DARK TALE OASIS

主に映像作品にふれて、思った事を書いていきます

たったの?それとも・・・「私たちの幸せな時間」を思う

168.この数字をパッと見て、何を意味するのか分かる人は、一体どれくらい存在するのでしょうか?7で割ると24.つまり一週間は168時間にしときましょうと、先人が勝手に決めた数字なわけです。一日の睡眠時間が7時間だとすると、起きている時間は119時間。週に45時間仕事をしていたとして、私達の自由な時間は週にたったの74時間。通勤に一時間とかかかるお気の毒の人はさらに自由な時間が短縮されます。こうして数字にしてみると、いかに私達の生きられる時間は短いのだと、改めてゾッとさせられます。とかいいながら、土曜の貴重な自由時間を、ぼけっと今日も垂れ流してしまう私のような輩もいるわけですが・・・。無論、人間には無駄というものが如何に大事であるかは十分心得てはいるつもりですが、夜になるとなんとなく憂鬱になってしまったりもします。{時間を有効に使え}なんて口で言うのは簡単ですが、実際有効であったと本人が自覚出来る時間というのは、一生のうちでどれほどの数字として表されるのでしょうか?う〜ん、考えたくもないですなぁ。正に人の一生は一瞬の夢とでも申しましょうか、死ぬ間際になって初めて{私はとんでもない事をしてしまった}と打ちのめされるのがオチなのかもしれません。
 「私たちの幸せな時間」という映画は、一週間にたったの三時間しか幸せな時間がない男が登場します。最もたったのと書きましたが、現実には一週間に幸せな時間が、万馬券を的中させた一瞬しか存在しないなんて人も確実に存在しているわけで、決して三時間が短いとは言い切れません。あなたは、一週間にどれ位幸せな時間を過ごしていらっしゃいますか?私はねぇ・・・最近ゼロかも・・・とほほ。いやぁ、三時間も幸せな時間があるなんて、実に羨ましい男の話ではないか?けれど、世の中いい事はそうそう続くわけでもなく、男の時間は刻一刻と最後の瞬間へと進み続けているわけです。
 この男は強盗殺人を犯した死刑囚(もちろん映画らしく、観客が感情移入しやすいように情状酌量の余地を残しています)ですが、こういう特別な状況に置かれていようがいまいが、私達は皆同じ穴の狢であると言えるのではないでしょうか?死は逃れられない事実として、常に私達の背中にぴったりと張り付いています。誰もが自分自身の死神であるとも言えるでしょう。この映画が描いているのは、幸せな時間というのはあまりにも儚く貴重なものだと、誰もがいつだってついつい忘れてしまいがちな単純な事柄を、直球勝負で物語に仕立てただけのよくある映画です。よくある映画ですけど、私達は観終わった後にまたしても脳天にかなづちを振り下ろされてしまうわけで、実はそっちの方がよっぽど重要なのかもしりません。人間って、本当に学習しない生き物ですね。という事ではなく、人はなんと自然に巧みに死を忘れる事が出来るのかという事実です。これは生きていく為に絶対に必要な、いわゆる必須事項なんですよね。これがうまく出来ないと、人はバランスを崩してしまうわけです。現在は、このバランスを奪う事態が実に多いらしく、世界は由々しき時代へと突入しているようです。{死を常に意識して、一瞬一瞬を大切に生きろ}なんて、一見カッコイイ言葉ではありますが、こんなのは嘘っぱちなわけです。どうすれば死を忘れる事が出来るのか?こっちの方が、人間にはよっぽど必要な事なのではないですか?そうではないか?
 この映画では、死を忘れさせる要因として、恋愛が使われています。ベタですが、それ以外に一体何があるというのでしょうか?命、短〜かぁし〜 恋せよ〜乙女〜。と、ゴンドラの唄を思い出したりしちゃったりもしますが、恋と死というのは、一蓮托生といいますか、二つで一つといいますか、要するに紅白まんじゅうの紅と白な関係であります。人間は生きる為におもいおもいに熱中出来るものを探すわけですが、恋に勝るものなどありはしません。それは{生}に直結する行為だからでしょう。大いなる円環。{生}がなければ{死}もありません。{死}がなければ{生}もありません。{死}とは本来、誰かの{生}の為に必要不可欠な行為であり、現在の世界の混沌は{生}のみが過剰になってしまった証でしかありえないと私は思います。毎日のニュースでは、この{死}の在り方が不気味に変形してしまった姿が垂れ流されてしまっています。と同時に、{生}の在り方も問われて然るべきなのでしょう。ごく普通に恋をして、ごく普通に失恋して、またごく普通に恋をして、ごく普通に合体して、ごく普通に未来を生産して、ごく普通に死んでいく。こんなに簡単な事が、どうして簡単に出来なくなってしまったのでしょうか?もしかしたら文明だとか科学だとかといった世の中を便利にするという行為が、私達の自然なる存在意義を少しづつ侵蝕しているのかもしれません。人づきあいほど面倒くさいものも確かにありませんが、世の中が便利になればなるほど、人づきあいが下手になっていくというのは明白です。継続は力なりとか、失敗は成功の母であるとか、そういう先人の知恵を取り戻すのは、やはり子供の頃からの積み重ねで習得していくしかないわけです。日本人の幼年期は年々伸び伸びになっているのですから、その時間がないとは口が裂けても言えません。18歳を成人になんて、現実をみたらちゃんちゃらおかしいのではないかと思われる制度を本気で考える政治家もこの国にはいるようですが、現実に則すのならば日本人の成人はもはや年齢では決めかねるというのが実情でしょう。そしてそこには、いつだって{いびつな生}が蔓延っているという事態をこそ、私達は今一度思い返さなければいけないのではないでしょうか?
 現実離れした物語を構築して真実の一端を浮き彫りにするはずの映画が、その現実のあまりの現実離れぶりに圧倒されてしまう昨今。「私たちの幸せな時間」の実に映画的な設定も、何だかあまりにも普通に感じられてしまう所だが、普通の事が普通に出来る世界というものがやっぱり肝心なのではないでしょうか?


  「私たちの幸せな時間」     韓国       2006
 監督  ソン・ヘソン
 主演  カン・ドンウォン    イ・ナヨン

最近の子供は大変だ「トランスフォーマー」を思う

  ぶっちゃけ観ても観なくてもどっちでもいいけど、なんとなく観ちゃったという映画が誰しもあるのではないかと思うわけですが、「トランスフォーマー」なんかは私的には正にそんな一本であるわけです。ただし、それは決して作品を否定しているのではなく、あくまで興味がないだけの話。実際、「トランスフォーマー」は実に映画らしい映画で、とにかく今出来る事は全部やってみました的な恐るべきサービス精神に溢れた、特撮だとかメカニックだとかが三度の飯より好きな方々にとっては金払っても十分元は取れた映画ではなかったのではないかと思います。ある種の映画は、もはや実写とアニメの境目を限りなく曖昧にしてしまいましたが、それが技術の進歩であるというのであれば致し方ございません。要は出来上がった作品が面白ければそれでいいのでしょうが、個人的には興味のなさも手伝って至極退屈な二時間半となりました。こういう映画を観る度に、技術の向上はそのまま映画の善し悪しには直結しないという当たり前の事実をまざまざと思い起こされてなりません。かつてはアニメーションでしか映像化出来なかったものが、実写(CGを実写と言えるのならばですが)で再現出来るようになりました。という、結果報告に過ぎないのではないでしょうか?「ドラゴン・ボール」なる日本のマンガをつまらなくした傑作が、映画となってハリウッドを奈落の底に突き落とす結果にならなければいいのですが・・・。
 日本のアニメ文化が世界に蔓延り始めて久しいわけで、今では世界のあちらこちらで日本のマンガがいともたやすく読める時代になってきています。日本映画界でさえ「どろろ」やら「おろち」やら「ゲゲゲの鬼太郎」を実写映像化出来る時代なのですから、もはやハリウッドの巨大資本に映像化不可能なマンガはないと言えるでしょう。ネタ切れハリウッドと陰口を叩かれている昨今、「スピードレーサー」や「ドラゴン・ボール」の例を挙げるまでもなく、膨大な日本の財産を食い潰しにかかるハリウッドの姿が目に浮かぶようです。ディズニーに魅せられて手塚治虫が存在していたのは紛れもない事実なわけで、時が流れて日本のマンガがアメリカの下へと還元されていくのも別段不思議な話とも思えませんし、むしろこれは必然のような気がしてなりません。なるほど日本でマンガがここまで異常発達した裏には、手塚治虫や石森章太郎といった本来映画界で花開くべきとてつもない才能が二次元の世界で活躍したというだけではなく、金という現実も大きく作用していたわけです。とかくこの世は金なんです。ハリウッドだけが成しえた商業映画の歴史は、富める国の象徴でもあり、アメリカのみが作り得る大資本娯楽映画に嫌悪を示す行為は、ある意味貧乏人の僻みでもあるわけです。映画におけるハイリスク・ハイリターンの法則を、世界で唯一実現させたアメリカ合衆国という国は、それだけで賞賛に値すると言えなくもありません。にわか成り上がりの日本における映画界の現状は、結局はローリスク・ローリターンでしかあり得なかったのは誠に残念でなりません。そうしたみみっちい映画界では、結局世界を驚嘆させる映画等生まれる余地も当然ないわけで。ましてやマンガの持つ安上がりかつ無限とも言えるはったりの魅力には、逆立ちしても敵わなかったのは歴史が示す通りであります。
 さて、私は常々マンガで面白いものはマンガで読めばいいじゃんと思っている一人でありまして、何をわざわざ映画にする必要があるのかと疑問に感じている一人でもあるわけです。が、他国において日本のマンガが映像化される事については、実はそんなに否定的ではありません。それは、もう間違いなく別物として楽しめるだろうという確信があるからに他なりません。もちろん、その映画化された作品が面白いか面白くないかは別問題です。少なくともアメリカ人が日本のマンガに引け目を感じる事はあり得ないわけで、それこそ好き勝手に改変してくれるのは疑いようがありません。さいとうたかをの「サバイバル」や、永井豪の「バイオレンス・ジャック」、松本零士の「ガン・フロンティア」なんか、一体どんな映画になるのでしょうか?興味は尽きないですね。これらを日本人が日本資本で映画化するとなれば、まぁどんなものになるのか想像出来ちゃうとは思いませんか?どんなに頑張っても、「ドラゴン・ヘッド」やら「キューティー・ハニー」レベルのくだらない映画がまた一つ増えるだけの可能性が極めて高いのは否定しづらいわけで。そういえば、浦沢直樹の「20世紀少年」の出来はどうなのでしょう?マンガは五巻ぐらいまでしか読んでいない(他の浦沢作品と比べて、面白くない方の作品だと個人的には思っている)のですが、聞くところによると結構マンガに忠実だとか。マンガの面白さの特徴と映画のそれとでは似て非なるものであると思っている私なんかは、それだけでなんとなく観る気がしなくなってしまうのですが、だったら映画観ればマンガ今更読む必要もなくなるし、それはそれでいいのかなとも思わなくもない。って、ぶっちゃけどうでもいいなぁ。それよりも「モンスター」をドイツ・アメリカ合作とかで映画化してもらえないものでしょうか?もちろん変えるべき所はおもいっきし改変してもらって。とにかく、マンガの原作は変えるべき所は引きづる事無くがらっと変える必要が絶対あると思うのですが、どうなんでしょう?結局、人間は先入観からは逃れられないのは間違いないわけで、違和感とかはどうにもならないのかなぁ。最近はTVドラマでも本当にマンガ原作が増えているみたいですけど、難しいよねこれは。私なんかはもう十何年週刊マンガ誌とか読んでいないので、ある意味先入観全くなしで観られるのが救いなのかな?まぁ、面白いかどうかはまたまた別問題ですけど。
 「トランスフォーマー」は、ある種瞬間芸的な色合いが濃い映画なのではないでしょうか?はまる人ははまるし、ダメな人はもうとにかくダメな映画の代表選手みたいなものですか。それは結局、映画に何を求めているのか個人個人の勝手な思いの結果に過ぎません。元のアニメがどんな代物だったのか全く分かりませんが、きっと玩具会社先行の有象無象の突き詰めると何もない類のよくあるアニメなんだろうなという気がしてなりません。その実写映像化なんで、中身なんて端から必要ないと割り切って作った映画としか思えません。けれど、繰り返しますが、映画ってそれでもいいんだと私は思います。少なくとも、この映画は何を観客に見せたいのかという思いが、ひしひしと伝わってきます。観終わった後に、結局何も伝わってこない映画が増えてきた昨今、その潔さは評価してもいいのではないでしょうか?まぁ、正直、ゲームのムービーとかPVとかCMとかでやればいい事ではありますが。ついでに言うと、私には何がどう変形しているのか、さっぱり分かりませんでしたが・・・。日本のアニメならもっと生真面目に分かり易くベタベタに見せてくれた部分だったのではないでしょうか?その方が玩具も売りやすいよねぇ。そうではないか?


  「トランスフォーマー」      2007   アメリカ
 監督  マイケル・ベイ
 主演  シャイア・ラブーフ     ミーガン・フォックス

邦題には目をつぶり「題名のない子守唄」を思う

  ジュゼッペ・トルナトーレの新作が細々と劇場公開されてから、まだそれほど時が経ったわけではない。世の中の流れが急速になればなるほど、映画の賞味期限もどんどんと短くなっていくのも当然といえば当然の話だ。良質の映画を映画館で観る機会は、大都会のど真ん中にでも住んでいなければなかなか難しい状況になってしまった。小さな映画館はどんどん消え去り、遊園地もどきの大小のスクリーンを寄せ集めたシネコンは金太郎飴状態。正に八方塞の状態の中、私達はいつしかTVというモニターを通して映画を鑑賞する事に馴らされてしまった。確かにTVで鑑賞しようと、面白い映画は面白いものだ。手軽に何度も見返す事も出来る。コレクターにしてみれば、お気に入りの映画がパッケージとして書棚に並んでいる光景に、言い知れぬ恍惚感を味わえるのも事実だろう。以前、私はミニ・シアターが嫌いであるとブログに書いた覚えがある。シネコンでは決してかからない類の映画を見繕って、独自の視点で作品を選び世の中に公開するというミニ・シアターの存在意義については分からなくもない。例え小ぶりでも映画を上映する為に建設された施設には違いないし、家庭のリビングの照明を落として観る状態に比べれば、遥かに映画に集中出来るのも確かだろう。しかし、映画の魅力を伝えるという点では、ミニ・シアターは何の役にもたっていないのではなかろうか?私には劇場の小型版と言うよりは、ホーム・シアターの拡大版と言う方が遥かに的を得ていると感じられるのだがどうだろう?単純に、人は巨大な物に畏怖の念を抱き、時に憧れを抱くものだ。映画の衰退はスクリーンの大きさに比例する。その一番の理由は、記憶なのだと私は思う。映画館で観た映画というものは、いつまでも記憶に残るものだが、スクリーンが小さくなればなるほど、果てはモニターになってしまうほど、その作品の記憶は驚くほど薄まってしまうものだ。記憶に留まらないというのは、それだけ感動が薄弱かつ一過性のものでしかないという事に他ならない。人間は記憶によって生きている生き物である。記憶こそが個性であり、記憶こそがとどのつまり人間そのものだ。映画の歴史は、物語の再生産の歴史に過ぎない。最近はリメイクばかりという声もよく聞かれるが、実際の所それは別段おかしな事では決してないのだ。要するに製作者側が、最も安易な再生産の形を採用しているに過ぎないわけだから。それはつまり、製作者側にとっても映画というものが持つ魅力が薄れてきている証拠なのだろう。映画の存在が当たり前になればなるほど、人にとっては関心の対象から離れていく。これは歴史の持つ宿命なのかもしれない。VIDEOの登場が映画をどう変えてしまったのか。より鮮明で安価なDVDの登場が、遂には映画に引導を渡す日はやってくるのか?私達は今、一つの時代の終焉をこの目で目撃出来る貴重な時間を生きているのかもしれない。
 「題名のない子守唄」。トルナトーレの新作に付けられたこの邦題には、またしてもがっかりさせられるではないか。ポスターとか予告編もそうだけど、作品であるからには題名ってもの凄く大事なんじゃないかと私は思うのだが、世の中そうではないらしい。観ようという意欲さえ削ぎかねないこのセンスの欠片もない邦題がいかに安易に付けられたのかは知る由も無いが、自分の息子に{便器}君だとか{糞太郎}君なんて名前を付ける親が一体どれだけいるというのか?社会のモラルが大いに疑問視される昨今ではあるが、どんなに酷い名前であっても、作品にはそれを変名する力はあり得ないわけで、もう少し責任感を持って名付け親になって欲しいと切に願うわけであります。せっかくのトルナトーレの新作がこれじゃあ、実際腰が砕けませんか?
 で、トルナトーレなんですが、以前このブログのどこかで私感を書いた気がするのですが、トルナトーレの作品を取り上げた事はないと記憶しているので、どこにその記述があるのかはもはや定かではありません。何を書いたかも当然あやふやなので繰り返しになってしまうかもしりませんが、一言でいうなら、その作品の奥底に常に異常な変態性を隠しもった私好みの監督の一人であるのは間違いありません。とにかくどの映画にも、思わずにやりとしてしまいそうな変態の匂いが隠し味として作品の質を高めています。最も有名であろう「ニュー・シネマ・パラダイス」にしても「海の上のピアニスト」にしてもその変態性は健在で、だからこそ人々に愛される作品になっているというのは言い過ぎでしょうか?トルナトーレは自身の変態性を全面に押し出そうとは決してせず、むしろ{いい子ちゃん}ぶる所もあるようですが、その辺の微妙な感じが実にバランスよく作品に表れるという意味である種の天才だと言ってもいいでしょう。こういうタイプは、例えばロマン・ポランスキーなんかにも通じる部分かと思うのですがどうでしょう?断言しますが、映画というのは変態が作った方が絶対面白いです。ごく普通の腕のいい監督が「ニュー・シネマ・パラダイス」や「海の上のピアニスト」を監督したとしたら、もちろんそれなりの作品は出来上がるのでしょうが、今ほど熱烈なファンを持つ作品にはなってはいないはずです。そうではないか?
 そして今回の「題名のない子守唄」も例外ではありません。フラッシュバックを巧みに使った普通のサスペンス映画が、トルナトーレが監督をするとなんと変態的になるのでしょう。しかもどことなく美しい。そうか、変態って美と同義なんだねと、ついつい思わされてしまったりして。もはや名コンビともいえるモリコーネのスコアも、例えばダリオ・アルジェントの作品に提供する時のようなどことなく安っぽい感じが今回の作品には見事にマッチしています。単に音楽だけを聴くのであれば前記の有名二作品のテーマのインパクトには遠く及ばないのは確かですが、今回の映画でそれをやってしまっては作品自体が台無しになってしまう事をモリコーネは分かっているんだね。前作の「マレーナ」がトルナトーレの頂点ともいうべき円熟味を見せていたので、さすがに今回はコケルのかなと正直思っていたのですが、どうしてどうして面白い作品になっているのがとにかく嬉しいですね。それどころか、変態性を奥底に潜めつつ{いい子ちゃん}ぶりぶりも全開の今作品は、まさしく最もトルナトーレらしいトルナトーレ印の作品と言えるのかもしれません。ファンならずとも映画に興味がある人は、ぜひ観て欲しい作品の一つであります。邦題なんか気にしちゃいかんよ。邦題は単なる記号と思うべきでしょう、この作品の場合は。

  「題名のない子守唄」       2006    イタリア
 監督 ジュゼッペ・トルナトーレ
 主演 クセニア・ラパポルト       ミケーレ・プラチド

色んな意味で久々「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」を思う

  みんなが待ち望んだ?というのは、かなり横柄な言い分であります。あのインディ・ジョーンズが帰ってきたと、小躍りして胸を高鳴らせた人は当然世界中に確かに存在しているのだろうし、その公開を指折り数えましたと声高に雄叫びを上げる人は間違いなくいるのでしょう。なるほど、「レイダース/失われた聖櫃」という作品が映画産業に巻き起こした影響は、尋常ではないのでしょう。映画という枠でエンターテインメントを語る上で、この作品に匹敵する映画が果たして何本存在するのかというのを考えて見ても、なかなかどうして力作であるのは誰しもが認めて然るべきではないのでしょうか?
 「レイダース/失われた聖櫃」が公開された1982年には、ここ日本では同じスピルバーグ印の「E.T.」が猛威を奮っていたわけです。当然、興行収入も「E.T.」がダントツであり、「レイダース/失われた聖櫃」はトップ10の真ん中位だったのを覚えています。まだまだお子ちゃまだった私ではありますが、この結果に大変不満だったのを憶えています。当時、オーパーツだのモケーレ・ムベンベだのに夢中だった私には、ふやけたクソ虫みたいな宇宙人よりも、このわけのわからない異常な考古学者の方が遥かに魅力的だったわけで、その傾向は今でも変わっていません。ちなみにこの年に「レイダース/失われた聖櫃」をものともせずにヒットを飛ばしたのは、「E.T.」に加えて「ミラクルワールド・ブッシュマン」(笑)であり、「少林寺」というマニアにはたまらないラインアップ。他にも「キャノンボール」だの「ロッキー3」だの「マッドマックス2」だの、個人的には一押しの「Uボート」なんてのも公開されました。公開当初はパッとしなかったのに後にビデオになって人気を博した「ブレードランナー」も忘れてはいけない一本と言えるのかもしれません。いやぁ映画って本当にいいもんですね(合掌)的な、まだまだ映画が娯楽として力を持っていた時代であり、その作品も個性的であると感じてしまうのは致し方ないのかもしれません。この後、映画産業は確実に衰退していくわけですが、その根源となる何かを紐解くヒントが、この華々しくスタートを切った80年代に隠されているのは疑いようがありません。もしかしたらその片棒をインディ・ジョーンズ・シリーズも担いでいたという意見を述べたとしたらどうでしょう?個人的には、それは事実であると確信しているわけですが、まぁそれはまた別の話という事で。
 一作目の順調な滑り出しを受けて、シリーズ化されるこのインディ・ジョーンズの物語は、右肩上がりにここ日本でも受け入れられます。「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」は一作目で後塵を拝した「キャノンボール2」をぶっこ抜き、当時現在の韓流ブーム以上の盛り上がりを見せていたジャッキー・チェン一派の一大プロジェクト「プロジェクトA」をも看破して1984年の頂点に立ち、シリーズ完結編にして80年代の末尾を飾る89年にダントツの成績を残した「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」で巨大な花火を打ち上げました。そして映画界にまた一つ伝説が築き上げられたわけですが、このシリーズに関する個人的な興味は実は真逆であります。「レイダース/失われた聖櫃」に心を奪われた私は、続く「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」で大いに失望し、「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」は遂に劇場に足を運びませんでした。三作品全て水準以上の出来であるわけで、面白い映画であるのは当然認めなければいけないのでしょうが、回を重ねる度に私の好みではなくなったというのがその理由でしょう。簡単に言うと、アドベンチャー的要素を加味したオカルト・ホラーだった一作目から、オカルト的要素を加味したアドベンチャー映画へとシフトしたとでも言えばいいのでしょうか。シリーズが進む毎に大衆化され、結果として映画として幼稚になったと言ってもいいかもしれません。スピルバーグとルーカスの作品への力関係の変化及び、スピルバーグ自身の変化も微妙に影を落としているのは否めません。「E.T.」以後、自分の趣味を極力制限して作品を作るようになったスピルバーグの姿勢が(もっとも根がゲテモノ好きの子供である事には変わりなく、その後の作品にも変わらずそれを裏付けるシーンは確実に存在するが)、この類稀なる冒険活劇映画からどんどん毒を抜いていってしまったのは如何なものか。そもそもこのインディ・ジョーンズの世界を形作っているものの根底にあるものはなんなのかといえば、それはオカルトでありホラーを感じさせるミステリーだったのではないだろうか?心霊、怪奇現象、未知の動物達、古代の超文明、魔術といった言葉がかつて放っていた妖しい魅力は、そこに恐怖を禁じえないからこそ子供達は心を奪われていたのではないのか?なるほどかつての007であり名優ショーン・コネリーを担ぎ出し、親子の絆みたいなものを全面に推しだした「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」に人間ドラマの現れを指摘する人は多い。それはもの凄い分かりやすさで人間の姿を描いてみせる事には一見成功しているが、実は人間の内面を映画として抉り出す事からは程遠いのではないかと私は思わずにはいられない。映画という一つの作品が内包する人間の真実みたいなものが、表面的な薄っぺらいものでしか表現出来ない昨今の映画をして、私は常々幼稚であると感じているに過ぎません。子供が好きな物は幼稚であるとか、分かり易いイコール幼稚だとか、クダラナイもの馬鹿げたものが幼稚だとか、そういう事では全くないわけです。
 さて、完結したはずなのに最新作が出るのは、二十一世紀に入ってからの新たなトレンドであるわけで、当然我らがインディアナ・ジョーンズも再びスクリーンに舞い戻ってくるのはある意味必然なのでしょう。人によってはせっかく築き上げてきた伝説に泥を塗られるのを嫌がる向きもあるのかとは思いますが、先述した通り個人的にはうなぎ下がりなシリーズなわけで、どんどん泥を塗りたくって頂きましょう状態なわけで、その公開を楽しみにしていた私がいます。その裏にあるのが、{最近本当に観たい映画がなくなったよな}的な気分に彩られているという事実があるのも否定しません。ルーカスとスピルバーグがインディを撮るわけで、ある程度の保証は掛けられているという安心感も何故かありました。スピルバーグが100年を越える映画の歴史上に於いて、並々ならぬ手腕を持った数少ない監督の一人であるのは(好みの問題はさておいて)もはや疑いようがありません。どんなに誹謗中傷を受ける立場であろうと、それは作品を客観的に観れば誰も否定出来ない事実でしょう?違いますか?例えば「レイダース/失われた聖櫃」の公開後、正に「E.T.」の製作途上で衝撃的な死を迎えていたとしたら、この人はある意味神格的な映画監督として(ロックの世界でいうジョン・レノンのような)後世に名を残していた可能性があります。そんな映画監督他にいますかねぇ。それとは別に、インディ・ジョーンズの作品が持っている世界観が映画というメディアに非常にマッチしているという事実もあるでしょうし、それ以上にもはやキャラクターが確立して一人立ちしているのが大きいでしょう。言ってみれば、ルパン三世みたいなもんです。つまんなくても何となく観れちゃうみたいな。
 個人的に最も引っかかったのが、クリスタル・スカルという部分でしょうか?実際、今更{水晶髑髏}ですかぁ?的な感想を抱いた人は少なからずいたのではないでしょうか?そういう方々、あんたも好きねぇです。まぁ某遊園地の乗り物との関連もあるのでしょうが、あまりにもベタベタな選択ですなぁ。若かりし頃に本場で何度も並びなおして乗りまくった経験がある私としては、それは触れてはならない部分かもしれませんが・・・。いや、ある意味今回の映画よりも、あの乗り物の方が遥かに面白いとも言えなくもないのではないか?日本にも新しく増設された埋立地の方にあるんですよね?いゃあ久し振りに乗りたいなぁって気分になってきました。それはさておいて、クリスタル・スカルじゃなきゃいけなかったのでしょうか?それが観終わった後も、私の中では大いなる疑問でしたね。別に{失われた聖櫃}の真の秘密でもよかったんじゃないのかな?その方が出演者達ともマッチしてたのでは?
 結論から言えば、良くも悪くも見事に前作からの(作品の内容とは関係なく)延長線上にあったわけで、「レイダース/失われた聖櫃」のような喜びは得られなかった私ですが、それでも二時間があっという間で、楽しい映画であったと記憶しています。一ヶ月近く前に観たもので、ラストとかもう記憶が曖昧になってしまっているのですが、まぁそんなもんでしょう。ラストが賛否両論なんですか?別にラストなんてどうでもいいんじゃないですか?そういう映画だし。それにこの手の映画の魅力は、常に謎を追って密林に足を踏み入れる部分にあるのではないでしょうか?そこさえ押さえとけばラストなんておまけでしょ。そうではないか?


   「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」     2008   アメリカ
 監督   スティーブン・スピルバーグ
 主演   ハリソン・フォード       シャイア・ラブーフ



そこに希望がある限り「ミスト」を思う

  フランク・ダラボンとスティーブン・キングのコンビは実に相性がよい。「ショーシャンクの空に」はキング原作の映画化としてはどういうわけかすこぶる評価が高いようだし、「グリーン・マイル」も大きな話題を集めた一本だ。新作となる「ミスト」も見事に面白い作品に仕上がっていたのは、もはや言うまでもないだろう。ひさびさに時間を忘れさせてくれたこの映画に、心から拍手を贈りたい。確かに二度三度と観かえす類の作品ではないかもしれないが、人生とはそもそも一期一会。再見する機会が一生なかったとしても、何かのきっかけに{あぁ、あれは面白い映画だったね}と回想出来る作品がまた一つ増えたという事実が、一映画ファンとしては単純に喜ばしいではないか。まだまだ面白い映画というものは作れるんだという発見は、映画という廃れつつあるメディアにとっての、小さな小さな{希望}でもあるわけだ。
 このコンビの三部作は、全て同じ話だと言ってもいいのではないだろうか?同じ主題を扱っているのに、それぞれの結末はあまりにも違うわけだ。前二作では、キングの原作を丁寧にまとめあげる事で作品を紡ぎ上げてきたダラボンが、今回の「ミスト」では結末を大いに書き換えている。というか、完全オリジナルとして結末を付け足している。それは何故だろう?単に「ショーシャンクの空に」と同様の結末を避けたかっただけなのだろうか?映画というものが時代を映す鏡である事を考えると、そこには明確なメッセージが託されているのではないだろうか?
 「ミスト」はもともとアンソロジーの中の短篇の一遍として執筆を依頼された作品だ。一万五千語程度の作品としてスタートした作品は、結局四万語にまで成長した。それでも「ミスト」の世界は幕を閉じていたわけではない。キングの「ミスト」という作品を読んだ覚えがないというのであれば、一言で言うとキングの「ミスト」はジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」にとても似ている作品だと言えばなんとなく雰囲気が伝わるかもしれない。かたやショッピング・モールに立て篭もった人々が、理由もわからず世界を呑み込んだ怪物達の攻撃にさらされ、最後には同胞であるはずの人間の狂気に追い込まれ、儚い希望を抱いてヘリコプターで明日無き世界へと旅立っていく物語だ。そして「ミスト」もまた、理由もわからず怪物達の世界に放り込まれた人々が、ショッピング・センターに立て篭もり、そこで人間達の狂気に遭遇し、どこまでも続く霧の中へと旅立っていく物語だ。その通り、キングの「ミスト」は実は何一つ解決せずに終わってしまうのだ。そしてその小説の最後を飾る言葉が{希望}である。くしくもこの「ゾンビ」と「ミスト」は同時期に創作された作品であるという事実が面白い。どちらが先でも後でもないわけだ。後に親友となるキングとロメロの関係を考えると、等しく運命的な二作品であるとも言えるのではないだろうか?類は友を・・・か。
 さて「ミスト」よりも一足早く書き上げられた中篇(キング的には長めの短篇という方がしっくりくる)が、同じく{希望}に導かれた作品「刑務所のリタ・ヘイワース」であり、これが映画化されて「ショーシャンクの空に」となる。舞台は刑務所。無実の罪を主張する主人公が、幾多の苦難にも負けず刑務所内で特別な存在へと成り上がり、かねてからの計画通りまんまと脱獄に成功し、かねてから用意されていた大金を持ってメキシコへと逃亡し、刑務所内で知り合った友人の帰還を待つというこの物語は、主人公が完全なる善人としての視点で描かれているというその一点で、いわゆる感動作としての地位を確立している。この物語には語り部が存在していて、それが刑務所で知り合った友人という点が、実はこの作品のミソなのだと私は考える。この囚人レッドの語る一種の英雄物語であり、これは実はレッドという人物の{希望}の物語なのだ。レッドが自分の帰りを待っていてくれるだろうこの素晴らしき友人の元へと旅立っていく場面でこの物語は終わっていくのだが、レッドの未来に待っているのは一体なんなのだろう?視点を少しずらして見ると、何ともきな臭い未来が見えなくもないのではないか?そもそも{希望}を抱くのが常に善人であると一体誰が断言出来るというのだろう?どんなに大悪人であっても、やはり{希望}を見つめているのではないか?真実とは常に藪の中であると、黒澤の「羅生門」で私達は教わっているのではなかったか?「刑務所のリタ・ヘイワース」には副題がつけられていて、それは{春は希望の泉}というものだ。これは「Different Seasons」という四つの個別の作品を四季をモチーフに雑多に並べた中編集の春の章というわけだ。いわゆるホラーの要素が全くないこの出来のいい作品が春を象徴するのは、必然であったとも言えるだろう。これに続いて夏の章では、狂気の世界に転落していく少年の姿を、やはりホラーの要素を排した作品として見事に描ききった「ゴールデン・ボーイ」という恐るべき物語へと繋がっていく。秋の章は言わずと知れた少年達が死体探しの旅に出る「スタンド・バイ・ミー」であり、冬の章には事故で首を切断された妊婦が無事に赤ん坊を産み落とすという悲しくも美しい話で四季の幕が降りる。別個の作品として各々時期も違って創作されたこの作品群が、どうしたわけか大きな円環を描いているような気がしてくるから不思議なものだ。{希望}は人に生きがいを与えると共に、人に狂気をも与える代物である。また{希望}は少年の日の幻想であり、死してなお成就される奇跡をも演出する力を秘めている。それは言って見れば、人間に与えられた恐怖のルーレットのマスでもある。あなたの{希望}は果たして叶えられるのだろうか?その答えはルーレットの目に託されているのではないか?
 続く「グリーン・マイル」は、分冊形式で出版されるという事で話題を読んだキングの同名の長編(今度は短めの長編という方がしっくりくる)を原作とする作品である。物語の舞台はまたしても刑務所であり、そこには無実の男を処刑しなければならない男の{絶望}が描かれている。その代償として男は、永遠とも言える時間を生きる事を運命づけられてしまった。不老不死を願ってやまない人間にしてみれば、死に{希望}を抱く主人公の姿は何とも奇異に映ってしまうのか、この作品は出来がいい割には評価もまちまちだ。何しろ完全無垢な善人の男が電気椅子という恐怖の殺人道具で殺されてしまうわけだから、何とも後味が悪いのは否めない。しかし、それこそが人類の辿ってきた歴史なのではないか?誰にでもそれぞれの{希望}があって、その全てが善悪などという次元の問題では片付けられないもどかしさを、この処刑シーンは実に明確に描いているのではないか?
 「ショーシャンクの空に」で描かれた単純な{希望}に見た映画的なカタルシスは、「グリーン・マイル」で歪んだ形へと変貌し、「ミスト」で遂に真逆な形へと昇華された。それは今私達の住むこの世界の混沌の度合いに影響を受けているとは言えないだろうか?私達が思い描く未来に求める{希望}は、果たして本当に人類の未来を明るく照らしてくれるのだろうか?
 ホラー映画こそ実は人間の真実を垣間見せる最良のテキストであるというのは、あながち間違ってはいないに違いない。徹底的に寓話であるという事が、表層には決して出てこない心の不思議を見事に浮き彫りにする場面を、一体私達はどれだけ見せつけられてきたのだろう。もちろんそれらを根こそぎぶっこぬく低俗な作品が目白押しなのも、また確かではあるのだが。とにかく諦めずに観続けようではないか。ここにもまた、小さな小さな{希望}が存在するわけだ。


   「 ミスト 」                2007   アメリカ
 監督  フランク・ダラボン
 主演  トーマス・ジューン     マーシャ・ゲイ・ハーデン

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