

舞台はスペイン内戦の時代。戦争はいつ果てるとも知れず、人々の心はすさみ、狂気が剥き出しになっている中、それでも人はそれぞれに希望なり夢を抱えて生きている。戦士となり戦争に参加していく大人達を尻目に、毎日毎日孤児が生まれていくのはもはや必然で、この物語はそんな孤児達を主人公にして語られる幽霊譚である。
一人の少年がとある片田舎の孤児院へと連れてこられる。名前はカルロス。少年は知らされていないが、共和派の一員として戦い死んだ父親の仲間が、彼の処遇に困って連れてくる。孤児院はそんな子供達で溢れている。孤児院の中庭には大きな爆弾が突き刺さったままに捨て置かれているが、これは即ちこの作品の狂気の象徴である。特に物語に於いて重要な役を担っているわけではないが、作品の中に不穏な空気をもたらす存在として居座っている。これは普通の映画じゃないよという、監督からのメッセージといってもいいだろう。
この作品は幽霊による復讐劇を取り上げているが、はっきり言って幽霊が出てこなくても作品自体は成立する仕上がりになっている。幽霊話なのに、幽霊がいてもいなくてもいいというのだから確かに普通ではないわけだ。物語の軸は、やはり孤児として育ち成長したハシントという若者の欲望と暴走の記録だ。
孤児院を経営しているのは中年にさしかかった未亡人であり、彼女は共和派に資金援助をしている。つまり一方で戦争に大きく加担しているわけだ。戦争孤児達を囲って養っているのは罪の償いとでもいうのだろうか?あるいは単に隠れ蓑にしているという見方も出来るが、どちらにしろ子供達には関係ない。子供達はただ生きるために生きる場所が必要なだけだ。そんな中で成長したハシントという若者を見る限りに於いては、愛情一杯に育てられたわけではないらしい。彼女自身もそれは理解しているようだ。きっと彼女自身、愛というものが何なのかもうわからなくなっているのだろう。戦争がそうさせたのか、もともと人間というものがそういうものなのか。実に興味深いが、それ自体はストーリーにはほとんど関係がない。けれど、こういう部分が映画では物凄く重要なのではないかと、私は常々思うのである。ただ単に善がいて悪がいて戦う映画なんてものは、所詮は薄っぺらな紙芝居でしかない。
資金援助をしている位だから、孤児院にはその資金が眠っているわけだ。ある場所に隠し金庫があり、そこには金塊が鎮座している。ハシントの狙いはその金塊で、それによって人の道を大きく踏み外す憂き目に会う。爆弾の落ちたその日に消えた少年は、金庫を探っていたハシントを目撃してしまったばかりに死んでしまう。殺されてと書かなかったのは、この部分が過失致死として描かれているからだ。これはハシントという人間を描く部分で重要な事だ。この辺りからも、この監督或いは脚本家が登場人物達を丁寧に描こうとしているのが感じられて好感がもてる。この少年が幽霊となって、孤児院に連れてこられたカルロス少年の前に度々現れるわけだ。目的はハシントへの復讐であり、少年を恐がらせる理由は全くない。少年は勝手に恐がって逃げ回るのだが(逃げて何が悪いか?私だって逃げる)当初は目的がわからないようになっているので、観客には一体何が起こっているのかよくわからない仕組みになっている。
作品には二つの軸が存在している。孤児の子供達の葛藤や友情を描いた世界。もう一つは院長やハシント等、登場する大人達が繰り広げる愛憎いりみだれた世界。二つの世界を結ぶ橋渡しとして、孤児達のリーダー格である少年ハイメが重要な役を担っているのは言うまでもない。ハイメの成長が物語に終止符を打つと言っても過言ではないだろう。彼が自分に下した決断。それは、ぜひあなた自身の目で確かめて頂きたい。
この映画を観ると、かように子供というものが、その育つ環境において幾重にも変化する多様性を持っている事を再認識させられる。どのような人物に成長するのか。悪魔のような残忍な大人になるのか?従順なだけのひ弱な大人になるのか?優れた知性を持った冷淡な大人?他人を許容出来る優しい大人?その可能性は実に無限大なのだろう。現代の日本における子供達はどうなのだろうか?ニュースで聞かれる子供達の所業の数々はホラーこの上ない悲惨さを持っている時が多々あるが、それに対して大人と言われる私達に突きつけられる十字架はとてもとても重いのではないか?
「
デビルズ・バックボーン
」 2001 スペイン・メキシコ
監督 ギレルモ・テル・トロ
主演 エドゥアルド・ノリエガ


その昔、わが国で残酷きわまりない血みどろ映画がやたら流行った時期があるのを記憶している人はどの程度いるのでしょうか?1980年代半ば、まだ年号も昭和だった時代。日本が戦後最大の好景気に酔いしれそして破滅へのカウントダウンを耳元で囁きだした丁度その頃、折りしも一家に一台VIDEOがあるのが当たり前となったのでした。VIDEOが急速に普及したのは、間違いなくアダルトビデオのおかげですが(それまではピンク映画館にこっそりと忍び込むか、あのいまいましい八ミリをカセットテープとシンクロさせて暗闇でほくそ笑むだけ。内容はもっぱら外国物のいわゆるブルーフィルムですか・・・OH!YES)レンタルビデオ店がちらほらと街に姿を見せるようになって、業界はソフトを血眼になって探し求めたようです。その一角を堂々担っていたのが、他ならぬホラー映画達でした。ホラーと一口に言っても、それこそピンからキリまであるのはご存知か?普通ホラー映画と言った時に、それぞれ頭に浮かぶ映像はもちろん同じではないと思われます。が、最も多いと予測されるのは、やはりわけのわからん狂った連中にひょんな事から巻き込まれた登場人物達が残酷かつ悲惨な状態で血みどろになって殺されるとかそんな感じではないのでしょうか?これらの映画は当時スプラッター・ムーヴィー(その名の通り、血飛沫映画です)と総称されて、随分ともてはやされていました。別に大袈裟に言っているわけではありません。皆がこぞってその手の狂った映画を好んで観ていた時代が実際にあったわけです。その当時、レンタルビデオ店で人気があったタイトルを簡単に挙げてみると、「死霊のはらわた」最近は「スパイダーマン」で気を吐くサム・ライミ監督の処女作にして代表作。撮影当時まだ二十一才でした。「ゾンビ」言わずと知れたゲテモノ映画の(個人的にはどんなご立派な名作映画郡にもひけをとらない優れた奇跡的な一本と言わざるを得ない。この映画がなければ、きっと物凄い高確率でつまらない映画を量産しているこの手のバカ映画を観続ける事はなかったに違いない)最高傑作にして金字塔的作品。監督ジョージ・A・ロメロは去年「ランド・オブ・ザ・デッド」というゾンビ映画第4弾を上梓した。もちろん私は劇場にて鑑賞したが、評価は遺憾ながら懐疑的としかいいようがない。いずれこの映画を取り上げる時が必ずあるであろうが、それはまた別の話。「13日の金曜日」もはや何も言うべき事がないぐらい題名は有名だ。いまだに続くホラー界の大河ドラマと言ってもいいのではないか?この映画のせいで、何の関係もないここ日本でも13日の金曜日は不吉な日になってしまった(笑)個人的にはシリーズを通して全く興味がない。13金と名のつく映画は、全て便器に流し込み頑丈に蓋をするべきだ。そして今回取り上げた「クライモリ」は、明らかにこの「13日の金曜日」というある意味スプラッター・ムーヴィーの代表作の流れを汲む一本である。
「クライモリ」この題名をつけた人はセンスがないですな。ただしある一点においては、的を射ています。この映画の舞台は森であると、それだけ。アメリカの国土の広さというのは、映画を作る上での最大の武器です。とにかくだだっ広い場所がありあまっているので、舞台設定は幾らでも作れます。人里離れた未開の地に気のふれた変態が隠れ住んでいるなんて、日本ではそれはちょっとって感じになってしまいますが、アメリカだとない事はないか何て気になってしまいます。自由の国らしいし。この手の映画は主人公はどんな人かとか、どうしてそうなったのかとか、そういう基本的な骨格部分は、まるでそうしなければいけないとでも言うように常におろそかにされます。ある意味では潔いとも言えるのでしょうが、ホラー映画が馬鹿にされる原因の一つではないでしょうか?ま、その辺は置いといて、とにかく殺人鬼に追い回されるべく集まってくる若者達ですが、ここでも一言。この手の映画の登場人物の性格はどうしてこうも統一感に溢れているのでしょうか?冷静沈着で正義感に溢れた男、勇気と行動力に優れた美女(時にそうでないヒロインもいますが、これは止めて欲しいですね。退屈な二時間をつきあってやろうかという健気な観客に対する暴虐的行為だとは言えまいか?そうではないか?)とにかくSEXにしか興味がなさそうなノータリンの美女(時にそうでない・・・)同じく明るさしか取り柄のないノータリンの男。もちろんノータリンはノータリン同士サービス精神に溢れているのは言うまでもない。とにかく、いつも一緒。あれ、この映画前に見たっけと思うのは私だけではないはずだ。要するに、この映画における見所は(わざわざこの映画を観る時間をひねり出す私のような輩にとってのという意味)どのような殺人鬼がどのように狂気を生み出して、我々に見せつけてくれるのか?という一点に尽きるのだろう。残念な事に殺人鬼はただのフリークス(こういう表現が正しいのかどうかは疑問だし、現実問題としてふさわしいのかどうかは別にして)だし、死の瞬間(死にかたと言ってもいい。ホラー映画において、人がどのようにして死ぬのかは作品の命題ではないのか?)も平凡だ。私は全くもって恐怖を感じる一瞬がなかった。しかるに、この映画は私にとってはホラー映画足りえないという結論になってしまった。別に残念とは思わない。何故なら私は実はスプラッター映画は好きじゃないのだ。
さて、1985年。日本ではTAKARAファンタスティック映画祭なるものが開催された。ホラーやファンタジーなどの一部の人達から観る前から屑の烙印を押されがちな可哀想な作品達を一同に集めてのささやかな品評会である。私は唯一オールナイトの回に足を運んだ。上映作品は4本。「エルム街の悪夢」ウェス・クレイブン監督作というよりも殺人鬼フレディを生み出した作品として後に有名になった作品。この映画祭がなければ、日本では劇場公開されなかったのでは・・・。「最後の戦い」リュック・ベッソン監督の無声映画。私、途中で寝てしまいましたので、どんな映画だったのか未だに知りません。題名も合ってるんだかないんだか・・・。「デッド・ゾーン」デビット・クローネンバーグ監督作品。私のお目当てはこれでした。キング原作にクローネンバーグという組み合わせ。今となっては考えられませんが、この作品もこの映画祭のみの上映ではなかったか・・・。そして「クリープショー」キング原作にロメロ監督という黄金コンビとでも言いたくなるタッグだったのだが、ゴキブリ嫌いの人しか楽しめない作品。今、思うと結構贅沢な名前が並んでいるではないか?その当時は一部のマニアしか知らない人達だったはずだ。どうでしょう、みなさん。このようにどんなにくだらない作品も見ることによって、後々あぁそうなんだ。と思える瞬間があるやも知れません。もちろん自己満足の世界の話ですが。所詮、映画とは自己満足の結晶だとは言えないか?
「
クライモリ
」 2003 アメリカ・ドイツ
監督 ロブ・シュミット
主演 エリザ・ダシュク エマニュエル・シューキー