
アメリカを表現するのに、これほどぴったりと当てはまる映画というのはなかなかないのではないだろうか?「
バンビ
」は泣く子も黙るウォルト・ディズニーが1942年に発表した長編アニメーションである。世の中まさに激動の時代だったわけで、わが国でも前年の真珠湾奇襲作戦が功を奏し、いまだ戦勝報告に酔いしれる日々が続き、すぐ近くまで迫った暗い時代を未だ知らない国民達はさぞかし気分を高揚させていたのではないだろうか?一方、アメリカ人が受けたショックはどれほどのものだったのでしょうか?未開の原始人が近代兵器を使って自国に被害をもたらすなんて、想像すら出来なかったというのは言い過ぎでしょうか?そんな中製作されたこの映画に、ウォルト・ディズニーが込めた思いは、作品を見る限り見事に表現されているのではないかと思います。
バンビ
は平和の森に新しく生まれた生命であり、森に住む全ての生命達の新しい仲間です。どこまでも明るく美しく健やかな森の生活は、正に地上の楽園です。ディズニー特有の繊細で緻密な映像は完成度において既に頂点に達しているようです。キャラクターの愛らしさも特筆に価します。そして、ディズニー映画を語る上で決して忘れてはならないのが、音楽でありその使い方であります。バンビにおいても、スタンダードと呼ばれるに相応しい見事な楽曲が登場しています。余談ですが、私はディズニー関係のCDを二十枚以上持っています。あまり聞く事は正直ないのですが、頭にこびりついて離れない曲は十や二十ではありません。ふとした時に思わず口ずさんでしまうそれらの曲には、いつも幸せな気分にさせられます。これが夢と魔法の効果なのでしょうか?恐るべしディズニー・マジック。さて、楽園のような森の生活ですが、人生そんなに甘くはありません。森の住民を脅かす敵は、人間です。ハンター達の銃声は、森には異質の響きであり恐怖の象徴です。ハンターによって母親を殺されたバンビは、あまり姿を現す事のない父によって助けられます。威厳に満ち、逞しく頭のいいこの父親の姿は、アメリカの理想の父親像に他なりません。わが国では死に絶えた父親像とも言えるでしょう。残念ですが・・・。やがて成長したバンビは可愛いガールフレンドを手に入れます。ここで面白いのが、バンビ以外にもその友達のスカンクのフラワーもウサギのタンパー(日本語版ではタンスケと名のっていますが、タンスケってどうよ?)も、メスの方から積極的にモーションをかけられています。色目を使われてメロメロになる姿は情けなくも微笑ましいものです。こういう男の馬鹿さ加減を演出するのはアメリカ映画にはよくあります。ミュージカル映画でも西部劇でも、本当に似たようなシーンを頻繁に見かけます。これがアメリカにおける男と女のラブゲームの常識みたいです。そうして守るものを得た
バンビ
達に、再びハンターという魔物が襲撃をかけます。恐るべき形相をした犬や、焚き火から生じた火が山火事となって、バンビ達の身を危険にさらします。この部分の演出も見事です。画面から恐怖がうなりを上げて観る者を震撼させます。この映画における明と暗の作画の使い分けは、非常にはっきりとしていて分かり安い上に大変美しい芸術として心を捉えます。特に火が襲いかかりパニックに陥り逃げ惑う森の住人達の姿は圧巻で、この部分にウォルトが並々ならぬ精力を注いだのは明らかです。なんとか愛する者を守り抜いた
バンビ
。やがて、森に新しい生命が生まれます。
バンビ
の子供は双子です。生めよ増やせよという事でしょうか?バンビは威厳に満ちた逞しく頭のよいオスへと成長した姿を画面いっぱいに漲らせて映画は幕を閉じます。
子供から大人へ。このサイクルは地球上に生きる全ての生命の宿命です。ちまたでよく言われる{生きる意味}ですが、それは子孫を絶やさぬよう残し続ける事に他なりません。忠実にその事を守り続ける生命達の中で、いつしか我々人間だけが取り残されてしまいました。あまりにも増え続けてしまった人口の功罪でしょうか?動物や昆虫の世界では、増えすぎてしまった種族が集団自殺の如き行為によりその数を正常に戻す行動がよくみられます。近い将来、人間も同じように極端にその数を減らす行為に及ぶのかもしれません。それはある意味自然の摂理なのではないでしょうか?歴史に学ぶという言葉がありますが、過去を振り返ればその答えはおのずと示されているように私は考えます。
「
バンビ
」を観ると、私は9・11の悲劇とアフガン・イラクと続いた戦争を思い浮かべます。「
バンビ
」は子供達へのメッセージとして作られた映画です。1942年。ウォルトがアメリカの子供達に向けてプロパガンダしたかった事は只一つだったようです。公開当初、この映画には現在カットされて観る事の出来ないカットが幾つか存在していたようです。それはハンターの姿です。ハンターの姿は、明らかに日本人を意識して描かれていたと聞きます。「
バンビ
」は愛らしく美しい戦意高揚映画なのです。ただ私が気にかかった事は、どんなに苦しい状況に追い込まれても
バンビ
は決して反撃しなかったという事実です。これは意図してそうされたのでしょうか?どちらにしても現実にはその部分は反映されなかったようです。
ウォルトが死に、一族支配による経営危機から脱却し、現在の姿に生まれ変わったディズニー・カンパニーが次に生み出すプロパガンダは果たしてどういったものになるのでしょうか?{夢と魔法}その言葉は、ホラー映画においてしばしば{悪の象徴}として描かれています。
「
バンビ
」 1942 アメリカ
監督 デイブ・ハンド
主演 バンビ タンパー フラワー

現代文明とは、道具の発達によって成り立っているという言い方も出来ると思われます。次々と生み出される新しい道具が、そのまま経済の流れを作り出し、社会を構築しているのが、私達が今暮らしている世界の全てであるという考え方です。より便利に、より快適にを合言葉に快進撃を続ける道具の発達。それを欲する私達の心が、資本主義を成り立たせているわけです。
ところで、この道具ですが、ある視点から大きく二つに分けられるようです。人が集まる巨大駅には、大型量販店なるものがしのぎをけずっているようですが、そこで売られている家電と呼ばれる道具に、人々は目を奪われています。次々と繰り出される新商品。それによって、あなたの暮らしはこんなに楽になりますよと、同じ服を着て同じ笑みを浮かべる没個性の売り子達に手ぐすね引かれる私達。しかし、どうでしょう?ここで売られているクーラーや冷蔵庫やパソコンといった道具達ですが、自分が老いて死を迎える状況において、「あの頃はSHARPの電子レンジを購入してねぇ。いや本当に惚れ惚れして毎日が楽しくなったもんだよ」なんて、思い返す人はいるのでしょうか?しみじみと電化製品について語る人なんて、私に言わせれば奇人です。こういった道具達に対して、今回の映画で堂々と主役を演じている車という道具は、明らかに違った感情を人に及ぼす、もう一つの道具達の仲間に入ります。車は道具です。その点において、冷蔵庫と何ら変わりはありません。この車も、時代と共に目覚ましい発達を遂げてきました。私自身は、機械にはめっぽう関心がなく、車も数年前に売り払って以来、目もくれなくなりました。今ではパッと外観を見ても、どこの会社の何と言う商品かなんて皆目わからなくなりました。これはより高度になった技術の弊害でもあります。そもそもデザインという物は、機能性等を究極に突き詰めていくと、たどり着く結論は皆同じになります。最終的にはどの商品も同じ形になるのが、道具というものの末路ですから。この車に代表される道具達の最大の特徴は、人の心を捉える魔力を持っているという点です。新しいDVDレコーダーに目を奪われる人はたくさんいますが、心を奪われる人はいない(もちろん、そこがトワィライト・ゾーンでなければという条件つきですが)わけです。目を奪われるに留まる道具達と、心までを奪いとる道具達との違いはなんでしょうか?思うに、どれだけ他人の目に触れるか。その一点に尽きると思われます。宝石やブランド品と同じです。ようするに自慢したいんですね、人という生き物は。他者に対して少しでも優位に立てるように、人間は様々な方法で涙ぐましい努力を惜しみません。身体を鍛えたり、容姿を整えたり、芸術的な才能を伸ばしたり。形はいろいろですが、一番簡単な方法が、道具を利用するやり方なようです。下世話に言えば、金にものをいわすという事です。人が持てないものをより多くというこの虚栄心が、今日も地球を回しているのですね。かつて、車を持っていればそれだけで女性をGET出来たウハウハの時代もあったと聞きます。なんと有益な道具だったのでしょう。残念ながら、現代では持っているだけでは何の意味も成しません。けれど、例えばフェラーリの限定モデルだったらどうなんでしょう?それだけで股を開く(失礼)女性はそれなりにいると思いませんか?私はこの行為を否定しません。この社会において、当然の選択肢であるというのは間違いでしょうか?苦労に苦労を重ねて金を稼ぎステイタスを購入するよりも、ある種の女性達にとっては、それを既に持っている男を捕まえる方が遥かに容易いわけですから。この見事なまでに簡潔かつ効率的なGETの仕方は、個人的には羨ましくもあります。妬んでいると言っても間違いではありません。某国の首相だって「痛みに耐えてよくがんばった」って言ってましたし。実際には、もうとっくに痛くはないんでしょうがって、それはまた別の話。
「クリスティーン」という映画は、人の欲望とか妬みとかといったダークサイドに焦点があてられています。人のモラルハザードはどこまで進んでいくものなのでしょうか?この国の現在の常識は、一体いつまで常識でいられるのでしょうか?道具を使う事によって進化を続けてきた人類ですが、いずれは道具に溶け込んでいくのかもしれません。そう遠くない未来に。その時私達は、この映画の主人公である58年型プリマス・フューリーに自身を重ねて見る事もありえないとは言えなさそうです。
最後に一言。この映画は実に愛くるしい駄作です。
「クリスティーン」 1983 アメリカ
監督 ジョン・カーペンター
主演 キース・ゴードン プリマス・フューリー(58年型)

先日(と言っても数ヶ月前の話ですが)あるワイドショー番組にて超人気タレント?モデル?の可愛い娘ちゃんが、理想の彼氏はみたいな質問に対して「子供よりも私を一番に思ってくれる人がいいですね」みたいな発言をしていました。ニコニコと愛くるしい顔で平然とです。個人的にはかなり衝撃的な発言と思われたのですが、世間的には特に関心を寄せるような意見もなく、何事もないかのように次のコーナーへと進んでいましたが、ちょっと待てよ。「子供よりも私を」は、この国ではもはや常識という事ですか?私自身、子供なんてものはみだりに甘やかすものではないし、清らかな天使のような存在だなんて思う事はないし、むしろ面倒くさいし、煩わしいし、むかつく対象である場合の方が遥かに多いと思う一人ではあるが、テレビという公共的垂れ流しメディアに於いてのこの発言はかなり危険な思想であり、アイドルとしてのイメージダウンに直結しかねないものだと言っても過言ではない時代も確実にあったはずだ。私がこのタレントもしくは元某女性誌専属モデルの事務所の人間ならば、この発言は即刻闇に葬る努力をしただろうが、現実にはごく普通に垂れ流されノーチェックなのだから、世の中は正に変革期ですな。故・今村昌平監督の「
楢山節考
」(これもリメイク作品ですね)では食糧難から老人を山へ捨てに行く話が描かれていましたが、現在では真っ先に子供を捨てに行くのかも知れませんね。ちょっとしたホラーですね。だから世の中少子化になったのかしら?あっちの軒下にも、こっちの押入れにも成仏出来ない子供がごろごろしているとしたら、なんて不幸な国なんでしょうね、我が国は。
さて、
ダーク・ウォーター
です。久しぶりにジェニファー・コネリーを拝見させて頂きましたが、かなり老け込んでいらっしゃいました。かつてのピチピチ感しか知らない私には、これまたショックでした。人は必ず年を取る。あなたも私もジェニファーも、いずれはジジィババァ。どんなにSFXが発達しても、こればっかりはねぇ。もちろんCGで若返らせる事なんていくらでも可能でしょうけど、それをやられたら観ている方はかなりイタイですよね。
日本映画「
仄暗い水の底から
」のリメイクという事ですが、こちらの方は未見です。DVDに録画はしてありますが、もう随分経ちますね。このまま観ずに終わる気配が濃厚です。私は比較には意味はないと思いますが、気分的には邦画の方が面白かったらいいなと思います。これは愛国心なんでしょうか(笑)映画というのはシノプシスが同じでも、撮る人が違えば、これはもう別物と考えていいのではないでしょうか?逆に似すぎていると、後から製作した方の神経を疑いたくなりますね。そもそもリメイクする必要もありません。いい映画なんだけど日本人が演じているのは嫌だからって事じゃ、あからさまな人種差別以外の何物でもありません(まあ欧米にしてみれば、これも本音かもね)。リメイクで思い出すのは、私の場合「
荒野の用心棒
」と「
荒野の七人
」です。両方とも黒澤映画が元ネタですが、オリジナルもリメイク版もどちらも面白く素晴らしい作品ですね。どっちか選べと言われれば躊躇なくリメイク版を選びます(優れているとかいないとかでなく、単にウェスタンが大好きな私です)「
七人の侍
」にはもう一つ「宇宙の七人」という作品がありましたねぇ。知ってますか?「宇宙の七人」(笑)「
七人の侍
」ファンの皆様必見ですよ(笑)このように、元々の出来が素晴らしいと、それなりに能力のある監督がリメイクすれば概ねそれなりの作品が出来るものですが、逆に元々がつまらない作品の場合はどうなんでしょう?「
呪怨
」とか(笑)しかも監督一緒みたいな。世界の人々は、日本人、そんなに嫌なんでしょうか?ある意味国辱的な映画「
THE JUON
」ですが、これまた未見です。いろんな意味で楽しみです。とか言いつつ、観る日は来るのでしょうか。少し心配です。
映画の中身ですが、正直どこを切っても中途半端な印象しかありません。特にドラマを描きたかったのか、アトラクション的な映画を撮りたかったのか判断がつかないあたり、かなり致命的ではないでしょうか?もちろん真に優れた映画は全てに於いて高いレヴェルで内包しているものではありますが、そこまでの作品はホラー映画と呼ばれる作品の中ではちょっと見当たりません。そういう物を求められてもいないと思います。ホラー映画を観終わった後に、深く考えさせられたり、涙が流れる程感動している自分なんて想像できかねます。
全体としての空気感は悪くありません。というか、この手の映画の画面から醸し出される雰囲気はどれも似たり寄ったりですので、本来良いも悪いもないですかね。もしかして私がホラー映画を観続ける事に、この事は大きく関係しているのかも知れません。ホラー映画の雰囲気で嫌いな物ってないかも。とにかく、いつものホラー映画の空気感は表現されています。ジェニファー演じる主人公は離婚調停中の女性で、夫と子供の取り合いをしています。いろいろと神経がまいる日々を送っているのは何となくわかります。子供の頃に母親に捨てられた経験から、少し病的な大人に育っているようです。この映画、母と娘の親子愛みたいな宣伝の仕方を強調されていたように記憶していますが、私にはこの母親が子供を愛しているようには見えませんでした。むしろ、子供を愛したいのにどうしても愛せない不安みたいなものを感じました。これは監督の真意なのでは?しかし、それだけでは誰も観てくれないので、幽霊出してみましたって所でしょうか。そう考えれば、この幽霊の何とも言えない中途半端さも合点がいきます。ここに登場する少女の幽霊の存在感の無さ(幽霊なんだから無くて当然というチャチャは無しで)が、この映画の全てを決めたと言っていいでしょう。親に見捨てられて、人知れず屋上の貯水タンクの中で死んでいるなんて、とても可哀相ではありますが、だからって他人の娘から母親を奪う権利なんてありえないでしょう。それを人は我儘と言うのではないですか?
余談ですが、この映画の感想を言うにあたって、{結局我が子を見捨てる母親}みたいな意見を述べた人がいましたが、それはナンセンスでしょう。どうしたらそう観られるのでしょうか?見捨てたのなら子供は風呂で溺れて死んでいなきゃ嘘ですよ。別に愛してなんかいないけど、我が子のこれから続くであろう人生の為に、この母親は自分を捨てて娘を守ったのですから。愛し方は知らないけど、とりあえず出来る事をやってみた。頭で考えても分からないから、身体を張ってみた。主人公の母親は、死ぬ事によって一つの愛し方を発見したのではないでしょうか?泣かせるじゃないですか。いやぁ、実に勿体無い映画ですね。
それにしても、白人女性の幽霊というのはちっとも怖くないですね。それに比して日本女性の幽霊って、今こうして文字を打つだけでもチョー怖ぇぇではないですか。夜中にトイレに入って突然便器から顔が出てきたとして、白人女性だったらビックリするだけだけど、日本女性だったら絶対漏らすね。小便大爆発みたいな。「
エクソシスト
」を観て白人男性ショック死って聞くと、さもありなんと納得ですが、日本人男性ショック死だと、なんでやねんって突っ込み入れたくなるのと通じるものがあります。怖いよねぇ、日本の女性(笑)。これまでの人生を振り返るといろいろあったなぁなんてしみじみしますが、私もきっといろんな事がトラウマになっているのかも知れませんねぇ。怖い怖い。ガンバレ、俺。
ワンポイント ホラーの見極め
主人公が暗くて鬱陶しい場合、オカルト・サイコ
主人公(或いはその仲間)が明るくて底抜けの馬鹿の場合、
スプラッター
ダーク・ウォーター
2004 アメリカ
監督 ウォルター・サレス
主演 ジェニファー・コネリー アリエル・ゲイド