DARK TALE OASIS

主に映像作品にふれて、思った事を書いていきます

「スズメバチ女(蜂女の実験室)」を思う

                    スズメバチ女

 ロジャー・コーマンの名前を見つけて、何やら胸の辺りがざわざわする人が一体この世に何人存在するのでしょうか?奇妙奇天烈な映画を量産する事に命を賭けているかに見えるロジャー・コーマンは、短編小説を殴り書きするかのように映画を撮りまくった偉大な人物です。一体監督作は何本あるのでしょうか?製作した本数ともなるともはや未知数です。作品に対して質より量を重視しているとしか思えないその徹底した態度は、まさしく賞賛に値すると言えるのではないか?失笑するのも憚られる「リトル・ショップ・オブ・ホラー」から、観るものを骨の髄まで凍らせる傑作「X線の眼を持つ男」まで、縦横無尽に最高と最低の狭間を自由に行き来するロジャー・コーマンは、もしかしたら映画の歴史を語る上で最も幸福な映画人の一人なのではないでしょうか?
 「スズメバチ女」というこのどうでもいいタイトルは、そんなロジャー・コーマンの作品にぴったりマッチしていると思われます。ちょっとうとうととまどろんでいる時に、フィルムを回していたら出来ちゃった感が充満している気がしませんか?個人的には、たまたまTVを見ていたら、たまたま映画が始まって、たまたま最後まで見ちゃって、こんな事ならたまたまいじってた方が良かった(笑、失礼)と思う瞬間がありますが、なるほどそんな一本です。
 化粧品会社を立ち上げ自ら会社の顔としてモデルを務め業績を伸ばしてきた女社長を描いたこの映画は、結構時代を先取りしている感じがします。映画は当時の世相を映し出す史料としても用いられるものですが、映画の登場人物達は男女を問わずオフィスでもエレベーターでも所構わずタバコをスパスパふかしてるのが印象的です。女社長の高齢化と共に翳りの見えてきた業績に対して、若い野心家の若者が女社長に反旗を翻して対立するのが、この映画のそもそもの発端です。自分の物であった会社がいつしか他人の物へと変わっていく瞬間を迎えた女社長の恐怖と自尊心がやがてくる悲劇を招くという図式は悪い設定ではないように思われます。追い詰められた女社長は、ハチのエキスから若返りの秘薬を開発した怪しげな男を囲い込み、自らが秘薬の実験体となります。まだまだ私は第一線で働けるという女社長のプライドには頭が下がります。永遠の美。つまりは不老不死ですが、これは人類の究極の願望として、数限りない作品を生み出してきました。死から逃れる為に死に急ぐ人物の哀れな姿は、スクリーンの中で何度も何度も繰り返し描かれてきました。今回女社長を襲った悲劇は、自らの欲望が生み出した狂気の末路であり、げに怖ろしきは人の本性であるという事を再認識させてくれるものでした。女達が垣間見せる美へのあくなき追求は、ほんの少し角度を変えて見ると実にホラーであるとも言えるのではないでしょうか?
 秘薬の虜になって蜂女に姿を変え、次々と殺戮を繰り返したあげくに死のダイブを敢行する女社長の姿は、麻薬に手を染める恐怖のメタファーにも見えてきます。みなさまもくれぐれもお気をつけ下さいませ。過ぎたるは及ばざるが如し。分相応。映画とはかくも教訓を植えつける文化なのですな。
 この映画、同時期につくられた傑作「蝿男の恐怖」(ラストのあのくだりは映画史に残る名シーンだとは思いませんか?)とのつながりが感じられます。蝿がヒットしたのなら蜂はどうだ的、お気楽極楽状態で作られた一本ではないのでしょうか?だとしたら、B級映画の帝王と言われるロジャー・コーマンの面目躍如的作品とも言えそうではないですか。心揺さぶられる映画だけが映画ではないと、ロジャーの叫びが聞こえてくる気がしませんか?


  「スズメバチ女」    1959  アメリカ
 監督  ロジャー・コーマン
 主演  スーザン・キャボット

「マタンゴ」を思う

                      マタンゴ

 日本映画におけるホラーといえば、そのほとんどが怪談話(死んでも死に切れない女達が、幽霊となって繰り広げる復讐劇)である。古くは中川信夫監督の傑作ホラー「東海道四谷怪談」から最近の「リング」「呪怨」といったヒット作まで、姿形は変わっても根本的には全て同じ話と言ってもいい。何故かくも日本人は、虐げられた者の呪いを綿々と綴る怨念話を延々と作り続けるのだろうか?この個人主義(わがまま主義と言った方が的確だろうか?そうではないか?)が蔓延する現代にあっても、日本には{世間体}という目に見えないパワーが根強く残っている。それは日本という国が島国であり、ある意味究極の単一民族国家であるという事実に端を発する思想であると言えるだろう。{村八分}と言う言葉をご存知か?村と言う集団に於いて、その戒律を破った者に対する罰とも言えるその風習(ちなみに何故八分なのかというと、葬式等一部の行事においては仲間外れにしないという暗黙の了解があるかららしい)は、そのまま国という単位に置き変えても存在し続ける。いわゆる‘世界の’というやつだ。映画界で言えば世界の黒澤というあれ。日本の枠から飛び出した存在に付けられるこのレッテルは、一見その人(場合によっては物)を神格化し持ち上げているように感じられるが、その実根底にあるのは差別意識だと私は思う。{あの野郎、自分だけうまくやりやがって}という負の念だ。そういう日本人の体質という物が、怪談話に姿を変えているとは言えないだろうか?{仲間を裏切るとどうなるか分かってんのか?}よく耳にするセリフだが、ここ日本に於いて和を破るという事が、どれだけ怖ろしいのかという教訓を、日本のホラー映画は体現しているとは言えないか?
 さて「マタンゴ」は、珍しく怪談話ではない日本ホラー映画の怪作である。「ゴジラ」で華々しく幕を開けた東宝が、東宝特撮SFシリーズの16弾目として送り出した作品で、シリーズを通しても他に類を見ない異色作だ。SFシリーズと銘打ってはいるものの、一連のシリーズ作品はSFではもちろんない。そのほとんどが怪獣或いは怪人が登場するモンスター映画だが、それを的確に表すジャンル名がないために、とりあえずSFにカテゴライズした感じだろうか。本来ジャンルという物は、お店でお客さんが迷子になるのを少しでも防ごうと、似たような作品をまとめるべく作られたものだ。しかし、いったん形式化されてしまうと何故かそれに固執する人が現れるのだが、とても不思議な気がしてならない。私はスタンリー・キューブリックは優れたホラーを数多く手がけた監督と記憶しているが、そういった人達からは当然のように{それは間違っている}と反論されてしまう。キューブリックがホラーを題材として扱った(こういう言い方からして、私には不自由だが)のは「シャイニング」だけだと言うのは真実なのでしょうか?コンピューターが反乱を起して乗組員を殺していく「2001年宇宙の旅」はSF映画ですか?核ミサイルが発射されて、狂った人間達が巻き起こす騒動を描いた「博士の異常な愛情〜」はコメディ映画ですか?常軌を逸した若者が常軌を逸した体験をする顛末を描いた「時計じかけのオレンジ」は何映画ですか?「ワイズ・アイド・シャット」は?「フルメタル・ジャケット」は?私はこれらの映画を全てホラー映画と呼べと言っているのではもちろんありません。優れた映画の幾つかにはホラーの要素がつきまとっている事が多いのは事実であり、ジャンルという物はどうでもいい物だと言いたいだけです。
 物語は、ヨットに乗った若者達が嵐に見舞われ遭難したあげくある無人島にたどり着きます。そこは奇怪な島で鳥一匹寄りつかず、風変わりなキノコが蔓延っているわけです。そのキノコの名前がマタンゴなのですが、このネーミング実にGOODですね(笑)ストーリーだけ聞くと、あまり日本っぽくない感じがしますが、それもそのはず原作はウィリアム・ホープ・ホジスンという知る人ぞ知る怪奇作家の方です。私も二、三冊しか著作を持っていませんので詳しい事はわかりません。この作品の原作も未見でどこまで同じなのかは全くわかりませんが、キノコの化け物は日本人の創作な気がしますね。そんな感じしませんか?キノコの化け物ですよ。まぁそんな話を、唯一の生き残りの回想という形で作られています。
 これは言っておかなければならない事実ですが、私はキノコが大嫌いです。見た目も嫌なら、味も食感もウゲッです。キノコとは木の股等に蔓延る菌だというのは皆が知っている科学的事実です。そうではないか?だとすると、人間で言えばインキンタムシに他ならない。皆美味そうにキノコを食べますが、ナニの最中にナニがインキンまみれなのを発見して、歓喜のあまり興奮してナニがナニをナニするなんて、なんておぞましいと思いませんか?ありえない。断じてありえない。
 気を取り直して、このマタンゴ、自然発生したものなのかどうかはわかりません。劇中、東宝お得意の放射能という言葉(放射能は東宝の打ち出の小槌である。この魔法の物質は東宝によると、全ての出鱈目を正当化し、かつ大金を運んでくれるありがたい代物のようです。かように世の中は光と陰、裏と表の顔を持つものです)が出てきます。まぁお約束の一つで、どう解釈してもいいようです。
 とにかくこの映画。実に安〜く作られています。ゴジラ映画の合間に作られたからという理由だけではない気がします。私が思うに東宝がこの先の方針を決めるための実験作だったのではないでしょうか?監督の本多猪四郎もけっこう力入れて作った感がふしぶしに感じられます。この映画が成功している理由は、大人のために大人向けに作られた点に尽きると思います。キノコ人間が出現するのはごくわずかの時間(登場人物達は皆憑かれたように美味そうに、実に美味そうにキノコを食べています。ウゲッ)だけで、後は無人島にたどり着いてしまった人間達が勝手に巻き起こす人間ドラマです。その諍いの原因は食料と女です。特に女性ですね。これはもう仕方ないです。物語は女性を巡って男共が右往左往し争うという点に終始します。愛は(この映画では=性愛ですが)人を狂わせ、人の動物性を顕わにするというのが、この作品のテーマなんでしょう。キノコ人間は、恐怖の人間ドラマに味を添えるソースとしての役目を負っているに過ぎません。
 それにしても残念なのは、東宝が下した決断であります。「マタンゴ」はその出来に反して、大した収益を上げられなかったようです。東宝はこの後、金を稼ぐ事に全精力を注ぎます。東宝SFシリーズは夏休みの目玉になり、ゴジラはギャグを連発するだけのお笑い芸人に成り下がります。当時の金儲けのターゲットは子供だったんですね。今現在は猫も杓子も女性をターゲットに据えているのは明らか。「マタンゴ」以降の東宝SFシリーズは全て便器に突っ込むべき作品(前にも言いましたよね、人はそれを・・・)です。作り手側(この場合現場サイドの人間)も、東宝のこの方針にいい加減になり、手を抜きまくったとは言い過ぎでしょうか?
 人を狂わせる最大の要因は、いつも金、金、金、女(或いは男)ですな。


  「マタンゴ」    東宝 昭和38年(古っ)
 監督  本多 猪四郎
 主演  久保 明   水野 久美


  (kaigara3)

「フェノミナ」を思う

                      フェノミナ

 ホラー映画における最高の賛辞には、概ね二種類が存在するようです。一つは{恐い}背筋が凍る程の恐怖を体験出来る作品として、稀にホラーの枠を越えて評価される作品をも出す、まさに正統派的賛辞と言えるでしょう。もう一つは{気持ちが悪い}身の毛もよだつ、おぞましい作品といった所でしょうか?こちらの方は一般的にはかなり否定的な意味にとられ、良識ある人達(Noという言葉に魅了されてしまった人達とも言えなくはないか?)の間で永遠に忌み嫌われる運命を背負わされた作品に与えられる異端的賛辞となります。
 「フェノミナ」は明らかに後者に属する映画となるわけですが、本当に観るに値しない(良識ある人達の言葉を借りると{悪魔よ去れ!})唾棄すべき映画なのでしょうか?
 映画のタイトル「フェノミナ」は Phenomenon の複数形です。意味は現象、事件といった所ですが、そこに驚異的な或いは不思議なといった形容詞のニュアンスが付け加えられる事が多いようです。
 主役を張るのは当時絶世の美少女ともてはやされたジェニファー・コネリー。セルジオ・レオーネ(黒澤明の傑作「用心棒」を西部劇に書き改めた「荒野の用心棒」は絶品だ)の遺作となった「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」で女優デビューしてすぐに、この映画の主役に抜擢されます。その後も順調に(まっとうな)女優人生を歩んだようで「ビューティフル・マインド」ではアカデミー賞も受賞して、もうこっちの世界には来ないのかとやきもきさせた物ですが、すぐに「ハルク」(「超人ハルク」というアメコミの映画化作品。好き者にはTVシリーズの緑人間の方がおなじみですね。変身シーンが我が国のデビルマンを彷彿とさせます)という正真正銘のゲテモノ映画に主演。最新作に日本人には感慨深い「ダーク・ウォーター」というホラー映画とは、もう涙なくしては語れません。皆を代表して私から一言{ありがとう、ジェニファーその優しさ忘れません}
 さて、本来主役なんてのは美男美女であればそれだけでOKという私が、つらつらとジェニファーについて語ったのにはもちろん理由があります。好きなのか?って、無粋ですねぇ(お客さん、くれぐれも踊り子さんにはお手を触れないように)この「フェノミナ」という映画は、ジェニファーを主役に据えた一種のイメージフィルムと私は考えます。そろそろ本題に入りましょう。陽も暮れて、じきに辺りにも闇が訪れてきそうな気配。今宵、闇に蠢くは、小さな小さな無数の虫達。
 監督のダリオ・アルジェントは、ホラー界のビッグ・ネームです。{決して一人では観ないで下さい}というキャッチコピーが功を奏して(映画界で働く人達の願望を見事に言い当てているのではないか?)日本でも大ヒットした「サスペリア」は、今や伝説になったと言っても過言ではない。いろいろな意味で「サスペリア」と「フェノミナ」は一卵性双生児の関係にあるようだが、それはまた別の話。ダリオの作品は常に不条理だ。どの作品もストーリーはあるにはあるが、どれもとってつけたようで必ず破綻がある。今にも崩れ落ちそうなビルと言えば分かって頂けるだろうか?骨組みはすかすかで、あちこち壁が抜け落ちている。では何故、ビルは建っていられるのだろう?先ほど語った私の考えを思い出して頂きたい。イメージ。ダリオの映画はイメージの集積によって作られているのだ。いくつかの映像化したいイメージがダリオの頭の中にあって、ストーリーはそれを織り込んでいく為の壁紙としてのみ機能している。映画は脚本だと私も常々思ってはいるが、どうやらそれだけではなさそうだ。脚本がなくとも映画は成立する。それを見事に眼前に叩きつけたのが、このダリオ・アルジェントという才能だ。作品にはいかにもお粗末な伏線らしきシーンが埋め込まれているが、それもただ単に次に登場する描きたいイメージとを結びつける為の小細工に過ぎない。ジェニファーが昆虫と意思疎通が出来る能力を持っているのも、夢遊病に冒されているという設定も、全てはイメージを具現化する為の手段でしかない。そしてここがこの映画の最も重要な点だが、ダリオの不気味で冷徹なイメージとジェニファー・コネリーという類稀な美が組み合わさった事で、奇跡的にこの映画は本来便器に一直線の所を踏みとどまり、そこを数段越えて芸術の域にまで近づいたというのは言い過ぎだろうか?それは皆さん一人一人が、実際にこの映画を観て頂き判断されるしか方法はない。但し相当な勇気が必要なのは言うまでもない。
 かように「フェノミナ」は、他の映画と同様のスタンスで評価してしまうという過ちを犯すと、惨憺たる結果しかもたらさない。ダリオの作品というだけで、{生まれの不幸を呪うがいい}状態にある悲劇の作品とも言える。けれどギミックはふんだんに盛り込まれ、闇のエンターテイメントとしてはフルコースを味わえる一級品だ。車椅子に乗った昆虫学者。刃物を得たチンパンジー。虫を操る美少女。生命を受けてしまった哀れな少年と愛ゆえに狂った母親。繰り返し繰り返し見せつけられる死と鮮血・・・。
 最後に一言。ダリオの映画に登場する人物は、皆一様に存在感が薄く現実味に乏しい。これは観客に対して感情移入を拒否しているように私は感じる。あたかも観客が映画にのめり込むのを押し止める防波堤のようではないか。ホラー映画には無数の死が描かれるが、そこには必ず意味がある(哀しいかな、それが伝わらない映画の方が遥かに多いのもまた事実)はずだ。ダリオの描く死は無機質で、主観が入り込む事を許さない。そう、それはまるで一枚の怖ろしく美しい絵画のように、ただそこにあるだけ。それが果たして意図的なのかどうかは神のみぞ知るといった所か?
 もう一言。ゴブリンについて書くのをすっかり忘れていた。ダリオ・アルジェントの作品にはゴブリンの音楽が不可欠だ。ゴブリンの奏でる死のワルツは・・・またの機会に
 

   「フェノミナ」   1984 イタリア
  監督 ダリオ・アルジェント
  主演 ジェニファー・コネリー

「シークレット・ウィンドウ」を思う

                      シークレット・ウィンドウ

 エレベーターに乗ってボタンを押すと、人は稀にあるはずのない地下3階に到達する事がある。そんな地下3階の景色を垣間見せてくれるのが、ホラー映画の醍醐味の一つだ。
 まず最初に、この文章を読む暇がある人達にどうしても言っておかなければならない事がある。今すぐレンタルビデオ屋に駆け込んで、風変わりでおどろおどろしいジャケットが並ぶ店の一番奥の薄暗い一角から、「シークレット・ウィンドウ」と名づけられた映画のパッケージを探し出し、数百円というわずかな金でこの映画を観る権利を獲得する事をお勧めする。あなたにも私にも、真っ暗な底なし沼に引き摺り込まれるまでには、まだ人生もう少し時間があるようだ。
 主演しているのは現在大変人気のある俳優と思われるジョニー・デップ。野生的でクールな感じが何ともカッコいいハンサムな男だ。私は彼を見るたびに、いつも同じ人を連想する。SMAPの木村拓哉(字あってるかな?)この二人に共通するのはカッコいいというだけではないように思う。二人共たくさんの映画なりドラマなりに出演しているが、私にはどれも同じに見える。そう、どんな役柄を演じようと、木村拓哉(あってるよね?不安だ)は木村拓哉を演じているように見えるし、ジョニーもまたしかり。ちなみにジョニー・デップ。「ショコラ」という映画でジプシーの男を演じているが、劇中でジャンゴ・ラインハルトの「マイナー・スィング」をギターで弾いてみせてくれる。実は僭越ながら、私もとあるパブで月に一回この曲を弾いている。しかるに私とジョニーはある意味ライバル関係にあると言ってよいのではないか?かなり一方的だが、人間にはいろいろな自由が許されているのだから仕方がない。そうではないか?
 物語はある作家が妻の浮気を発見する場面から始まる。妻が不貞を働いたわけだ。人として生まれた以上、男女問わず浮気をしない人など絶対にいないと私はつねづね断言している。けれども実際にされてしまうとやはりショックなものだ。頭では分かっているけど、というあれだ。主人公のショックはとても理解出来る。けれど、このシーンはこの映画の動機付けというにはいささか弱すぎる。こんな事で頭がイカレテいたら世の中のほとんどの人は頭が狂っているという事態に陥ってしまう。まあホラーの世界においては、元より気がふれてない人間を探す方が困難だ。現実はというと・・・(うぉ寒気がしてくるではないか)
 主人公の作家は、ある日男にいきなり盗作話を訴えられる。男は南部のいかれ野郎で、大変凄みがある。当然のように初めから超弩級の変質者臭でいっぱいだ。実際、男が持ってきた原稿とそっくり同じ話を主人公は出版していた。けれど、ほどなくして男がその原稿を書いたと主張するよりも先に主人公はその話を書き上げていた事が判明する。こうなると観客の主人公応援度は飛躍的に上昇するので、当たり前といえば当たり前の展開だ。けれど映画は不協和音も同時に提示するのを忘れない。観客は何かがおかしいと思うのだが、それが何かはまだわからない仕組み。後は最後までぐいぐいと不可思議な世界を彷徨う事を余儀なくされるわけだ。
 大変見応えのある映画だと言えるのではないか?かなり良質な出来栄えである。私自身幾つかの点でぞっとした。髪の毛が逆立ったと言ってもいい。私の一番の驚きは、これがスティーブン・キングの原作を映画化した物だという事だ。非難覚悟で言ってしまうと、キング原作の映画は明らかにレベルが低い。及第点は「デッド・ゾーン」「ショーシャンクの空に」「ランゴリアーズ(TV映画)」辺りで(これにしても不朽の名作にはどれも程遠い)、後は便器に押し込まれ勢いよく流されるべき映画(人はそれをクソと呼びます。失礼、ご婦人方)だ。
 スティーブン・キングはホラー界の偉大なる暗黒の塔であり、折り紙付きの金持ちだ。語るべき事はいくらでもある。私はつねづねキングはホラー界のシェークスピアだと思っている。(知ってのとおりシェークスピアは一から話を作り上げる作家ではなく、世に伝わる話を自分流にアレンジして舞台化する劇作家だ)キングもまたしかり。目新しいアイデアというのはキングには皆無だ。それでも彼が飛び抜けたベストセラー作家に名を連ねるのは、ストーリーテラーとしての究極の才能を身につけているからに他ならない。全く同じ怪談話でも、語る人によって、全くつまらなかったり、夜中にトイレに行くのを我慢しなければいけなくなったりする。キングはその分野で名人の称号を神から奪い取ったのだ。もちろんキングの小説にも当たり外れはある。個人的な見解を言わせてもらうと「呪われた町」「シャイニング」「デスペレーション」「スタンド」辺りがとても楽しめる作品で、「トミー・ノッカーズ」「ミザリー」「ファイアースターター」辺りがクズだろうか。短編も対象に加えるとなると、実はクズの方が遥かに多くなると言わざるをえないのだが、それは直接評価には影響しないはずだ。かのジョージ・A・ロメロは「ゾンビ」一本で私の中では最上級の賛辞を送られる監督だ。他は惜しい作品もあるが、押しなべてクズ映画だ。それでも私はロメロを心から愛してやまない。何度裏切られた所で、私はロメロの新作を心待ちにするのだ。それはたった一本といえど、最高傑作と呼ばれるべき映画を作り出した事への永遠の賛歌だと言ってもいい。そうではないか?周りをよく見てほしい。世の中はかくもクズであふれかえっているではないか。あまつさえ生者達では到底足りず、地上には死者達もあぶれている様子。映画に限ればそれはさらに拍車をかけてと言わざるを得ない。宝石の如く輝く映画を見つけるには、その数百倍のクズを観続けなければならないという宿命を私達は背負っている。しかし、それもまた楽しからずや。かくも人間とは強欲な生き物だ。
 「シークレット・ウィンドウ」は映画も良質なら小説も良質という極めて幸せな一本である。映画の内容については敢えてふれないようにした。私もまだまだ暗闇で後ろから突然殴りかけられても文句を言わない歳ではない。ぜひあなたの目で確かめて欲しいものだ。ただし、文句は言わないように。万人を納得させる物など、この世には存在しない。
 最後に一言。映画と小説ではラストが全く違う。どちらがいいかは好みの問題であって、あえて言及するものではないと思うが、小説の方がよりキング調(当たり前だ)であって、マニア心をくすぐるに違いない。あんたはどっちが好きか?って、ふふふ。それは秘密です。


   「シークレット・ウィンドウ」  2004 アメリカ
  監督 デビット・コープ
  主演 ジョニー・デップ

「エイリアンVSプレデター」を思う

                      エイリアンVSプレデター

 昨今よく見かけるVS物。ビッグヒットを記録した作品をくっつける事で2乗効果を期待しての企画物ですが、どれも思った程の成果は上げられず苦戦を強いられているようです。しかし、作品の出来と観客動員とは必ずしも比例するわけではございません。今回の「エイリアンVSプレデター」は、どれほどの作品なのでしょうか?
 どっちが強いかゲームは老若男女を問わず楽しめる事請け合いの話題の一つです。古くは{アントニオ猪木}と{ジャイアント馬場}はどちらが強いとか、時代を超えて{シャラポワ}と{グラフ}の女王対決はとか、{アイルトン・セナ}と{ミハエル・シューマッハー}が同じマシンで勝負したらどっちが速いとか、考えただけでもワクワクします。
 少し前にライブドアと楽天の球団買収合戦なんてものが現実にありましたが、実際に起こってしまうと実は大して面白くなかったりします。ダウンタウンとナインティナインが一緒に番組を製作したとして、どれだけ笑わせてくれる番組を作れるかというとはなはだ疑問です。
 「エイリアン」と「プレデター」は共にヒット作となり続編も作られました。ただし、番付表に照らし合わせてみると、横綱の「エイリアン」に対して「プレデター」は前頭何枚目といった印象は否めません。
私自身、「エイリアン」は傑作として記憶している(エイリアン以前と以後では、悪魔の子の出方が違います。以前では普通に分娩され生まれてくる悪魔の子ですが、以後ではほぼ例外なく腹を突き破って出てきます。うえっ。これだけでもこの作品の偉大さは証明されていると言えるでしょう)のですが、「プレデター」は正直観たのかどうかすら曖昧です。まだ「エイリアンVSターミネーター」の方ががっぷり四つな気もしますが、それはそれでいろいろな問題がありそうです。作品の背景等も考えますと、まあ妥当な選択なんでしょう。
 VSで最初に考えなければいけないのは、どっちを悪役にするかですが、ここはきっと満場一致で決まったでしょう。強そうな方が悪役。これは常識です。見栄えの問題もあるでしょう。人間も加えて三つ巴と考えると、まるっきりの化け物と宇宙人(素顔は似たりよったりですが)では体形的にもプレデターが味方になります。
 物語背景的にもプレデターの世界にエイリアンが殴りこみをかけた図式になっています。舞台は現代、南極の氷の下にピラミッド状の遺跡が発見されて(おお、血沸き肉踊る展開ですな。川口浩探検隊を彷彿とさせます)歴史に名を残したい大金持ちが、金にものをいわせてスペシャリストを集め探索に駆けつけます。この辺までが三分の一ですが、正直あってもなくてもいい感じです。たくさん人が出てきますが、性格にしろ職業にしろ何が何やらさっぱりわかりません。この映画は遺跡の中に突入するまでは早送りで十分です。この時点で残念ですが名作と言われる作品ではないとわかってしまいますが、名作であろうがなかろうがホラー映画好きには関係ありませんよね。そう、お楽しみはこれから(お互い血は争えませんなぁ、グフフ)
 常識を超越した二大巨匠が対決する場で人間に与えられた役割はなんでしょう?答えは簡単。餌です。人間はエイリアンの餌だったと、これで意味もなく人がたくさん出てくる理由が判明しました。何しろエイリアンの数ときたら海沿いの岩場を埋め尽くすフナ虫顔負けです。対してプレデターは数人。数が多いだけに単体では悲しいくらいに弱いエイリアンですが、徐々にじわじわとプレデター軍団を追い詰めます。一人きりになった人間とプレデターは手と手を取り合って(もう無茶苦茶ですな)上映時間も迫ってきた事だし爆弾でボーンです。舞台自体が吹っ飛びますが、ここで私は非常に違和感を感じました。爆発に巻き込まれまいと人間(ヒロイン)とプレデター(ヒーロー)が一生懸命逃げるのですが、常に先陣を切るのは人間でプレデターはその後ろをあたふたと追いかけているように見えます(なんだこりゃ、です)。
 ほっと一息もつかの間、巨大なエイリアン・クィーンだけは生き延びていて(この巨大というのがこの手の映画の肝です。でかけりゃいいってもんじゃないと普通は思うのですが、白人の方には通用しないようです)最後の見せ場となります。私的にはこのエイリアンの猪突猛進する姿を見ていて、このエイリアンの肩に人間が跨ってターザンさながらばったばったとプレデターをなぎ倒すという展開もありかと思いました。死闘が終わり(当然とはいえ)勝ち残った人間は、何故かやって来たプレデターの仲間に表彰されてます(笑)しかもこのお嬢さんどこか得意気な笑みを浮かべていますが、あなた何もしてないですから。漁夫の利ですから。プレデターの仲間達は仲間の死体を持ち帰るのですが、これはプレデターの常識とはかけ離れた行動です。完全に製作者側の意図がみえみえの行為をプレデターに押し付けてますね。ラストシーンで何がしたいかって?そんな事、ホラー映画ファンの皆さんには言うまでもありませんよね。
 90分ですか。丁度いいですね。ぞっとさせてはくれませんが、そこそこ楽しませてくれるのではないでしょうか。怖いシーンはないですが、気持ち悪いシーンはありますから。二度は観ないにしても一度は楽しめます。TVでただで見るのがお薦めです。

  「エイリアンVSプレデター」 2004 加・独・チェコ・英
 監督 ポール・アンダーソン
 主演 エイリアン   プレデター   サナ・レイサン

 ごくろうさま

[激突]を思う

                      激突

先日、日本のとある空港において、携帯のメールが原因で出発時間が一時間延びた飛行機のニュースが報じられていました。この手のニュースはワイドショーで必ず大きなニュースの間に挟まって、コメンテーターの苦笑いとくだらないジョークで、閑話を入れる絶好の素材として引っ張りだこなので、知っている人も多いと思います。離陸準備を開始したにもかかわらず、一向にメールをやめない男性に、再三注意をしに行った女性アテンダントが、男性に胸倉を摑まれ{お前の顔なんか見たくないんじゃ}と暴言と共に唾を吐きかけられたそうです。実にホラーな展開ですね。周りの乗客の方は、黙ってこの情景を観戦していたのでしょうか?物事には大抵決まり事があって、離発着時のメール等の電波発信にしても理由があるわけです。しかも安全上の理由ですよ。飛行機事故は常に大惨事になるものです。たくさんの人間の生死に関わる問題を、ただ無知と言って笑い飛ばしていいものでしょうか?黙って見ていた人達は、その男性のせいで亡くなってしまっても{それはそれ、運命でした}と言えるのでしょうか?それにしても、私がこのニュースで一番興味を持ったのは、やはりメールの中身ですね。何億という金がかかった仕事上のトラブルでしょうか?浮気していたキャバクラ嬢と妻が対峙する修羅場の実況中継が送られていたのでしょうか?あるいは悪魔との命を賭けた極限の取引をしていたのかもしれません。だとしたら・・・
 さて今回のテーマである「激突」は、あまりにも有名な作品で、見た事はないけど凄いらしい(笑)と人に言わしめるほどですが、どれほどの作品なのでしょうか?って、稀に見る傑作ですけど。
 「激突」は日本では劇場公開された作品ですが、元々はTV映画です。駆け出しのスピルバーグは、この一本を携えて堂々と映画界に進出しました。低予算で製作出来る上に、ワン・アイデアが抜群の効果を上げるホラー映画は、しばしば優れた監督達の処女作のテーマとして扱われます(そうでない人達もいっぱい・・・)。後に大物と呼ばれる監督の作品は、名作として残る事も多いようです。スピルバーグの「激突」やコッポラの「ディメンシャ13」とか、挙げていたらきりがありません。「激突」のように優れた作品を稀に生み落としてくれるTVですが、本来垂れ流しが基本のメディアなのでクロスオーバーみたいなのは期待したくないですね。日本のTV局なんかが、映画界に活況をとか何とかもっともらしい事を言って出資作品を劇場に送り込んだりしているようですが、あんなものはTVでやって欲しいです。現在の日本映画にはTVでやれば十分な作品が多すぎます。結果的に映画というものを堕落させている原因じゃないでしょうか?これだけ世界の枠が狭くなった現在、衰退するものは衰退させてしまっても構わないと私は思います。そうしてゼロになったら、きっと優れた才能が目を出すという状況も生まれる可能性があるでしょう。それが必然というものです。TVで放送すればいい物が、映画ランキングの上位に並んでいるのは異常です。本来ただの物が1800円で売られるわけですから。もちろん買ってしまう方にも問題はあるのでしょうが、メディアには人を騙す所がありますから、追求されるべきはまずメディア側でしょう。金儲けの方法なら、他にいくらでもあるじゃないですかTVには。
 ストーリーはいたってシンプルです。たまたま追い越しをかけたトレーラーの運転手がキレやすい人で、追い越しちゃった男が執拗に追いかけ回され殺されかけるという話です。本当にこれだけです。しかもトレーラーの運転手は最後まで姿を現しません(これがこの映画の肝ですね)同系の作品「ジョーズ」では姿を現した未知の敵も、「激突」では未知のまま終焉を迎えます。スピルバーグの手腕もさることながら、この映画での功労者は脚本のリチャード・マシスンに軍配が上がります。マシスンはこのジャンルにおける巨人の一人です。優れたアイデアマンであり、一風変わった作風(日常から半歩、足を踏み外してしまった人達の話)を得意とした作家です。登場人物は常にどこか気がふれてしまっています(笑)不朽の名作「ゾンビ」は、マシスンの処女作「地球最後の男」がきっかけになっているとも言われていますし、幽霊屋敷物のエポック・メイキング的作品「地獄の家」(映画化はヘルハウス。ベラスコーー!)、後に様々なヴァリエーションを生んだ「縮みゆく人間」等、語りだしたらとまりませんので、また別の機会に。
 車社会のアメリカはもとより、ここ箱庭の国でも、車を運転する人なら一度はトラックを怖ろしいと感じた事があるはずです。あの全てを飲み込もうとする巨体、心をも揺さぶる地響きと疾走音、大量に吐き出される鼻を突くガス。あのタイヤの太さといったら、走る凶器なんて可愛い表現では到底言い表せません。それがキレて殺しに来るのですから、この映画の主人公の恐怖は想像を絶します。
 冒頭のニュースでも取り上げましたが、この{キレる}というのはどうして怖いのでしょう?昔癇癪今キレると言葉は違いますが、人間がこの世に誕生した時からあるだろうこの現象。スティーブンソンの「ジキルとハイド」等、古典的名作は数多あります。人狼もそのひとつでしょうか。よく聞く、もう一人の自分に対する恐怖でしょうか?理性さえも無くし、自分自身ですら抑えきれない自分自身を想像してしまうのかもしれません。自分の中に潜む悪魔の存在。そういう未知との接触を垣間見せる瞬間なのかもしれません。そうして見るとこの「激突」も、実は主人公の頭の中だけで起こった話とも言えるのではないでしょうか。姿を現さないトレーラーの男は、自分の中のモンスターの具現化。
 ラスト、悪魔のトレーラーを打ち負かした主人公は、跳びはね絶叫し歓喜を爆発させます。たまたま私がその場に通りかかったら、絶対に静かに素早く気づかれないように立ち去るでしょうね。正に正気と狂気は紙一重。主人公は勝利を手にして現実へと帰って来れたわけですが、安心は出来ません。何しろ敵は自分の中にいるのですから。今日もそいつが{キレろ、キレろ}と呪文を唱えているかもしれません。皆さん、気をつけましょうね。{呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン}と、ハクション大魔王が出てくれるとは限りませんから・・・。
 さて今回「激突」を取り上げたのには理由があります。
 この映画で小心者の弱弱しい主人公を好演したデニス・ウィーヴァーが先日亡くなりました。主にTVで活躍した人で「警部マクロード」が代表作と言われているのではないでしょうか。
 私にとってはこの「激突」が忘れられないデニスの代表作です。彼はこの作品一本で、私の{セルロイドの英雄}リストに名を連ねました。


   「激突」     1972 アメリカ(TV)
 監督 スティーブン・スピルバーグ
 主演 デニス・ウィーヴァー

エクソシスト ビギニングを思う

                      エクソシスト0

 W・P・ブラッティの名作を見事に映像化した映画史に残る「エクソシストから四半世紀。ネタ詰まりに四苦八苦する映画界が世に送る「エクソシスト ビギニング」は、どれほどの出来なのでしょうか?
 とかく続編というのは面白くないというのが常ですが、それは飽きるという人間の特徴も影響してくるわけです。例えば、今ではただの監督になってしまったスピルバーグが正にキレキレの時に作り上げた「ジョーズ」は、そのインパクトで大ヒットし、当然のように続編が作られました。けれど、観客は「ジョーズ2」では{あっ、ここで出るぞ。ジャンジャンジャンジャンって出るぞ}と予測が出来るようになっており、「ジョーズ3」では{ハハハ、やっぱり出た(笑)}となるわけで、サスペンスこそが肝のこのシリーズにとって致命的な結果を招いたものです。もちろんその背後には雨後のタケノコの如く作られた、どうでもいい類似作品の功績?も忘れるわけにはいきませんが・・・。これは映画に限らずあらゆる分野で言える事だと思います。だからこそ優れたワン・アイデアというのは、それだけで巨額の富を受けるに値するわけです。ハリウッドで、あの脚本が何億で売れたなんて話をよく聞きますが、映画にとって脚本は設計図ですから、優れた脚本家は大金を手にするべきであり、そうじゃないとおかしいのです、本当は。逆に、正当に評価されないと、仕事がいい加減になり、鉄筋を二、三本抜いちゃったりしかねないじゃないですか。よい脚本から駄作はいくらでも作れますが、ダメ脚本から傑作は生まれないとよく言われますよね。ピカソがわけのわからん絵で評価を得るのも、あの素晴らしいデッサンを皆が知っているからというのも、少なからずあると思います。
 さて、言わずと知れたホラー映画の最高峰の一本である「エクソシスト」ですが、私がこの映画でまず思い浮かぶのは、あのポスターです。霧の立ち込める中洋館の前に毅然と立つ神父のシルエット。素晴らしいイメージだと思います。この後似たような物を幾つも見ましたから、それがこのポスターに与えられた勲章ですね。
 「エクソシスト」が名作たり得たのは、この何とも言えない全編を貫く雰囲気がまずあると思います。キリスト教圏でない場所でもヒットを飛ばせた重要な点です。まぁ映像のショッキングさもありきですが、「死霊のはらわた」のようにお笑いにならないのは、間違いなくあの何とも言えないムードの統一感に尽きます。失敗作「エクソシスト2」はこの点欠けていた気もしますが、どうでしょう?同時期の作品としてライバル関係にある「オーメン」ですが、「エクソシスト」からシリアスさを抜いて子供向けに作られた感のあるこの映画にも、やはり続編がたくさん作られました。けれど「オーメン2」は「エクソシスト2」よりも好意的に受け取られている気がします。そこにはこの雰囲気というのが、とても関係していると思います。「オーメン」と「オーメン2」は統一感がありますね。「オーメン3」は、・・・なかった事にしておきましょう。
 残念ながらというか、当然の事なのかもしれませんが「エクソシスト ビギニング」は「エクソシスト」とは全く別物です。「エクソシスト」で悪魔と対決して死んでしまうメリン神父の若き日の話であり、メリン神父の記念すべき?最初の悪魔祓い(最初って事は二度目とか三度目とかあるのでしょうか?考えたくないですが)という設定です。ストーリーはこのシリーズは単純明快です。悪魔にとり憑かれた人を神父が悪魔祓いするという話です。
 物語の舞台はアフリカのナイロビ。歴史上あり得ない場所に教会が埋もれていて、そこへ元神父(ここが肝心なのかな?)メリンが調査に出かける事になります。この設定自体は、私は好きですね。ミステリアスで知的好奇心をくすぐる感じです。
 そして本日のメインイベントですが、主人公のメリン。元神父です。戦時中のある出来事をきっかけに信仰を捨てて考古学者になってます。
 余談ですが、このきっかけはナチスの悪行です。私的にはこのナチスはとにかく悪い、ナチスこそ悪みたいな映画での使われ方は、もういいんじゃないって気がします。世にあまたあるこのナチス=絶対悪を描いた映画は私の好みではありません。「シンドラーのリスト」とかも好きではありません。もちろん歴史的にみて重要な出来事ではあるし、その行いを繰り返さない努力を欠かさないのが人類の使命なんていうのも、もっともではあります。けれど、あまりにも数が多すぎて、かつ一方的な気がします。「暗い日曜日」という映画は、そんな中でも一風変わっていて、大変面白かったですね。とてもいい映画だと思います。反ナチス映画ファンの方必見です。
 つまる所、この映画は神への尊厳を捨てきれずに、最後には敬虔な信者に戻り、悪を打ち滅ぼす男の話なわけです。キリスト教万歳。ジーザス・クライスト・スーパースターです。大いなるアメリカ映画の最強の必勝パターンなんでしょうか?この感じって、もはやアメリカ人でもついてけないって人、けっこういるんじゃないですかね?とても憂鬱です。しかも、この映画「エクソシスト」の続編だからメリン神父が主人公なわけですが、別にメリン神父じゃなくてもいいのでは・・・。
 それにしても、いつの世も悪魔というのはこうもスケールだけはやたらでかいのに、やる事はいつもセコイのでしょうか?しかもこの映画の悪魔ちょっと弱すぎじゃないかしら?そして私がこの映画を見て一番感じたのは、メリン神父、イメージ合いません。神父というより、最前線に立つ鬼軍曹です。この人がその後「エクソシスト」の老神父になると誰が考えるのでしょうか?まだアナキンがダースヴェーダーになる方が納得出来ます。
 最初なのに割と否定的になってしまいました。つまらなくはなかったかな・・・面白くはなかったけど。どっちでもいい感じです。ちょっと残念な気がする分点数は低いかもしりません。次はワクワクドキドキさせてくれるホラー映画に出会えるよう期待して、また新たなる扉を叩きましょう。

 「エクソシスト ビギニング」    2004 アメリカ
 監督 レニー・ハーリン   出演 ステラン・スカルスガルド

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