
映画は驚異と不思議に満ちた玉手箱のようなものだ。私達は真っ暗な劇場という密室に胸をわくわくさせて足を踏み入れる。思いもよらないセンス・オブ・ワンダーを疑似体験するためである。ところが、ここ数年、私にアメージングを感じさせてくれる映画は皆無になった。ピーター・ジャクソンの「
キング・コング」には大いなる期待を抱いたものだが、CG技術の驚異を魅せてくれただけで、作品そのものには失望すら感じた。見た目だけが豪華で味のない料理を食べさせられた感じと言えば分かってもらえるだろうか?「
ロード・オブ・ザ・リング」三部作を作り上げた男が、「ブレインデッド」の時代を振り返る事等ないというのは百も承知だが、ピーター・ジャクソンは大きな物を手に入れたと同時に、大事なワンダーを捨ててしまった。私は別に「ブレインデッド」を高く評価するわけではないが、あの作品には不気味悪い何かがあったとは思いませんか?ジャクソン版「
キング・コング」はよく出来ています。つまらないとは言えません。私にとっては、あのスティーブン・スピルバーグを思い出させる映画でした。スピルバーグは偉大な映画監督の一人です。どの作品もつまらないと切り捨てるわけにはいかない物ばかりです。けれど、「
E.T.」以降のスピルバーグ作品に、私はセンス・オブ・ワンダーを感じた事はありません。手を変え品を変え同じ物を見せられている気さえします。そこには「
ジョーズ」や「
未知との遭遇」にあった狂気が存在しません。実に残念な話ですが、もっと残念なのはこれがスピルバーグだけの話ではないという事実です。得るものあれば無くすものあり。それが人間なのだと言われればそれまでですが、好きな作品が見つかれば、もう一つと期待してしまうのもまた事実。世の中うまくいかないものですなぁ。
アンブローズ・ビアスについては説明の必要はないでしょう(説明が必要だという人がもしいるのならば、あなたは今何を使ってこの文章を読んでいるのですかと言うしかありません)。アメリカが生んだ偉大な作家の一人であり、主に幻想・怪奇物や戦争物に傑作を残しました。「
ふくろうの河」はフランス人がこのビアスの作品を映画化したものです。後にアラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラ主演の抜群に面白い映画「
冒険者たち」を世に送り出したロベール・アンリコの出世作として知る人ぞ知る映画であり、センス・オブ・ワンダーとは何かを実に唐突に簡潔に示すうってつけの教材ともいえる作品です。白黒でしかも短編作品(30分ありません)なので、絶対に観てやるという気迫がなければなかなかお目にかかれないのではと思っていたのですが、最近とある電気量販店のDVDコーナーで見つけてしまいました。凄いねぇ。何でもあるんだねDVD。三篇の短編の中の一遍としてDVDに収められているようですが、もともとオムニバス的なものだったのでしょうか?他の二編がどんな作品なのか気になりますが、私は購入には至っていません。
私がこの作品を最初に観たのは、もう随分昔で、「ミステリー・ゾーン」というアメリカのTVドラマの一話としてでした。ロッド・サーリングが解説をつけていて、数分間カットされているヴァージョンという事になります。番組打ち切りが決まっていた「ミステリー・ゾーン」ですが、一話分足りなくてしかも制作費がもう尽きていた為に、苦肉の策として買い取られ放映されたそうです。敢えていいますが、この作品が「ミステリー・ゾーン」の一話として放送されたのは、番組にとっては大変恵まれていたように思います。何故なら、これほどまでに番組の趣旨を最高の形で示しているエピソードは他にないからです。なるほど「ミステリー・ゾーン」には記憶に残る楽しいエピソードが幾つもありますし、センス・オブ・ワンダーとはこんなようなものだよとお手軽に示してくれたという功績もありますが、つまらない作品の方が遥かに多く(後にスピルバーグ一家が映画化した「TWILIGHT ZONE THE MOVIE」がいい例ではないか?)安いセンス・オブ・ワンダーを量産しただけという印象しか残さなかった可能性すらあったのは想像に難くないではないか。終わりよければ全てよし。「ミステリー・ゾーン」の最終回として見事に番組を締めくくったのが、あろう事かフランス人の作品だったという事に、なにやら皮肉めいたもの(因縁に祟られたと言ってもよいが)を感じるのが、また楽しからずや。
「
ふくろうの河」は間違いなく傑作です。それはラストのワンカットの神々しさを観れば明らかでしょう。ある河に掛けられた橋の上で、一人の男が今まさに縛り首の刑を執行されようとしている冒頭シーンから、あなたは一体どんな物語を想像する事が出来ますか?観るものが抱く想像力は無限です。人間のイマジネーションを逆手に取ったとも言えるこの作品が、日本の現在の若者達にも受け入れられるのか?私はそれがとても心配です。この作品は想像力に満ち溢れた人ほど、大いに楽しめる作品だからです。あなたの想像力は映画を超える事が出来ますか?
「
ふくろうの河」 1961 フランス
監督 ロベール・アンリコ
主演 ロジェ・ジャッケ アン・コーナリー

いわゆるホラー映画を一度も作った事がないのに、ホラーの分野で語られる事がやけに多い愉快な監督デヴィット・リンチ。ここ何年かで、映画は深読みするのが当たり前みたいな風潮がやけに感じられるが、リンチほど深読みが楽しい監督はなかなかいないと思うのですが、深読み感想派の人達はどうなんでしょう?個人的には深読みはどうでもいい事ですが、何々は何の象徴でとか、何々はこれを表しているとか、謎解きを楽しむ感覚は好きな人にはたまらないんでしょうね。導きだした答えが合っていようといまいとお構いなしっていう所はご愛嬌ですね。何としてでも解答を提示しなくては気が済まないというのは、日本の教育システムから生まれたのでしょうか?さしずめリンチ作品は東大受験並みの超難関ではないですか?今日もまた一人、リンチ世界に堕ちていく人がいるのかもしれません。怖いですねぇ。
リンチ作品がホラーの分野で語られるのは、やはり作品全体から発せられる胡散臭い空気感によるものではないでしょうか?ただし、この「エレファント・マン」に関しては、それだけではすまされません。何故ならこの映画、むちゃくちゃ怖いじゃないですか。
「
マイ・フェア・レディ」という映画を観た事がありますか?ヘップバーンが主演した最高に面白いミュージカル映画です。ロンドンの下町でドブネズミのような生活を強いられている娘イライザを、学者さんが私欲のために最高のレディに仕立て上げる物語ですが、「エレファント・マン」と全く同じではないですか。話だけ聞くと、こんな嫌味なストーリーもないですよね。貴族社会のイギリスでは当然の感覚なんでしょうか?労働者を鞭うって、貴族は優雅にティーを楽しむ。さすが世界中を植民地化して、大英帝国を作り上げた国の人達は感覚も違いますね。ユーロに参加しないあたりも、無駄な傲慢さを感じさせます。この「マイ・フェア・レディ」と「エレファント・マン」の違いはたったの一つだけです。オードリー・ヘップバーン演じるイライザは類稀なる美人で、一方のジョン・ハート演じるエレファント・マンことメリック青年は誰もが目をそむける奇形だという事。たったそれだけで、全く違う映画が出来てしまうというこの事実が、認めざるをえない現実なのですね。身につまされるじゃございませんこと?両映画共に大好きな私ですが、どちらか一つを選べと言われたら「エレファント・マン」にすると思います。偽善ですか?そう、世の中は偽善に満ちているのだから当然の選択なのです。
リンチ作品では、善悪の判定はないに等しい間柄にあるのはファンなら誰でもご存知かと思われます。リンチの作品はいつも曖昧でつじつまがあわない部分がとても多いです。もちろん、それが監督の思惑である事も周知の事実。日本人なんて特にでしょうけど、白黒はっきりしてないと人というのは本当に不安になりますよね。不安。この言葉はリンチ作品の肝ではないでしょうか?そして今、日本の空を覆っているものの正体とも言えなくはないか?
「エレファント・マン」はとても怖ろしく、とても美しい、童話です。涙が止まらなくなる人もいるでしょう(かくいう私も、ちょっちうるうるしちゃいました。中盤のあるシーンで)。怒りで誰彼構わず殴り散らす人も、嫌悪感に吐き気をもよおす人もいるかもしれません。全て肯定しましょう。人間はかくもわけのわからん生き物なのですから。これほど人間という生き物を、真っ正直に撮ろうとした映画って、実はあんまりないのではないでしょうか?リンチ監督の視線も実に冷静で堅実です。いい映画だな。そして怖い映画だ。愛してるよ、ドラ
「エレファント・マン」 1980 アメリカ
監督 デヴィット・リンチ
主演 アンソニー・ホプキンス ジョン・ハート

例えば、アメリカ人はコメディが好きだ。毎年、たくさんのコメディ映画が製作されヒットする。その内の何本かは我が国にも輸入され、中にはヒットする映画もあるようだ。笑いは文化の一つであると、よく言われる。各国の笑いに接するのは、とても楽しい上に、その国の勉強も出来るとなれば、これはもう一挙両得である。ただし、言葉の壁はとてつもなく分厚い。マシンガンの弾さながらに俳優の口から吐き出される英語を使用した笑いを、我々は100%理解し、腹の底から笑う事が果たして出来るのでしょうか?笑いに限らず、映画というものは全て、その製作された国や民族以外の人々には、真の意味で100%理解するのは不可能なのかもしれません。
けれど、とりたてて悲観する事でもなさそうです。アメリカにチャップリン、イギリスにヒッチコック、フランスにはデュヴィヴィエ、スペインにアマンド・デ・オッソリオ(笑)、ソヴィエト(現ロシア)にはタルコフスキーがいたように、我が国には黒澤がいます。それぞれ、最高の映画を最高の状態で味わう事の出来る国に、私達は生まれた幸運を噛みしめてもいいのではないか?そうではないか?日本人として生まれたのに黒澤明の映画を観ないなんて人は、北京飯店に行って北京ダックを食べないのに等しい愚挙である。ともかく、食わず嫌いというのは、身体にも頭にも良くはなさそうです。最もホラー映画ファンと自任する人達には、少なからず最大の偏食家が混じっているのもまた事実。もっと血を、もっと恐怖を。この気持ち、私はわからなくはありません。血は争えませんねぇ、兄弟。
「生きものの記録」は、不安と恐怖の世界に閉じ込められた男の物語です。時は1950年代。戦争に敗れ、がむしゃらに復興に汗水垂らしていた時代でしょうか?一代で財を築き、大いに人生を楽しんだであろう老人が主人公です。この老人の役を演じているのは、当時三十五歳の三船敏郎。これは凄いキャスティングです。途方もなくエネルギッシュでありながら、骨の髄まで枯れた感じを見事に表現しています。老人として何故か全く違和感がないのには驚くしかありません。三船敏郎は、その桁違いの存在感で、しばしば作品そのものを根底から破壊している場合が見受けられますが、黒澤作品ではそういう事が一切ありませんね。不思議です。よほど馬が合ったのでしょう。それが証拠に、三船を起用しなくなってからの黒澤映画の主役達は、なんともこじんまりしてしまって作品そのものの力も見劣りしてしまう気がするのは私だけでしょうか?ともかく、俳優三船を観るだけでも一見の価値がある映画ですが、作品としてもどうしてどうして素晴らしいです。1952年の「生きる」54年の「七人の侍」と、静と動のそれぞれ最高傑作として知られる作品の後に作られたこの映画は、この二作品とは大きく違う点があります。まず物語ありきの二作品に比べて、「生きものの記録」は主題が勝っている気がします。これが言いたいから作りました的作品とでも言えばいいのでしょうか?個人的にはテーマを大上段に構えた映画というのは鼻につくし(「命を粗末にするやつなんて大嫌いだ」なんてセリフ繰り返されたらアホかと思うでしょ?)、純粋に楽しめないと思ってしまうのですが、この映画は例外でした。多分、テーマを作品として咀嚼する過程に秘密がある気がしますが、そんな事をつらつら書いても仕方ないですね。先へ進みましょう。
主人公が恐れを抱くのは{水爆}です。世界を破壊してしまう究極の殺人兵器を作ってしまった人類に対して、老人は怒りをぶちまけます。と、同時にそのような殺人兵器がいつ降り注いでくるか分からないという世界の状況に老人は耐えられないわけです。そんな目に見えない恐怖に一人孤独に対抗しようとする老人を、家族達が何とか押さえ込もうと画策します。老人は全てを捨てて一家総出でブラジルに逃げようとする。家族は老人というよりも、老人が築いた財産が泡と消えるのを恐れてすったもんだする。この対比が物語を作り上げていきます。
百聞は一見にしかず。よく知られた言葉ですよね。何百回話を聞くよりも、一回実際に見た方が合点がいくといった意味でしょうか?本当にそうですか?私はこう考えます。人間というのは、結局自分で自ら体験した事にしか本気になれない或いは考えられない生き物だという事です。水爆にしたって、巨大地震にしたって、もうほとんどいつ来てもおかしくはないのに、私達はパニックになる事も慌てる素振りもありません。どうしてなんでしょう?赤信号、みんなで渡ればってやつですかね?老人の家族達は、そんな突拍子もない事考えたって仕方がないと言います。それは一見現実的な物の見方ですが、本当はもっとも非現実的な物の見方なのではないですか?実際に核爆弾をせっせとこさえて、我が国にミサイルの矛先を向けている国は存在するのではないのですか?老人はこう言います。「死ぬのはやむをえん。だが、殺されるのは嫌だ」と。これは私達皆に共通する思いのはずです。いつしか映画の世界に引き込まれた私達は、一体どちらの言い分が正しいのかわからなくなってしまいます。見えない恐怖に右往左往する気のふれた老人が正しいのか。現実にしがみつき、今目に見えているものだけに集中する家族が正しいのか。その答えを知っているのは、この映画を観終わったあなただけです。なんとも洒落た映画ではないですか?これを観ずにしてあなたは逝ってしまってもいいのですか?
黒澤明の作品にはホラー映画という括りは似合わないのかも知れません。しかし、その作品の幾つかには紛れもなく、ホラーの匂いが感じ取れるはずです。黒澤はホラーのセンスがずば抜けて鋭い監督だと、敢えて断言します。願わくば、油の乗り切っていた時期にホラーを製作していたら、きっととてつもない映画が撮れたのだろうにと、何度夢想したか分かりません。余談になりますが、黒澤は晩年になって、遂にホラー映画を上梓しました。スピルバーグ提供、ワーナー配給という純然たるアメリカ映画「夢 DREAMS」です。その出来は、私的には可もなく不可もなくといった感じでした。が、腐っても黒澤、素晴らしいカットも存在していたのは事実です。あぁ何故もっと早く・・・。それもまた別の話。
「生きものの記録」 1955 日本
監督 黒澤 明
主演 三船 敏郎 三好 栄子 志村 喬

その昔、子供だった私は「Uボート」という西ドイツ映画を劇場で観て、恐怖に震えおののきました。今でも目を瞑れば、あの暗くじとっとした潜水艦の中で目を血走らせて、息を潜め、敵の爆雷攻撃に備える乗組員の恐怖が乗り移ってくるかのように、なんて事もないのですが、とにかく「Uボート」は面白い映画でした。その後、この映画には完全版なるものがあると聞き、早速拝見。なんと300分を越える超大作でした。どうやらこの映画、実はTV映画だったようです。びっくりです。あの凄い映画がTVドラマだったなんて。日本では考えられないスケールですね。とにかく、この「Uボート」以来、私は潜水艦映画は割りと観る感じなのです。まるでビギナーズ・ラックで大当たりして、幾ら負け続けてもパチンコや競馬にはまる病気みたいなものです。
と書くと、大体想像がつくと思われますが、「
ローレライ
」は私にとって辛く悲しい映画でした。とにかく早く終わって欲しいと願い続けて観ていたような気がしてなりません。途中で投げ出して観るの止めれば良いじゃんと言われそうですが、私はそこまで残虐非道(笑)になりきれずに、終わるまで頑張りました。
それにしても、この映画の画面から漲る緊張感の無さはなんなんでしょう。映像、美術、音楽と、全ての面で優れていた「Uボート」の、怖ろしいまでの緊張感と怖ろしいほど真逆ですね。映画というものは本来雰囲気を楽しむものなのではないかと思っています。話がつまらなくても、映像が好みなんていう感想はそうでなければ生まれません。映画というのは虚像です。実際に起こった事であっても、それが映画化されれば、それは虚像です。個人的には、現実に即した物であっても、嘘八百を並べた物であっても、映画である以上嘘の世界を体験すると認識しています。要するに映画というのは何でもありなわけで、だからこそ面白いのですが、そこにもリアリティは存在します。realityは現実とか真実とかいう意味だけでなく、迫真性とか現実そっくりなという意味もあります。面白い映画というのは、実に嘘つきの天才なわけです。
最近の日本映画の印象は、私の場合この辺がだめな気がします。嘘をつけない人とか真っ正直な人なんて聞こえはいいですが、どれも人間的にはつまらないとは思いませんか?いい人なんだけどねぇ、なんて言われたら、落ち込んで然るべきじゃないですか?ちょい悪親父が人気になるご時勢なら尚更です。嘘を嘘と感じさせない、或いは感じてる暇を与えないというのが、面白い映画の第一条件と言えるのではないでしょうか?それはその映画で描かれている世界の一貫性の問題でもあります。
例えば「スター・ウォーズ」や「ゾンビ」といった映画にリアリティがないとは、私は思いません。むしろむちゃくちゃリアリティを感じると言っても差し支えありません。つまり、一つの映画として確実に世界を作り上げていると感じるのです。そういった映画に出会う時、人はしばしばその世界に入り込んだ自分を想像してみたりするようです。稀に、そうした非現実の世界に入り込んだまま抜け出せなくなる人もいるようですが、それはまた別の話。
とにかく「
ローレライ
」には、私は完全に拒絶されてしまったようです。潜水艦大好きなのに、とても残念です。特に数人の役者による作品の破壊(役者の演技に関して感想を言う人は結構いるみたいですが、私にはその辺がよくわかりません。個人的には演技をしない、或いはしていると感じさせない人が優れた役者だと思います。映画という作品においては役者は人形みたいなものではないのですか?)は、月並みではありますが、やはり酷いと感じました。その人が映っているだけで、作品そのものが魅力を無くしているのは明らかです。音楽の使い方もねぇ、ってきりがないので止めておきましょう。ただ、あの女の子の衣装はどうなんでしょう?私的にはあれが最悪でした。日本人である必要もないし、というより女の子は日本人でない方が絶対に良かったはずです。(とは言っても、日本映画に出てくる外人って必ず浮いている感じがするので、それはそれで・・・)あぁ、もう止めよう。
それにしてもこの映画、実に子供っぽいのはなんなんでしょう?立派な大人が作った映画とは思えません。これがこの国の現状なのでしょうか?確かに、日本人の幼年期の長さは今や尋常ではないようです。そのうち成人式は三十歳とかになるのかも知れませんね。まぁそれだけ世の中が平和だという証拠でもあるわけですから、悪い事ばかりではありませんが。映画というのは時代を映す鏡でもあるわけですから、この映画のリアリティの無さは、この国の、そして社会のリアリティの無さを如実に反映しているのかも知れません。ちょっと怖い気がしてきませんか?
「
ローレライ
」 2005 日本
監督 樋口 真嗣
主演 役所 広司 妻夫木 聡