターウォーズ」を監督させてくれなかったんだぁぁ}という妬みもあったのでしょう。この二つの偉大な才能は、例えるならTHE BEATLESのジョンとポールのようです。二人が手を組めば「インディ・ジョーンズ・シリーズ」くらいの奇蹟はすぐ起こせるのです。ルーカスは「スター・ウォーズ・サーガ」で、映画を超えた文化を作り上げ、インタビューでは度々引退をほのめかし自身が伝説を体現しようとしている一方、多作家のスピルバーグはかつてのようなビッグ・ヒットは望むべくもなく、昔の偉功で周りにちやほやされながらも何とも寂しい毎日みたいな。ね。今思ったんですけど、私なんだかんだ言ってもスピルバーグ、とっても好きな監督なのかもしれません。人間としてではないですよ。あくまで映画監督として。
スティーブン・スピルバーグは現代最高最強の映画監督の一人であります(もちろん最高最強はスピルバーグだけではありません。ボクシングでもチャンピオンは一人じゃないでしょ?WBCだのWBAだの)。
私はこう思うのです。引き際を心得て、自身の人生の頂点を見極め華々しく引退するのもとてもカッコいいですが、全然勝てなくなってリングに立つ度に鼻血だらけになって負け続けても、それでもやっぱりリングに立つ事をやめない人生も、とてつもなくカッコいいではないですか。映画、きっと大好きなんだろうな。スピルバーグ、あんたはやっぱり映画馬鹿だよ。だからもう道は一つに決めようよ、子供じゃないんだからさ。って、あぁそうか。スピルバーグは永遠の子供なんだ。じゃあ仕方ないか・・・。
「
宇宙戦争
」 2005 アメリカ
監督 スティーブン・スピルバーグ
主演 トム・クルーズ ダコタ・ファニング

{いとしの}とくれば、ある世代の人にとっては{エリー}であると、絶対に{エリー}でなければならない、と言い張る人は放っておいて、「愛しのジェニファー」です。毎度おなじみになりつつある、マスターズ・オブ・ホラーの一遍であります。
ジェニファーって聞くと、ある世代の人にとってはジェニファー・コネリーであると、絶対にジェニファー・コネリーでなくてはならない、って思ったのは私です。だって、監督がダリオ・アルジェントって書いてあったし、音楽シモネッティ(もちゴブリンの人でしょ?違ったっけ?)だし・・・。ダリオ・アルジェントの代表作といえば、あの妙ちくりんな魅力あふれる「フェノミナ」でしょ?ジェニファー主演の。ここで「サスペリア」でしょ、と言ったあなた。きっと基準が全然違います。「サスペリア」のジェシカ・ハーパーよりジェニファーの方が私はグッとくるわけです。だから「フェノミナ」が代表作です。ハッとしてグッって田原俊彦も歌ってたでしょ。音痴だったけど、それも魅力の一つでしょ?と、同じような理由で、アルジェントといえば、ちょっと意味不明、支離滅裂なところが魅力なわけです。
映像的には、やや昔の全開バリバリ・アルジェントの画って感じがしませんね。(どこか安っぽい画という点では変わらず健在ですが)最近はこうなのですか?ちょっと普通のアメリカTVドラマっぽい映像ですね。アメリカのTV用映画だからでしょうか?スタッフ全員アメリカの方なの?あれあれって感じで話が進んでいきます。で、ジェニファーはというと、ジェニファー・コネリーとは似ても似つかぬもんの凄いお顔をしていらっしゃいます。はっきり言ってやり過ぎです(もちろん褒め言葉ですよ、念の為)でもって、もんの凄いナイス・バディです。当然のように、ほしのあきを彷彿とさせる感じで見せる所全部惜しげもなく見せてくれます。車だろうがベッドだろうが、やるときゃやるのよあたしって感じで、とにかくナニするのが大好きな女の子みたいです。アルジェントってこんな作品撮る人だったかしら?まぁ実の娘(ロメロ作品「ランド・オブ・ザ・デッド」の主役アーシアです、念の為)を主役に抜擢して、カメラの前であんな事やこんな事平気でさせる人ではあったわけだから、もとから変態には違いないのだろうけど。でも、昔はもっとじとっーとしてもやもやとした陰湿な変態でしたよね。私の勝手な妄想だったのかな?とにかく、映像的にはちょっと印象違うなぁと、それだけの事です。なんだ、一行で済むじゃん。
それでもストーリーはというと、もうまんまアルジェントです。相変わらず話の展開は非常識に突っ走っています。シナリオがどうとか、実際にこういう状況ではとか、とにかく理屈ばっかりこねたがる頭の固い人には???の連続で、ただのクズ映画のレッテルを貼られてしまうのかも知れません。けれど断じて言いますが、アルジェントの作品はこれでいいのです。これでいいのだ。何故ならそれこそがアルジェントのアルジェントたる理由なのだから。その監督の世界を楽しむのが、正しい映画ファンの姿勢であると、私は心から信じます。きっちりとした脚本の面白さを存分にいかした見応えある映画ももちろん肯定しますが、個人的には脚本なんかなくたって面白い映画は幾らでも出来ると私は信じています。映画とはストーリーだという人がいます。もちろん、それはある意味正しいのだけれど、本来映画とは光と陰と音の芸術(最もサウンドという点では、このところたいした映画はありませんが。特に最近の日本映画はここが最も軽視されていると思いませんか?その現況はハリウッド映画にありというのはもはや周知の事実。映画における音の存在はシナリオより重い場合もあると早く気づくべきだ。サウンドありきの映画としてはデビット・リンチの「イレイザーヘッド」を観て見て下さい。あの映画が何故カルトとして熱烈に存在しているのか?それはサウンドと映像の素晴らしい融合ありきだと実感して頂けるのでは)であり、ストーリーは副産物みたいなものだとも言えなくはないはずです。
しかしながらアルジェント作品の不可思議さは、そういう次元ではなく、ただ単に作り込みの甘さなんだというのは正しい物の見方です。そうとう話が脱線してしまいました。アルジェントに関して言えば、そういう部分にはまるっきりこだわりが最初からないのでしょう。アルジェント作品は言ってみれば、カーニバルの隅っこで人知れず幕を開けている妖しげなフリーク・ショーなのでしょう。観たからといってどうなるわけでもなく、終わってしまえばすぐに忘れてしまう類の物に過ぎません。けれど、カーニバルを見に行けばなんとなく足を運んでしまうでしょう?お化け屋敷のない遊園地なんて、チャーシューのないラーメンみたいなもんです。人は何故暗闇に恐る恐る足を運んでしまうのか?そこで自分の中に芽生えるある種の心の揺らぎを期待しているわけです。心の揺らぎとは何か?その答えはアルジェントの映画の中でも見つける事が出来るはずです。子供でも分かるようなシナリオ上の欠陥を、何故わざわざアルジェントは残しているのか?アルジェントにとって、映画には何が必要で何が不必要だと思っているのか?
筋を追うだけが映画の見方ではありません。だからこそ、アルジェントにはたくさんの信奉者がいるのではないのですか?アルジェントの描く人間の心の闇にも、たまには触れて見てはいかがでしょうか?恐れる必要はありません。だって、ただの映画ですから。けれど油断は絶対に禁物ですよ。何しろ映画とは、実にやっかいな人生そのものですから。
「愛しのジェニファー」 2005 アメリカ
監督 ダリオ・アルジェント
主演 スティーブン・ウェバー キャリー・アン・フレミング

子供向けの日本映画の代表といえば、かつての東宝ゴジラ・シリーズを思い浮かべますが、日を追ってすくすくと成長を続ける日本人の幼年期症候群が、子供達からゴジラさえも奪う今日この頃。子供達にかつて自分達(といっても、鉄人をリアルタイムに楽しんだ人って、今何歳くらいなのでしょう?)が楽しんだ物を無理矢理押し付ける親というのは、本当に多いですよね。自分が楽しいから他の人も同じように楽しいなんて事はさらさらないし、我が子といえど一人の個人である事には変わりがないわけで、そういう行為は本当に迷惑千万なわけで。大体、子供というのは勝手に自分達で好きな物を探す能力を持っているわけで、それを阻害して型に押し込めるのはマニュアルなしには不安でたまらない人間を増やすだけですから、いい加減やめましょう。
さて、「
鉄人28号
」は子供向けだと一刀両断して蓋をしてしまうのに丁度いい映画ですが、それは子供に対して失礼ですね。こんなもん楽しめる程、度量のある子供はいないですよ。大人が観てつまらない物は子供が観たってつまらないに決まってます。ましてやこの日本で。それにしても何故、鉄人?
横山光輝。いやぁ、懐かしい名前ですね。私もかつては漫画少年でしたので(それも古い作品が好きでした。手塚治虫とか石森章太郎とか白土三平とか永井豪とか松本零士、今の子供達は知らないのかな?)よく古本屋を回っては、いろいろと読みあさったもんです。横山作品では「バビル2世」と「伊賀の影丸」がお気に入りでしたね。本当、何度も読み返したものです。「
鉄人28号
」も何冊か持っていたはずですが、正直あまり印象にないですね。鉄人さんは、やたらガオーって叫んでた気がするのですが、気のせい?今回の映画では叫んでなかったようですが、何ででしょう?叫べよ、鉄人!ガオー、ガオーってと、映画を観ながら思っていました。マンガというのは言って見れば何でもありの世界なわけで、そこが一番の魅力だったりするわけですが、この映画は明らかにマンガチックな世界観を作り出そうとしているにもかかわらず、マンガになりきれないもどかしさを感じます。それともマンガから離れてリアルな感じを出したかったのに、作り手が子供っぽいから中途半端にマンガっぽいという悲惨な結果になったのでしょうか?ちょっと信じ難い話ですが、以前「
ドラゴンヘッド
」というやはりマンガを原作にした映画を観た折に、そういう事も世の中にはあるんだと気づかされた事があるので、何とも言えませんね。「
ドラゴンヘッド
」(笑)思い出しちゃった。もうご覧になりましたか?「
ドラゴンヘッド
」(笑)まだ観ていないあなた。顎外れるから、気をつけて観て下さいね。それにしても、最近マンガを原作にした映画なりドラマなりが大流行してますが、どうしてですかね?ネタ不足とか簡単に集客がみこめるとか最もな理由は幾らでも考え付きますが、その前にマンガほど(無論、極端にドラマに歩み寄ったマンガは別ですが)実写にするのが難しい媒体はないという当たり前な結論に、どうして皆、目をつぶれるのでしょう。私的にはマンガで面白いものはマンガで楽しめばいいじゃんって気がしますが。TVドラマに関しては、基本的に私は見ないですし、番組編成上いやがおうにもネタを探してこなければいけないわけですから、それもありかなと思います。けれど映画に関しては、無理矢理ネタを見つけてきてっていうのは必要ですか?前に書いたかもしれないですが、本当に撮りたいものがなければ、撮らなければいいのに。「
鉄人28号
」に関して言えば、誰もきっと心からこの映画を撮りたいと思っていたわけではないでしょうに。仮に、心から作りたくてこの出来なら、きちんと現実に目を向けて生きていきましょうよと言いたくもなりますね。世の中仕事は幾らでもあるわけですから。
少し前に「
サンダーバード
」の実写版映画(当然昔のTVシリーズも実写ですが、人形に合わせて{ハイ、パパ}ってセリフを吹き込むのではなく、普通に人が出て来て{ハイ、パパ}って言うという意味)が公開されましたが、あれも酷いという点では「鉄人」と大差ありませんでした。最新のCG技術は、映画の面白さとはまるで関係がないという最良の例です。ようするに作り手のこだわりとか意識とか、そういう目に見えない力は観ている私達に伝わるという問題ではないのか?あ、なんか映画観ている時は虚脱感と退屈さしか感じなかったけど、なんか腹立ってきたなぁ「
鉄人28号
」。
TVにしたってデジタル化で画面がきれいとか言われても、今ので十分だよって私は思うわけです。別にアナログでいいって人には、そのまま普通にアナログでも見られるようにすればいいのにって思いませんか?NHKの視聴料ってあんなに高い必要ありますか?極論で言えば、NHKなんてずっと字幕放送のみにして必要なニュースとかだけ人が出て来て喋るだけの局でいいわけで、そうすれば一世帯月10円とかで済むでしょうに。お年寄りの方達が見る番組がなくなるとか知ったふりをして語る人がいますが、これからあっという間に日本は超高齢化社会になっていくわけで、そうしたら民放だってニーズに合わせて番組を変えていくに決まってるじゃん。もっとはっきり言ってしまうと、TVって必要ですか???と、私の場合はなるわけです。なんか支離滅裂になってしまいましたが、それは「
鉄人28号
」のせいです。全て
鉄人28号
さんがガオーって言わないのが悪いのです。きっと・・・
「
鉄人28号
」 2005 日本
監督 冨樫 森
主演 池松 壮亮 蒼井 優 (あっ、「Dr.コトー診療所」まぁまぁだったねぇ。前のが面白かったって、TV見てんじゃん、俺。しかもマンガ原作じゃん、これ・・・)

何者かに身体を乗っ取られる。これは古くからあるホラーやSFの一ジャンルとして確立されている。外部からテレパシーのようなもので操られたり、何らかの器具を体内に埋め込まれたり、心霊のような目に見えない物に憑依されたり、この「虫おんな」のように生物に潜りこまれたりと様々だが、乗っ取られた人達は概ね人に害を及ぼす(理性を葬られるといってもいい)。乗っ取られて{いい人}になってしまうのも、作りようによっては面白い作品が出来上がる(大林宣彦監督の「転校生」とかが好例ではないか?)だろうが、人は乗っ取られる=恐怖という図式の方に傾くのが本来正常な感覚といえるのでしょう。実際に私達は、狼憑きや精神異常といった病や、ドラッグ等の過剰使用といった状況からそれらに近い状況を目にする事が出来る。史上最高の高齢化社会を迎えた我が国にとっては、最も誰もが体験し得る可能性があるのが、痴呆という病による人格の喪失ではないでしょうか?昨日までお互いに愛し愛されていた者が、ある日一方的に片方からしか認識出来なくなってしまう悲しみは、一抹の恐怖を孕んでいるはずだ。失う恐怖と置き去りにされる恐怖。現実問題として、人間はこの恐怖をどうやって克服していくのでしょうか?痴呆患者が増加していくのは、もはや避けられないのが現実であるわけで、それによって今までになかった悲しくも怖ろしい事件や問題が起こらない事を願ってやみません。私にとっても他人事の問題ではもちろんないわけで、社会が一丸となって問題解決に協力を惜しまない状況をつくれるといいですね。医学の発達によって、そのような病気が根絶される日もくるのかも知れませんが、今はとにかく一人でも多くの人が知識を持ち認識する事が大事なのでしょう。
繰り返しになりますが、「虫おんな」のような映画は今までにもたくさん存在します。「ジキル博士とハイド氏」というスティーブンソンのあまりにも有名なホラー小説を例にあげて、そこから歴史を紐解くのもそんなにむずかしい事でもないでしょう。直接的な原型を上げるならば、「蝿男の恐怖」等の50年代後半から60年代に大量に製作された低予算のホラー映画群が思い出されます。いやはや人間は本当に様々な物に乗っ取られているわけです。こんなに弱い生物もいないのではないでしょうか?今回は未開の地で発見された新種の昆虫が主役です。ま、タイトルがまんまなので言うまでもない事ですが。日本人は世界でも最もこの「〜女(もちろん男でも可能)」を想像した国民なのではないでしょうか?その責任の一端は一人の漫画家の存在です。石森章太郎の「仮面ライダー」だけでも、わんさか出て来ます(改造人間と乗っ取りは違うだろうという人がいるかもしれませんが、荒唐無稽という点ではどちらも同じでしょう)。「仮面ライダー」は、主人公の悲哀が物語の核となっています。その意味では傑作「人造人間キカイダー」と同じです。50年代に生まれたこれらのモンスター映画でも、良作は総じてこの悲哀という問題が多少の差があれ影を落としています。これはメアリー・シェリーの「フランケンシュタインの怪物」の影響もあるのかも知れません。これらのモンスター達は総じて孤独であり、自分をうまく表現出来ない不器用な存在です。そう考えると現代の私達は少しづつモンスターに歩み寄っているという言い方も出来るのかも知れません。他者とうまく接する事が出来ないとか。言葉よりも先に暴力でしか語れないとか。一つ一つは小さな問題ですが、近頃のニュースを見ていると何故か不安になります。
「虫おんな」は軽いコメディ調に物語が語られています。主役を演じる二人の女性は同姓愛者であり、そういう意味では社会の多数決による常識からは一歩外に出ている存在です。作りようによってはもっとずしんと重く暗い映画になってしまうのを、避ける為のコメディ調という気もします(もっともホラーとコメディは表裏一体なので、これは私の深読みかもしれません)。虫おんなに変身する女性は、どこか自ら進んでその道を選んだと思わせる節があります。それは愛ゆえにな行動なのでしょうか?それとも孤独を恐れるあまりの恐怖ゆえの行動なのかもしれません。
「虫おんな」 2005 アメリカ
監督 ラッキー・マッキー
主演 アンジェラ・ベティス エリン・ブラウン

ジョージ・A・ロメロの降板を受けて、マスターズ・オブ・ホラー企画に代役として選ばれたのが、ジョン・マクノートンです。何故、マクノートンなの?という疑問はさておき、出来上がった作品「ヘッケルの死霊」は、彼らしい?変態エロティック・ホラーとしてマニア注目の一本となりました。
物語は、死んだ妻を生き返らせてくれとネクロマンサーに懇願する男に、ネクロマンサーがある話を聞かせるという劇中劇の体裁をとって始まります。怪しげな老魔女が語るわけですから、どんだけ怖ろしい話なんだと妄想に次ぐ妄想の嵐ですが、私なんかはもうそれだけでお腹いっぱいですが、映画は勝手にどんどん話を進めてしまいます。ゲップ。
優秀で自信満々の嫌な奴が主人公ヘッケルです。こういう人間が世の不思議に直面して鼻っ柱を折られるのは、とても小気味がいいじゃないですか。科学を信じ、何故か科学の力によって死者を生き返らせる事が可能だと信じるヘッケルは、もうこの時点でちょっといかれ気味ですが、とにかく科学では説明のつかない妖しい世界に、自分より一歩先んじた奴が存在していると知り、いてもたってもいられなくなります。あなたの周りにもいるでしょう?こういう自信過剰の傲慢人間。そこでヘッケルが体験したのはめくるめく禁断の園だったわけですが、この時点で私達は実はヘッケルなる登場人物はどうでもいいんだと気づかされます。
エレーズ。美しい人妻の登場です。そしてこの女性はとても変わった趣味をお持ちなのです。簡単に言うと、墓場でゾンビとナニをナニしてナニするのが人生最大の喜びなのです。ゾンビとスワッピングとは、こんな映画かつてあったでしょうか?あほくさい、と言ってしまえばそれまでですが・・・。監督はこれを究極の愛の物語だと本気で思っている節がありますね。スティーブン・キングの「ペット・セマタリー」を究極の愛の物語と断言する人もいるわけですから、さもありなんというわけです。
女性が性に対して積極的になったのは、別に今に始まったわけではないのでしょうが、これまでは何かと抑圧されていたわけです。日本にも「源氏物語」なんて女性の手によるエロ小説も書かれていたわけですし、きっとどの時代も見えないところでぐっちゃんぐっちゃんだったのは概ね想像の範囲内です。が、時代も変わればナニも変わるというわけで、現代の日本はいささか度が過ぎてきた気がしませんか?現実が映画を遥かに越えてぐっちゃんぐっちゃんの今、私達は一体映画に何を求めればよいのでしょうか?この映画から本来受けるべきインパクトも、哀しいかな現実のぐっちゃんさに負けてしまっています。もう頭の中で煙出ちゃいました状態です。
とにかく三度の飯よりナニが好きなあなたは、ぜひこの映画を覗き見してみて下さい。くれぐれも煙を上げないように。それでなくても、私達には未来を託す者達が減り続けているという厳しい現実があるのですから。
「ヘッケルの死霊」 2005 アメリカ
監督 ジョン・マクノートン
主演 デレク・セシル

私事ですが、先月スペインへ旅行してまいりました。バルセロナからセビリア〜マドリッドへと巡ってきたわけですが、その途中にトレドという街を探訪したのですが、とても気持ちのいい雰囲気をもった古臭い街で、実によかった。正直、他の街はどうでもいいわい位の、感激でした。トレドはとても小さい街ですが、1561年に首都がマドリッドに移るまでは、文字通りスペインの首都として数々の権力者の根城として栄えていたようです。16世紀の画家エル・グレコの生地としても有名で、グレコの家は今も人気の観光地になっています。石畳の細い路地が迷路のように入り組んでいて、そこを歩くだけでもわくわくしてきますが、先々には城や聖堂といった見所はあるし、見晴らしのいい場所に出ると、半円形にタホ川に囲まれて、まるで外界から遮断された謎めいた地のようにも思えて、その風景はまさに絶品です。街全体が世界遺産に指定されているのも当然です。
さて、「ペンデュラム」はそのトレドが舞台になっています。といっても、設定がトレドというだけで、トレドでロケをしているとか実際の街の映像を使用しているとか、そういう事は一切ありません。セリフでトレドという言葉が出てくるだけで、それがなければどこだか全くわからないです。はっきり言って、場所はどこでもいい作品です。
15世紀後半のヨーロッパといえば、宗教裁判という名の迫害がそこかしこで行われていた暗い時代です。幾多の映画で、その様子は様々に描かれています。ホラー映画を愛する人々にとっては{魔女狩り}というキーワードが心をくすぐるかもしれません。生きたまま無実の人々が権力者の勝手な理由で生きたまま焼かれていく。悲惨な話ですが、このような状況は現在も場所によっては公然と行われているわけです。その事を私たちは日々のニュースの中で、わりかし簡単に聞き流してしまっているわけですが、本当にそれでいいのでしょうか?その答えは風に流されています。
この映画の主人公・トルケマダ神父は迫害する側の権力者です。厳格な大審問官として、スペインのキリスト教徒達を恐怖で統治しています。劇中には有名な拷問道具が小道具としてたくさん登場します。最も、映画としてはそれらはあまり効果的に使われているとは言えません。逆に言えば、これらの拷問道具がおおっぴらに使用されない故に、この映画はちょっとしたゴシック・ホラーの体裁を手にいれています。
まぁ、それが良かったのかどうかは、なんとも言えませんが。
物語としてのもう一人(つがいなので実際には二人)の主人公は、清廉潔白の聖母のような存在として登場する、パン職人の妻マリアです。教会(トルケマダ神父)の所業に反を唱え、異端審問にかけられるマリアを何とか助けようとする夫の活躍がサイド・ストーリー以上の役割を演じてみせるわけですが(この一介のパン職人はやたら強かったりします)、私はこの辺りはばっさり切って、トルケマダ神父とマリアのみに焦点を絞った方が全然面白くなるだろうにと、少々不満でした。よくある冒険活劇然とした夫の活躍は、私の場合ちょっと白けました。登場してマリアが捕まった時点であっさりお亡くなりになっていたとしても、映画は立派に成立するはずです。何故ならこの映画の主題は、トルケマダという権力の頂点に立つ男の心の葛藤なわけですから。男性として不能のこの男は、力づくでマリアの中に分け入ろうと試みるも失敗して、マリアの舌をちょんぎってしまいます。欲望を抑えきれない男(あるいは女)がこのように手近な者に暴力を揮うのは、今ではあまりにも当たり前の問題として社会で浮き彫りになっています。トルケマダは自分の行いによって地獄に堕ちて行くわけですが、その内面が掘り下げられてはいないため、この映画はその辺によくある{めでたしめでたし映画}で終わってしまいます。この映画が百年後も語り継がれる事はないでしょう。勿体無い作品です。
「ペンデュラム 悪魔のふりこ」 1991 アメリカ
監督 スチュアート・ゴードン
主演 ランス・ヘンリクセン ローナ・デ・リッチ

マスターズ・オブ・ホラーはアメリカのケーブルTVの企画だったでしょうか?13人の有名ホラー監督がそれぞれ一本づつ演出した一時間のTV映画でホラー・マスターの座を競いあうという、実に面白い企画です。日本からは三池監督が参加しました。当初はジョージ・A・ロメロの名も挙がっていたと思いますが、結局参加しなかったみたいですね。「ランド・オブ・ザ・デッド」で忙しかったのでしょうか?ロメロは企画段階で終わってしまうものが実に多いですね。なんなんでしょう?最も参加したとしても、一番つまらなかったじゃちょっち寂しいので、それはそれで良かったのかもしれませんが・・・。
「ムーンフェイス」はそのマスターズ・オブ・ホラー企画の13本の内の一本です。というわけで一時間弱の作品ですが、短いのはいいですね。最近の映画はインド映画並みに長尺のものが多くて、ケツは痛くなるは小便はちびりそうになるは、イラっとくる事が多くないですか?無論、面白くて全然時間が気にならないという作品もあるにはありますが、はっきり言って滅多にないです。人間はそんなに集中を持続出来る生き物ではないわけですから、長いというのはそれだけで損をしていると思わないのでしょうか?ビデオ(最近のDVDは尚更)になると、劇場よりも長いバージョンになっていたりする事があったりしますが、あれもどうなんでしょう?いらないシーンを(もちろんなくなく切る場合もあるのでしょうが)水増しした所で、作品がよくなる事はありえないでしょう?長くして作品が更に良くなるのであれば、劇場公開版こそ一番長いのが正解でしょう。そもそも映画とは映画館で観るのがベストであるべきなのですから。
ドン・コスカレリ監督ですか。何か懐かしい名前だと思ったのは私だけでしょうか?「ファンタズム」は幼稚な映画ではありますが、そこそこ楽しめるホラー映画だったという記憶はありますが、それ以上でもそれ以下でもありませんね。他にこの監督の作品で観た事があるのは、題名は忘れてしまいましたが、少年が主人公の幼稚な(こればっかりですが、私の中ではコスカレリ=幼稚は定説です)映画の二本だけです。どちらも相当昔の作品ですし、なかなか見直す機会もなく、現在に至るわけですから、懐かしいと思うのも無理はありません。私の中ではもう故人だったといってもおかしくないコスカレリ監督ですが、実際には「ファンタズム」をシリーズ化して、作り続けているようですね。頭が下がります。その恐るべき執着心が、マスターズ・オブ・ホラーへの参加に繋がっているのは疑いようもありません。
「ムーンフェイス」は、「悪魔のいけにえ」以来よくあるホラー映画の一本です。人気のない田舎の土地にわけのわからん殺人鬼(人を超えた人とでももうしましょうか?未知の世界のクリーチャーと申しましょうか?どちらにしても化け物には変わりない)が隠れ住んでいて(何故隠れ住んでいるのかは永遠の謎だ)、蜘蛛の糸にかかった虫同様に罠にかかった人間を血祭りにあげる御伽噺ですね。もちろん主人公には美しい女性が最もふさわしいわけで、その辺はきちんとルール通りです。こういう映画では決まって、以前「クライモリ」で書いたような若者グループが次々と餌食になっていくのが常ですが、時間が短いという制約があるため、今回は女性一人です。この女性がサバイバル・マニアの変質狂的夫のDVから逃げている途中で事件に巻き込まれるわけですが、女性は夫からサバイバルの英才教育を受けていて怪物から逃れるのに大いに役に立つというこの設定、どうにもこれをやりたかったから無理矢理そういう設定にしたというのがみえみえです。ラストのオチもそれほど気がきいているようには私には思えません。マスターズ・オブ・ホラーに参加するからには結果を残したいという幼稚な(笑)頑張りは認めますが、気合が作品に反映されるにはコスカレリはいささか力量不足なのでしょうか?その答えは現在公開中の最新作「プレスリーVSミイラ男」(なんて幼稚そうな映画でしょう)を観てから下したいですね。
ともあれ、現在マスターズ・オブ・ホラーの第二弾がアメリカでは進行中のようです。一本でも多く傑作が生まれる事を願ってやみません。くれぐれも質より量という結果に終わらないといいのですが・・・。
「ムーンフェイス」 2005 アメリカ
監督 ドン・コスカレリ
主演 ブリー・ターナー ジョン・デサンティス

毎年、師走を迎える季節になると、ニュースにて様々な不愉快なニュースが伝えられる頻度が高くなる気がするのは気のせいだろうか?
一年の締めくくりという意味合いを兼ねて、この辺で世の負の部分を考え直してみようとか、来年はもう少しまともになりましょうよという自戒の念から、そういう気分を演出するのも分かる気もします。が、最も大切なのは、噴出した問題点をどう解決していくかという点であり、思考を継続させていく或いは忘れずに心に刻み込んでいく作業であるはずなのに、来年になると、全てなかった事として無理矢理明るくポジティブにを前面に押し出すのが、この国のTVというメディアです。
{皆さんの心には何が残りましたか?}と、毎週映画が放送される度に締めくくりの言葉を残していた人もいましたが、今年一年の間に心に残る事なんて、私自身はたかがしれています。細かい事を除けば、何もないと言っても過言ではない気もします。でもそれは仕方のない事でもあります。人間、長く生きれば生きる程、かつて体験した事が雪だるま式に増えているわけですから。新鮮な出来事なんてそうそうなくなって行くのは不可避です。
映画もまたその過程から逃れる道はありません。そもそもシェークスピアの時代に、物語のパターンは出尽くしているわけで、CGの発達により驚異と感じられていた映像技術も、今では慣れてしまって{はぁ〜ん}って感じは否めません。何度も言ってる気がしますが、人間にとって慣れという感覚は、とてもホラーな部分であると今更思いしらされます。
「ゲロゾイド」って・・・。なんて救いようのない題名でしょう。この邦題をつけようと思いついた人の苦労が忍ばれると共に、私には常軌を逸しているとしか思えません。世に数々の?邦題がありますが、ことホラー映画の世界ではその数はバベルの塔のように果てしなく高く、ある意味無限の広がりを持っていると言えるでしょう。それはさておき、肝心の中身ですが、見終わった後の私の感想は{「ゲロゾイド」ねぇ、いいんじゃない、その題で(笑)}って感じです。
来る80年代を前にその雄姿を誇示した「ゾンビ」の登場と、その数年後に笑えるホラーとして絶大な人気を誇った「死霊のはらわた」が作り上げた一大ゲテモノ映画バブルがやっと(笑)はじける寸前である88年に、この「ゲロゾイド」は製作されました。もちろんイタリア映画です。分かる人には言わなくても分かる(マニアとはこのしょうもない邦題を見ただけで、全てを理解する優れた読解力を持つ人の事をいうと言っても過言ではあるまい)と思いますが、イタリー製ホラーです。ステディカムの使用といい、「死霊のはらわた」の直系の子孫です(もちろん出来の悪い息子の方。世の中は往々にして・・そうではないか?)今上げたキーワードだけでも内容は知れたもので、一言でいうと{わけわからん}映画です。砂漠の砂粒の如く世に存在する映画の中から、わざわざこの映画のために一時間半を費やした方々は、ある意味宝くじに当たったのにごみに出しちゃった人的な奇蹟を体験した人ではないでしょうか?{つまらないの?}と聞かれれば、{つまらないね}と答えるしかありませんが、{じゃあ見ない方がいいの?}と問われれば、{それはどうだろうね}というしか出来ません。もしかしたら、このつまらない映画一つで酒場の一時が実に楽しく過ごせたという人(もちろん、べろんべろんに酔っ払っているという前提が必要だが)も出てくるかもしれませんし。究極に素晴らしい映画を求めるのと同様に、究極にしょぼい映画を探求する自由も我々は有しているのです。余裕と言ってもいい。そう、余裕ですね。こんなのも観ちゃった的な(笑)。余裕のない人生なんて、スパイスの足りないカレーのようなものだと、「ゲロゾイド」は私に語りかけてくれました。ただし、「ゲロゾイド」を観ながらカレーを食べるのは絶対にやめましょう。一生心に傷が残る自体に陥る危険がありますから。なにしろ「ゲロゾイド」ですから(ウェッ)。
「ゲロゾイド」は忘れ去られた(葬られた?)ロスト・ムーヴィーのひとつですが、世の中にはカルト作と祭りあげられているしょうもない映画もたくさんあります。完璧でない事の魔力はしばしば人を引きつける魅力を持っている場合があります。そういう多数決に左右されない作品を見つける楽しみは、実は映画の楽しみ方の基本の一つといえるのではないでしょうか?「ゲロゾイド」も、例えば女優さんがめっちゃきれいだとか、そういう売りが一つでもあれば、カルト作と言われていた可能性もないわけではないのですから。「ゲロゾイド」こそ、わが生涯のベスト1だと臆面もなく断言出来る人の登場を願ってやみません。個人的には、その人とは絶対に関わりたくはないですけど(笑)。
最後に一言。「ゲロゾイド」のパッケージには{ヨーロッパ中を恐怖のどん底に叩き落とした衝撃の映像が遂に日本上陸}と景気よいコピーが炸裂しています。ヨーロッパ中の人々、大丈夫か?(笑)
「ゲロゾイド」 1988 イタリア
監督 アンドレアス・マルフォーリ
主演 コラリーナ・カタルディ
(ちなみに登場人物 ゾンビを含めても5人です。少なっ)
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