イタリア恐怖映画の始祖とまで呼ばれるマリオ・バーヴァの存在は、ここ日本では一般的にあまり知られていない。その作品の多くが日本で未公開なのだから、至極当然の事ではあるのだが、マニアの力とは怖ろしいもので、ホラー映画好きの間ではちょっとした伝説的な監督になっている。人の見聞ほど本来いい加減なものはなく、伝説というものがいかに嘘八百を秘めているかは何事にも言える事だ。例えば、ある著名な人物が最も影響を受けた人物の名前を上げ無条件に褒め称えると、その対象の人物が必要以上に評価される事は往々にしてある。そして人から人へと伝播していく過程で、ありとあらゆる誇張と変化をきたし、全く知りもしないのに誰もが素晴らしいと持ち上げるわけだが、ここ日本では(或いは、この地球上では)そのような事例が実に多く存在するのではなかろうか?そんなのばっかりだ、と言っても過言ではないぐらいに。持ち上げるだけならまだいいが(いいのか?)、貶める場合も同じくらいあるわけで、そこに人間の意地汚さというか小賢しさが見て取れる。人というのは、いつだって人を利用して生きる獣なのだ。自分の為になるなら、他人などどう扱ったって構いやしないという気持ちが根本にあるのは如何ともし難い。そういうイイカゲンさが、時に悲劇を生み、時に英雄を生む。う〜ん、なかなかいいバランスを保っていると言えなくもないが、身近な問題として捉えるとどうなんでしょう?自分の知らない所で、自分というものが一人歩きしているのは、やはり不気味悪いものではある。{あいつはいつも逆立ちしながらうんこをしている}と、陰でひそひそ言われているとしたら、こんなに悲しい事はないわけで。だから有名人は自伝を書くわけだ。{私はちゃんとしゃがんでうんこをしているのだ}と、声高々に宣言する為にだ。もちろん、自分で自分の事を書くわけだから、そこにはありとあらゆる嘘が込められている(少なくとも誇張や削除は絶対に存在している。そうではないか?自分の自己紹介を考えれば・・・)わけだが、読んだ人達はそこから、また勝手な妄想を膨らませていくわけだ。結論を言えば、他人の心など結局分かりはしないのだ。よく相談事を受けて、共感したり同情したり、はたまた慰めたり元気づけたりという場面に出くわすが、あれも端から見たらなんじゃこりゃである。{うん。分かる、分かる}って、一体何が分かっているのだろうか?しかし、だ。それがなければ、世の中一体どうなってしまうんだろうか?少なくとも、他人の心を理解しようと努める事は大切な作業には違いないのだ。だから、嘘でもふりをしてあげる(親身に優しく接してあげられれば、尚ベターか?)。それも大事なコミニケーションの一つであるのだから。その気遣いが、人を人たらしめているのかもしれない。問題なのは、いつだって無関心である事なのだ。何も考えずに、与えられた情報や思想を鵜呑みにする。世の中は危険なプロパガンダで満ち満ちているのだから、せめて自分の目で耳で確かめる努力をするのは、人として当然の姿勢なのではあるまいか?学校で教わった知識のほとんどは、生きていくのに全く必要でないのかもしれない。しかし、繰り返し繰り返しある事を身につける為の素材として使われているとしたらどうだろう?人間の生活において、予習復習はとっても大事である。学校で本当に学ばなければいけないのは、歴史の年号や数学の正解ではないのだ。考える事、知る事、理解する事、より多くの人と接する事、学校とはその為に存在しているのではないか?
「ザ・ショック」が日本において劇場公開されているのは、マリオ・バーヴァにとって不幸中の幸いであるのかもしれない。バーヴァ自体は、どこの国にでもいるような特に際立った才能を示すわけでもない職業監督の一人だ。イタリア映画の影の歴史は、模倣の歴史にも等しい。表舞台を見れば、フェリーニやデ・シーカ(「自転車泥棒」は心を踏みにじられるという点では世界一の名画だ)ロッセリーニ、ヴィスコンティ、ジェルミといった、貧しいながらもリアリスティックに真摯な目(人によっては豪華絢爛な作風ではあるが、どこの世界にも金持ちはいるのだ)で映画を撮り続けた巨匠達の名前が次々と浮かんでくる。これら名匠達の作品は、今観ても十分面白いし、尚且つ心にぶっといナイフを突き刺されるような痛みを味あわせてもくれる。良薬口に苦しというが、イタリア映画の名作の多くは、正にこの事を教えてくれるものが多いのではないだろうか?個人的にはヴィットリオ・デ・シーカの作品が大好きで、悲し過ぎて{こんな映画二度と観てやるもんか}と観終わる度に思うんだが、十年後に我慢しきれずまた観てしまうような、どうしようもない中毒性を孕んでいる。はっきり言って最近のジュゼッペ・トルナトーレなんかは、イタリア映画界ではまだまだ小粒なのではあるまいか?(もちろん、それを判断するのは私なんかではなく、あなた自身ですが。そうではないか?)その一方で、イタリアには娯楽一辺倒の通称マカロニ作品群がわんさか量産されている。アメリカやイギリスで製作された娯楽映画のエッセンスを絶妙に取り入れ、エロとバイオレンスをトッピングした痛快な裏世界からは、言わずと知れた巨匠セルジオ・レオーネや、かのダリオ・アルジェントといった傑出した才能が産み落とされた。このバランスが、またいいではないか。イタリアというお国柄を如実に示しているようなこの落差。紳士にしてエロ。かっこつけるんだけど、とんでもなくエロ。振り向けばエロ。追いかけてエロ。世界で一つだけのエロ。イタリア映画万才である。
エロの伝統は、例えばトルナトーレにも完璧に受け継がれているようだ。トルナトーレの作品を観て見ると、きれいなお花畑の下に芳醇なエロのエッセンスを見つける事が出来る。実際、トルナトーレの作品からエロという核を失くしてしまったとすると、それはただきれいな風景にきれいな音楽を重ねただけの映画になってしまうのではないか?そんな物にはたして人は関心を寄せるのだろうか?そもそも誰もが関心を持たずにいられないものは何かを考えれば、その答えは明々白日ではないか。トルナトーレの素晴らしい所は、その核の部分が多分に変態性を持っているという一点に尽きる。つまり、トルナトーレが好きと公言する人は、世間に向かって{私は変態が好き}と言っている事に他ならない。それは非常に喜ばしい事で、私は人として全く正しい宣言であると全面的に同意するものである。
その対極として、フランスのギャスパー・ノエという監督がいる。凡庸で生真面目なものが根底にあるノエは、それを徹底的な変態性の仮面で覆いつくす作風をでっちあげた。「カルネ」と「カノン」(この二本の作品は全く同じもので、シャム双生児のようなものだ)は、ここ四半世紀のフランス映画の中でも最もトンガっている傑作だ。ある意味で突き抜けているし、頭で考えてこしらえるものとしては、究極の高みに届こうとしている名作に間違いない。けれど、その根底にあるもののパワーを比べると、ノエは残念ながらトルナトーレには遠く及ばないのではないだろうか?今後のこの二人の作品が持ちうる力というものは、きっと大きく差が開くであろう。幸運はそう何度も続くものではない。幾多の監督がそれを身をもって示してくれているのだから。ただし、ギャスパー・ノエという人物が、強烈無比なむっつり人間であったとしたら、逆転は可能かもしれない。あり得ない話ではないし、映画ファンとしたらそうであって欲しいと望むのが当然だろう。「アレックス」は狙い過ぎたゆえの駄作だった。そう述懐する日が訪れる事を、私もまた切に望む者であるのだから。
どんどん話が横道にずれてしまっているが、それもまた必然であると言わざるをえないのが悲しい。ようするに、バーヴァというのはその程度の監督なのだ。バーヴァの幾つかの作品は、気ままで陽気な一部の観客を楽しませる事に成功した。それは紛れもない事実だ。バーヴァの金儲けの為の仕事が、ルチオ・フルチやダリオ・アルジェントらへの確かな足掛かりを作った。その功績は否定出来ない。息子のランベルト・バーヴァもまた、映画監督としてマリオの意志を正確に受け継いでいる。才能の程度は遺伝してしまうらしい。それもまたバーヴァ一族の宿命なのだろう。
そんなバーヴァの作品なのだから「ザ・ショック」は取るに足らない作品なのだろうか?もちろん否だ。超常現象や幽霊やらの仮面を被せた、実にまっとうな映画という意味では、「ザ・ショック」という映画の持つパワーはたかが知れているかもしれない。子供を理解出来ない親の苦悩。親に理解されない子供の戸惑い。人間関係の難しさは、実際家族という親密な間柄であろうと存在している、または始まっているのだと、この映画はしらしめてくれる。そういった誰もが抱えている不安や恐怖を、目一杯娯楽の要素を詰め込む事によって、バーヴァは商業映画として立派に描ききっている。バーヴァの全てが凝縮された、実に安心して楽しめる一本だ。
幾分アルジェント臭を漂わせる映画だが、それはダリア・ニコロディの影響にあるのだからそうでない方がおかしいとも言える。ダリア・ニコロディなくしてダリオ・アルジェントの台頭がなかったのは、まず間違いない。ダリアがいなければ、アルジェントは一介のジャッロ映画の監督で終わった可能性が高い。それはマリオ・バーヴァが歩んできた道のりを追い続ける事と同義である。ダリアのおかげでアルジェントは世界から注目を集める映画監督の一人に成りえたのであるし、バーヴァもまた「ザ・ショック」を上梓するに及んだわけだ。所詮、男なんてそんなものか・・・。手の平で踊る猿。そして才能ある女が、才能ある男を作る事によって歴史は動いていくのかもしれない。
イタリアの映画界のファミリー・ツリーを描いてみると、実に複雑で枝葉の大きい相関図が出来るかもしれない。そういうものを眺めるのは、地球儀を回しながら世界を征服した気になるのに似ている楽しみを提供してくれる。きっとあなたの贔屓の監督も、色々な所で活躍している事でしょう。そんな中で、マリオ・バーヴァは確実に重要な地位を占めているのかもしれない。伝説とは、そんな人の想像が作り上げる偶像を意味する言葉なのではないか?今日も世界のどこかでマリオ・バーヴァが伝説として密やかに囁かれていたとしても、何の不思議があるだろうか?そこにはきっと、39を越えるショックが列を成しているに違いない。
「ザ・ショック」 1976 イタリア
監督 マリオ・バーヴァ
主演 ダリア・ニコロディ ジョン・スタイナー
映画の冒頭に{この映画は実話です}といった類の言葉が並ぶ映画はけっこうあります。これは総じて、実際にあった出来事をある人の視点からなぞってみた作り話ですという意味です。当たり前の話ですが、どんなに事実に正確に近づけようと試みた所で、映画は虚構でしかありません。「エミリー・ローズ」は作り手が悪魔の存在を強く信じているのがよく分かる作りになっています。或いは、そうした方が金が稼げるはずだという信念が見受けられます。しかしながら、監督の撮りたかった映像はあくまでもエミリーに起こった怪異現象を再現した部分であるのは明らかで、法廷を舞台にした物語本来の部分の方が負けてしまっています。これはちょっとしたジレンマとなって、作品の質を貶めている要因になっています。映画の大部分を占めている骨子である部分に監督が興味がないのですから、映画全体としては妙にしまりがありません。どんなに目新しいアイデアであっても、これではいかんせん中途半端な感は否めません。いいところに目をつけたのに、それを活かしきれなかったのは残念というしかありません。
悪魔祓いというと、神父が出て来てふんがーふんがーみたいな想像をしてしまうものですが、それはもちろん「エクソシシト」という映画の影響でしょう。日本にも狐憑きとかいろいろあるとおり、本来はキリスト教の専売特許ではありません。動物が生きていくうえで重要な要素として恐怖という概念があるわけですが、中でも人間は恐怖を際限なく膨張させてしまう優れた脳を持っています。人間の歴史は常に恐怖との戦いだったわけで、現在こうしてぬくぬくと生活していられるのも先人達が一つ一つ恐怖の対象を消していってくれたからに他なりません。しかしながら、恐怖は次から次へと手を変え品を変え人間の前に立ち塞がるわけで、いたちごっこの様相を呈しています。裏を返せば、人間は恐怖なくして生きられないとも言えます。実際、恐怖という感情がなければ、人間はとっくの昔に滅び去っていたはずの弱弱しい動物なわけです。臆病者とか言われ蔑まれている皆さん、あなた方は実に正しい人間なのですよ。ただし、度を越しすぎると人としてまともな生活を送れなくなってしまいます。私達は常日頃から、恐怖を生み出しては自身の精神によって浄化或いは昇華するという行為を繰り返して正常を保っています。つまりは、人類とは押しなべて悪魔憑きであり、悪魔祓いをも自ら演じているのです。自身が産み出した怪物を自身で退治出来なくなってしまったとしたら、それはとてつもない恐怖となって人の精神を蝕み始めます。そこで登場するのが、科学的根拠に裏づけされた医師なのですが、まだまだ医学では足りない部分が世の中にはごまんと残っているのですから堪りません。その道のプロであるエクソシスト達(そのほとんどが金目当てのインチキ商売であるという現実をお忘れなく)の登場は、必要不可欠なのかもしれません。「エミリー・ローズ」で描かれる神や悪魔が実在するかどうかなんて、この際問題ではありません。日本人の私に言わせてもらうならば、どっちだっていいじゃんそんなの、といった感じです。問題なのは、精神のバランスが崩れてしまった時に、私達は一体どう対処すればいいのだろうかという事です。正直、私にはわかりません。ただそうならない事を祈るのみです。
エミリーは悪魔祓いに失敗してしまいました。悪魔祓いに失敗したのは、医師によって処方された薬が原因だなんて意見も映画の中で告発されています。そして、エミリーは世の人々(はっきり言って、一部の人達限定ですが)の為の{犠牲}となって死んでいく運命を選んだという結末になっています。映画の最後に{エミリーに花を捧げにくる人達が後を絶たない、うんぬん}との字幕が・・・。この辺は、もうほとんどの日本人には全く興味がない話になってしまい、どうにもおいてけぼり気分になりますね。この映画は布教活動には一役かえない代物です。何しろ悪魔はむっちゃ怖いみたいです。そしてキリスト教の神は、むやみに人を助けてはくれないようです。この映画の根本にある主題は、悪魔は現実に存在すると人々が認めれば、即ち神も存在すると認められるという仮説みたいです。聖母マリアが、エミリーにそれを強要するのです。敬虔な信者であるエミリーにとり憑いた悪魔を、自分の存在を強固に示す為に聖母様はいいように利用しています。この図式はとてもよく理解出来ます。悪がなければ善もなくなります。光あるところにハゲ(失礼)影があるわけです。うがった見方をすれば、神と悪魔は一心同体で、人間を自由気ままに弄んでいるようにも見えます。何故そこまでして、人は神を信じなければいけないのでしょうか?何を信じるかは、個人の問題です。八百万でも一神教でも、宗教の自由は日本国憲法でも保障されています。日本人自体も、その点では実に寛容な気がします。素晴らしい事です。私達の生活の場には、いろんな神様がもうぐっちゃぐちゃに入り乱れています。仏壇を拝みながらも首にはクロス。こんな事は当たり前です。これは別に悪い事ばかりであるとは言い切れないのではあるまいか?過ぎたるは及ばざるが如し。強すぎる信仰が人を不幸にするのは本末転倒であるにも関わらず、その本末転倒が世界には横行しています。一つの事を頑なに信じるという事は、それ以外の事を拒絶するしかないのでしょうか?エミリーの犠牲は、とても儚い犠牲なのかもしれません。サクリファイスを生かすも殺すも、ようは私達の心持一つであると、今更ながら思わせられる映画でありました。
去る5月20日。東京競馬場に於いて第68回オークスが開催されました。新しく改装されて美しく整備された東京競馬場を舞台にした最初のクラシック・レースです。晴れ渡る空に、緑のターフは実に綺麗に光り輝いて見えました。フルゲート18頭の牝馬達が、今か今かと逸る気持ちを滾らせています。G1のファンファーレ。スタンドがどよめきます。あなたの夢はどの馬でしたか?私の夢はゼッケン2番ローブデコルテに託されていました。レースは大方の予想通り、直線での瞬発力勝負になりました。道中じっと折り合いに専念し、最後の直線にその力を溜め込んでいたローブデコルテは、一番人気ベッラレイアに肉薄。写真判定の末、ローブデコルテがハナ差で差しきった所がゴールでありました。3連複の配当金が一万とんで450円。ありがとう、ローブデコルテ。ありがとう、ベッラレイア。そして、ありがとう、ラブカーナ。あなた達の頑張り、決して忘れません。競馬は夢。競馬はロマン。そして、競馬は金。私はその時、神の御姿を見たのかもしれません。断言しよう。その時神は、福沢諭吉の顔をしていたと。
「エミリー・ローズ」 2005 アメリカ
監督 スコット・デリクソン
主演 ローラ・リニー トム・ウィルキンソン
1992年、フランスのインフォグラム社がIBMパソコン対応ソフトとして、画期的なゲームを製作した。言わずと知れた「アローン・イン・ザ・ダーク」だ。いまだ平面的な画面で繰り広げられていたゲームの世界は、この一作で一変してしまう。ポリゴンの手法により3Dで表された画面の中を、立体の人間が動き回る。これだけでも当時は衝撃だったわけです。今のゲームでは考えられない理不尽な謎解きに、甚だしき操作性の悪さをも物ともせず、「アローン・イン・ザ・ダーク」は全世界で大ヒットを飛ばします。日本でもパソコン用ソフトとしてヒットした後、天下のパナソニックが社運を賭けて世に送り出した家庭用ゲーム機・3DO・REALの目玉ソフトとして発売され、広く?遊ばれる運びとなります。ちなみに私の家庭では3DOはいまだ健在です。去年だったか一昨年だったか(あれれ、本当に記憶にないなぁ)、満を持して某家電量販店のポイントで購入したPS2は、わずか三本のソフト(「バイオハザード4」であり、「零で」あり「デメント」というラインアップ。共通項はホラー・ゲームって事でしょうか?腐っても鯛)、を稼動した後沈黙、現在は薄っすらと埃にまみれています。正直、PS2に関しては、購入した事を後悔しています。あのポイントがあればパソコンのメモリーが・・・。とにかく私も随分と歳を重ねたせいか、ゲームにはもはや興味もない(ホラー・ゲームは時として例外だが)状態だが、それでも年に片手で数えられる程度にゲーム機に手を伸ばす時期があります。ものすご〜く無気力になった時がそうです。とにかくな〜んにもしたくないような時に、ゲームは役に立ってくれます。そこで活躍するのが我らが3DO・REALなのだ。押入れから引っ張りだす事年に数回。大体、一週間程でまた箱詰めされて闇に放り込まれる運命のこのゲーム機だが、まだまだ故障もせずに健気に働いてくれます。私が思うに、3DOの良さは、はまるゲームがないという一点に尽きるのではないでしょうか。ようするに、取っ付きが悪かったり、妙に理不尽だったり、とにかくつまらないゲームが多いのです。だから30分ぐらいプレイすると、もう飽きてしまうのだ。一時間も二時間もゲームをすると、無茶苦茶時間を無駄にした気分になってしまうようになって随分と経つが、そんな私にはぴったりのゲーム機だといえるでしょう。もひとつちなみに、MYベスト・3DOに輝くのは、「ザ・ホード」「ロード・ラッシュ」「コープス・キラー」。次点に「リターン・ファイヤー」です。って、ほとんど誰も知らないのかもしれませんけど。購入して十数年経ちますが、どれもクリアしてません。今後クリアする気も、もはやありません。「ザ・ホード」は最後どうなるのかちょっと興味があるのですが、私の腕ではとても無理なようです。がむしゃらに頑張ってプレイする気にも、もちろんなりませんし。どのゲームもいつも序盤ちょこっとやってお終いという連続なので、序盤は鬼のようにうまいんですが、中盤になるとほとんど歯が立ちません。はっきり言ってしまうと、面倒くさくなります。そして箱詰めです・・・。
さて、「アローン・イン・ザ・ダーク」ですが、ゲーム版はぞくぞくするようなホラー・ゲームです。今で言う攻略本抜きでは、私には到底クリア出来ない代物ではありますが、過去にきっちりとエンディングを見た記憶が微かにあります。難しいというよりは、理不尽と言った方が適切な気がしないでもないのですが、どうなんでしょう?何となく覚えてるのは、あっちこっちに手を伸ばして、やっとヒントを入手しては先に進むの連続で、いつもこんなの分かるかよと文句言いながらやっていた気がします。それでもエンディングまでたどり着いたのは、やはり若さゆえでしょう。それ以外には考えられません。実は、年に一回は必ずこの「アローン・イン・ザ・ダーク」(もち3DO版)に電源を入れては楽しんでいるのですが、ここ数年はスタートして最初の犬みたいなモンスターか廊下のゾンビにやられてしまって、ラブクラフトちっくなイラストのゲーム・オーバー画面を見て満足して電源を切るに終始しています。難しすぎて、とても先に進む気が起きません。実際、もう謎解きとかも覚えてませんし、いつも新鮮ではあるのですが。それでも懲りずに電源を入れるのは、私がこのゲームの雰囲気を愛しているからに他なりません。このゲームの世界観は、見事にラブクラフトの世界を再現しています。幾多のホラー・ゲームが世に出ようと、私にとっては「アローン・イン・ザ・ダーク」が最高峰であるのに変わりありません。それにしても、もう少し思った通りにカーンビーが動いてくれたらいいのに・・・。もう少し的確にパンチやキックが当たると助かるんだけど・・・。何が怖いって、主人公の顔が一番怖かったりするし・・・。
映画化された「アローン・イン・ザ・ダーク」は、評判が悪いようです。評判が悪いという事は、世の中にはいまだにゲーム版「アローン・イン・ザ・ダーク」を嬉々として楽しんでいる人がいるという事なんでしょうか?だとしたら嬉しいような、不気味悪いような・・・。ゲーム版「アローン〜」は、簡単に言えば日本で生まれたPS用ゲーム「バイオ・ハザード」まんまです。「アローン〜」の謎解きを簡単に(あまり理不尽じゃなく)して、操作性を良くすると「バイオ〜」になります。ただし、「バイオ〜」の方がホラー色は極端に落ちます。「バイオ・ハザード」は映画版もホラー色はほとんどなく(ゾンビがいっぱいでているというだけ)痛快?なアクション映画でしたが、ゲームの方もはっきり言ってホラーとは名ばかりの内容ですので違和感はなかったです。ところが、映画版「アローン〜」は全くの別物といった感じしかしません。違和感ありありです。ゲーム版「アローン〜」は、もしかしたら世界で唯一の真のホラー・ゲームという雰囲気と魅力を持った内容だったのに、映画版はただのつまらないアクション映画になっていました。この映画をホラー映画とジャンルづけするならば、「仮面ライダー」も「ウルトラマン」もホラー映画(TVドラマですが)と言わなければいけません。断言しますが、映画版「アローン・イン・ザ・ダーク」は、ただの幼稚な怪獣映画です。ここにはホラーのホの字もありません。ただ単にゲーム版「アローン〜」の名を勝手に使った、実に卑怯な映画です。今に始まった事ではないのですが、ホラー映画でもないのに何とかホラーとかってジャンルづけされる映画はあまりにも多すぎます。真のホラー映画とは、時に芸術であり、且つエンタテインメントであり、優れた人間洞察の場でもあるわけです。こういうちんけでいい加減な「アローン・イン・ザ・ダーク」のような映画を、ホラー映画と呼ぶなと声を大にして言いたい(時もあるといった程度ですが)ものです。最もそういったみょうちくりんな訳の分からんごった煮的ジャンルだからこそ、底知れぬ魅力を隠し持っていると言えない事もないので、今回もまた許してあげましょう。ただ一つはっきりしているのは、映画版「アローン・イン・ザ・ダーク」はホラー映画であろうとなかろうと、つまらない映画であるという事実ではないでしょうか?そうではないか?
「アローン・イン・ザ・ダーク」 2005 カナダ・ドイツ・アメリカ
監督 ウーヴェ・ポル
主演 クリスチャン・スレイター タラ・リード
少年とは、明日に向かってオナニーをする生き物である。
かねてから、私は青春映画とカテゴライズされる映画にはとにかく甘いのです。特に直球的な内容の作品には無条件にその存在を認める傾向にあります。「チェケラッチョ!」は、これ以上ないくらいのベタベタの何のフックもない青春映画の枠に納まった映画です。いわゆるど真ん中にするするっと入ってしまった力の無いストレートとでも申しましょうか。無価値でつまらない一本であり、TVの改変期にでもさらっと流せば印象はぐっと良くなったのになぁと思わずにはいられません。映画館でちょこっと金稼いで、DVDで出演者達のファンから金を巻き上げつつ、映画館で話題を呼んだあの作品が早くも地上波初放送みたいな売りで、視聴率を当てにしたTV映画です。そういう意味で、元々真剣に作られた劇場映画ではないので、どこがどうつまらないとか面白いとか議論する余地は皆無です。一部のTV局には年に何本劇場映画を製作しなければいけないみたいな決まり事があるのかもしれません。その中の括りごとの一つとして、これから連続ドラマの主役を任せられる視聴率稼ぎのアイドル育成という旗印もあるのでしょう。「伊豆の踊り子」や「潮騒」では、題名で客が離れるのは目に見えているので、流行のキーワードをまぶして、筋書きはこんなもんでしょうみたいな。それにしても、日本人というのはこういう作業が本当に得意ですね。感心します。ここ数年だけでも随分こういう映画が見受けられますが、本来こういった作品は映画ではないのかもしれません。劇場で公開されたTVドラマというのが正しいでしょう。映画には総合芸術としての側面もあるわけですが、少なくともこの手の映画には芸術と呼ぶに値する作品はありません。100円ショップで売られている陶器やコピー絵画の類を芸術と呼ぶ人はいますか?いるとすれば、それは単なる無知でしょう。
ところで、青春映画なる言葉はよく聞きますが、一体その定義はどう答えればいいのでしょうか?アイドルと呼ばれる若者達が、恋に遊びに跳ね回る映画でしょうか?或いは主にティーンエイジャーと呼ばれる観客をターゲットに製作された映画という見方も出来るかもしれません。なるほどその年代の興味といえば、もっぱら恋愛にあるわけで、もっと下世話に言えばとにかくSEXなわけです。恋だ友情だなんだとけち臭い言葉の裏には、いつもアレがいるわけです。物語的には、主人公達の想いは叶わずに終わる事がやたら多いですね。映画の基本はハッピーエンドであるにも関わらず、この手の映画だけは何故か失恋してこそよしみたいな風潮があるようです。青臭い内容の映画であっても作り手というのは結構年齢的にはジジイであったりするわけで、もしかしたらやっかみとかエゴ(笑)がそうさせるのかもしれません。{若いやつにはまだまだいい思いはさせへんで}みたいなノリがあったりして。実際には、初恋が実ってそのまま人生を山も谷もなく全うしたなんて人は数が少ないのでしょうから、失恋劇の方がより共感を呼びやすいというのが定番であるというのが妥当な線でしょうけど。日本の婚姻制度の制約から、個人をとってみても成功は一回(最近ではそうも言えなくなってきたようですが)、失敗は無数にが当然のなりゆきなわけです。生涯に愛した人はただ一人なんて、それこそファンタジーでしょう?違いますか?私が思うに、浮気なんて絶対に許せないという人ほど簡単に浮気してる気がするんですけど・・・。
ジョージ・ルーカスの「アメリカン・グラフィティ」は、青春映画の一つの完成形といえる作品ではないでしょうか?大好きな青春映画を一つ上げろと言われたら、私の場合はかなりの確率でこの名前が出てきます。黒澤明の「素晴らしき日曜日」とか「ロッキー」とか幾らでも名前は浮かびますが、「アメリカン・グラフィティ」ほど青春映画の傑作に相応しい作品はない気がします。イスラエル映画「グローイング・アップ2」もとても好きですが(エッチなシーン満載だし)、これは明らかに「アメリカン・グラフィティ」の影響下にある作品であるわけで、ラストシーンが出色の出来であったとしてもオリジナルに軍配を上げたい所ですかね。ロックンロールやポップスの名曲の数々をバックに、カスタム・カーとファッションに彩られた地方都市に住むどこにでもいそうな若者達のたった一夜を描いたこの作品は、少年から大人へと成長する主人公の姿と、開放的で明るいアメリカが徐々に暗く陰鬱とした世相に移り変わるあの50年代から60年代の時代の空気とを、見事にオーバーラップさせた奇跡の一本である事はもはや疑う余地もない見事な名作であります。後に「スター・ウォーズ」で映画界に殿堂入りした感のあるルーカスですが、映画監督としての手腕を遺憾なく発揮させたのは後にも先にもこれ一本であると断言しても過言ではないでしょう。フランシス・F・コッポラに見出され、学生時代の短編をリメイクした処女作「THX−1138」が商業的に惨敗して、絶対にヒットする作品を求められたルーカスが放ったこの衝撃的作品は、そのネーミングの素晴らしさが示す通り大ヒットを記録したわけだが、この辺りもルーカスが只者ではないと感じさせるに十分なエピソードではないか。この作品以後、青春映画と呼ばれる映画には大きな壁が出来てしまったのは仕方がない所であります。
ここ日本での青春映画といえば、よりアイドル映画との関係が密接であると言えるでしょう。高峰秀子や久我美子から吉永小百合、薬師丸ひろ子、そして現在の長澤まさみと脈々と続くアイドル女優の姿。女優人に比べて層の薄い感のある男優陣にしても、石原裕次郎、加山雄三という巨星がいる。が、日本における青春アイドル映画には、決定的な代表となる傑作は見当たらない気もしないではない。しいて言えば今井正の「青い山脈」であろうか?「青い山脈」もまた、時代と通じた見事な作品というのも、面白いつながりを感じさせる。これは、きっと青春映画と呼ばれる物が、その時代時代の空気と密接な関係にある事の表れなのかもしれない。そういう意味では「リリィ・シュシュのすべて」なんかは、一度くらいは観る価値のある作品ともいえなくもないのではないか?面白い面白くないは別として。
日本における近年の青春映画の質を観ていると、少年のそれというよりも猿に近いといった方が適切なのかもしれません。猿がオナニーを覚えると死ぬまで擦り続けるなんて笑い話があるが、映画も一度死なないとダメなのかな?それともこれから人へと進化するのでしょうか?みんな擦って大きくなった(笑)これは紛れも無い事実ではあるよね。
「チェケラッチョ!!」 2006 日本
監督 宮本 理江子
主演 市原 隼人 井上 真央
幼稚な映画が花盛りの日本映画界ですが、久しぶりに大人(年齢とは関係なく)が肩肘はらずに楽しめる映画でありました。「寝ずの番」には、日本映画でしか出しえない雰囲気と味がそこここににじみ出ているようで好感がもてます。後半のマンネリ気味な失速感や、やたらに言葉が聞き取りにくい点など、欠点も簡単に指摘出来る類の映画ではありますが、こういう作品は絶えて欲しくないと強く感じます。イベント事にはとりあえず首を突っ込んでみるのが大好きな日本人というのは、メディアにとってはとても操り易い存在ではありますが、くだらないガキの映画ばかりが集客を伸ばす昨今の映画館事情に辟易している人もたくさんいるのではないでしょうか?現代のメディア戦略の巧さは、映画における金儲けの部分にのみ重点がおかれています。この事は、間違いなく映画そのものの寿命を縮める行為となっています。個人的には、映画というメディアそのものがそろそろ限界を迎える過渡期に来ているのではないかと思っているのですが、それにしても映画がもたらす至福の時間というのはまだまだそれに替わるものの追随を許さない魔力を少なからず持っているのではないでしょうか?映画とTVの融合は、日本においては明らかにTVに分があるようです。TVでやればいい素材を銀幕に垂れ流し続けるこの状態は、近いうちに大きなしっぺ返しを日本映画界にもたらすはずです。そうなった所で、映画ファン自体には、無論影響はないでしょう。世界には良質の映画を提供してくれる国が幾らでもあるわけですから。しかし、それはあくまでも代替物でしかありません。人間としての魂を揺さぶる事は出来ても、日本人としての魂を揺さぶるのは、やはり日本映画にしか出来ないのではないでしょうか?映画界というものが、これ以上繁栄する姿なんてなかなか想像は出来ません。写真業界がデジタルカメラの誕生により急速に衰退を遂げたのはご存知の通りではありますが、銀塩フィルムの魅力を知っている人がいる限り、この世から完全にフィルムが無くなる事はないでしょう。けれど、やがては無くなる運命にあります。何故なら、これから生まれてくる子供達はデジタルしか選択肢がなくなるからです。フィルムって何?こんな子供達が大勢を占めるのは、もはや時間の問題です。ある年代からは、既にそうなっているかもしれません。実際、ビデオ・テープなる存在を知らない子供は結構いるのではないでしょうか?日本映画って何?映画って、金払って観る大画面のTVでしょう?これが現実なのかもしれません。魅力のある日本映画は、近年益々少なくなってしまいました。良質な作品が陰に陰にと押しやられている姿は、本当に忍びないものがあります。過去に良いものがあるのだから、それでいいじゃないか。本当にそうでしょうか?映画は時代を映す鏡でもあります。それ以上に人間の心を映す鏡でもあるわけです。日本映画が無くなる日。その時、ある意味で日本人もまたこの世から無くなるのかも知れません。
それにしても、毎日毎日選挙カーの騒音には気が滅入ります。日本の選挙というものは、一体どれだけ意味があるのでしょうか?当事者以外は全く無関心。それが日本における選挙の実態です。候補者は朝から晩まで名前を連呼するだけで、市民一人一人に自分の考えを聞いてもらおうという気はさらさらないようです。ちなみに、日本全国では市議会議員等のいわゆる地方議員の方々の多数は、無投票当選される方が多いようです。候補者が集まらなくて選挙にさえならないというわけですか・・・。これは今の日本人の実態をよく表しているようで、ついつい笑いがこぼれます。要するに、得のない所に手は伸ばさないわけです。国会議員はまだまだ金になるが、地方は厳しくなる一方だ。やーめた。もちろん、一概には言えませんが、こういう人は確実に増えているはずです。面倒臭ぇから、あいつにやらせとけばいいよなんて、まるで学級委員みたいな決め方が社会全般の議員職にまで広がっています。これは正しい民主主義の選挙の姿なんでしょうか?日本における戦後民主主義は、自ら勝ち得たものではなく、アメリカから勝手に与えられたものであるのは周知の事実。この事が日本人に落とした影響は、思っている以上に計り知れないものがあるようです。イラク戦争の終結時に、アメリカが未来のイラクの形として日本を成功例としていた挙げていたのが思い出されますが、事実日本はかなり運よく美味い汁を吸い続けて成長してきました。よく団塊の世代なんて言われる人達が幻想にかられて俺達が日本をみたいな事を意気揚々と叫んでおられますが、残念ながら客観的にみればそういう時代の流れだっただけの事でしかありません。アメリカが日本を必要としていた。日本はもう誰にも逆らう気力がなかった。この二点が日本をこれだけ伸し上げてきたわけです。よく勘違いされる事ですが、何もない所で何かを成し遂げるよりも、全てが揃っている所で何かを成し遂げる方が遥かに難しいのです。日本はある意味、全てが揃い過ぎてしまった国なのかもしれません。よく頭良さげな人が、この国にも日本人一人一人にもビジョンがないなんて尤もらしい意見を述べていますが、ある意味ビジョンが見え過ぎちゃってどうでもよくなったという側面もあるのではないでしょうか?日本は残念ながらマニュアル社会ですので、どの職業につくにもある一定のラインが出来ています。そして、その職業について良い面も悪い面も開けっぴろげです。昔は男の子は親父に憧れて、仕事の面でも後を継ぎたい(いまだに美味しい職業では二世三世花盛りですが)と思ったりしたものです。人間は基本的にカッコつけしぃなので、子供にもそういう面しか見せていなかったのでしょう。それが現代では・・・。ここまで来たら、もうなるようにしかならない。日本人はとにかく増えすぎましたね。兎にも角にも一人一人がしっかりと考えとか、そういうレベルは既に越えてしまっている気がしてなりません。本当は個人に密接な関係があるはずの選挙が、個人にとって全くそう感じられないという不幸な事実が、日本の選挙という世界でも類の無い特殊な世界を形成してしまったわけです。戦後日本人特有のなぁなぁ節が、そんな日本特有の選挙の姿を放っぽり投げて慣例化させてしまったのが、結局は目も当てられなくなっただけの話で、これはもう昨今の若者がどうこういうだけの問題ではあり得ないというのが私の結論です。
夏頃には、日本のドキュメンタリーでズバリ「選挙」なる映画が上映されるようです。日本のある候補者の選挙戦を忠実に追った、ある意味実に見応えのある(笑)映画になっているのではないでしょうか?この映画は日本人として、やはり観なければならない一本になるのではないでしょうか?そして世界のたくさんの人に観ていただかなくてはなりません。きっと世界中から{ありえない}とか{馬鹿みたい}とか言われる事でしょうね。それでいいんです。罵言雑言の数々、シャワーのように浴びようではありませんか?それが私達、お箸の国の人だものに与えられた義務に他なりません。人間の、そして社会の真実を映す鏡。それもまた映画に与えられた宿命であるならば、そこから湧きだした意見が例え塩辛いものばかりだったとしても、私達は甘んじてそれを受け止め思考を新たにするべきなのです。それが学ぶって事でしょう?
「寝ずの番」 2006 日本
監督 マキノ雅彦
主演 中井 貴一 木村 佳乃
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