今年の初夏から秋にかけては、個人的に怖ろしい程の生活変化があったので、春にエジプトに足を運んだ記憶がもの凄く遠い過去に思えて仕方がない。改めてその時の写真を眺めてみても、本当にほんの四ヶ月前の出来事なのだろうかと不思議な気分です。大きな変化のない毎日を過ごした数年間であれば、何年も前の出来事であっても、ほんの少し前の出来事と思えてしまうのに、この記憶というものの感覚の違いは一体なんなんでしょう?
さて、今回のエジプト探訪で私が見物したピラミッドなる過去の遺物は、サッカラの階段ピラミッド、メイドゥームの屈折ピラミッド、ダハシュールの真正ピラミッド(赤のピラミッドとも呼ばれているみたい)、そして最も有名なギザの三大ピラミッドの計6つ。いやぁ、けっこう観たね。と言っても、全てカイロ近郊なので、しっかりと見学する順番とかを計画的に立てておけば、誰でも一日で観ようと思えば観られるのでしょう。私は二日かかりましたが・・・。私にとっての海外旅行とは、簡単に言って行き当たりばったりの旅であるわけで、これはもう致し方ありません。旅行に行くと決まった日から、せっせとガイド本を読んだり、死霊(失礼)資料を集めたりして綿密に計画を立てて、出発の日に備える方もいらっしゃるのでしょうが、私はこれがどうしても出来ない。とにかく面倒くさい。それでもいつもならガイド本の一冊でも買って、行きの飛行機の中でぱらぱらと読んでは暇を潰すというのが通例だったりもするのですが、今回は何故かそれもなく(笑)、エジプト航空の機内では、ひたすらナンクロに励んでいたものです。ちなみにイスラム圏の航空会社らしく、機内でのアルコール・サービスがなかったので、呑まなきゃやってられない人はご用心。ま、私はただならワイン飲むぐらいで、あまり関係ありません。当たり前の事ですが、このエコノミーでの長時間フライトというのは、本当に嫌なものですね。一服も出来ませんし、足がむくんで不快だし、トイレは並ぶし。そうそう、今回帰りはキャビン・アテンダントと向かいになる席でありまして、上昇下降時以外は足が目一杯伸ばせたので最高でしたね。ただし、目の前がトイレで、しかも故障がちのボロだった(ズコーっと、吸い込まない)ようで、何度もわさわさがやがやしたのはご愛嬌ですが。よく機内では寝て過ごすなんて言う人がいるものですが、うるさいし窮屈だし私はどうも熟睡とか出来ません。ファースト・クラスとかであっても、私はきっと熟睡は出来ない性質ですね。とにかくこの長時間フライトっていうのは、海外旅行の最大の障害であります。これさえなきゃねと、思う事しきりであります。実際、飛行機が嫌で絶対に行かないという人も、私の知り合いに存在します。それはある意味、正しい選択肢の一つであると、心から思いますよ。全面的に肯定します。ま、私はそれでも行きますけど。
で、海外の観光地には必ずインフォメーション・センターなるものがあるわけで、探せばよほど辺鄙な所でもなければ日本語のパンフもあったりなかったりします。全く何もないなんて国には、私はまだ行った事がありません。大体、海外旅行客が行く所なんてものは何人であろうと一緒なわけで、何も考えずに他国に行って観光に困るという事は滅多にないのではないでしょうか?タクシーの運ちゃんだって、料金ふっかける事はしょっちゅうでも、見物に支障をきたしたという経験はあまりありません。実際、そこが行って見たかった場所かどうかは別にして、目的地にたどり着けなかったという事態に、私はめでたいかな一度も遭遇していません。そういう意味で、私が海外旅行で享受されたものは、{世の中、行きゃあ何とかなるもんだ}という一点につきます。日本ではどうも面倒くさがりが先に立つ私ではありますが、海外では結構積極的かつアクティブな人間に変貌している時があります。人間追い詰められると、性格さえ変貌するものなんです。そうではないか?そんな自分の変化を楽しめるのも、海外ぶらり旅の魅力だったりします。まぁ、今だからそう冷静に言えるというのも確かですが・・・。その時その時はとにかく必死で、パニック寸前なんて状態も実はあったりしたもんで、決してカッコのいい旅ではありません。話変わりますが、入国時に止められてうだうだなるという事が何度かあるのですが、あれは嫌なもんです。もの凄い冷や汗をかきます。生きた心地がしなかったりします。うまく話が通じなかったりした時なんて最悪です。そういう経験もないわけではないので、私は人に海外旅行は個人で気楽に行くのが絶対にいいなんて、口が裂けても言う気はありません。大体、どんな形で旅行に行こうと、その人の自由であります。金を出すのもその人なわけです。楽に楽しめるのが一番いいではありませんか。ただ、苦労すればするほど、鮮明に記憶に残るのも事実なんだとは思います。大体、私の場合、一回の旅行で二、三回は冷や汗をかくわけですが、帰国してしまえばそれもいい思い出になるから不思議です。またどこか行きたくなってきました。本当、人間っておかしな生き物ですなぁ。
「ロスト・ピラミッド」は、三大ピラミッドで有名なギザから八キロ離れたアブロワシュにある遺跡跡についてのドキュメンタリーです。軍事区域の中にある為に、その遺跡を見られる人はごくごく限られた人でしかありません。ここに第四王朝を代表する三大ピラミッドと共に第四のピラミッドがあったのではないかという仮説が立証されていきます。第四王朝の王にして、唯一自身のピラミッドを持たないラージェデフ王の失われたピラミッドは、果たして本当に存在したのか?そしてその歴史の裏には一体どんな真実が隠されているのか?いやぁ、ロマンですねぇ。へたな映画では絶対に適わない魅力が、ドキュメンタリーには確かに存在します。映像のあちこちで、自分が実際に足で歩いた場所が出てくるのですから、いやがおうにも引き込まれてしまいます。いやぁ、ピラミッドについて私は何も知らなかったねぇ。へぇぇ、ピラミッドってそういうもんかい。もちろん歴史とは必ずしも真実ではありませんが、知識が増えると楽しみ方も随分と変わるのだなぁと思い知らされます。
正直、私は今の今まで、もうエジプトは行く事はないだろうなぁと思っていました。いろいろありましたし、エジプト・・・。けれど、今回このドキュメンタリーを見て、もう一回行ってもいいかななんて思ってしまったりして、映像の力って凄いですねぇ。やはり、旅行前の下調べもいいものなのかもしれませんねぇ。知識が旅を豊かにする。それは確かにあるのだと実感します。そういえば、帰国してから偶然にその場所の映像を見て、{こんな所あったんだ!知ってたら行ってたのにぃぃぃ}なんて経験。実は何度もあります。いやぁ、びっくりする程学習しませんねぇ、私は。そしてまた、きっと何の下調べもせずに行ってしまうんだろうなぁ(笑)。まぁそんなもんですよ。それがつまりは{私}なのでしょう・・・。
「ロスト・ピラミッド」 2008 A&E Television
出演 ザヒ・ハワス
人知れずヨーロッパにて発売された Blackmore’s Night の新作「Secret Voyage」だが、いまだに日本版が発売されるという声が聞かれない。かつて日本は欧米ではなかなか手に入らない類のCDも発売されているというロック・ミュージック最後の砦だったわけだが、CDというメディア自体の衰退と洋楽マーケットの停滞ムードの中、遂に根強い人気を誇っていたはずのリッチー・ブラックモアまでが、その新作発売が暗礁に乗り上げてしまうという憂き目に遭ってしまったようだ。否。リッチー自身ではなく、そもそもBlackmore’s Nightという形態が、日本では根付かなかったという方が正しいのかもしれない。現にRainbowやDeep Purpleの過去の遺物は、手を変え品を変えリニューアル物が店頭に並んでいるという事実がある。個人的にはどんだけ音質が向上しようが何しようが、中身の同じもの(厳密には違うのだろうが)を二度も三度も買う気が全くないので、それら過去の作品の再発売には興味など湧きようも無い。レコードで持っているからと理由で、「Burn」なんてCDすら持っていないと最近気づいた。なるほど、私は「Burn」という第三期パープルを代表するアルバムを、都合十五年程は間違いなく聴いていないというわけだ。「Stormbringer」は年に一回位聴いているのにね、なんでだろう?そういえば、「In Rock」とか「Machine Head」もあんまり聴かないなぁ。「Fireball」や「Who do we think we are !」は何年か前に聴いた覚えがあるのに・・・って、そうか、PurpleやRainbowは専らライブ盤を聴くからだ。だからライブではあまり演奏されない曲が詰まっている比較的誰からもそっぽを向かれるアルバムはたまに聴いているわけだ。納得、納得。
さて、「Secret Voyage」アルバムは、Blackmore’s Night史上最もカヴァーデザインがカッコイイというか、唯一カッコイイと思うのは私だけでしょうか?もちろん単に私の好みの問題なんだろうけれど、Purple や Rainbow には幾つか好きなカヴァーデザインがあるのに、Blackmore’s Night に関しては気に入ったデザインというのは今まで皆無だったなぁと思っていただけに、今回の新作を手にした時にちょっぴり嬉しかったものです。デザインがいいので中身もいいのかなと期待をしてみたりしたわけですが、良くも悪くも何にも変わっていない楽曲の目白押しで、どの曲も以前のアルバムにばらしてねじ込んでも全く違和感がないだろうなという気がしました。完全に独自のスタイルを確立していると言えば聞こえもいいのでしょうが、果たしてそんなに楽観的でもいいのでしょうか?まるで時が止まったようではないですか。何十年も前に活動していたバンドの発掘音源を次々手当たり次第に再発しているかのようなこの感覚。常々、Blackmore’s Night には甘い私ではありますが、さすがにちょっち心配になってきました。バンドが元気に活動をしていて、当の本人達が至極満足しているというこの状況に、一ファンとして{これでいいのだ}と大上段に構えて現状を理解するという姿勢もありなのでしょうが、やっぱりファンとしてはもっと様々な不特定多数の人達にも聴いて欲しいのになぁなんて思っちゃったりもするわけです。いゃあ、これって無償の愛ですか?
確かにそんなに絶賛するようなアルバムではないのですが、でもやっぱり寂しいなぁ。この先、リッチー・ブラックモアの新作は二度と日本では発売されないのかもしれないですね。そうなれば来日公演というのも、本当に可能性は低いと言わざるを得ません。薄々そうなる事は予想してはいたので、ついついドイツとかポーランドで開催されているツアー・インフォメーションを見ては、うまい事スケジュールの都合がつく日はないかなぁなんて模索している今日この頃。ヨーロッパの片田舎までリッチーの雄姿を観にいくというのも確かに最高ではありますが、やっぱり来日公演がないのは悲しいし寂しいですね。御大も随分と年齢をくってもうお爺ちゃんには違いないわけで、最後にこの目でステージを見届けるのは長年のファンの夢でもありますし、行くしかないですか、やっぱり。ですよね。けれど、ヨーロッパくんだりまでわざわざ足を運ぶともなると、今まで気にもしていなかったキャンディス・ナイトの存在がどうしても胡散臭く感じてしまうのも正直な気持ちです。大して歌がうまい(へたくそとは思いませんが、中途半端な実力ですよね)わけでもないし、ヴォーカリストとしての魅力もあまり感じないというのが万人の意見として結構一致してしまうのではないかと思うのですがどうでしょう?別にもう一度ハード・ロックやってくれなんて夢にも思いませんが、今の音楽性のまま別のヴォーカリストにしてくんないかななんて罰当たりな考えもついつい思ってしまうんですよね。
そもそもBlackmore’s Nightは、リッチーのソロ・プロジェクト的な受け止め方をシーンではしていましたが、出来上がったファースト・アルバムを聴けば分かるとおり、完全に始めからリッチーとキャンディスの二人のプロジェクトとして出発しているわけで、新しくアルバムが発表される度に、リッチーの立ち位置は徹頭徹尾変化がないのに対してキャンディスの存在はどんどん大きくなっていくのを如実に感じてしまうわけです。今回の新作にしても、リッチーのというよりキャンディスのアルバムであるという方がきっと正しい物の見方なのでしょう。キャンディスの自我が膨大する程リッチーの存在は薄れていくのはバランスとしても仕方のない事には違いありませんが、その辺がそもそも(少なくともここ日本においての)バンドの抱える最大の問題なのだと言い切ってしまっても問題ないでしょう。ようするに、一人の偉大なる天才が、中途半端な凡人の存在によって埋もれていった結果が Blackmore’s Night の現在であるという事なんだと思われます。愛は盲目ですか。飢餓感のない人間には、もはや大きな期待をかける方が間違いであると、はっきりと言い渡されたみたいな感じですね。ハングリー精神とよく言いますが、結局の所才能の枯渇というのは、単に年齢を重ねた結果なのではなく、手にしたものへの妥協と安堵によってもたらされる結果なのだと、まざまざと見せつけられているようではないですか。それは芸術全般に言える人間の性と申しましょうか。だから死ぬまで貧乏(或いは、金以外に心の充足を満たすものがなかったとか)だった人の方が、死後高く評価されるのかも知れませんね。人生、最後の最後まで何かに追い立てられているというのはそれだけで背筋が寒くなる状態ではありますが、人の心を揺さぶるような作品を作り上げるには、やはりそれ相応の犠牲が必要なのもまた真実なんでしょう。
この「Secret Voyage」には、おまけとして「ヴィレッジ・ランターン」のプロモーション・ビデオが収録されています。私の持つDVDレコーダーとかでは再生が出来なかったので、ノートパソコンの小さな画面でそのビデオを見てみました。当然、主役はキャンディス嬢であり、リッチーは相変わらず幸せそうに隅っこでギターを奏でています。幸せって何だっけ?他人の不幸は蜜の味なんていいますが、ファンっていうのは案外その対象に対して限りなくサドな存在なのかもしれません。スレイブス・アンド・マスターズ。アーティストとファンの間柄というのは、実に奴隷と主人の関係を限りなく微妙に曖昧にしてバランスを保っているものなのですな。
「Secret Voyage」 2008 ドイツ
Blackmore’s Night
キャンディス・ナイト (Vo)
リッチー・ブラックモア (G)
168.この数字をパッと見て、何を意味するのか分かる人は、一体どれくらい存在するのでしょうか?7で割ると24.つまり一週間は168時間にしときましょうと、先人が勝手に決めた数字なわけです。一日の睡眠時間が7時間だとすると、起きている時間は119時間。週に45時間仕事をしていたとして、私達の自由な時間は週にたったの74時間。通勤に一時間とかかかるお気の毒の人はさらに自由な時間が短縮されます。こうして数字にしてみると、いかに私達の生きられる時間は短いのだと、改めてゾッとさせられます。とかいいながら、土曜の貴重な自由時間を、ぼけっと今日も垂れ流してしまう私のような輩もいるわけですが・・・。無論、人間には無駄というものが如何に大事であるかは十分心得てはいるつもりですが、夜になるとなんとなく憂鬱になってしまったりもします。{時間を有効に使え}なんて口で言うのは簡単ですが、実際有効であったと本人が自覚出来る時間というのは、一生のうちでどれほどの数字として表されるのでしょうか?う〜ん、考えたくもないですなぁ。正に人の一生は一瞬の夢とでも申しましょうか、死ぬ間際になって初めて{私はとんでもない事をしてしまった}と打ちのめされるのがオチなのかもしれません。
「私たちの幸せな時間」という映画は、一週間にたったの三時間しか幸せな時間がない男が登場します。最もたったのと書きましたが、現実には一週間に幸せな時間が、万馬券を的中させた一瞬しか存在しないなんて人も確実に存在しているわけで、決して三時間が短いとは言い切れません。あなたは、一週間にどれ位幸せな時間を過ごしていらっしゃいますか?私はねぇ・・・最近ゼロかも・・・とほほ。いやぁ、三時間も幸せな時間があるなんて、実に羨ましい男の話ではないか?けれど、世の中いい事はそうそう続くわけでもなく、男の時間は刻一刻と最後の瞬間へと進み続けているわけです。
この男は強盗殺人を犯した死刑囚(もちろん映画らしく、観客が感情移入しやすいように情状酌量の余地を残しています)ですが、こういう特別な状況に置かれていようがいまいが、私達は皆同じ穴の狢であると言えるのではないでしょうか?死は逃れられない事実として、常に私達の背中にぴったりと張り付いています。誰もが自分自身の死神であるとも言えるでしょう。この映画が描いているのは、幸せな時間というのはあまりにも儚く貴重なものだと、誰もがいつだってついつい忘れてしまいがちな単純な事柄を、直球勝負で物語に仕立てただけのよくある映画です。よくある映画ですけど、私達は観終わった後にまたしても脳天にかなづちを振り下ろされてしまうわけで、実はそっちの方がよっぽど重要なのかもしりません。人間って、本当に学習しない生き物ですね。という事ではなく、人はなんと自然に巧みに死を忘れる事が出来るのかという事実です。これは生きていく為に絶対に必要な、いわゆる必須事項なんですよね。これがうまく出来ないと、人はバランスを崩してしまうわけです。現在は、このバランスを奪う事態が実に多いらしく、世界は由々しき時代へと突入しているようです。{死を常に意識して、一瞬一瞬を大切に生きろ}なんて、一見カッコイイ言葉ではありますが、こんなのは嘘っぱちなわけです。どうすれば死を忘れる事が出来るのか?こっちの方が、人間にはよっぽど必要な事なのではないですか?そうではないか?
この映画では、死を忘れさせる要因として、恋愛が使われています。ベタですが、それ以外に一体何があるというのでしょうか?命、短〜かぁし〜 恋せよ〜乙女〜。と、ゴンドラの唄を思い出したりしちゃったりもしますが、恋と死というのは、一蓮托生といいますか、二つで一つといいますか、要するに紅白まんじゅうの紅と白な関係であります。人間は生きる為におもいおもいに熱中出来るものを探すわけですが、恋に勝るものなどありはしません。それは{生}に直結する行為だからでしょう。大いなる円環。{生}がなければ{死}もありません。{死}がなければ{生}もありません。{死}とは本来、誰かの{生}の為に必要不可欠な行為であり、現在の世界の混沌は{生}のみが過剰になってしまった証でしかありえないと私は思います。毎日のニュースでは、この{死}の在り方が不気味に変形してしまった姿が垂れ流されてしまっています。と同時に、{生}の在り方も問われて然るべきなのでしょう。ごく普通に恋をして、ごく普通に失恋して、またごく普通に恋をして、ごく普通に合体して、ごく普通に未来を生産して、ごく普通に死んでいく。こんなに簡単な事が、どうして簡単に出来なくなってしまったのでしょうか?もしかしたら文明だとか科学だとかといった世の中を便利にするという行為が、私達の自然なる存在意義を少しづつ侵蝕しているのかもしれません。人づきあいほど面倒くさいものも確かにありませんが、世の中が便利になればなるほど、人づきあいが下手になっていくというのは明白です。継続は力なりとか、失敗は成功の母であるとか、そういう先人の知恵を取り戻すのは、やはり子供の頃からの積み重ねで習得していくしかないわけです。日本人の幼年期は年々伸び伸びになっているのですから、その時間がないとは口が裂けても言えません。18歳を成人になんて、現実をみたらちゃんちゃらおかしいのではないかと思われる制度を本気で考える政治家もこの国にはいるようですが、現実に則すのならば日本人の成人はもはや年齢では決めかねるというのが実情でしょう。そしてそこには、いつだって{いびつな生}が蔓延っているという事態をこそ、私達は今一度思い返さなければいけないのではないでしょうか?
現実離れした物語を構築して真実の一端を浮き彫りにするはずの映画が、その現実のあまりの現実離れぶりに圧倒されてしまう昨今。「私たちの幸せな時間」の実に映画的な設定も、何だかあまりにも普通に感じられてしまう所だが、普通の事が普通に出来る世界というものがやっぱり肝心なのではないでしょうか?
「私たちの幸せな時間」 韓国 2006
監督 ソン・ヘソン
主演 カン・ドンウォン イ・ナヨン
ぶっちゃけ観ても観なくてもどっちでもいいけど、なんとなく観ちゃったという映画が誰しもあるのではないかと思うわけですが、「トランスフォーマー」なんかは私的には正にそんな一本であるわけです。ただし、それは決して作品を否定しているのではなく、あくまで興味がないだけの話。実際、「トランスフォーマー」は実に映画らしい映画で、とにかく今出来る事は全部やってみました的な恐るべきサービス精神に溢れた、特撮だとかメカニックだとかが三度の飯より好きな方々にとっては金払っても十分元は取れた映画ではなかったのではないかと思います。ある種の映画は、もはや実写とアニメの境目を限りなく曖昧にしてしまいましたが、それが技術の進歩であるというのであれば致し方ございません。要は出来上がった作品が面白ければそれでいいのでしょうが、個人的には興味のなさも手伝って至極退屈な二時間半となりました。こういう映画を観る度に、技術の向上はそのまま映画の善し悪しには直結しないという当たり前の事実をまざまざと思い起こされてなりません。かつてはアニメーションでしか映像化出来なかったものが、実写(CGを実写と言えるのならばですが)で再現出来るようになりました。という、結果報告に過ぎないのではないでしょうか?「ドラゴン・ボール」なる日本のマンガをつまらなくした傑作が、映画となってハリウッドを奈落の底に突き落とす結果にならなければいいのですが・・・。
日本のアニメ文化が世界に蔓延り始めて久しいわけで、今では世界のあちらこちらで日本のマンガがいともたやすく読める時代になってきています。日本映画界でさえ「どろろ」やら「おろち」やら「ゲゲゲの鬼太郎」を実写映像化出来る時代なのですから、もはやハリウッドの巨大資本に映像化不可能なマンガはないと言えるでしょう。ネタ切れハリウッドと陰口を叩かれている昨今、「スピードレーサー」や「ドラゴン・ボール」の例を挙げるまでもなく、膨大な日本の財産を食い潰しにかかるハリウッドの姿が目に浮かぶようです。ディズニーに魅せられて手塚治虫が存在していたのは紛れもない事実なわけで、時が流れて日本のマンガがアメリカの下へと還元されていくのも別段不思議な話とも思えませんし、むしろこれは必然のような気がしてなりません。なるほど日本でマンガがここまで異常発達した裏には、手塚治虫や石森章太郎といった本来映画界で花開くべきとてつもない才能が二次元の世界で活躍したというだけではなく、金という現実も大きく作用していたわけです。とかくこの世は金なんです。ハリウッドだけが成しえた商業映画の歴史は、富める国の象徴でもあり、アメリカのみが作り得る大資本娯楽映画に嫌悪を示す行為は、ある意味貧乏人の僻みでもあるわけです。映画におけるハイリスク・ハイリターンの法則を、世界で唯一実現させたアメリカ合衆国という国は、それだけで賞賛に値すると言えなくもありません。にわか成り上がりの日本における映画界の現状は、結局はローリスク・ローリターンでしかあり得なかったのは誠に残念でなりません。そうしたみみっちい映画界では、結局世界を驚嘆させる映画等生まれる余地も当然ないわけで。ましてやマンガの持つ安上がりかつ無限とも言えるはったりの魅力には、逆立ちしても敵わなかったのは歴史が示す通りであります。
さて、私は常々マンガで面白いものはマンガで読めばいいじゃんと思っている一人でありまして、何をわざわざ映画にする必要があるのかと疑問に感じている一人でもあるわけです。が、他国において日本のマンガが映像化される事については、実はそんなに否定的ではありません。それは、もう間違いなく別物として楽しめるだろうという確信があるからに他なりません。もちろん、その映画化された作品が面白いか面白くないかは別問題です。少なくともアメリカ人が日本のマンガに引け目を感じる事はあり得ないわけで、それこそ好き勝手に改変してくれるのは疑いようがありません。さいとうたかをの「サバイバル」や、永井豪の「バイオレンス・ジャック」、松本零士の「ガン・フロンティア」なんか、一体どんな映画になるのでしょうか?興味は尽きないですね。これらを日本人が日本資本で映画化するとなれば、まぁどんなものになるのか想像出来ちゃうとは思いませんか?どんなに頑張っても、「ドラゴン・ヘッド」やら「キューティー・ハニー」レベルのくだらない映画がまた一つ増えるだけの可能性が極めて高いのは否定しづらいわけで。そういえば、浦沢直樹の「20世紀少年」の出来はどうなのでしょう?マンガは五巻ぐらいまでしか読んでいない(他の浦沢作品と比べて、面白くない方の作品だと個人的には思っている)のですが、聞くところによると結構マンガに忠実だとか。マンガの面白さの特徴と映画のそれとでは似て非なるものであると思っている私なんかは、それだけでなんとなく観る気がしなくなってしまうのですが、だったら映画観ればマンガ今更読む必要もなくなるし、それはそれでいいのかなとも思わなくもない。って、ぶっちゃけどうでもいいなぁ。それよりも「モンスター」をドイツ・アメリカ合作とかで映画化してもらえないものでしょうか?もちろん変えるべき所はおもいっきし改変してもらって。とにかく、マンガの原作は変えるべき所は引きづる事無くがらっと変える必要が絶対あると思うのですが、どうなんでしょう?結局、人間は先入観からは逃れられないのは間違いないわけで、違和感とかはどうにもならないのかなぁ。最近はTVドラマでも本当にマンガ原作が増えているみたいですけど、難しいよねこれは。私なんかはもう十何年週刊マンガ誌とか読んでいないので、ある意味先入観全くなしで観られるのが救いなのかな?まぁ、面白いかどうかはまたまた別問題ですけど。
「トランスフォーマー」は、ある種瞬間芸的な色合いが濃い映画なのではないでしょうか?はまる人ははまるし、ダメな人はもうとにかくダメな映画の代表選手みたいなものですか。それは結局、映画に何を求めているのか個人個人の勝手な思いの結果に過ぎません。元のアニメがどんな代物だったのか全く分かりませんが、きっと玩具会社先行の有象無象の突き詰めると何もない類のよくあるアニメなんだろうなという気がしてなりません。その実写映像化なんで、中身なんて端から必要ないと割り切って作った映画としか思えません。けれど、繰り返しますが、映画ってそれでもいいんだと私は思います。少なくとも、この映画は何を観客に見せたいのかという思いが、ひしひしと伝わってきます。観終わった後に、結局何も伝わってこない映画が増えてきた昨今、その潔さは評価してもいいのではないでしょうか?まぁ、正直、ゲームのムービーとかPVとかCMとかでやればいい事ではありますが。ついでに言うと、私には何がどう変形しているのか、さっぱり分かりませんでしたが・・・。日本のアニメならもっと生真面目に分かり易くベタベタに見せてくれた部分だったのではないでしょうか?その方が玩具も売りやすいよねぇ。そうではないか?
「トランスフォーマー」 2007 アメリカ
監督 マイケル・ベイ
主演 シャイア・ラブーフ ミーガン・フォックス
ジュゼッペ・トルナトーレの新作が細々と劇場公開されてから、まだそれほど時が経ったわけではない。世の中の流れが急速になればなるほど、映画の賞味期限もどんどんと短くなっていくのも当然といえば当然の話だ。良質の映画を映画館で観る機会は、大都会のど真ん中にでも住んでいなければなかなか難しい状況になってしまった。小さな映画館はどんどん消え去り、遊園地もどきの大小のスクリーンを寄せ集めたシネコンは金太郎飴状態。正に八方塞の状態の中、私達はいつしかTVというモニターを通して映画を鑑賞する事に馴らされてしまった。確かにTVで鑑賞しようと、面白い映画は面白いものだ。手軽に何度も見返す事も出来る。コレクターにしてみれば、お気に入りの映画がパッケージとして書棚に並んでいる光景に、言い知れぬ恍惚感を味わえるのも事実だろう。以前、私はミニ・シアターが嫌いであるとブログに書いた覚えがある。シネコンでは決してかからない類の映画を見繕って、独自の視点で作品を選び世の中に公開するというミニ・シアターの存在意義については分からなくもない。例え小ぶりでも映画を上映する為に建設された施設には違いないし、家庭のリビングの照明を落として観る状態に比べれば、遥かに映画に集中出来るのも確かだろう。しかし、映画の魅力を伝えるという点では、ミニ・シアターは何の役にもたっていないのではなかろうか?私には劇場の小型版と言うよりは、ホーム・シアターの拡大版と言う方が遥かに的を得ていると感じられるのだがどうだろう?単純に、人は巨大な物に畏怖の念を抱き、時に憧れを抱くものだ。映画の衰退はスクリーンの大きさに比例する。その一番の理由は、記憶なのだと私は思う。映画館で観た映画というものは、いつまでも記憶に残るものだが、スクリーンが小さくなればなるほど、果てはモニターになってしまうほど、その作品の記憶は驚くほど薄まってしまうものだ。記憶に留まらないというのは、それだけ感動が薄弱かつ一過性のものでしかないという事に他ならない。人間は記憶によって生きている生き物である。記憶こそが個性であり、記憶こそがとどのつまり人間そのものだ。映画の歴史は、物語の再生産の歴史に過ぎない。最近はリメイクばかりという声もよく聞かれるが、実際の所それは別段おかしな事では決してないのだ。要するに製作者側が、最も安易な再生産の形を採用しているに過ぎないわけだから。それはつまり、製作者側にとっても映画というものが持つ魅力が薄れてきている証拠なのだろう。映画の存在が当たり前になればなるほど、人にとっては関心の対象から離れていく。これは歴史の持つ宿命なのかもしれない。VIDEOの登場が映画をどう変えてしまったのか。より鮮明で安価なDVDの登場が、遂には映画に引導を渡す日はやってくるのか?私達は今、一つの時代の終焉をこの目で目撃出来る貴重な時間を生きているのかもしれない。
「題名のない子守唄」。トルナトーレの新作に付けられたこの邦題には、またしてもがっかりさせられるではないか。ポスターとか予告編もそうだけど、作品であるからには題名ってもの凄く大事なんじゃないかと私は思うのだが、世の中そうではないらしい。観ようという意欲さえ削ぎかねないこのセンスの欠片もない邦題がいかに安易に付けられたのかは知る由も無いが、自分の息子に{便器}君だとか{糞太郎}君なんて名前を付ける親が一体どれだけいるというのか?社会のモラルが大いに疑問視される昨今ではあるが、どんなに酷い名前であっても、作品にはそれを変名する力はあり得ないわけで、もう少し責任感を持って名付け親になって欲しいと切に願うわけであります。せっかくのトルナトーレの新作がこれじゃあ、実際腰が砕けませんか?
で、トルナトーレなんですが、以前このブログのどこかで私感を書いた気がするのですが、トルナトーレの作品を取り上げた事はないと記憶しているので、どこにその記述があるのかはもはや定かではありません。何を書いたかも当然あやふやなので繰り返しになってしまうかもしりませんが、一言でいうなら、その作品の奥底に常に異常な変態性を隠しもった私好みの監督の一人であるのは間違いありません。とにかくどの映画にも、思わずにやりとしてしまいそうな変態の匂いが隠し味として作品の質を高めています。最も有名であろう「ニュー・シネマ・パラダイス」にしても「海の上のピアニスト」にしてもその変態性は健在で、だからこそ人々に愛される作品になっているというのは言い過ぎでしょうか?トルナトーレは自身の変態性を全面に押し出そうとは決してせず、むしろ{いい子ちゃん}ぶる所もあるようですが、その辺の微妙な感じが実にバランスよく作品に表れるという意味である種の天才だと言ってもいいでしょう。こういうタイプは、例えばロマン・ポランスキーなんかにも通じる部分かと思うのですがどうでしょう?断言しますが、映画というのは変態が作った方が絶対面白いです。ごく普通の腕のいい監督が「ニュー・シネマ・パラダイス」や「海の上のピアニスト」を監督したとしたら、もちろんそれなりの作品は出来上がるのでしょうが、今ほど熱烈なファンを持つ作品にはなってはいないはずです。そうではないか?
そして今回の「題名のない子守唄」も例外ではありません。フラッシュバックを巧みに使った普通のサスペンス映画が、トルナトーレが監督をするとなんと変態的になるのでしょう。しかもどことなく美しい。そうか、変態って美と同義なんだねと、ついつい思わされてしまったりして。もはや名コンビともいえるモリコーネのスコアも、例えばダリオ・アルジェントの作品に提供する時のようなどことなく安っぽい感じが今回の作品には見事にマッチしています。単に音楽だけを聴くのであれば前記の有名二作品のテーマのインパクトには遠く及ばないのは確かですが、今回の映画でそれをやってしまっては作品自体が台無しになってしまう事をモリコーネは分かっているんだね。前作の「マレーナ」がトルナトーレの頂点ともいうべき円熟味を見せていたので、さすがに今回はコケルのかなと正直思っていたのですが、どうしてどうして面白い作品になっているのがとにかく嬉しいですね。それどころか、変態性を奥底に潜めつつ{いい子ちゃん}ぶりぶりも全開の今作品は、まさしく最もトルナトーレらしいトルナトーレ印の作品と言えるのかもしれません。ファンならずとも映画に興味がある人は、ぜひ観て欲しい作品の一つであります。邦題なんか気にしちゃいかんよ。邦題は単なる記号と思うべきでしょう、この作品の場合は。
「題名のない子守唄」 2006 イタリア
監督 ジュゼッペ・トルナトーレ
主演 クセニア・ラパポルト ミケーレ・プラチド
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